上 下
55 / 68
其の肆拾玖

中臣連鎌足と中大兄皇子

しおりを挟む
乙巳の変は蘇我臣入鹿暗殺に始まり蘇我臣蝦夷の自害に終わる。
このクーデターは、中臣連鎌足と中大兄皇子の接近によって
起こったかのように思わされているが、
当時の中臣連鎌足は、軽皇子(後の孝徳天皇)と
主従関係にあり、さらに加えて中臣連鎌足は
中大兄皇子より年長であることから、同じ志を持つ同朋である
と捉えることが自然に思われる。勿論これは二人の間に
身分を超えた個人的と言いつつも
公的な“私”を意識した交流である。

人によっては、後世の藤原氏の台頭を含みに入れて、
ややオカルトチックな推測を込めたうえで、
藤原氏の陰謀という風に考える人も居るだろう。
また、『藤氏家伝』などを読んでみると
オカルトチックなわけではないが、中臣連鎌足が
この国に徳治政治を齎すために生まれた
聖人として描かれている。
このような視点を否定するつもりはないが、
中臣連鎌足の動きは、あくまでも実際は無意識的で
不可逆的な行為の連鎖によって起こったもの
と推察するのが妥当であると言うのが
学術的な理解と思われる。

乙巳の変のあとで軽皇子は即位して大王(孝徳天皇)となる。
しかしながら、儒教に影響された清廉潔白な政治態度が
強すぎたことで、周囲との関係性に行き詰まりが起って、
改新をスムーズに進めることがままならなくなったことで、
その政治的立場は中大兄皇子に移行していき、
中臣連鎌足と中大兄皇子の両名によって
進められることになっていく。

徳治政治にこだわりすぎると日本独自の「なあなあ感」と
相容れないので、一般的な民衆の理解を得られなくなるのは
今も昔も変わらない。
ところで、この「なあなあ感」のルーツは
日本の神々のおおらかさにある。このおおらかさは、
現世(つまり今の世界)における行為の内容に対して、
絶対的な善悪の判断を付与しない発想に基づいている。
これは人間存在に対して神々が、現世において
様々な経験をすることに意義を置いているからである。
このおおらかさと大乗仏教が結びついたことによって
生まれた概念が、現在の私たちの道徳観に
無意識的に定着していることを見逃してはならないが、
この時の現状は仏教を信奉する蘇我氏が
その勢力を縮小して、儒教を信奉する孝徳天皇が
政の中心から外れることによって、
神道の神祇を司る氏族である中臣氏の中臣連鎌足が
中心となって、中大兄皇子と中央集権国家の確立を
目指すことになった状態に過ぎないので、
私たちよりも「なあなあ感」は薄いものである。
私たちの道徳観の原点を生み出した大海人皇子は、
この時においてはまだ政の表舞台には出て来ていないが、
物心ついた時には中臣連鎌足と中大兄皇子の二人に
よって進められている中央集権国家の確立の流れが
当たり前のこととして存在していたことは確かであり、
その只中に存在した大海人皇子が、
壬申の乱に勝利するという最も明快な形で
豪族たちを説得し、彼独自の見解を加えたうえで
仏教と神道をバランスよく政に取り入れて
祭政一致の中央集権国家の確立することになる。
しおりを挟む

処理中です...