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はつのよる ~想いで語り~
しおりを挟む暖かい部屋の中。俺はソファーに仰向けで寝そべっていた。
ソファーといってもたいしたもんじゃない。足のない、それこそ床と高さがたいして違わない座椅子を三つ繋げただけのような、そんな物だ。
俺はそんなソファーの上で煙草の紫煙をくゆらせながら、何をするでもなくただぼんやりと天井を見ているだけ…
耳に聞こえてくるのは、かすかに聞こえる温風ヒーターの音と、オーディオから流れてくる音楽、そして規則正しく鼓動する俺の心臓の音だけだ。
オーディオなどと言えば聞こえはいいが、何のことはないMDも使えるCDラジカセのことで、再生されているのは俺のお気に入りの一枚である、ハロウィンの守護神伝Ⅱだ。
そのラジカセから、ちょうど『I WANT OUT』が流れ始めた。
型に嵌められたくない、自分の生き方くらい自由に決めさせてくれ。そんな内容の歌詞だったはずだ。
激しくかき鳴らされるギターの音は、まさに足掻き、もがく様を表しているようで、俺は一時期、その様子を自分の姿に重ねていた頃があった。
「灰が落ちそうだよ?」
俺の腹のあたりから声が聞こえ、俺は考えに耽るのをやめてテーブルの上にある灰皿へ煙草を擦り付けた。
「何を考えてたの?」
首だけを動かしてそこへ目を向けると、眠そうな瞳が俺の顔をじっと見つめていた。
「昔のことを、さ」
その瞳に映る俺の顔を見つめ、我ながら間抜けな顔をしているな、などと思いつつ、たいした事じゃないと付け加えて言う。
「ふぅん…ねぇ、覚えてる?」
小首をかしげて愛くるしい顔立ちが尋ねる。
「何をだ?」
「ボクたちが出会ったときのこと…」
俺はあくまでも優しく、俺の腹の上に乗っている頭を撫でて、その栗色の柔らかい髪に指を絡めながら答える。
「あぁ、覚えているさ。今でもはっきりと、な…」
己の人生に重要な意味を持つ者との出会いは、いつだって鮮烈なものだ。その関わり合いが深ければ深いほど…。
その少年との出会いは、俺の生き方を今までのものとまったく違うものに変えてしまった。いや…それまで定まらなかった中途半端な人生に終止符を打ち、ある意味での闘い方、進むべき道を明示してくれたのかも知れない。
あれは秋も半ばを過ぎた頃だ。
日中は陽があたり汗ばむくらいの陽気でも、夕方には涼しくなり夜の7時を過ぎれば少し肌寒いくらいの気温になる、そんな時期だった。
その日、昼過ぎに起きた俺は遅めの昼食を喫茶店で済ませ、ダラダラと時間を過ごし夕方に家を出た。
たいした用事があるわけではなかったが、車にガスを入れるために八熊の方にあるガソリンスタンドへと向かった。
車にガスを入れるだけなら近所のスタンドでもよいのだが、知り合いがいて、なおかつ掛払いの効くスタンドであるため、俺はいつもそこで入れることにしている。とくにハイオクを入れる場合はなおさらだ。
いつもの車ならハイオクを入れる気などはさらさらないが、その日は状況が違っていた。
俺が普段使っている車はフォードアセダンの大衆車なのだが、知人が4人グループで出かけたいので貸してくれと言ってきたのだ。
その代わり、自分の車を渡すので自由に使ってかまわない。彼はそう言って車のキーを俺に投げてよこした。
なんとも義理堅い人だと思うなかれ、彼の車は完全な走り屋仕様だ。
サスはガチガチ、七点式のロールバーは入っていて、シートはフルのバケットシート。こんな物を自由に使ってくれと言われても、こっちが困るありさまだ。
四点式のシートベルトをドライバーズとナビの両方に使用しているため、後部座席は使用不可能。ついには後部座席すら取り去ってしまった。
さすがにこれでは4人で出かけることはできない。そこで車を交換することに相成ったわけだ。
断っても良かったんだが、彼には普段から良くしてもらっていることもあって、仕方なく俺は走り屋仕様の扱いにくいRX-7FCを預かる事にした。
もっとも、俺は近場に出かけるくらいならいつも歩いていくので、車は駐車場に置きっぱなし。文字通り預かっただけだ。
その日も知人が旅行から帰ってくる日だから、せめてガソリンくらいは入れてやろうと思って出かけたに過ぎない。
なにせ、車を受け取った時にはガスが半分もなかったのだから…。
俺の家から八熊までの道は比較的混んでいた。
新瑞橋の駅周辺が工事中のため、俺はあえてそのルートを外したんだが、考える事は皆同じだったらしい。
迂回するルートも混雑して、渋滞とはいかないまでも路上駐車などがあって、とてもスムーズとは言いがたかった。
もっとも、預かった車を交換するには時間の余裕があり、俺は最初からのんびり行くつもりだったのだ。
ところがである…。
乗ってみて気が付いたのだが、この知人の車はきわめて乗りにくい物であった。
むろん、走り屋仕様であるからには、操作性などに割とシビアな技術を要求される。それはわかっている、のだが…。
その車は初めから論外だった。
操作以前の問題だ。何しろ、車そのものが乗り手を拒んでいるのだから。
ごく稀にあり得る事なのだが、所有者が愛着を持って接する事で物体に意思なるものが目覚める(もしくは宿る)ときがある。
意思といっても明確ではなく、かなり曖昧なものだ。しかし、その車には明確な意思が有った。
即ち、乗り手が気に入らなければ拒み、受け入れようとしない…。車が運転者の操縦に従わないのだ。
これにはあきれ返って物が言えなかった。なにせ、パワーステアリング機能が突然作動しなくなるかと思えば、次には正常に働いていたブーストメーターがまったく無反応になってしまう。
そしてついには、走っている最中にエンジンが止まってしまう始末だ。これにはさすがに俺もまいった。
こんな事を人に話せば、技術が未熟だの、車がイカレているなどと言われそうだが、俺の手元に預けられる直前まで正常に機能していたのだから、車体パーツ云々のレベルではない。
そして何より、これらの異常は、車が明確な意思表示で拒んでいるのを、俺自身が感じ取ったからだ。
「お前にガスを入れて、主人の元に送り返すだけの間だ。頼むから、もう少しだけ辛抱してくれよ」
あまりの拒否反応振りに俺は閉口しながらも、車を脇に寄せハザードを点けて説得することにした。
おそらくこの車は、主人以外をすべて拒むだろう。彼はよほど、この車に愛着を持って接しているに違いない。
以前も、この車を知り合いのカーショップに預けた時、そこで何度も傷をつけられたと言っていた。
主人以外の者の手に渡るのを車自身が拒否したのだろう。
ましてや、俺のような訳の分からない者などは、断固として拒否する。そういう事らしい。
力の無い、普通の者であれば、ここまでの拒否反応は示さなかったかも知れない。あるいは、大きな事故を起こしているかのどちらかだろう。
だが、よりによって俺のような者が相手では、正直言って面食らったようだ。
「お互い、びっくりしたよな?…無理強いはしねぇよ。お前が嫌なら、このままお前の主人と落ち合う場所まで行ったっていいんだ。ただ…俺はお前にガスを入れてやりたかっただけなんだよ」
静かに目を閉じると、先ほどまでの強い拒絶が少しずつ薄れていくのがわかる。どうやら、しぶしぶながらも俺を受け入れてくれるようだ。
「すまんな…」
俺は気を取り直してエンジンをかけると、都市高速をくぐって19号線へ、そして八熊へと向かった。
「あれ?車を買い換えたんですか?」
「いや、預かってるだけだよ」
バイトの青年に声をかけられて、俺は曖昧な返事でお茶を濁す。
正直言って、俺は人との関わり合いをなるべく避けるようにしている。馴染みのバイトやおっさんなら、滅多に話し掛けたりはしてこないんだが、彼はその辺を聞かされてないらしい。
その日の俺は社交辞令としても世間話をする気が失せていた。
何せ、あんな扱い難い車を運転してきたというのに、その上、心理的問題など冗談ではないからだ。
俺は昔から、人の感情から考えている事を先読みする事が出来た。つまり、話の先が見えてしまうのだ。
極端な話、これから何を話そうとしているのかがわかる、ということだ。
そのせいで、人との会話が億劫に感じたりする事がよくあり、見えている結論を話し合うなど、バカバカしく思えた事すらあった。
だから、ガスを入れに来ても誰かと話すことなどなかったし、話し掛けられても適当に相槌を打つ程度だった。
そんな経緯があって、今では俺と世間話をしようという酔狂な人間は、このスタンドにはいないと思っていたのだが…
入って半年も経たないバイト青年には理解してもらえてなかったようだ。
「FCの後期型ですか…けっこう、イジってありますね」
「悪いけど、ほんとに預かってるだけなんだ…ちょっと失礼」
俺はトイレに逃げ込む事にした。
おそらく、無愛想な客だとでも思っただろう。が、こちらにも都合というものがある。勘弁してもらいたいところだ。
トイレで用を済ませて出てくると、バイト青年は一生懸命、車の窓拭きをしていた。
俺は少々後ろめたい気分になりながら、ブラックの缶コーヒーを自販機で買い、手近な椅子に腰掛けて煙草を吸う事にした。
「ハイオク満タン、終わったよ」
俺が煙草を1本吸い終わる頃に、馴染みの親父さんが声をかけてきた。
「どうも」
残りのコーヒーを飲み干して、親父さんへすれ違いざまに声をかける。向こうも頷いて答えるだけだ。
さして親しい間柄でもなければ、俺はこの程度で十分だろうと思う。
しがらみが増えれば、その分厄介事も増えてくる。特に、俺のような人間には…。
スタンドからの帰り道もかなり混んでいた。
19号を経由せずに今度は直接、国道1号へと向かったのだが…かえってそれがアダになった。
1号へ出るまでの道が工事中で混雑していたのだ。
いくら待ち合わせの時間まで余裕があるとはいえ、これには少々滅入ってしまった。
「今日はとことんツいてない日らしいな…」
思わず独り言をもらしてしまう。
この車は生憎、カーステレオが効かない。壊れているわけではなく、エンジン音と振動が酷くて、とても曲の音が聞こえる状態ではないのだ。
車好きなら、この迫力ある重低音と、エンジンから醸し出される小刻みなリズムがたまらないと、のたまうだろう。
しかし、こっちは走り屋でも何でもない。
スピードを出す事には心惹かれるものがあるが、所詮は素人でしかない。
法廷速度をいくらかオーバーした程度のスピードで、速いビートのヘヴィメタルを聞いて満足していたいのだ。
音楽の聞こえない車内なのでは意味がない。
ボヤきながらも、1号線から堀田へ、そして新瑞橋の交差点までなんとか進んだ。
がしかし、…新瑞橋も混んでいた。
地下鉄工事の為、車線が一本に減少しているらしい。しかたがないので、急遽車線変更をして右折する事にする。
鯛取通りを抜け、いざ野並へと、思いきや…ここも大混雑のありさまだ。
「何てこった…」
どこもかしこも渋滞だった。そして、野並を右折してから最中までが更に渋滞…
もはや笑うしかない。
とりあえず、次の名古屋市長は別の人がいいな。…などと思ってしまう。
結局、待ち合わせ場所に辿り着いた時には、約束の時間ぎりぎりという、間の抜けた事になっていた。
待ち合わせの場所は、緑区にあるお好み焼き屋で、同じ建物の中にお好み焼き屋とショットバーが併設してあるという、一風変わった店だ。
アメリカなどでは、こういったスタイルが流行になりつつあるなどとニュースでやっていたのだが、三年以上も前からその流行を先取りしていた店は、日本でも恐らくここだけだろう。まったく、たいしたものだ。
約束の相手は、この店のオーナーだ。
常連客からは『マスター』と呼ばれ、慕われている。
水曜日定休の店はライトがまったく点いておらず、少々寂しい雰囲気だった。季節が秋とはいえ、夕方ともなれば、あたりはそろそろ薄闇に包まれつつある。
ポジションランプを点けた状態で、俺が車を駐車場にゆっくりと入れると、約束の相手はもうすでに車を停めて待っていた。
「悪い。約束の時間をオーバーしたね」
「いや、こっちもさっき着いたばっかり」
俺がエンジンを止めて車から降りると、向こうも車から降りてきた。
「ガスを入れてきたんだけど、道が大渋滞でさ…」
「何?ガス入れてくれたんだ。満タン?」
「満タンだよ」
俺は苦笑しながら、後ろの車を指し示した。
「ほらぁ、マスター。涼さんは絶対に満タン返しするって言ったろ?」
一緒に車から降りてきていた長身の男が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて突っ込みを入れる。彼も見知った、いわば友人みたいなもんだ。
名前は幸司。三菱の工場に勤める走り屋で、マスターの親友の1人だ。
「ゴメン!こっちは満タンにしてねぇんだ」
「まぁ、いいけどね」
俺は再度苦笑を浮かべると、2人の後ろにいる女性たちに軽く会釈をした。
女性は2人いて、片方は知っている。長身の友人の彼女だ。もう1人はマスターの相手だろう。
「そういえば、セブン乗ってみてどうだった?」
「どうにも、ヤバいね…」
「ヤバいって…何が?」
「マスター、涼さんがヤバいって言ったら1つしかねぇじゃん。ヘンなもん乗っけてるんだって」
マスターが怪訝そうに尋ねるのを幸司が更に突っ込む。
「うそぉ~!?ちょっとカンベンしてよ…。も、最悪だなぁ」
「いや、そうじゃなくて、さ…あの車、完全に付喪神になってるってこと」
古来日本において、長い間愛着をもって接した道具や、まだ十分に使えるはずなのに捨ててしまったりした道具には生命(後者では恨み)が宿って、付喪神になると言われていた。
とりあえず、ここに乗ってくるまでの経緯と付喪神についての説明を話すと、2人はしきりに納得していた。
「そうだよな、マスターの車って扱いづらいってゆうか、乗りにくいもんなぁ」
「う~ん…まいったね、こりゃ」
「困る事でもないさ。マスターが乗る分には問題ないし、たぶん…マスターを護ってもくれると思うよ」
俺の言葉に半信半疑で頷きつつも、マスターは車を不信げに眺める。
まぁ、普通はそうだろう。意志をもったお化け車など聞いた事もないだろうし、ましてや、自分の車がそうだなどとは思いたくもないはずだ。
しかし、人形などでは良くある話だ。それがたまたま、車に置き換わっただけにすぎない。
「とりあえず店の中に入らない?少し冷え込んできたみたいだ。風邪をひいてもつまらないしね」
「マスター、そうしようよ。オレ、のどが渇いちまってさ」
俺の提案は全員一致で承認され、俺たちは店の中に入って休憩する事になった。
「それじゃ、気をつけて」
「おつかれ~」
全員が駐車場に停めてあった車にそれぞれ乗り込み、解散する事になった。
時刻は夜の8時。
結局、店の中に入ってから他愛のない雑談をして、2時間くらいを過ごしただろうか。
辺りはすっかり夜の街へと変貌していた。
少し肌寒く、昼間の暖かさが嘘のように思えてしまう。季節を晩秋だと実感できる時間帯だ。
もう暫らくすると、冷たい風が吹きすさぶ冬へと移り変わってゆく…秋とは意外と短い季節なのかもしれない。
いつもは人との関わり合いが煩わしく感じたりもするが、こんな夜は人肌恋しくなるのか、俺はわりと楽しい時間を過ごせた。
人と異なる力を持つがゆえに、人に疎まれる事もあるし、人から奇異の目で見られる事もある…
だが、彼らは俺の事を承知の上で、それでもなお付き合いを続けてくれている…得がたい友人たちだ。
人とともに時間を共有する、その事を楽しく感じたのは、そんな彼らとだったからかもしれない。
「これで恋人でもいたら、最高なんだろうけどな…」
車に乗り込んでから独りつぶやいたあと、俺は自嘲の笑みを張り付かせた。
馬鹿げた話だった…こんな異能の力を持った者など、誰が愛せると言うんだ?
一生涯ついてまわる力だ。命尽きるまで、隠し通せるわけがない。かと言って、こんな事を話しても信用されるものでもない。
そして…信用を得るためにそれを証明してしまえば、薄気味悪がって遠ざかっていくだけだ。
「俺は一生独身で過ごせって事かよ…まったく」
もともとSEXに関しては淡白な方だったし、心底愛した女も今までいなかった。
自堕落で自侭な女をたくさん見てきたせいもあり、何となく付き合って何となく別れる、女との付き合いなどそんな関係ばかりだった。
「あなたは私を“好きだ”とか、“愛してる”とか言ったことがなかったわ」
別れ際に、こんな捨て台詞を残して去っていった女もいる。
たしかにそうだ。俺は一度もそんな事を言っていない。
愛していない者に、どうして愛しているなどと言えるだろう?
もし愛して欲しいのなら、なぜ愛されるように努力をしないんだ。相手に愛されたい、そればかりで、愛する事をしない。それどころか、自分が愛されるために、何をしなくてはならないかを考える事すらしない。
これでは、ただの愛欲ではないか…。
それがわかっていて、どうしてその女を愛せると言うんだ。
結果として俺が付き合う女は皆、俺のもとを去っていく。当たり前の事だった。
最初のうちは慈しみをもって接するのだが、そのうち、それに甘えて自堕落になっていく相手を見ると、俺の方が冷めていってしまい苛立ちを覚えるようになる。
そしてお決まりのセリフだ…
「付き合い始めた頃は優しかったのに!」
俺はいつも責められた。
己を磨かず堕落してしまえば、人は何のために生きているんだ?
もちろん、俺だって完璧ではない。そんな事が言えるほど、人間ができていないのは承知している。
いつでも愛されていたい。愛されるのが当たり前…。
自分が相手に不快感を与えているにもかかわらず、それに気付く事すらなくいつも愛される立場でいたいなど、ずいぶんと勝手が良い話ではないか。
理想論だと良く言われる。
しかし、理想なくして人の昇華はありえない。
己の目標となる理想を目指さなくては、人の心など成長しないだろうに…。
俺は自分自身で決めた理想を目指し、その信念を貫きたいと思う。だから、自分が良いと考える事を、なるべく実践するように努めている。
己を戒め律する事が、自分自身を昇華させる事に繋がると信じているからだ。
「悪い癖だな…」
自らの考えに没頭し自問自答を繰り返す…俺の悪い癖だ。
ふと気が付くと滝の水公園まで車を走らせており、店からは結構離れた場所に来ていた。
もう少し暖かい時期であれば、公園に集まるカップルたちの車が路上に駐車されて、かなりの迷惑を被る事になるのだがな。
滝の水公園は高台にあり、見晴らしが良い事から、デートスポットのような扱いになっている。
しかし夏ならばいざ知らず、もう季節は晩秋だ。ましてや気温もだいぶ下がってきている。寒さに震えながら、わざわざ風通しの良い高台の公園にやって来る者もいないだろう。
赤信号で止まりながら、俺はぼんやりとそんな事を考えていた。そして何気なく公園に目を向けると、奇妙な違和感を覚えた。
公園には電燈があり、淡く黄色い光が公園を照らしている。視覚的な光景はありきたりでしかない。
しかし、その映像に重なるように、もうひとつの光景が俺には見えるのだ。
この現象は霊視状態のときに似ている。
霊視自体は珍しい事ではない。いつでもどこでもできるわけではないが、必要な時に俺の力は発現する。
そう、自分自身が望んで発揮できるわけではなく、俺を守護する者が必要であると判断した時に現象は現れる。だから“力を発揮する”ではなく“力が発現する”なのだ。
俺の霊視は通常の光景(もしくは映像)に重なるようにして、違う映像なりが浮かび上がるようにして見える。
そして意識を向ける事によって、それぞれの映像に焦点が合わせられる。つまり、どちらを見たいかを選択する事で、重なった映像が前後してはっきりと見られる、というわけだ。
この現象を喩えるとしたら、透明なセロファンに別々の絵を描いておいて、それを重ねて見ているような感じだ。
意識を向けるというのは、自分が見たいと思う絵が描かれたセロファンを手前に持ってくるようなものだと思えばいい。
もっとも、実際にはカメラのピントを合わせるようなものだ。
重なった映像の中で自分の気になるものに意識を向ければ、そこに焦点が合わせられ、よりはっきりとした映像になる。
そのかわり、焦点を合わせた部分以外は、少々ピンぼけのような状態になってしまうのだが。
どのような霊視においても、それぞれのケースによって色々相違点はある。
写真を霊視する場合と、直接人と向き合っての霊視とでは、やはり違いがあるし、普段見ている風景においても、その状況ごとで見え方が異なるのだ。
しかし、今回はかなり特殊なケースのようだった。
何しろ、公園のある高台の頂き付近に、ぼんやりと青白い光が見えるのだ。正確には、青白く光る物体が公園内にあって、その光が木々に隠れながらゆっくりと移動しているようだった。
「『未知との遭遇』じゃあるまいし…」
俺は昔にヒットした映画の一場面を思い描いた。巨大なUFOと人類が光と音とで交信をする…そんな場面だ。
だが、これは少なくともUFOの類ではない。俺は宇宙人の存在を否定しているわけではないが、銀河で地球が観光スポット扱いされているのでなければ、そうそうこの地球によその星から宇宙人がやってくるとも思えない。
それに、青白い光に意識を向けると光が強くなる。つまり、これは霊視状態であり、れっきとした心霊現象だといえるわけだ。
「さて、どうしたもんかな…」
相手が霊体であるとすると、少々面倒な事になる。
街中で見かける大抵の場合は地縛霊か浮遊霊だ。神格を持った霊体ならいざ知らず、地縛霊などの霊体は性質が悪い。
こちらが迂闊に意識を向けようものなら、たちどころに寄って来て救いを求めかねない。
こちらが霊体に意識を向けるということは、それなりの力を持っているということだ。そして、意識を向けられた事を霊体は察知できる。
霊の側からしてみれば、普通の人には自分が存在している事をわかってもらえないのだ。
しかし、自分の存在を知覚できる者がいる。だから意識を向けた者に自分の今の状況を何とかしてもらおうとして、藁にも縋る思いで彼らは寄って来るのだ。
また、見る事や感じる事ができなくても、資質を持っている者であれば、傍に寄って来て救いを求めたりもする。
だが、仮に存在している事を解ったとしても、助ける方法を知らなくては彼らを救う事はできない。
ましてや、いることすら気が付かないのでは、どうすることもできないだろう。
それが彼らには理解できない。いや、自分の事だけを考えるあまり、その事に気付こうとしない。
そして、自分の存在を人に気付かせようとして色々な行動に出る。それが即ち“霊障”だ。
神格を持った霊、あるいは格の高い霊が相手であれば問題はない。
しかし、浮遊霊や地縛霊などは浄化された霊体ではない。したがって、傍にいるだけでも障りがある。
霊障には色々なケースがあるが、浮遊霊や地縛霊によるケースもけっこう多い。そして俺は困った事に霊媒体質という、霊を受け入れやすい体質をしている。
俺はどうするべきか迷っていた。
本来ならば近寄るべきではないのだが…
「あえて霊視状態にした…その意味は何だ?」
ただの浮遊霊や地縛霊ならば、普段から見慣れている。それこそ、中古車屋に置いてある車の中に見かけるのなどしょっちゅうだ。
そんなものは霊視という特殊な見え方はしない。ごく普通に人がシートに座っているように見えるだけだ。
まるでシートの感触を確かめているかのように、普通の人と変わらず、はっきりと見る事ができる。
もっとも、夜中の2時や3時に中古車を買いに来る者はいないだろうが…しかし、それが昼間でも同じように見えるのだ。
ただし、視覚的には普通に見えるが、やはり違和感のようなものがあり、それが霊体だとわかる。
今回は明らかに今までと異なった見え方をしている。俺はどうにもそれが気になった。
「守護霊が見せて…知らせているのか?」
俺は思い切って公園に寄ってみる事にした。
近寄らないように警告しているとは思えなかったからだ。
もし、近寄ってはならないのであれば、わざわざ気付かせる必要はない。何しろ俺は、家に帰ろうとしていただけで、公園による気などまったくなかったのだから。
むしろ、通り過ぎてしまわないように、公園へ行かせるために気付かせたのではないだろうか?
交差点の信号が青になり、俺は車を走らせて右折し、細い路地に入ると車を公園の駐車場に停めてエンジンを切った。
辺りは静かだった。
表通りには、ほとんど車が通っていない。
時間が夜の8時すぎのわりには、交通量がいつもより少ない気がする。
俺は車を降りて煙草に火をつけると、小高い丘の上に作られた公園へと目を向ける。
青白い光は未だ見えるものの、移動はしていないようだった。
「何かがいる事は、確かなようだな」
眉間が疼くような感覚がする。間違いない、霊体がいるのだ。それも、成仏できていない不浄霊だ。
「行くしかない、か…」
気温は低いはずだが、俺の背中一面は奇妙な暖かさに覆われていた。まるで大きなカイロを背負っているような感じだ。
どうやら、万が一のために守護霊が力を増大させたらしい。
そこまでの危険を冒して逢わねばならない相手とは、いったい何者なんだ?
俺は軽い緊張感を覚えながら、丘の上にある公園へと続く階段を一歩ずつ上っていった。
コツン…コツン…
コンクリの階段を上る俺の足音は、意外なほど大きく辺りに響き渡る。
俺は階段を一段、一段と上っていく。そして丘の上の公園に近付くにしたがって、自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じながら、俺は思いのほか冷静でいられた。
どんな相手がいるとも知れないのだから、緊張して当たり前のはずだ。
しかし、感覚と同時に心が冴え渡っていく。
「敵意が感じられないからか…?」
眉間の疼きは増していくというのに…どうなっているんだ?
俺は考えるのをやめた。
深く、そして大きく深呼吸を始める。
鼻からゆっくりと息を吸い、これ以上は吸えないくらい一杯に肺へ酸素を送り込むと、一度そこで吸うのを止めて今度はゆっくりと吐き出す。
この呼吸をする動作を、俺は頭の中でイメージしながらおこなっている。
息を吸う時は、外気からエネルギーを自分の内側へ溜めるイメージ。
吸うのを止めて息を吐く前は、溜め込んだエネルギーを下腹部の丹田で凝縮するイメージ。
そして息を吐く時は凝縮されたエネルギーを身体の隅々に送り出すイメージを思い描く。
深呼吸を繰り返すことによって、俺の意識は鮮明になっていった。そして、身体中に気が充満する。
丘の上にたどり着く頃には、戦闘準備が整っていた。
「さて、ご対面といこうか…」
階段を上りきった俺は、公園の敷地へと大きく踏み出した。
丘の上の公園は音ひとつなく静まり返っていた。
公園の敷地はさほど広くなく、植えられた木々のせいで視界は悪い。階段を上ってすぐのところに、比較的広い面積が占められているが、テニスコート1つ分くらいといったところだ。
辺りは薄暗く、本来点いているはずであろう電燈のいくつかが消えていた。まるで、この場には明かりが邪魔であるかのように。
その薄暗い中央に人影が見える…。
はっきりとはしないが、どうやら1人のようだ。そして、その傍には青白い輝きがある。
俺は迷わず、その人影の方へと歩を進めていった。
明かりの乏しい広場の中央に近付くと、人影のシルエットがはっきりとしてくる。
その人物はこちらに背を向けていた。
身長は160センチもなさそうで、身体つきは華奢だ。髪はショートカットだが、おそらく女性だろう。
季節が秋とはいえ、時間が遅い。にもかかわらず、その人物は上着を羽織らずに、大きめのセーターとジーンズという軽装だった。
ほっそりとした身体に両腕を回して、肩を抱いている。
男にはたまらない後ろ姿だ。こんな場所でなければ、誰でも思わず抱きしめてやりたくなるだろう。
ジャリ…
「っ!?」
俺の踏み出した一歩が、思いのほか大きな音を立てる。その音に気付いて、その人物はこちらを振り返った。
「キミ、誰…」
ぼんやりとした月明かりの中、俺は初めてその人物の姿を見る事ができた。
緩くウェーブのかかった、柔らかそうな髪。小づくりな顔には、それぞれ愛らしいパーツが集まり、今はきつい表情を作り出している。
身体の線はあくまで柔らかく、なだらかな肩のラインや細い滑らかそうな指先などは、ある種の男には垂涎の的だ。
「キミ、誰さっ!?」
再度、可愛らしい声で詰問され、俺は戸惑いを覚えた。警戒している、つまりただならぬ状況なのではないだろうか?
「古風な物言いになるかもしれんが…人に名を尋ねる場合は、まず自分から名乗るべきだろう。違うか、少年?」
そう、少年なのだ。
愛くるしい顔立ちからは、にわかに想像しがたいが、まぎれもなく少年だった。
どれほど眉根を寄せてしかめっ面をしても、可愛らしく思えてしまうほどの整った顔立ち。肩幅が狭く、その薄い胸から続くしなやかな両腕。そしてあまり張っていない腰から、すらりと伸びた脚など…。
どれを取ったところで、美少女といった感じだ。
だが、この人物が少年である事を、俺の感覚が教えている。
その証拠に、少年は否定の言葉を発しなかった。むしろ、俺のこの言葉に反応したかのように、警戒するような緊張が和らいだ気がする。
「どうして…どうしてボクが男だって、わかったの?」
「どうして、か…。感覚的に、ってのは答えにならんかな?」
「感覚…?不思議だね…初めてボクに会う人は、必ずボクのことを女の子だって勘違いするのにね。あっ、ごめんね。ボク、鳳蓮(おおとり・れん)っていうんだ。お兄さんは?」
「鷹羽涼(たかのは・りょう)だ。よろしく」
「こちらこそ、よろしくね」
互いに自己紹介しあうことで、ほんの少しだけ打ち解けられた気がする。
はにかんだ微笑を浮かべた少年、蓮はとても可愛らしく、やはり少女の間違いではないのかと思わせる。
思春期前の少年には、同時期の少女にはない儚げな美しさが時折見え隠れする事がある。しかし、この少年は別格だろう。
蓮はその愛くるしさに伴い、それと相反するような匂い立つような艶っぽさも漂わせている。
だがしかし、先ほど見せたような強い警戒心。何者も立ち入る事を許さない、強い精神力に裏打ちされた絶対の拒絶も見せる。
鳳蓮は、なんとも不思議な少年だった。
「その格好では寒いだろうに…きみは何故こんな所にいるんだ?」
「う、うん…ちょっと、ね…」
また、警戒が強くなった。名乗りあいはしたものの、俺たちはお互いの事を何一つ知らないのだ。警戒して当然なのかもしれない。
「自己防衛の為、か?」
「っ!?」
蓮は肩をびくっと震わせ、眉をつり上げてこちらを睨みつける。
「俺には敵対する気は毛頭ないし、傷つける気もない」
俺の視線は蓮に向けられていない。俺は蓮から少しずれた、背後を見つめていた。
「だったら、ボクに何の用なのさ?」
蓮の警戒心は緩まなかった。
「少し気になる事があってな…。さっきも言ったように、危害を加える気はないんだ。ここは風が強すぎる…座って話さないか?」
「ボクには話すことなんてないよ」
「きみの事情を根掘り葉掘り聞こうってわけじゃない。ただ、どうにも気になる事があってな。…なんにしても、とりあえずこれを着るといい。そのままでは風邪をひくだろうからな」
俺は自分が羽織っていたジャケットを脱ぐと、蓮に差し出した。
気温がどんどん下がってきているのに、セーターだけでは蓮が寒そうだったからだ。
「…借りて、いいの?」
「かまわんよ。寒いだろ?」
上目遣いで疑わしげに受け取ると、蓮は恐る恐るといった感じで俺の上着に袖を通す。
「…ありがと」
「ん、どういたしまして」
俺はまるで、息子を気遣う父親の気分になっていた。それに気付いたのか、蓮の表情から硬さが消える。
「その…気になることって、何?」
「そこのベンチに座らないか?その方が落ち着いて話せる」
「うん…」
俺たちは手近なベンチに並んで腰掛けて、少しの間黙り込んだ。
蓮は俺が話し出すのをじっと待ち、俺はどうやって説明するかを考えながら、煙草に火をつけた。
「さっき…なんで自己防衛なんて言ったの?…それに、そのときだけボクを見てなかったみたい。…どうして?」
俺が視線を外していた事に、蓮は気付いていたらしい。
「後ろを見ていたんだ。どう説明すべきかな…狛犬って知ってるかい?」
「狛犬?神社にいるヤツだよね?」
「そう、その狛犬だ。俺はそれを見ていたんだよ」
「…どういうこと?どこに狛犬なんていたの?」
ここは公園であり神社ではない。何故そんなものが公園に置いてあるのか、蓮にはまるで合点がいかないようだ。
「きみの後ろにいるんだよ…」
「ボクの後ろ、に…?」
蓮はいちおう自分の後ろを振り返ってみると、今度は俺の方へと向き直って、頭は大丈夫かと言わんばかりに、怪訝そうな顔をしてみせる。
「背後霊ってわかるかな?」
「ボクがお化けに憑かれているってゆうの!?ばっかみたい…まじめに聞いて損しちゃったよ」
「背後霊ってのは、お化けとか幽霊とは違うんだ。いいか…」
そもそも背後霊とは、守護霊のうちのひとつだ。
人間には誰にでも守護霊が存在し、守護霊はその人間を文字通り守護している。
守護霊と呼ばれるものには、大きく分けて2種類がある。1つは指導霊であり、もう1つが背後霊である。
指導霊とは、守護している人間を善性に導くものであり、個人の技術や技能などの才能を活かせるように護る存在だ。
それに対して背後霊とは、己の欲望に忠実である者や自己本位である者を障害から護り、自分中心の考え方を助長するように働きかける存在だ。
この2つは目的こそ違うが、その人間を守護する立場にある為に、どちらも“守護霊”と呼ばれるのだ。
この守護霊は指導霊、背後霊の両方とも常に均衡を保っているわけではない。
守護する人間の心がけによって、大きく偏る事になる。
例えば、守護する人間が常に自分を成長させる努力をし、他者をいたわるようなものの考え方をしていれば、指導霊は力を増し、その人間を良い方向に導き、災厄などから護ってくれる。
しかし、自己的なものの考え方をしてしまうと、指導霊の力は弱まる事となり、替わりに背後霊の力が増大する。
背後霊が強くなれば、その守護する人間は傲慢になるなど、他者を省みない自己本位な考え方に陥りやすくなり、自分さえ良ければよいという思い違いをしてしまう。
この力の均衡を喩えて、ある霊能者などは「背後霊が前に出てきている」とか「背後霊を引っ込めて、指導霊をもっと前に出しなさい」などと言ったりする。
幸せな時を過ごしたいと願うのなら、自分以外の人を大切に思いやるべきだろう。
俺が見ていた狛犬は蓮の守護霊、それも指導霊の方なのだ。そして背後霊は大型の狼のような姿をしていた。
驚いた事に、蓮の守護霊はともに獣であり、どちらかといえば背後霊である狼の方が狛犬よりも力を出していた。
指導霊も背後霊も常に存在はしているのだが、守護する人間の心次第で、どちらが主導権を握るのかが変わる。
蓮の指導霊である狛犬は、俺に助けを求めてきたのだ。
「つまり、ボクがわがままだって言いたいわけ?」
「そうは言ってないさ。ただ、自分を守るのに精一杯で、他の者に気を配る余裕がなかったんじゃないのか?」
「そんなこと言ったって…」
「たしかに、人にはそれぞれ事情があるさ。だけど、きみが自分の身を守らなければならなくなったのは、俺のせいってわけじゃないだろ?だったら、俺に対して警戒したり噛み付いたりするのは筋違いじゃないのかな」
「それは…そうだけど、さ…」
俺が蓮に自己防衛の為かと訊いたのは、背後霊が前に出ているわりには攻撃的な雰囲気は持っておらず、むしろ何かから蓮を護っているように感じられたからだ。
ただ、蓮自身に他者を気遣うだけの精神的な余裕がなかった為、結果として背後霊が出ていたにすぎないのだろう。
「今は…俺に対してだけは、身を守る事を考えなくていい。俺にきみを傷つける気はないんだ。むしろ、俺は護ってやれるよ」
「みんな、最初はそう言うんだ…」
蓮は俯いたままそう答え、そして俺に向かって寂しそうに笑いかけてきた。
おそらく、今の蓮には信じられる人間がいないのだろう。あるいは、信じていた人間に、ことごとく裏切られたのかもしれない。
「ご両親は…いつ頃に亡くなられた?」
「…それも狛犬に聞いたの?」
驚きと不安に彩られた瞳で俺を見る蓮に、俺はかぶりを振って答える。
「いつ頃亡くなられたんだ?」
蓮の質問には答えず、俺は再度質問を投げかけた。
「2人とも5年前の夏に…」
「そうか…辛いだろうに」
「そうだね。でも、どうしようもないもの…慣れるしかないよね」
俺が虚空に向けて呟いた言葉を受けて、蓮は無表情に答える。
「いや、そうじゃない。きみも辛いんだろうが…ご両親はもっと辛いんだよ」
「どういうこと?」
俺は正面を向いたままで、蓮には答えず、別の言葉を紡いだ。
「心中はお察しするが、御身とてこのままで良いなどとは、思っておらぬだろう」
俺は口調を変え、正面に立ち尽くす人物に向かって声をかけた。
細身で眼鏡をかけ、口ひげを蓄えた蓮の父親は、うなだれたまま、俺に救いを求めるような眼差しを向けてくる。
「父が子を思いやるのは、至極当然の事…されど、今の御身ではお子の力にはなれぬ。いやむしろ、妨げとなりかねんのだ」
「なにを…言って」
あまりの唐突さに意味がわからず、蓮が口を挟むのを手で制して、俺は言葉を続けた。
「本来、真に浄化された身であれば、私が口を差し挟むべき事ではあるまい。なれど、御身は成仏できておらず、守護者としての資格を持ち合わせておらんのだ。それでは、お子に障りが出るのも当たり前ではないか…」
俺が見た青白い光の正体は、蓮の父親だった。
蓮の父親は、不慮の死を遂げるも、我が子の行く末を案じるあまりこの世に未練を残し、成仏できずに、ただひたすら自分の息子を見守り続けてきたのだ。
しかし…成仏できていない者は不浄霊となる。
つまり、傍にいることで霊障が起きてしまうのだ。それでも我が子を心配するあまりに、傍を離れる事ができないでいる。
父が我が子を愛する思いが、逆に子を苦しめる事になるとは、なんとも憐れだった。
俺は師と仰いでいる方から「本来、生者は霊よりも強い」と教えられた。
だから、不浄霊などと相対するときは心を強く持たなくてはならない。そうしないと、心の弱みに付け込まれてしまうのだそうだ。
その霊の力にもよるが、なるべく強い口調で接するのが基本だ。しかし礼儀を失してはならない。
俺が口調を改めた理由は礼儀という事もあるが、蓮の父親があまりにも不憫だったからでもある。
「御身の気持ちは察してあまりある…」
父親の張り裂けんばかりの悲痛な感情が、俺の中に奔流となって流れ込んでくる。
我が身を捨ててでも子を思いやる親の愛だ。それが痛みを伴いながら、俺の中で感情の波となり、暴れ、襲いかかってくる。
「しかし、御身が傍にいる限り、お子に幸せはない。なによりも…御身が現世に留まり続けるのを見かねた奥方までも、このままでは成仏できぬではないか」
蓮の父親が振り返ると、すぐ後ろに、やはり細身の女性が寂しげな顔で立っていた。
誰かを思いやる気持ちというのは、とても大事なことだ。しかし、その気持ちの強さゆえに未練を残せば、成仏する事ができなくなる。
死して後に大切なのは、思いやる気持ちを未練ではなく、祈りに変える事だ。
親が子を思うとき、その気持ちは願いとなり、祈りへと変わる。
子供が健康に育ちますように…この子が幸せになれますように…そういった思いが祈りになるのだ。けしてエゴであってはならない。
「我が子を、そして奥方を本当に思うのであれば、お子を信じて御身は成仏するべきだ。それでも不安が残ると言うのであれば…私が彼の護りとなろう」
両膝をつき、伏して拝まんとする父親、それを支えるように寄り添う母親の姿。俺に暖かく流れ込む感情は、ひたすら我が子を思いやる親の気持ちであり、そして紛れもない祈りだった。
「ご子息はたしかにお預かりする…心安らかにして逝かれよ」
2人の姿が輝きだして、その光はあたり一面を覆い尽くす。そして光の奔流がおさまると、あとには静かな夜の公園が残された。
「父さんと母さんがいたんだね…」
「あぁ…」
普通、霊とのコミュニケーションには声を使わない。霊体では声といった形で音を出しにくいし、ある程度なら霊でも生者の思考を読み取れるため、声を使う必要がないのだ。
特に俺のような霊媒体質の人間は、意志や感情といったものを受けやすい。つまり、言葉を交わすより簡単に、霊の意思を理解する事ができる。
しかし今回は、傍にいる蓮が理解できるように、俺はあえて言葉を口にする事で会話をした。
「2人とも、ボクを愛してるって…今、そう言ってくれた」
俺の胸にしがみつき、肩を震えさせながら嗚咽をあげる蓮を、俺は優しく抱きしめてやった。
「あのとき…涼さんはボクを護ってくれる、そう言ったよね?」
「あぁ、たしかにそう言った」
蓮は床に膝をつき、ソファーに寝そべっている俺の腹に頭をちょこんと乗せたまま、眠そうな声で話し掛けてくる。
この状態はいつもの事であり、俺たちが一番くつろげる体勢だ。
知人の1人がこの光景を見て、「まるで猫に甘えられている狼のようだ」と評した事がある。
俺が狼であるかはともかくとして、蓮を猫に喩えるのはあながち間違いではないだろう。
何しろ見た目には可愛いが、気が強くて、おそろしく気まぐれなのだから。
「それに、ボクを預かる…とも言ったよね?」
「だから、こうして身元引き受けもしてるだろ」
現在、蓮の身元引受人は俺になっている。
少々強引ではあるが、俺が師と仰ぐ先生のお力を借りて、蓮の親類を遠ざけて俺が保護者となるように手配してもらったのだ。
何しろ先生は政界のトップですら一目置いている方で、天皇家からもお声が掛かる程の力の持ち主である。
もちろん、正式な手続きを踏んで蓮を引き取ったので、法的には何の問題もない。
「ずっと、涼さんのそばにいてもいい?」
蓮は目を細め、まるで俺から伝わる温もりを楽しむかのように、自分の顔を俺の身体にすり寄せる。
「俺に生涯独身でいろってのか?それに、おまえだって将来は誰かと結婚して、幸せな家庭を築くんだろうに…」
「ボクは今のところ、結婚する気なしだよ。涼さんは結婚したいんだ?…でも、そんなのムリだよ。だって、涼さんの魅力がわかる女の人なんて、この世に何人いるってゆうのさ?」
にっこり微笑んで、蓮はきつい事を言う。
「まぁ、魅力的とはいいがたいだろうが、そこまではっきり言うかよ…」
あまり自慢できた事ではないが、はっきり言って俺の外見は平凡だ。
平均的な身長で痩せ型であり、よくある顔立ちのどこにでもいる男…それが俺だ。けして美男子でもなければ、マニアックでもないし、日本人離れしたハーフっぽい感じでもない。
「違うってば。自分勝手な女じゃ、涼さんの魅力に気付かないってこと」
まったく、身も蓋もない言い方をするやつだ。
「世の中の女性全てが身勝手というわけでもないだろ?」
「まぁね…でも、涼さんに近寄ってくる女は、きっと自分勝手な女ばっかりだよ?」
「なんでそんな事が言えるんだよ…」
「だって、涼さんは優しすぎるもん。…力があって優しい人には、そうゆう救われないヤツが寄ってくるよ。でもって、自分だけが独り占めしようとするから、他のまともな女の子を退けちゃうの」
小首をかしげてこちらを見つめる蓮は、どう見ても可愛らしい少女としか思えない。そんな愛らしい顔立ちをした少年が、まるでこの世の全てを見てきたような口ぶりで、何かを悟った世捨て人のようなことを平然と口にする。
「なんとも…はた迷惑な話だ」
だが、蓮の言う事も一理ある。
たしかに、餓鬼の性を持つ者たちが世の中には大勢いる。
自分さえ良ければ、それでいい。
足る事を知らず、貪欲に求め続け、自らの欲を満たす事ばかり考えるあまり、他者に与える事を忘れてしまっている。
そういった者たちが、新聞やニュース番組を賑わす事の多さは、なんとも酷い世の中になったと思わざるを得ない。
「まぁ、涼さんを独占したいのは、ボクも同じなんだけどね」
「おいおい…」
まるで、父親を慕う子供のようだ。
この分では、俺の事を“パパ”と呼びかねない…。
「ボクはね…涼さんのためだったら、何でもしてあげるよ。たとえば…やったことないけど、涼さんが相手なら、フェラとか…してもいいよ?」
俺は思わず、顔を覆ってしまった。高校生の少年が、真面目な顔をして男に言う科白ではない。
「まさか女に興味がないとはな…。生憎と俺には衆道の気はない」
「“衆道”ってなに?」
衆道。もともとは若衆道の略で、男色の道の事である。いわゆる男同士の同性愛をさしている。
まぁ、端的に言ってしまえば“ホモセクシャル”だとか“ゲイ”というやつだ。
「もぉ、違うってば。別にボクは男が好きってわけじゃないよ。女の子とエッチする方が、だんぜん気持ちいいに決ってるもん」
「だったら、何でまたそんな事を言うんだ?」
「う~ん…どう説明したらいいかなぁ」
自分の顔を押し付け、俺の身体に指を這わせながら悩む蓮の様子は、まさに恋人に甘える仕草そのものだ。
「あのね、男だから好きなんじゃなくて、さ…。好きになった人が、たまたま男だったわけ。でね…その、ボクは涼さんのことが好きなの。だから、好きな人には何でもしてあげたいなって、そう思って…」
蓮の恥じらいながらの告白に少々動揺しつつも、俺は自分の中に蓮を愛しいと思う気持ちがある事に気がついた。
「だから…その…フェラだけじゃなくって、涼さんのしたいことなら…全部いいよ?」
「ははっ、ははは」
「わ、笑うことないじゃんか!」
一大決心をしての告白を笑われたと勘違いして、蓮が顔を真っ赤にして怒りだす。そして、その様がなんとも微笑ましく思えて、俺はまた笑みを浮かべた。
「悪かった。そう怒るなよ」
「フンだ。人の気も知らないで、さ…」
「おいおい、そんなに拗ねるなよ。…相手を思いやる気持ちが“好き”って事なら、俺もおまえの事が好きだよ」
猫がそうするように、プイっとそっぽを向く蓮の頭を撫でながら、俺は奇妙な親近感にも似た感じを覚えていた。
「ほんとにぃ?」
疑わしげな眼差しで、蓮は甘えるように俺の顔を覗き込む。
「あぁ、本当さ。たぶん、俺たちは比翼連理なんだろう」
「ひよく、れんり?…なにそれ?」
比翼連理とは、“比翼の鳥”、“連理の枝”の略称であり、本来は男女の深い契りの喩えである。
相手の存在なくして、自らは在り得ない。また、己の存在は相手のためにある。比翼連理とは、そんな意味をも持っている。
「一心同体ってこと?」
「まぁ、そんなとこだ。ソウル・パートナー、あるいはソウル・ユニゾンといってもいい」
「そうる…ゆにぞん?」
知識の自己保有量を完全にオーバーフローした蓮は、さっぱりわからないといった風で可愛らしく小首をかしげる。
ソウル・ユニゾン。つまり、魂の和合。
俺は蓮と出会ったときに、意識や感覚の共有、そして心すらも溶け合うかのような感じを味わった。
それは甘美であるとともに驚愕でもあった。そして、俺は初めて自分の存在意義を自覚したのだ。
蓮と共に生きること…そして互いを高め合い、その魂を昇華させることを。
「ふぅん…ボクにはよくわかんないや。…けど、涼さんがボクのことを好きでいてくれるんだったら、ボクにはそれで十分だよ」
蓮は俺の胸に頬をすり寄せ、にっこり微笑んだ。そして、俺もその微笑だけで十分だった。
「ねぇ…やっぱりしてあげようか?」
「おいおい…」
「だって、涼さん…勃ってる」
俺のモノに指を這わせながら、蓮が微苦笑を浮かべる。
理性では蓮が男だとわかっているのだが、少女としか思えない愛くるしい顔立ちで甘えられては、どうにも身体が無意識に反応してしまう。
「おまえが触るからだ…」
「ウソだぁ。本当はボクにして欲しかったんでしょ?」
茶目っ気たっぷりにウインクする蓮を引き寄せ、俺は再度苦笑を浮かべた。
「今はまだ…このままでいいさ」
そう、今はこうしているだけで十分だ。
互いの温もりを感じ、全てが溶け合うほどの安らぎを感じるこのままで。
「そうだね…とっても気持ちいい、このまんまで…」
時が巡り、互いが必要としなくなる日まで、このままでいられればそれでいい。
幾多の苦悩、幾星霜を経ようとも、俺たちは変わらずに傍にいる。そんな気がする…
夜は長く、まだ始まったばかりだ。
人の生は1つの物語。
俺の夜語りは、まだ幕を開けたばかりなのだから…
時は紡ぎ、夢は続く
応援ありがとうございます!
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