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〈5〉
しおりを挟む「〈橋弁慶〉そうでしょう? 和路氏の書斎の壁に飾られていた絵の画題のことですよ。そして和路氏本人もその絵と同様に白い着物が掛けられていた……」
電話の向こうで、有島刑事が息をのむ音がする。
「何故、それを知っている?」
ああ、では波豆君の語ったことは真実なのだ!
〈橋弁慶〉は京の五条の橋の上、武蔵坊弁慶と牛若丸の出会いの場面を云う。歌舞伎の演目から生まれ、日本画でも人気の題材である。
冷静な声を保って僕は先を続けた。
「有島刑事、お伝えしたいことがあります。〈重要参考人B〉とあなたが呼んだ少年が、今、僕の店にいるんです」
「なんだって!?」
「これから僕が付き添って一緒にそちら、神奈川県警へ向かいます。少年も同意しています。詳しくはそちらで直(じか)にお話します。それが一番いい方法だと思うので」
スマホを切ると、不安そうに波豆君は訊いて来た。
「俺、逮捕されるの?」
「いや、大丈夫、心配ない。僕に今言った通りのことを警察で話せばそれでいい。君は即座に開放されるよ。そしたら、また一緒に僕らの街へ帰って来よう。嫌なことは早く片づけるに限る」
「知らなかった、探偵って優しいんだな!」
眼を輝かせて少年は言う。
「こんなことまで面倒見てくれるんだ!」
そうさ、探偵は優しい。僕の敬愛する探偵たちは皆、依頼人に寄り添って、最後まで徹底的に護ってやる。絶対に見放したりはしない。
「なんか申し訳ないよ。俺、親身になってくれる家族がいないから」
「いや、こちらこそ――」
思わず僕は声に出して返答してしまった。
「君に感謝してるよ。こんな風にマジで憧れの探偵役をやらせてもらえるなんて」
こんなのは物語の中だけだと思っていた。感慨にふける僕に波豆君が言う。
「そうだ、俺、いったん家に帰って来る。持って来たいものがあるんだ」
「え?」
店から駅までは五分とかからない。僕としてはこのまますぐに駅へ向かうつもりだったのだが。とはいえ僕はうなずいた。
「いいよ」
「大丈夫なの、新さん。あの子を帰して」
波豆君が出て行くや、即座に来海サンが僕を振り返った。
「波豆君、戻って来ないかも。このまま逃げたとしたらどうするの?」
実は、僕もそれを思わなくはなかった。でも――
「自分の依頼人を信じなくてどうする?」
ピューッ。店内に鳴り響く口笛。
「そう言うと思った! 流石、私の名探偵ね」
来海サンは満面の笑みで、
「じゃ、私もここで宿題をしながら待つことにする。そして、あなたたち二人を駅のホームまで見送ってあげる」
僕も笑い返した。
「ありがとう、君こそ、素晴らしい、無二の相棒だよ」
とはいえ、正直、気が気ではなかった。
桑木画材店の閉店時間は7時なのだが、壁の時計――
この時計についても言及したい。創業者、祖父の桑木近が自ら選んで取り付けたドイツ・ユンハウス製Max・Bill1956。芸術家集団バウハウス所属のデザイナー、マックス・ビルが機能美と造形美を追求して作りあげた。MoMAのパーマネントコレクション選定品でもある。その完璧なフォルムは、現在〈7:27〉を告げている。
宿題をとっくに片付けた来海サンは文庫本を取り出した。むむ、〈赤毛のレドメイン家〉とは、渋いな。その傍らで、僕自身は有島刑事への言い訳を考え始めたところだ。
こりゃまずったな! 物語の探偵気取りで調子に乗り過ぎた。
やはり、波豆君が一度自宅へ帰ると言った際、カッコつけないで引き留めるか、せめて僕も付いて行くべきだった。思えば、安易に少年の話を信じ過ぎたかも。
少年が和路氏の死に一切かかわっていないと言う証拠も現段階ではないのだ。
頭を抱えた時――
バン!
セーブル色の扉が勢いよく開く。
「ああ、明かりの灯ってる場所に帰るっていい気分だ!」
「おかえりなさい、波豆君!」
世界中で一番明るい、我が相棒の声が響く。
「ヒャア、『おかえり』って言われるのも何年ぶりだろう。俺、この店にやって来てほんと、良かった! 今、サイコーの気分」
いや、僕は最低の気分さ。探偵失格だ。一瞬にしろ、君を疑った。だが、もう二度とそれはない。
眼前の少年は小首を傾げて不思議そうにそんな僕を見ている。バックパックを背負って、手には細長い巻物――
「それは?」
そう言えば、思い出した。有島刑事は言ってたな。和路氏邸前の道の防犯カメラに写っていた少年……コンビニの店員も証言した。少年は小脇に細長い包みを抱えていた……
「うん、あの夜、これを届けに俺は和路さんちへ行ったんだよ」
「詳しい話は新幹線の中だ、今なら20:01発のぞみ64号に間にあう。兎に角、一刻も早く出発しよう!」
この後、約束通り来海サンは僕たち二人をホームから見送ってくれた。
僕と波豆君、探偵と依頼人はJR広島駅から新幹線で新横浜へ――
※MoMA ニューヨーク近代美術館。
1929年開館、世界最高の近代美術作品コレクションを誇る。
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