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第5章
第54話 最悪のタイミング
しおりを挟む今日で風邪を引いてから3日目。今回はいつもより回復が早くてもうすっかり良くなっていたけど、あんなさんからの言いつけをちゃんと守り、一歩も家から出ずにしっかりと体を休めた。
数年に一度私が体調を崩すと、いつもあんなさんはやりすぎなくらい面倒を見てくれる。
普段は私をからかい倒してそれを酒のあてにするくらい私で遊んでるけど、心底私のことを心配して大事に思ってくれてることを感じて、弱り気味の私は実はちょこちょこ隠れて感極まっているくらい嬉しかった。
ピーンポーン……
夜の10時半になろうとする家中に、大きなインターホンの音が鳴り響いた。
また来てくれた。昼に作ってくれたハンバーグを食べてからもう8時間以上が過ぎている。夜はまたステーキを焼きに来てくれるって言うから、それを楽しみに何も食べないで待ってたけど、もう空腹は限界をとっくに越えていた。
「はーい!」
あんなさんとステーキの到着が嬉しくて、勢いよく扉を開けた。
「きゃっ!!」
勢いのよすぎた扉に驚いた顔をするその人を見て、理解が出来ないままとりあえず危ない目に合わせたことを謝った。
「す、すみません!」
「ううん、大丈夫!むしろ元気そうで安心した!店長が言ってた通りだいぶ良くなったみたいだね?よかったぁ!」
「……あの……すみれさん、どうして……?」
その時、もう音を出す力さえ残っていないようなお腹から、グォォ……という小さな断末魔が鳴った。
香坂さんはクスッと笑い「今すぐ作るね!」と言って自分の家のようにサッと靴を脱ぎ、「お邪魔しまーす」と玄関の低い段を素早く上がった。
私が呆気にとられているうちに、片手に持っていたスーパーのビニール袋を床に置き、急いだ様子で今度はまた別の袋から新品のエプロンを取り出す。
「家に寄る時間ないからこれも買って来ちゃった!スーパーで売ってたものだから、デザインはあんまり可愛くないけど」
少し照れながら大きな花が散りばめられた少し古めかしいデザインのエプロンを身に着ける。
これ、どうゆうこと……?もしかしてこないだの奈央みたいにあんなさんが自分の代わりに香坂さんに頼んだ……?
……いや、そんなはずない。あんなさんが香坂さんにそんなこと頼むわけがない。
すっかり治ったつもりでいてもまだ頭が働いてないのか、それとも空腹がそうさせるのか、混乱から抜け出るのに少し時間がかかった。
「体調どお?お腹鳴ってたし食欲はあるのかな?」
「……体はもう大丈夫です……食欲は、風邪引いてもなくなることないので……」
「よかった!具合悪いのにお肉ってどうなんだろうって思ったんだけど、前にきみかちゃんうちに来た時、風邪引いててもかたまり肉食べたくなるって言ってたでしょ?だからボリュームのあるお肉買ってきたの!あ、でもちゃんと野菜もあるよ!お肉だけじゃなくて、野菜も食べてね!」
間髪入れない言葉の襲来に、早くどうにかしなきゃと焦った。
「あの、すみません!どうして今日は家まで……?」
「連絡もしないで突然でごめんね。でも、前回約束したでしょ?次のバイト上がりに話しようって。お休みだからまた次の機会かなって思ってたんだけど、もうだいぶ良くなったって店長が言ってたの聞いて、ごはん作るのも兼ねて来たの。……きみかちゃんの話、待ちきれなかったし……。でも今はとにかくお腹空いてるだろうし、とりあえず先に作っちゃうね!話はその後で聞かせてね!」
早速キッチンに向かって料理の準備を始めようとする香坂さんを制止しようと、私はその背中に向かって大きな声を出した。
「待って下さいっ!!」
私の異様な雰囲気に驚いた様子の香坂さんが、ゆっくりとこっちを振り返った。
「心配してくれるのはすごく有り難いんですけど、正直、突然こうやって家に来られるのは困ります……」
いつになくはっきりと言った。今の香坂さんには少しの曖昧さも混ぜちゃいけない。
「……迷惑だった……?……きみかちゃん、喜んでくれると思ったのに……」
急激に落ち込む香坂さんを前に勢いを失わないよう、一度大きく静かに深呼吸をした。
「今まではっきりしなくてすみませんでした。……誤解させちゃったかもしれないけど、私が好きな人は……すみれさんじゃないんです。好きな人は他にいて……したかった話っていうのはそのことで……」
「……どうゆうこと?」
「そんなつもりは全くなかったんですけど、結果的に誤解させるようなことをして本当にごめんなさい……。すみれさんのことはもちろん人として好きですけど、恋愛感情とかではなくて……すみれさんをそうゆう目で見たことは、一度もないです……」
今度こそきちんと伝わるよう、目を合わせて言った。そんな私から目をそらさずに、香坂さんの顔はみるみるうちに泣き出しそうな表情へと変わっていく。
「……どうしてそんなこと言うの?……私のこと、抱きしめたくせに……」
「あの、それは……!」
「あの夜、すごく強く抱きしめられて、だから私……きみかちゃんは私のことを好きでいてくれてるんだって思ったのに……じゃああれはなんだったの?!」
「……本当にすみません……。本当に最低ですけど……私にはその記憶はなくて……。たぶん寝てるまま、無意識に抱きついちゃったんだと思います。あの時近くにいたのがすみれさんじゃなくても、例え誰だったとしても、同じことしてたんだと思います……」
「……じゃあ、このハートのピアスは?どうしてこんなのくれたの?!」
左耳のピアスに触れながら、訴えるように私を問いつめる。
「……それは、バイトしてるライブハウスの打ち上げのビンゴ大会で当たったもので……自分ではそうゆうのつけないから誰かにあげようって思った時、知り合いの中で一番そうゆうのを着けそうだなって思ったのがすみれさんで……。ちょうどバレンタインのお返しとタイミングが重なってたのもあったから……。……本当に、色々とごめんなさい……」
そこまで言うと香坂さんはうつ向いて何も言わなくなった。こうなると、どう終わればいいのか分からず、私も黙り込んでしまった。
壁掛け時計の秒針の音が、音量を上げたかのようにやけに大きく耳に響く。
「……私、一人でずっと勘違いして舞い上がってたんだね……きみかちゃんはきっとそんな私に困ってたのに……みっともなくて恥ずかしいよね……ほんと、バカみたい……」
ようやく顔を上げた香坂さんは溢れそうな涙を目に留めて、自分を嘲笑うように小さく笑った。
「そんなことないです!誤解させたのは私だから!すみれさんは何も悪くないし、みっともなくもないし、そう思わせた私が全部悪いんです!」
「……本当にそう思ってる?」
「はい。本当に心から申し訳ないと思ってます……私のせいで、傷つけしまって……」
「……そうだよね。何かと綺麗だなんておだててきて、たかがバレンタインのお返しにこんな高そうなハートのピアスくれて、挙げ句に好きな人がいるって言いながら抱きしめられたら、誰だって勘違いするよね?」
「…………」
本当に何も返す言葉がなかった。一つも間違ってない間違い香坂さんから逃げるように視線を外す。
「結局、私って誰にも愛されない人間なんだな……だからあの人も、まどかも、みんな私から離れていって……」
かすれた声でそう言うと、香坂さんは顔を覆い、ついに完全に泣き出してしまった。
「……もう消えたい……」
願望のように漏らしたその言葉を聞いて、自分のしてしまったことの罪の深さが重くのしかかった。
「そんなこと言わないで下さい!離婚して落ち込んでる状況でそんなこと言っても皮肉にとられるだけだと思ってずっと言わなかったけど、初めてすみれさんと色々一緒に過ごして、改めてすごく素敵な人なんだなと思いました!だから、今はすごく辛いだろうけど、きっとこの人は幸せになれる人だって、そうゆう人と出会える人だって、私、本気で思ってました!」
「……そんな慰めなんていいよ。そんなこと言われても苦しいだけ。結局きみかちゃんだって私を必要としてなかったんだから……」
「……ごめんなさい」
もうそれしか言えなかった。
「そんなに謝らなくてもいいよ、きみかちゃんだって悪気があったわけじゃないんだし。……でも、本当にきみかちゃんが悪いことしたって思ってくれてるなら、一つだけお願い聞いてくれる……?」
「…………なんですか?」
「私のことを今ここで抱いてほしい……」
「えっ……」
「今ね、すごく辛いの……。自分が本当にこの世界で誰にも必要とされてない、いらない人間みたいに思えて、苦しいの……。だから、嘘でもいいから体だけでも必要としてほしい……」
そう言って香坂さんはエプロンを外すと、涙を浮かべたままの瞳で私をじっと見つめながら、ゆっくりと近づいてきた。
「ちょっ、ちょっと待って下さい!」
「……罪滅ぼしもしてくれないの?きみかちゃんが悪いんでしょ?」
「……それは、本当に申し訳ないと思ってます……本当にすみませんでした……」
目の前まで迫ってきた香坂さんを前に私は微動だにせずただただ謝った。
「……これ以上もうみじめにさせないで」
香坂さんはそんな私を憎むような目つきで、上質そうな白いシャツのボタンをゆっくりと外し始めた。
「香坂さんっ!」
「……ひどい……すみれさんでしょ?」
「あの……すみれさん、その……何してるんですか?」
「きみかちゃんにその気になってもらいたくて……。私のこと綺麗だって何度も言ってくれてたよね?あれも嘘?ただのお世辞で、そんなこと何にも思ってなかったの?」
「……それは……嘘じゃ……ないですけど……」
上から3番目のボタンが外れ、薄いピンクのレースと白い谷間が見えた。私の一瞬の反応を見逃さず、香坂さんはもっとよく見えるように指でシャツを開くと、物欲しげな顔をして、すでに近すぎる距離をまた数cm縮めた。
「これでもだめ?何も感じてくれない?やっぱり私なんかじゃそうゆう気になれないの……?」
「……そうゆうことじゃなくて!本当にこんなことやめましょう!」
そう言いながらも言葉だけでの説得には自信が持てず、私は香坂さんの胸元に手を伸ばした。そして、開いたシャツの両端を持つとそれを重ねるように閉じて、あらわになっていた肌と胸元を強引に隠した。心の中でひとまずはよしっ……と一段落ついたその時、首にするりと両手が回された。
「きみかちゃん好きな人いるんだよね?その人とはこうゆうことしたいって思ってるんでしょ?……その人の代わりでもいいから。きみかちゃんの好きなように何してもいいから。ねぇお願い……今だけは優しくして……」
そう耳もとで囁かれた時、奈央の笑顔が浮かび、私は香坂さんの両肩を掴んで力づくでその体を引き離した。
「そんなこと出来ない!」
私がそう叫んだと同時に、強く押された弾みで少し後ろへと下がった香坂さんは、床にあったスーパーの袋を踏み足を滑らせた。受け身を取る間もなくそのまま真後ろへと倒れていく。
「危ないっ!!」
私はとっさに香坂さんの後頭部に左手を回し、右手で体を抱き込むような姿勢をとった。
ッダンッ!!!
まるでプロレスのリング上のようにキッチンの床へ体を思いっきり打ちつけて二人で倒れ込んだ。数秒経ってから香坂さんの頭をかばった左手に激痛が走った。
「っ痛……だ、大丈夫ですか?」
覆いかぶさった体勢のまま、あまりの痛さに顔を歪めながら聞いた。
「どうしてかばうの?」
「頭打ったら……大変だから……」
仰向けの香坂さんの顔の横に無事な右手をつき、その力だけで起き上がろうとしてみた。
「……左手……怪我したの?」
「……大丈夫です」
「嘘。すごく痛そうな顔してる……」
「今はぶつけた直後だから……でも別に大したことないです」
「……私のことなんかどうでもいいくせに、そうやっていつも優しくするきみかちゃんがいけないんだよ……」
香坂さんはそう言って私の両頬にそっと両手を添えると、右手だけで上半身を支えていた不安定な私のバランスを簡単に崩した。
その直後、唇にそっと、小さくやわらかい感触を感じた……
衝撃に息が止まる中、玄関の方から鍵穴に鍵をさす音がかすかに聞こえてきた。
ガチャ……
「えっ……ええーーー!!!!?」
大きな声に反応して振り向く。するとそこには、目と口を大きく開いたあんなさんと、その後ろに無表情の奈央が立っていた……
慌てて香坂さんから離れたその時、奈央と目が合った。
「あっ……これは……」
説明しようとする私から目をそらした奈央は、シャツがはだけたままの香坂さんを見ると、表情を変えず、声も出さずに静かに去っていった。
「奈央!!」
立ち止まってくれる気は全くしなかったけど、それでも叫んだ。香坂さんは焦りながらシャツを引っ張るようにして体を隠し、固まっていたあんなさんはゆっくりと後退りをした。
「とりあえず閉めるわ!」
バタンッ……
「…………奈央……」
私は誰もいなくなった扉の先をずっと見つめ続けていた。
「……きみかちゃんの好きな人って……もしかしてなおちゃんなの……?」
私の背中に向かって香坂さんが尋ねる。
「……近すぎて……失うのが怖くて……ずっと好きだって言えなくて……でも、やっとちゃんと伝えようって……思ってたんです……」
誤解だと説明すれば、また分かってくれるかもしれない。だけどきっとこれはもう、取り返しのつかないことのような気がした。
「……ごめんなさい……」
壊れたように玄関の扉の前から動かない私に、香坂さんは涙声で謝る。
「……私が悪いんです。全部自分のせいでこうなったんだから」
「違うよ……私がおかしくなって、きみかちゃんの優しさを歪んで捉えたから……きみかちゃんはただ純粋に哀れな私に優しくしてくれてただけだったのに……なのに、こんなことまで……」
床の上、崩れたまま我に返って自分を見つめ返す香坂さんの方へようやく振り返った。
「違うんです。誤解なんです。すみれさんのことをほっとけなかったのも、笑顔になってもらいたかったのも、全部自分の為だったんです。私に、人を想う優しさなんか存在しないんです」
「…………きみかちゃん?」
それだけ言ってまた私は玄関に向き直った。
この扉から奈央が現れることはもう二度とないかもしれない……。そんなことを考えながら、二日前にこの部屋で二人で過ごしたあの幸せな時を思い出していた。
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