327 / 378
第五章「生命燃えて」 中編
第26話
しおりを挟む
あれほど鬱陶しかった雨も、いまでは酷く恋しい。
朝から汗が滴り落ちるなか、男たちは田畑仕事に精を出し、女たちは水場で洗濯をしながら世間話に華を咲かせ、子どもたちも与えられた仕事を片付けるため駆け回っている。
雪女も洗い物をしながら、はしゃぎまわる廣女を目で追いかけている。
子どもの成長は早いものだ。
この前襁褓がとれたばかりだというのに………………
―― 弟成も、こんな頃があったわね。
うろちょろするから困ったけど………………
まるで犬のように、弟成の腰に縄をつけていた。
いま思えば、随分酷いことをしたものだと懐かしい。
ふと、弟成のことを思い出している自分がいることに気が付く。
彼がいなくなって、早二年 ―― 周りの人は、弟成は死んだと思っている、黒万呂の説明を聞けば、みなそうと納得する、夫の忍人もそうだ。
ただ、姉の雪女だけは、何処かで生きていると思っている。
例え帰ってこれなくとも、二度と会うことが叶わなくとも、この世の何処かで生きていると。
それは、唯一血のつながった者の贔屓だろうか?
それでも、ここ最近、弟成のことを思い出さなくなっている。
彼だけではない、父や母、兄のことも、遠い思い出として薄らと消えていっている。
父や兄の面影はすでになく、記憶の中の父や兄は笑っているのだが、その輪郭がぼけて、はて、これが私の父だったろうか、私の兄だったろうか、と考えてしまう。
が、雰囲気から彼らなのだろう。
母は、まだ鮮明に顔を思い出せるが、声は聊か心もとない。
母の言葉ひとつひとつは未だに思い出せるが、低い声だったろうか、それとも高い声だったろうか、まったく思い出せなくなっている。
弟成も同じだ、顔は思い出せても、どんな声をしていただろう?
ふと、洗い物をしていた手を止めて、彼のことを考えてみる。
ああ、やはり………………思い出せない。
死んだと思いたくなくても、やはり忘れていってしまう。
―― こうやって、大切な人のことも忘れていくのね………………
悲しいことだ。
だが、それでなければ生活していられない。
いつまでも、亡くなった者への想いを抱きながら、寂しさと悲しさの中で生きてはいけない。
昔の家族はいなくなった。
だが今は、新しい家族がいる。
優しい夫がいる。
可愛い娘がいる。
彼らとともに生きなければならない。
黒万呂たちが帰還したとき、『返せ! 私の夫を返せ!』と罵っていた女は、当初はまるで死んだように長屋に籠っていたが、半年も経つとケロッとした様子で普通の生活に戻り、一年後には別の男と所帯をもってしまった。
「あの女は……」と、陰口を叩く輩はいたが、雪女は正直羨ましいと思った。
亡くなった人のことを、あっさりと忘れられるのだから。
忘れたわけではないのかもしれない、ただ忘れるように努力したのだろう。
生きていくためには、仕方がないことだ。
雪女も、よくやくそこまで来た。
時が、人を癒してくれるとはいうが、確かになるほど、弟成たちの思い出が徐々に薄れていっている。
―― こうやって人は生きていくのね………………
兄を見送り、父を見送り、母を見送り、そして弟成を見送り………………今度は夫を見送り、そして雪女自身が黄泉の国へと旅立つ。
その時は、廣女が見送る番だ。
その廣女もまた、その家族たちに見送られ………………
―― そうやって、私たち奴婢は生きていくのね………………
雪女は、額から零れ落ちる汗を手で拭い、そのまま眉に翳して空を仰ぐ。
太陽が燦々と輝いている。
―― 変わらないのは、お日様だけかしら?
朝から汗が滴り落ちるなか、男たちは田畑仕事に精を出し、女たちは水場で洗濯をしながら世間話に華を咲かせ、子どもたちも与えられた仕事を片付けるため駆け回っている。
雪女も洗い物をしながら、はしゃぎまわる廣女を目で追いかけている。
子どもの成長は早いものだ。
この前襁褓がとれたばかりだというのに………………
―― 弟成も、こんな頃があったわね。
うろちょろするから困ったけど………………
まるで犬のように、弟成の腰に縄をつけていた。
いま思えば、随分酷いことをしたものだと懐かしい。
ふと、弟成のことを思い出している自分がいることに気が付く。
彼がいなくなって、早二年 ―― 周りの人は、弟成は死んだと思っている、黒万呂の説明を聞けば、みなそうと納得する、夫の忍人もそうだ。
ただ、姉の雪女だけは、何処かで生きていると思っている。
例え帰ってこれなくとも、二度と会うことが叶わなくとも、この世の何処かで生きていると。
それは、唯一血のつながった者の贔屓だろうか?
それでも、ここ最近、弟成のことを思い出さなくなっている。
彼だけではない、父や母、兄のことも、遠い思い出として薄らと消えていっている。
父や兄の面影はすでになく、記憶の中の父や兄は笑っているのだが、その輪郭がぼけて、はて、これが私の父だったろうか、私の兄だったろうか、と考えてしまう。
が、雰囲気から彼らなのだろう。
母は、まだ鮮明に顔を思い出せるが、声は聊か心もとない。
母の言葉ひとつひとつは未だに思い出せるが、低い声だったろうか、それとも高い声だったろうか、まったく思い出せなくなっている。
弟成も同じだ、顔は思い出せても、どんな声をしていただろう?
ふと、洗い物をしていた手を止めて、彼のことを考えてみる。
ああ、やはり………………思い出せない。
死んだと思いたくなくても、やはり忘れていってしまう。
―― こうやって、大切な人のことも忘れていくのね………………
悲しいことだ。
だが、それでなければ生活していられない。
いつまでも、亡くなった者への想いを抱きながら、寂しさと悲しさの中で生きてはいけない。
昔の家族はいなくなった。
だが今は、新しい家族がいる。
優しい夫がいる。
可愛い娘がいる。
彼らとともに生きなければならない。
黒万呂たちが帰還したとき、『返せ! 私の夫を返せ!』と罵っていた女は、当初はまるで死んだように長屋に籠っていたが、半年も経つとケロッとした様子で普通の生活に戻り、一年後には別の男と所帯をもってしまった。
「あの女は……」と、陰口を叩く輩はいたが、雪女は正直羨ましいと思った。
亡くなった人のことを、あっさりと忘れられるのだから。
忘れたわけではないのかもしれない、ただ忘れるように努力したのだろう。
生きていくためには、仕方がないことだ。
雪女も、よくやくそこまで来た。
時が、人を癒してくれるとはいうが、確かになるほど、弟成たちの思い出が徐々に薄れていっている。
―― こうやって人は生きていくのね………………
兄を見送り、父を見送り、母を見送り、そして弟成を見送り………………今度は夫を見送り、そして雪女自身が黄泉の国へと旅立つ。
その時は、廣女が見送る番だ。
その廣女もまた、その家族たちに見送られ………………
―― そうやって、私たち奴婢は生きていくのね………………
雪女は、額から零れ落ちる汗を手で拭い、そのまま眉に翳して空を仰ぐ。
太陽が燦々と輝いている。
―― 変わらないのは、お日様だけかしら?
0
あなたにおすすめの小説
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる