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忘却の彼方

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 生まれてから今までの記憶があるのに、特定の期間だけその記憶が二つに分かれてる。
 靄に包まれたもう一つの記憶を夢というには無理があった。
 だって私は今こんなにも逢いたい人がいる。
 でもそちらを選べば、私は家族を失ってしまう。
 漠然と根拠もなく解かっている。
 このままこの生活を維持したいと思っているのに。
 夢という綻びが私を狂わせている。

「上守比和子さん」

 名を呼ばれて顔を上げると、ブランコの柵の向こうに壮年の細身の紳士が立っていた。
 この場にそぐわない燕尾服を着て、綺麗な白髪を後ろへと流している。
 若い頃はきっとカッコ良かったんだろうな、と思わせる色気をその人は漂わせていた。

「どちら様ですか」

「御門森九条と申します」

 彼は私を見てにっこりと微笑み、手を後ろに組んだ。

「さて、私に残された時間は残り僅かとなりました。もう九十九ですからね。色んな意味でリーチが掛かっています」

 九十九と言うわりには、見た目は精々六十くらいである。
 もしかしてこの人はボケているんだろうか。
 燕尾服を着て深夜徘徊しちゃってるのかもしれなかった。

 私の訝し気な視線を気にせずに、御門森九条は話を続けた。

「その僅かな時間をどうかと懇願され、ここへと参りました。チャンスは一度だけです。それ以上は私が持ちません。どうしますか?」

「すみません。話が全く見えないんですけど」

「おや? 御倉神とお会いしませんでしたか?」

「みくらさん? 会いましたけど……」

 さっきは特に何も喋っていなかったけど。
 御門森九条は苛立たし気に片眉を上げて空を睨んだ。
 その仕草は私を何故かビビらせるには十分の迫力だった。

「そうですか。説明するのも面倒ですね。目を閉じていただけますか? えぇ、一瞬で構いません。瞬きをゆっくりする感じで結構です」

 ずっと目を閉じていろと言われれば警戒するけど、瞬き程度なら攫われたりはしないだろう。
 それにしてもここ最近は変なことばかりが起きる。

 私は目を閉じて三秒数えて開いた。

 するといつの間にか立ち上がっていた。
 そして眼前には、あれほど鈴白村で捜したにも拘らず存在しなかったお屋敷へと続く石段がある。
 対面していたはずの御門森九条は、いない。
 私はいつの間にか夢を見ているのだろうか。
 だとしたらいつ眠ったの?

 石段を見上げて考えていると、誰も居ないのに脇の灯りがひとりでに点いていく。
 橙の灯りに引き寄せられ、石段に足を掛けた。

 この先にいるのが誰なのか私は知っていた。
 玉彦という名の男の人だ。
 彼なら何か知っている。
 というか、この現状でまともに話せるのは彼しかいないような気がする。

 馬鹿みたいに長い長い石段を上りきって、私は勝手に門を通って玄関前に立った。
 ……チャイムがない。

「ごめんくださーい!」

 大声で叫ぶと中から人の気配がして、予想通りの人物が顔を覗かせる。

 彼は夢の中そのままの姿で、私の前に困り顔をして立った。

 真っ白い着物に、艶やかな長い髪。

 眉目秀麗を実体化させた人間を初めてみた。

「どうかされましたか?」

 聞き覚えのある落ち着き払った声で心配をされて、私は答えに窮した。
 どうしたも何も、御門森九条に連れて来られたのだ。
 ここに何の用事があるのか、知らない。

「あの、えーと。すみません。帰ります」

 頭を下げて私は門へと歩く。
 とりあえず燕尾服の御門森九条を捜して、彼の真意を聞かなくては。
 なぜ私をここへと誘《いざな》ったのか。

「あっ……」

 彼の声が小さく聞こえて振り返ると、思わずといった感じで履物を履かずに玄関から二、三歩踏み出していた。
 あれ? これなんか知ってる……。
 私は窺う様に彼を見て、手に汗を握った。

「玉彦、さんですよね?」

「そうですが……」

「以前私と会ったことって、あります?」

 問い掛けに息を飲み口を引き結んだ彼は、辛そうに目を伏せた。

「あります、よね?」

「少しだけ、お話出来ますか。上守、比和子さん」

 やっぱりそうだ。
 彼も私を知っている。
 私をフルネームで呼んだ人物はみんな、こちらの世界ではなくて夢の中の人たちだ。
 私が作り上げた幻想。

 もう末期だわ……。
 通山に帰ったら、病院行きだ……。
 守くんと結婚とか言ってる場合じゃない。

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