凍蝶の手紙*画材屋探偵開業中!

sanpo

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 新幹線が新横浜についた時、僕はとっさに下車した。
 衝動的行動と言っていい。そこから鎌倉市の和路氏邸へ向かった。せっかく近くまで足を運んだのだ。ぜひ和路氏の家をこの目で見たくなった。JR横浜線に乗り換え横浜まで15分、そこから横須賀線でほぼ25分で北鎌倉に到着。
 和路氏邸は観光客に人気の花の寺の近辺と聞いている。当夜、波豆心平君が駆け込んだコンビニのある、やや広い通りから更に細い道へ……

 木立の中にその瀟洒な日本家屋はあった。
 表札を確かめ、遠望する。どのくらいそうしていただろう、ややあって背後から声が掛った。
「当家に何か御用でしょうか?」
 振り返ると、花束(白いユリと青い矢車草)を抱えた女性――
 有島刑事が言っていた〈家政婦〉という言葉から僕が勝手に思い描いた姿とはあまりにもかけ離れていた。これだから、自分の眼で見ることは大切だとつくづく思う。僕がイメージしていたのはふくよかで面倒見の良いオバサン。眼の前のその人はほっそりとして背が高い。モディリアーニの絵を彷彿とさせる綺麗な人だった。シニョンにまとめた髪、体のラインを拾わないシンプルな黒のワンピースに銀色のスニーカー。花束を抱え直した。
「どちらさまでしょう?」
 僕は腹をくくった。
「すみません。不審に思われても仕方がないのですが、僕は桑木新と言います。今日、竪川悠氏にお会いした帰りなんです」
 名刺を差し出す。流石にここには〈画材屋探偵〉などとは記していない。桑木画材店・店長/氏名・住所・電話番号。
「広島市……」
 女性は名刺から顔を上げてひっそりと微笑んだ。
「竪川さんのお知り合いの方なんですね?」
「はい。竪川氏の話を聞いて和路氏のお住まいをどうしても見たくなってやって来てしまいました」
 姿勢を正して、続ける。
「このたびの御不幸、お悔やみ申し上げます。新聞報道に重要参考人と記されていた少年がいたでしょう? 僕はその少年の知り合いなんです。勿論、あなたが彼と面識がないことは承知しています」
 女性はいきなり言った。
「書斎をご覧になりますか? ご案内いたします」
 既に有島刑事から現場写真を見せてもらっていたが、まさか実際に見ることができるとは!
「私は当家の家政婦で岸紀子きしのりこと申します。どうぞ、お入りください――」
 岸さんは肩に掛けていたサコッシュから鍵を出して玄関を開けてくれた。そのまま僕を書斎まで導く。ドアの前で一礼して立ち去った。

 そこは写真で見た通りだった。何一つ、違ったものは無い。
 掛軸に仕立てた〈橋弁慶〉、サイドボードに並んだ〈出エジプト〉の額・猿の像・メンズリング……
 竪川氏が教えてくれた小豆長光が入っている刀箪笥……ソファの前、小卓の上のキャンディポット……
 勿論、僕は見ただけだ・・・・・。それだけで十分満足だ。ふいに白い影が過った。ヒトの気配? 誰かいる――
 と、思ったのは目の錯覚で、窓のレースのカーテンが風に揺れただけだった。
 こうして充分に室内を見分して廊下に出ると岸さんが待っていた。
 先に立ってさらに奥の和室へ連れて行ってくれた。
 仏壇があり、和路氏のご両親の位牌が並んでいる。手前に設けられた黒檀の卓に和路氏の遺骨が置かれていた。先刻の花束が供されている。僕は線香を上げ手を合わせた。
「どうぞ、応接間へおいで下さい。お茶を用意しています」
 恐縮この上ない。
「ほんとにすみません。突然お伺いした上、お手数をおかけして――」
「お気になさらないでください。私も、何も手につかないし、何をして過ごせばいいかわからないので、気がまぎれていいです」
 不思議な人だ。どう形容したらいいだろう。冷ややかな親切さ? あるいは、温かな無関心?
 和路氏がこの人を雇用し続けたのはこういう軽やかな存在感のせいかもしれない。けっして自己を主張せず、押し付けない、妙な居心地の良さを感じる――
「和路さんと私の関わりをお知りになりたいんですね?」
「え? あ、いえ、その……」
 ああ! 僕が本物の探偵だったらこういう時どんなにいいだろう。それを心底思った。少なくとも他人ひとに何かを尋ねる大義名分になるものな。
 いきなりド真ん中を突かれてドギマギする僕に岸さんは優しく首を振る。
「かまいませんよ。警察の方にも全部お話しているし。私の母が和路さんのお母様と同級生だったんです。和路さんとは5歳違いで、子供のころから家族ぐるみのお付き合いでした。私が中学から高校にかけて両親が相次いで亡くなくなってからも」
 ここで一旦言葉を切った。
「正確に言いいますと、私が中学の時父の会社が倒産して、父は自死、ショックで母も倒れて後を追う形になりました。以来、おばさま――和路さんのお母様を私はこう呼んでいました――には何かにつけて気を配っていただきました。おばさまが未亡人になられた年と、私の、若さ故の無謀な結婚が破綻した年が同じだったんです。そう、もう30年以上になるのね……」
 岸さんは瞬きをした。
「離婚訴訟でもめて、とにかく身を隠したかった私をおばさまは離れに住まわせてくれました。けっして家賃をお取りにならないので、家事のお手伝いを始めたのがこういう生活のきっかけでした。本当のところはおばさまも人手などより話し相手がほしかったみたい。ずっと私を娘のように可愛がってくださっていて、私自身も実の母のように慕っていました。一人息子の和路さんは大学院卒業後外国暮らしで不在でしたし。寂しい者同士、穏やかに楽しく日々を過ごしました」
 ゆったりと落ち着いた声で岸さんは続けた。
「おばさまが亡くなった時も和路さんはまだ海外にいました。お葬式にも帰らず、私が指示通りに執り行いました。その後は留守宅管理人というか、家守りのような形で雇用してもらって――和路さんが外国暮らしに終止符を打ち正式に日本へ帰国された際、今度こそおいとましようと思ったのですが、和路さん自身から『自分たちだけでは不慣れだし、この家に関してあなたなら気心が知れていて安心なので』と強く引き留められました。それで、私も、このお家に馴染んでいたし今更、別の場所で新生活を始めるよりはと承諾しました」
 またひっそりと笑う。
「正直、凄く得した気分でした。和路さんは昔も今も全く手がかからない人だったから。家事と言っても週3回、和路さんの部屋と書斎以外の・・・掃除でしょ。料理も洗濯も和路さんは自分でやったし、台所の洗い物もほとんどない。ああ、竪川さんがやって来た時、お茶をお出しするくらいかしら……」
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