鏡と香

日生 メグ

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かおり

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かおりと初めて出会ったのは十四年前、会社の入社式。同じ営業部に配属になった。
肩まで伸びた黒髪に凛とした顔立ち、一見とっつきにくい印象を持った。
だが、いい意味でそのイメージは崩された。彼女はくだらないイタズラが大好きで、ボールペンを借りたら極太筆ペンだったり会社で使う僕のパソコンの方向キーが入れ替えられていたりと思わずクスッとさせられた。イタズラに気づいた時の僕の顔を見てクッシャっと笑った顔がとてもかわいかった。美人で性格もよく責任感も強い。その上、茶目っ気もありみんなに好かれていた。
僕は一人の女性として好きになっていた。
だが、僕はというと大した取柄もなくいつも自分に自信が持てずにいる。
自分のことはきっと友達以上に思ってもらえないと諦めていた。
告白をして気まずくなるよりも、このまま気の置けない仲間でいる関係がいいと思った。

入社して二年、会社の同期ということもあって彼女とは仕事帰りに二人でよく飲みに行く仲になっていた。
彼女は見た目と違いおしゃれなバーなどではなく、庶民的な居酒屋がとても好きだった。
取引先の人の変わった癖・面白かったバラエティ番組や近所の公園にいるボス猫の話。他愛もないことで笑いあった。
飾ることなく僕に素の自分を見せてくれることが嬉しかった。

 ある日、行きつけの居酒屋で一緒に飲んだ彼女が珍しく酔っ払ってしまった。元々お酒の弱い方ではなかったし、いつもより飲んだ量は少なかったがこの日は少し疲れていたのかもしれない。
店を出て駅に向かい二人で歩いていると彼女が急に僕に顔を近づけ虚ろな目とろれつの回らない口調で言った。
「本田君!私のこと好きなの知ってるんだからね。なんで告白してこないのよ!どれだけ待たせるつもり?」
一瞬、彼女の言っている言葉の意味が分からなかった。
彼女は僕の気持ちに気づいていないと思っていた。
だが、すべてバレていたのだ。恥ずかしさで体中が熱くなり顔が真っ赤になっているのが自分でもがわかる。それに告白を待ってくれているなんて・・・想像もしなかった驚きで頭の中は何も考えられなくなっていた。お酒の酔いが完全に醒めていくのを感じる。
そのまま立ち尽くして何秒経っていただろうか。しびれを切らせた彼女が恥ずかしそうに僕から目を逸らして口を開く。
「ずっと待ってたんだから、もうちょっとだけ待ってあげる。」
そう言うと彼女は顔を赤らめてスタスタと駅へ向かって歩て行く。
彼女の後ろを、僕ははにかむような幸せな気分で歩いていた。
彼女も僕を好きでいてくれたことが嬉しかったし、恥ずかしそうにしているのがとてもかわいかった。
 五分ほどの駅までの道のりを僕は彼女の後ろを歩いた。
先程のことを思い出すと顔がにやけてしまう。
だが彼女にあそこまで言わせてしまったのだ、はっきり自分の気持ちを伝えなければいけない。しかし、いざ伝えるとなるといい言葉が思いつかない。そうこうしているうちに駅に到着してしまった。
階段を上り改札が近づく。
「じゃあ、また会社で。」
そう言うと彼女は顔を下に向けたまま目を合わさず改札へと歩き出した。
僕は立ち去ろうとする彼女の腕を強く掴んだ。
彼女に気持ちを伝えたい。だが、言葉が出てこない。彼女も僕を好きでいてくれて、その言葉を待っている。でも声にならない、目を見ることさえもできない。
さっきまで二人でお酒を飲みながら馬鹿な話をして笑いあっていたのがずっと昔のことのように感じる。
一つ大きく深呼吸して心を落ち着かせようとする。落ち着こうと何度と自分に言い聞かせるたび鼓動が早くなっていく。
僕は覚悟を決めた。
「好きです。」
ようやく絞り出せた言葉が、このたった四文字の言葉だった。声は小さく擦れていた。
少しの間が開いた。たった数秒のはずなのに時間が止まったかのようにとても長く感じ、心臓の音が彼女にも聞こえているのではと思うくらい鼓動が強い。
「もう言ってもらえないかと思った。」
彼女から発せられたその言葉を聞いて、ようやく僕も顔を上げることができた。
彼女は顔を真っ赤にしながらにっこりと僕に微笑んでいた。
 
こうして僕らは交際を始めた。
彼女のイタズラ好きは相変わらずでデートの待ち合わせの時などは、後ろからよく膝カックンをされた。
僕は彼女の笑った顔が大好きだった。そんな楽しい日々が続いた。

交際は順調に進み付き合って三年が経った頃、僕は彼女との結婚を考え始めていた。周りにも結婚する友達は増えてきていたし社会人としても落ち着いた生活が送れていると思う。
だが、僕は不安だった。今まで半端な気持ちで付き合ってきたわけではないが結婚となれば話は別だ。一生を添い遂げる相手として考えたとき、彼女にとって僕は結婚相手として相応しくないのではと思ってしまう。
彼女とは三年も真剣に交際しているのだ、彼女だって少なからず僕との結婚をかんがえてくれているはず。
ネガティブな考え方は僕の悪い癖だとわかっているがどうしても考えずにはいられない。
ある日、僕は意を決して彼女に尋ねてみた。
「どうして僕なんかと付き合ってくれているの?
君みたいに素敵な人なら僕のような男ではなく、君を守ってくれるもっと強い人がいいんじゃ・・・」
すべて言い終わる前に僕の言葉は遮られ彼女は少し怒った顔をして言った。
「私は守ってくれる誰かじゃなくて、優しく包んでくれるあなたがいいの。あなたは自分で思っているよりもずっと素敵な人なのよ。」
その言葉を聞いて僕の中の不安は一気に吹き飛んだ。心が温かなぬくもりに包まれる。
僕は彼女の腕を引き寄せ強く抱きしめた。
彼女の言葉が嬉しかった、彼女となら二人で支えあって生きていけると思った。
「ここ。プロポーズのタイミングなんだけどなぁ。」
彼女が僕の腕の中で意地悪そうに笑う。
「僕と結婚してほしい。」
急かされたからではない、心からそう思った。彼女を幸せにしたい。人生最後の瞬間まで一緒にいたい。
「はい。」
彼女は柔らかな声と優しい笑顔で応えてくれた。
こうして僕ら結婚した。

結婚から二年後、妻は妊娠を期に仕事を辞めた。
妊娠中は「子供が生まれて保育園に預けられるようになったら、また働きたい。」と言っており僕も反対ではなかった。
 そして、息子の和樹が生まれた。
和樹が生まれて日々すくすく成長する我が子を見て心境に変化があったようだ。
「この子すぐに大きくなっちゃうの。ハイハイ覚えて小学校に入って、あっという間に大人になっちゃう。
会社で働くことは他の人にもできるけど、この子のお母さんは私にしかできないから、できるだけ成長を見守ってあげたい。」
そう言って妻は専業主婦になることを選んだ。
かおりは本当に良き妻であり良き母で、家族を愛していた。


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