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影の街
しおりを挟む◯◯市東部の外れにその街はあった。
当てどない旅が好きな私は休暇がくると、どことも決めずにふらりと出かけ、方々を巡っているのだが、その時もぶらぶらと歩き、迷い込んだ道の果てであった。
夕暮れの時間で、そろそろ今日の宿泊先を決めようと考えていると、ふと土手の向こうにぼんやりとした人影が見えて、尋ねることにしたのだ。
そうして近づいてみて、私はぎょっとした。
その人はぼんやりとした人影のまま、手の届く距離まで近づいても、その様子が変わらないのである。
全身がなにしろ影で覆われていて、顔も分からない。性別も、服を着ているのかすら判別がつかない。
私が立ち所に震え上がって後退りしていると、くぐもった声が聞こえてくる。
「まってください。あなた、初めての人ですね?」
けれども、動かす唇も見当たらない。
「最初は皆、そうなのです。けれど、どうか恐れないで。私たちは人間です。ただ何もかもを明らかにしないだけなのです」
「明らかに? とはいったい、そんな術を……」
「特別のコートを着ています。これを被ると不思議なことに素性も体の形も皆、隠してくれるというものです」
言いながら、その人はちらっと口元だけ剥いでみせてくれ、中にはきちんとした人間の唇があった。
それで私はようやく安心して、話を聞くうち、今度は次第に面白くなってきた。
「すると、それは私にも被れるものなのか?」
「もちろん。貸し出しもしております」
「それは楽しそうだ。ちなみに今夜の宿を探しているんだが」
その影に案内してもらった宿もまた、女将さんから従業員から宿泊客まで皆、一様に影の姿だった。
「女将さん、この人、初めてなんだ。一枚、コートを貸してやっておくれよ」
案内の影が言って、私は一枚被ってみることにする。
中はそれほど着心地が良いというものではなかったが、通気性もあってしっかりとしている。
「私も影に見えているのか?」
「左様です」
そう言った影が女将さんのものであるのか、案内役であるのか、もう分からなくなっていたが、とにかく周りの誰かがそう言った。
「しかし、うーん。なんというか、変な感覚だ。自分が分からないのでは、やりにくくもならないものかね?」
「楽ですよ。私たちはこのコートのおかげで、もう周りの表情や声や色んな雑音を気にすることなく生きていけるのですから」
「そういうものかね」
しかし、私には合わないと思って、遠回しに遠慮しながら、私はコートを脱ぐと、従業員らしき影に案内されて二階の部屋に通された。
そこに行くまでにすれ違った者も皆、影だった。中には家族連れと思わしき小ぶりな影も見えた。姿だけでなく声も隠せるものだから、どこにいても影はあっても声もなく、足音も物音もなく、静寂で、まるで深海にいるような感覚だった。
「うーむ。だんだんと薄気味が悪くなってもきた。一晩だけ泊まって朝一番に出てしまおう」
やがて夕食が届き、ノックの音がして出迎えると、運んでくるのもまた影だ。それが黒いもやもやに覆われた腕でカートを押して、部屋の中ほどに置くと、音もなく去っていく。
待てよ。流石にそれはおかしいじゃないか。
入り口までの通路を覗くと、暗い廊下の端のドアは閉じ切っている。開けられた様子さえないのだ。
ここら辺で私はもう怯え始めていたが、まだ正気を保とうという回路が働いて、食事にすることにした。
間もなく私は仰天してその場にひっくり返った。
カートの上に並べられた食べ物すら、影なのだ。
サラダなのか、肉なのか、魚なのか、煮付けなのかも分からない。黒いもやもやの物体が皿の上に並べられていた。
私は部屋を飛び出した。階段を転げ落ちるように駆け下りて、そこにいた玄関の女将さんらしき影を問い詰める。
「どういうことだ! あれはいったい」
「落ち着いてください、お客様。影で何か分からなくても味は絶品ですし、品質も保証します。食べても大丈夫なものです」
「そういうことじゃない。大体、気味が悪くていけない。皆して影をかぶって、何を考えてるのかも分からないのでは不気味なだけだ!」
「でも、お知りにならないことの方が良いこともあるでしょう?」
「私はそれでも知っていた方が安心するのだ。ええい、いつまでも、こんなもの被ってるんじゃない!」
私がそう言って、女将らしき影の顔を掴むと、口元が剥がれ、私はたじろいだ。
慌てて、影を元のままに戻す。
もやもやとした影の塊の向こうで、女将らしき声が言った。
「だって、皆、恐ろしい形相であなたを睨みつけているとしても、分からないほうがよろしいじゃありませんか」
いよいよ私は恐れおののき、その場に尻もちをついた。
その時ようやく気付いたことには、影だから、例え目の前で自分と向かい合って立っているように思えても、それが正面か、背後かも、本当のところはこちらには分からないのである。
そう思うと、従業員や、何の騒ぎかと廊下に出てきた客。たまたま居合わせたもの、視界の中にいた全ての影という影が、こちらをじっと見ているような気がしてならなかったのだ……。
私は悲鳴をあげながら部屋に帰ると、戸を閉め切って決心した。
帰ろう。朝一番なんて待っていられない。夜中のうちにここを抜け出してしまおう。
タイミングを見計らうために窓辺に寄り、しばらく周辺の道行を眺めた。
心臓が跳ね回って、気が気ではなかった。
なにしろ連中ときたら、音も隠すのだ。いつ自分の背後に立たれているとも知れないじゃないか……。
そう考えて、神経質に後ろを気にしながら、道を眺めていたところだ。
人気のない夜道。土手の向こうから影がすーっと滑るように進んでくるのが見えた。やはり影だから、どちらを向いているとも知らず、また足音も、歩行のための上下運動もない。
先ほどの状況が胸をよぎると、心なしか、こちらを向いているようにも見える。
いや顔の向きが分からないだけだ、と無理やり頭振ってみて、私は青ざめた。
それはやはりこっちを見ていたようだ。
道の方向はおろか重力にもあらがって、私の方へまっすぐに向かってくるのだから。
「うわあああ!」
今度こそ我慢の限界だった。
私は一も二もなく駆け出して、廊下を抜け、階段をほとんど落ちるように駆け下りると、荷物も忘れて、旅館を出た。
そうして、ひたすら土手を走って走って、影の追ってこないところまで走り抜けたのだった。
それ以来というもの、私は都会の日々において人々の悪態にさえ安堵する生活を送っている。
例えそれが悪意に満ちて人を傷つけるものだとしても、何を言われてるのか、考えてるか、が分かるだけまだ有り難いというものだ。
ただ、いまだに背後を気にしてしまうときがある。
道端で数人とすれ違った直後。
背後からあの影に囲まれた時のような視線を感じてハッと振り返り、当然のごとくやはり何事もないのだが、ふとときどき思うことがあるのだ。
私のことを、あの恐ろしい形相で睨んでいるのではないかと。
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