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波瀾の予感

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 目を合わせていたのは僅か数秒間なのに、とてつもなく長いスローモーションのように感じた。

 男は、長い足を優雅に動かし歩いて来る。彼が一歩踏み出す度に周囲の空気がまるで林檎の皮が捲れるかのように剥がれ落ちていくような錯覚をおぼえた。

 彼は目の前で立ち止まり、上からほなみを見おろした。

「――お前が、岸ほなみか?」

 彼の低い声は思いがけず魅惑的だった。ほなみの鼓膜に悩ましく張り付く。

「え……?あ、あの」

 ほなみが戸惑い口ごもるのを、男は冷たい目で見つめた。

「何?こいつ、ナンパ!?」

 あぐりが二人の間に割って入り、ほなみを守る様に背中に隠す。すると男は片眉を上げた。

「この子には手を出さないで!ほなみには、西君って言う爽やか王子様が居るんだからね――っ!あんたみたいな、見るからに腹黒そうな奴の餌食にはさせないわよ――!」

「……うるさい女だな」

 男は、口を歪ませると、ほなみとあぐりの腕を乱暴につかんだ。

「きゃあっ」

 ほなみが小さく叫ぶと、男はニヤリとする。

 その笑みに、何故か背中がゾクリとした。

「ちょ!あんた!何すんの!人さらいっ?……誰か!助けて!」

 あぐりが暴れ、大きな声を出すと、男は素早く膝であぐりの腹を蹴る。

「ぐっ……」

 あぐりは気を失い、男に軽々と抱えられた。

「な……なんて事するの!」

 ほなみは男を睨んだが、冷たい瞳に見据えられ言葉が喉で凍り付いた。


 男は、片手であぐりを抱え、もう片手でほなみの腕をつかみ、薄ら笑いさえ浮かべている。

(なんという怪力なの……)

 剛力な男には決して見えないのに、男の手は振りほどく事が出来ない程にしっかりとほなみを捕らえていた。

 パーキングに停めてあるベンツのドアが開け放たれ、二人は後部席に押し込まれた。

「――きゃっ」

 乱暴に扱われ、ほなみは悲鳴を上げる。あぐりも一瞬呻いたが、目を覚ます様子はない。

 弾みでスカートの裾が太股まで捲れ、ほなみは男を睨みながら慌てて直す。

 すると、軽く鼻で笑われた。

 男は助手席に乗り運転手に顎で合図し、車は静かに発進した。

「そうビクビクするな。取って食いはしない」

 あぐりを心配して見つめるほなみに、男は涼やかな声で言う。

「私達をどうするの?け……警察に電話します!」

「そんな必要はない。お前が望む所へ今から行くんだからな」

「……え?」

「西本祐樹のマンションまで、お前を連れていく」

「西君っ!?」

「……待ち合わせの時間に何度も電話したが、通じないと思って歩いてたら、キャンキャンうるさい女どもが

『西君に会いたい』とか何とか喚いてたから、お前達が岸ほなみと吉岡あぐりだと、すぐにわかった」

 あの一部始終を見られていた事が恥ずかしくなり、ほなみは俯いた。

「祐樹が入れあげてる女が、どんなかと思っていたが……」

 ミラー越しに冷たく笑う男と目が合って、ほなみは身体を固くする。


「貴方が……マネージャーなのね?」

「そうだ。俺は綾波 剛(あやなみ つよし)。

 祐樹が復帰出来るように、お前には働いてもらう」

「あの……具体的に、何をすればいいんですか?」

 綾波は肩を震わせて笑い出した。

「な……何がおかしいんですか」

「女が男に元気を出させる為にやる事なんて、ひとつしかないだろ?

 ……純情ぶった顔してるが、お前もその位解るだろう」

 ほなみの頬が、かあっと熱くなった。ずけずけとした物言いに腹が立って、スカートの布地を震える指先で握りしめる。

「お前がするべき事は、毎日祐樹と何を話したか、何をしたか逐一俺に報告する事だ」

「……」

「聞いてるのか。二度同じ事を言わせるな」

「は、はい」

 綾波の眼光の迫力に圧され、ほなみはつい返事をしてしまう。

 綾波はふてぶてしく鼻で笑うと、横を向いて瞼を閉じた。

(――こんな失礼で高圧的な男がクレッシェンドのマネージャーだなんて……)

 決心して東京までやって来たけれど、これからどんな日々が自分を待ち受けているのか、と不安が頭をもたげたその時、綾波が眼鏡を外すのを見て思わず、声を上げそうになった。

 彼を見た時からおぼえていた違和感の正体が今、判明した。

 ミラーに映る、綾波のくっきりした輪郭や、少年の様な目元に、ほなみは釘付けになる。

――似ている……?西……君に……


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