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なんでもいいや

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
 わりとよくあることなのですが、コンビニに寄って一通り店内を見て回りながら、スナック菓子のコーナーで「あぁ今日はお菓子の気分じゃないな~」と思った直後に、スイーツの棚で立ち止まっている自分に気がついた時、思わず笑ってしまいますよね。
 言葉のあやというのは面白いもので、たった一文字違うだけでも、想像力や創作意欲が掻き立てられるものです。
 たとえば、若い女の子が『家を出る』という行為を「前のパパと住んでいた家を出た」と説明したとしますよね。結婚なのか、それとも家出なのかということだけでも話が膨らみそうですが、この『前の』という言葉が曲者で、『前のパパ』とだけ聞くと、なんだか途端にいかがわしい響きに聞こえてしまいますよね。思わず「今のパパは違うの?」と聞き返してしまいそうです。
 『前の』で区切れば、『以前、父親と住んでいた家』という何の変哲もない説明になるのですが、不思議と言葉にされていない部分を邪推してしまうもので、「じゃあお母さんは一緒に住んでいなかったの?」などと、近所のお節介おばちゃんなら含み笑いで直接訊ねてくるかもしれません。
 たとえそうとは受け取らなくても、この一言だけで多少問題あるいは事情のある家なんだなと捉える人のほうが多いことでしょう。
 では、『前のパパと住んでいた家』の一文字だけを変えてみましょう。
 『前パパと住んでいた家』であれば、「あぁ少なくとも、その場所に住んでいないんだな」と考えることができるし、『前パパと住んでいた家』であれば、「少なくとも今いないんだな」とわかります。
 たった一言、たった一文字が違うだけでも、この女の子の生い立ちが気になりますよね。
 全く同じ文言であっても、声に父親への愛情がこもっているか否かで、聞き手の受け取り方は180度違います。
 こういった『てにをは』に通ずるような、言葉のニュアンスの違いは日常ではなんとなく聞いていますが、よくよく考えると「それってどういう意味!?」などと聞き返したくなることがあるものです。
 「」とか「子育てや家事を」とか、そういった内心で感じている事や思っていることは、ついつい口から出てしまう。
 恋人や家族に「ご飯は何がいい?」「何でもいい」と返ってきたので「じゃあこれね」と出せば「うーんまあいいや」「嫌なの、じゃあこっちは」「まあいいんじゃない」「それならこれは!」「いいよそれで」なんて続くと、「何でもいい」じゃなくて「何でもいいや」の間違いだろ!もっと言うと「何でも嫌」じゃない!と怒鳴りたくもなりますよね。
 『手伝う』に関してもそうです。子育てや家事に限らず、『仕事を手伝う』ともよく言います。でも、「元々あなたの仕事でもあるよね?」「あなたの為もとい、あなたがそんなんだから会社やお客様の為に、やってあげてるのよ?」とにっこり微笑みながら、ズバッと言い返したくなることだってしばしばありますよね。
 「他人に厳しく、自分に甘い」とはよく言ったもので、そういう発言をという意識もないまましてしまう人に限って、こちらがうっかり、それこそ言葉のあやで口をついて出てしまった言葉を、ここぞとばかりに糾弾してくる──失礼、これは偏見かもしれませんね。
 ともあれ、たった一文字の違いが笑い事で済まなくなることだって世の中にはたくさんあります。
 ところで、話は少し変わりますが、大学時代に友人から聞いたエピソードです。彼女はちょうどその頃、居酒屋でアルバイトを始めたんですね。和風の居酒屋らしく、キッチンを「厨」と呼んでいたそうで、「厨掃除してね~」と先輩に言われたので、トイレ掃除をしたんだそうです。私は彼女からそこまで聞いた時、「それ厠!」と突っ込んだら「先輩にも同じこと言われた!すごいね!」みたいなことを楽しそうに言われました。彼女が感動したのは、先輩とツッコミが被った奇跡のことなのか、それとも『厠』イコール『トイレ』という知識のほうなのか、それはわかりませんが、どちらにしても嬉しかったので、今でも話した場所や時間まで覚えている出来事です。
 この誰かから伝え聞いた話や、作品の台詞などに対して、当事者と同じ台詞を言ってしまう現象というのはたまにあることで、この間もゲームのストーリーでとある登場人物の台詞に返した言葉が、主人公と全く同じだったことがあります。
 皆さんも経験があるかもしれません。あの時のぶわぁぁっと体が興奮する感覚、忘れられませんよね。よく「記憶を消してまっさらな状態でもう一度出会いたい」なんて言いますが、感動が一瞬のことすぎて、あの時何を考えたそう思ったかを、後で思い返すのは至難の業なんですよね。
 これも大学時代の話ですが、失礼、あまり気持ちのいい話ではないんですけど、Gがね……あ、虫のですよ、Gが一人暮らしの部屋に現れたんです。それがよりにもよって足元だったので、踏みたくない一心で足をバタバタしたら、同じ速さで向こうも動くんですよ。「ぎええええ」なんて思いながら、「あぁ私たち今同じ気持ちなんだわ……」と謎の一体感を感じたことがあります。
 それはともかく、作品で言うと、主人公や登場人物たちと、私たち見る側、プレイヤー側が同じ気持ちになれるというのは、理想の形だと思うんです。同じ台詞を言えるということは、それだけキャラクターが確立されていて、作品に没入できているということです。
 登場人物が主人公に対して「あいつはそういうやつだ」と言います。その内容が至極感覚的なものであってもすんなり共感できた時、私は思わず拍手したくなりました。もう一人の部屋でスタンディングオベーションです。いや、一人の時点でこの使い方は間違っているのでしょうけど。でも、それくらいこの感動を伝えたいと感じた、その感覚は間違いでも嘘でもありません。作品を届ける力がこんなにも究極に達することってあるんだ、と半ば泣きそうになりながら作品を観続けました。
 人間というのはブレずに生きる、という単純なことが案外難しいものです。誰かや何かに影響もされるし、自分自身や世間の環境が変われば、郷に入っては郷に従え精神で順応だってしてしまう。時間が経てば、自ずと流されていってしまうことだってあるでしょう。本能のままにとはいかない、理性の効く生物だからかもしれません。周りに気も遣うし、ブレずに真っ直ぐ進んだ先の壁に思いっきりぶつかって挫けることだってある。
 そんな時、ブレずに生きる自分も、ブレてしまう自分も、「そんなこともあるよね」と大らかな気持ちで受け止めてくれる人がいると救われますよね。
 そろそろお別れの時間です。
 確かに他人や大切な人に共感してもらえるのは嬉しいし、同じ気持ちでいることを実感できると安心するものです。
 でも、どんな自分も、まずは自分が認めてあげられると楽になるのだろうなとふとした瞬間に思います。
 いいじゃないですか。人間ですもの、ブレてなんぼです。むしろブレない人のほうが少ないと私は思いますし、どちらが偉くどちらが良いなどもないとも思います。
 けれど、せめて、『誰かに共感できる私』はいなくならないで欲しい。これからも『誰かの気持ちをわかる自分で在りたい』、それだけは胸に刻んでおこうと思います。
 また来週お会いしましょう。眠れない夜のお供に、深見小夜子でした。



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