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身体が先か、恋が先か?

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 丁度その頃、マンションから五十メートル程離れた道の路肩に停められた黒いバンの中から、最上階の部屋の窓をじっと射るような眼差しで見詰める男が居た。

 運転席でハンドルに腕を掛けて時折瞼を震わせ瞬きする以外は身動きもしない。

 マンションの明かりがひとつ、またひとつと消えていくと、唐突に暗かった車内に白い明るい光が差して、男は眉をしかめ後ろを振り返った。



「高林……室内灯を消せ……これじゃあ、向こうからこっちが丸見えだろうが」

「だって今蚊が飛んでましたよ!刺されたら嫌じゃないですか!」




 高林、と呼ばれた若い女は「あ!そこにいた!」と声を上げ、仕留めようと両手を男の顔の側でパチンと鳴らすが、蚊は逃げてしまったようだ。

 バランスを崩した女は男が座るシートに頭をぶつけてしまい呻く。







「おい、頭なんて打ったら余計に阿呆になるぞ……」

「海さん、ひ、酷いです……」

「まあ、顔だけは守っとけば大丈夫だろ。多少頭が良くなくたって女は愛嬌があれば嫁に行けるからな」

「海(うみ)さん……それってセクハラ発言じゃないですか……」

「あ!……動くなよ」

「え……」




 海は突如運転席から腰を上げて高林の化粧っ気のない顔を両の掌で挟むと、真剣な表情をして彼女を凝視する。

 高林はドキドキしながら彼の目を見返したが、彼の呼吸と仄かな煙草の匂いが近付いて来ると、固く瞼を閉じた。





 ぷに、と指で頬を押され、高林は瞼を開ける。



「刺される前で良かったな……顔のど真ん中に虫刺されの跡があるのはいただけないだろ」

「ひゆああああ――っ!」



 至近距離に海の整った鼻筋と目元があり、高林は真っ赤になって叫ぶが、海の大きな掌がその口を塞ぐ。


「バカっ!張ってる最中に大声で叫ぶやつがいるか!」

「むむむ……らって……らってうみしゃんが――っむむっ」


 車の中の話し声は夜の街中では意外と響く。運悪く、自転車に乗った警官がこちらに向かって走ってくる。
 


「ちっ……今夜は撤収だな」



 海は舌打ちし、高林を乱暴に後部席に押しやると、ハンドルを切りかえし車を発進させた。







「きゃあ――っ」


 
 海に突き飛ばされた高林は座席と座席の間に転がる。

 海は「悪い」と一応詫びながら――だが少しもすまなそうな感情は声色に滲んでいない――裏道へ入るとアクセルを踏み猛スピードで車を走らせた。

 体勢を立て直せないままの高林は悲鳴を上げている。

 マンションから3キロほど走った所で海はスピードを弛め、信号のある交差点を過ぎてすぐにあったコンビニに停車して店に入ると三分程してビニール袋を手に戻ってきた。

 後ろのドアを開けると座席に顔を突っ伏してのびている高林の頬に冷たい水のペットボトルを押し当てる。



「つめた――っ」



 高林は弾かれたように目をさますと、海を睨み付けた。

 海は車体に寄り掛かり缶コーヒーを飲みながら「ん」と呟きコンビニの袋を彼女に押し付けるように渡す。
 
 中には有名な菓子メーカーの人気商品『ミルミルビスケット』の箱が五つ入っていて、高林の瞳が輝く。





 
 弛みそうになる頬を慌てて高林は引き締めて眉をしかめると再び海を睨み拗ねたように言う。



「ミっ……ミルミルビスケットでご機嫌を取ろうなんて子供扱いにも程がありますっ……ど……どうせなら……えっ……映画っ……にでも連れてってくださいよっ……」

「阿呆。ポキノンの堺雅也が美佳原しののマンションへ入っていく徹底的瞬間を撮り損ねたのはお前がカメラの充電を忘れてて――っていう凡ミスのせいだろうが!それでも優しい俺は今日のお駄賃としてお前の好物を買ってやったんだぞ!ありがたく思え」

「む……す……すいません……」



 小さくなりシュンとする高林の頭をポンと軽く叩くと海は苦笑する。


 
「まあ、でも今日は特ダネの種を探しに来た甲斐があったな。あのオリオンの美佳原しのが音楽雑誌の記者とできてるっていうデカイ種を見付けただけでも収穫さ」

「れも……本当れすかね……?」



 高林は早くもビスケットを頬張りモゴモゴ呟く。





「まあ、あのマンションには美佳原しのだけじゃなく他にもそうそうたる芸能界の大物が住んでるからな……ひょっとしたら堺は他の芸能人の部屋を訪ねたのか……それとも全く関係ない自分の知り合いに会いに行っただけ……という可能性もある」



 海は残りのコーヒーを一気に飲み干すと、店の前のゴミ箱に向かって投げる。綺麗な弧を描き、缶はゴミ箱のど真ん中に落ちて小気味良い音を立てた。

 

「……じゃあ……もうマークするのをやめるんですか?」

「止めるわけがないだろ」



 海は獲物を見付けた鷹のように目をカッと見開き、丁度雲が切れて現れた夜空の月を見上げる。

 『週刊文秋』の記者となって十年目の海は、今までに多くの特ダネ記事を手掛け、決定的な瞬間を写真に納めてきた。

 長きに渡る記者の経験、そして彼が元より持っている動物的な勘が『美佳原しのとポキノンの堺の間には何かある』と彼に告げていた。

 
 




 高林は、海の鋭い表情に見惚れてしまい口の端からビスケットをボロボロ溢してしまい慌てて膝の上の屑を手で払う。

 海は呆れて彼女にポケットテイッシュを差し出した。



「おい……そんな行儀の悪い事じゃあ男に逃げられるぞ……」

「かっ……彼氏なんて居ませんからいいんです!」



 また頬を赤らめて首をブンブン振る彼女を見て「ふうん?」と鼻を鳴らすと海は独り言のように言った。



「勿体無いぞ……恋をしなきゃ……命がいつまであるなんて保障は――」

「え、何です?」



 キョトンとしてテイッシュで口元を拭う高林の真ん丸な目が目の前にあり、海は我に返って口をつぐむと、彼女にデコピンした。





「いったああい!」

「さて帰るぞ!送ってくからお前もとっとと寝ろ!」



 海は運転席に乗り込みセルを廻し、後ろの高林にも聞こえないような小さな声で呟いた。



――今に見ていろ……JWEめ……

徹底的な証拠を掴んでぶっ潰してやる……――








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