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第一部・海豹の章

17話 シロのひじに残った黒い毛は、生存者バイアスの名残りだ

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 知性体と知性を持たない生物との違いはなにか。道具や火を使うことではない。言葉を用いて情報交換をすることでもない。文字その他の記号で情報を蓄積することでもない。知性の第一段階は「嘘をつけるようになること」だ。
 あの森の中には巨大なオオカミが潜んでいる、とか、朝起きて学校に行こうと思ったんだけど、大蛇が道を横断してて、それを待ってたら遅刻しました、みたいなのね。
 で、それをうまいこと語れるようになったり、記録として残せるようになったら、その知性体集団のひとつは「物語の語り手・作者」となる。その物語を、嘘として楽しめるようになった知性体集団は「物語の聞き手・読者」になる。
 たとえば、ブタは鏡に移った自分の姿を、別のブタとは認識しない。シロクのガマガエルもそうで、ガマガエルの場合は脂汗を流す。あっ、こいつ、おれとよく似た仲間とか敵じゃなくって、おれじゃん、という認識。英語だとアセスメント・アウェアネス、要するに「判断の自覚」。おれがこう動くと、鏡の中のおれもこう動くから、背中のチャックとか外して脱げるじゃん、と、なる。でもって、脱着した知性体は、知性の第二段階となる。
 そもそも、鏡の中のおれが本物なのか、ここにいるおれが本物なのか、それを判断するための材料・知識に欠けている、という自覚だね。
 ただ、ネコについては、そもそもネコのモチベーション(やる気)が不明・曖昧なので、あらゆる動物実験の対象から外れてしまうのだ。
     *
 しかしそれにしても、あいつらこっちに来るの遅いな、と、作者は400年前の神社の前で、キツネ神のミコトと酒盛りをしていた。もう一杯注げ。もうこのへんにしといたほうがいいんじゃないか、と、ミコトは言った。あんた、そんなに酒強くないんだな。うるせえな。何、もう酒がないって。だったらなあ、角の酒屋に行ってもう一升もらってこい。酒を出すの出さないの抜かしたら、お前殺すぞ、って、作者が言ってたと言え。
 なお、酒を呑みながらではうまく物語は作れない、って、北方謙三も書いてた。
 作者も、カフェイン錠剤を数時間おきに飲みながら、血反吐を吐く勢いで真面目に書いているはずである。
     *
 世界は無数の枝分かれした未来を持つ。
 たとえば、あなたが車を運転してて、きょうはいつもの道じゃなくて、違う道を走ってショッピングモールに行こう、とか考えるとする。いつもの電車じゃなかったり、いつもの通学路じゃなかったりしてもいいよ。そうすると、そこで「いつもの○○を使った自分」と「違う○○を使った自分」というふたつの自分、ふたつの未来が生まれる。
 でもって、いつもの○○を使った自分は事故で死んじゃって、違う○○を使った自分は生き残る。それは逆でもいいけどね。
 生き残ったほうの自分は、死んじゃった自分の存在を知らない。けど、それはなんらかの痕となる。髪の毛の数本の色が変わったり、足の裏の違和感だったり。何日かすると消えるような痕だ。なぜ、あなたは生き残っているのか。それは、生き残ったほうが生き残っているからだ。要するに、生存者バイアスという奴だ。
 シロネコであるはずの、シロのひじに残った黒い毛は、生存者バイアスの名残りだ。
 何度も死んじゃいかんよ、と、おれはシロに言った。そうするとなあ、とんでもない恐ろしいことが起こるんだ。どんなことって、話してやってもいいけどな、その前に酒を一杯くれ。え、酒は駄目なの、コクリュウさん。そりゃそうだね。あとは、まずいアイスコーヒーと海水しかないのか。じゃあ海水をこの貝殻の器に。んー、こりゃうまいわ。ニック、ニック、ニック、ニック、はー、インディアンズ。D.H.ロレンスに乾杯だ。そんな、『イージー・ライダー』のジャック・ニコルソンの物真似しても誰もわからないですよ先生、だからどうなっちゃうんですか。それはねえ、それは……それは……すごい……恐ろしい……。
 シロネコがミケネコになっちゃうんだ。
 た、た、確かに恐ろしいことです。じゃ、ミケネコは何度も死にすぎたネコで、百万回死んだネコはミケネコ。絵本の話なら、百万回生きたねこだよ。たいていの人は間違えるけどね。
 じゃあそろそろ私たちの、歴史改変についての話をさせてもらえませんかねえ、と、龍神であるコクリュウは言った。
     *
 おれたちは、恐怖と絶望に満ちた、もう一つの未来の世界におののいた。
 核兵器が実戦に使われたって。それも民間人を対象に。あの、使ったほうが恥をかく兵器ということになっている奴を。
 そういう、ツッコミ待ちなノリボケはしないで、と、コクリュウは真顔でおれに言った。
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