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一瞬が一生になる

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。最近、特に顕著になった気がしますが、日頃、インターネットを利用していると思わぬ事態や事件に遭遇するものです。私はSNSから遠ざかってしばらく経ちますが、それでも「なんだかなぁ」と感じる出来事に出くわしてしまうことは多々あります。たとえ遠い世界の、私の知らない場所での話だとしても、目にするたび、耳にするたびに胸が苦しくなってモヤモヤして。自分には直接関係のないことだとしても、受け入れるまでに、受け止めるまでに、少し時間がかかりますよね。そういう時、最終的には自分の中で折り合いをつけて無理やり納得するしかないのですが。よく『地雷を踏む』なんて言いますね。日々、SNSで不特定多数の人々の意見や見解を見ている皆さんには心当たりがあるかと存じます。私は昔、SNSでその地雷を踏みまくって疲れてしまったんですね。「仕事です」と言われれば断りきれないでしょうが、今後も自分から進んで利用することはないだろうと思いますね。
 なんだか抽象的な話だわ、と感じているそこのあなた。『炎上』と言われれば、誰もがピンと来るものがあるはず。基本的にSNSは個人のものですから、何を言っても自由です。著しく人を傷つけたり、あるいは多くの人に迷惑をかけるものでなければ、対面のリアルな関係でも発生する、ただの『見解の相違』に他なりませんから。ただ、それには境界というものがあって、その境界を、その一線を、うっかり超えてしまった時、『炎上』というものが起こるのでしょう。私は先ほど、SNSは個人のものと言いましたが、必ずしもそうでないのは、いわゆる『公式』と呼ばれるものや、芸能人の方々のアカウントです。これは個々の人間、いちアカウントとはまた規模や目的が違って、お仕事の一環であると思います。ですから、ファンを蔑ろにしたり、自らのイメージと乖離したりする言動をすると、簡単に『発言の自由』『表現の自由』によって論破されてしまう。よく言えば、手の届かない人との心の距離が近く、悪く言えば、踏み越えてはいけない境界線を軽々と突破できてしまう、でしょうか。それがいいことか悪いことかは、あえてこの場では言及しません。ネットが普及していなかった時代も、ファンレターの中にカミソリが入っていたなんて事件があるくらいですから、人間の本質というものが変わっていないだけかもしれません。見た目は画面上だとしても、相対しているのは現実の世界と同じひとりの人間です。お互いに歩み寄ることが大事で、言葉の応酬を延々としていても解決はしないもの。
 どちらかが正しく、どちらかが間違っているのではなく、どちらも正しくどちらも間違っているのです。ある面から見れば最もなことを言っているようでも、別の角度から見ればそれは違うと反論したくなる。同じ意見でも、受け取る人によって意味が変わるのが人間の面白くも厄介なところです。このラジオを聴いて下さっている方は大体想像がつくと思いますが、私は自分の中に独特の倫理観を持っています。おそらく世間一般とは違うでしょう。でも私にとってはこれが普通で、これが当たり前なので、同じ状況に対して大多数の方がどう思い、どう感じるかは、想像することしかできません。たとえば、私は「死ぬ」とか「殺す」とか、そう言った単語に対して強い拒否反応があります。たとえゲーム中でも乱発されると、聞いていられなくなります。ですから私自身使わないようにしているのですが、皆さんにもこういった拒否反応が起きるものがあると思います。それをもしも推しが言っていたら、と考えるとなんだかモヤッとしますよね。私だけの価値観だと理解していても、「そういう人なんだ」と失望してしまうことも少なくありません。だから、公式の情報だけを取り入れるようにしていますが、それでもやっぱりSNSを見れば不特定多数の意見が溢れかえっている。全てを咀嚼できるはずもないのですが、私は咀嚼しようと頑張ってしまうたちなので、心と体が疲れ切ってしまうんですね。自分が影響されやすい性格だということも関係しているかもしれません。
 一度、心が離れてしまうとなかなか元には戻らないものです。私はそれが「恐ろしいな」と感じるのです。私自身がというよりも、どこか別のところにいる、客観的な視点の自分とでも言えばいいでしょうか。私がショックを受けたSNSの投稿は、これから何十何百と積み重ねられていく投稿のたった一つに過ぎません。そう、私が目にしたのはほんの一瞬なのです。でも、私が再び同じアカウントの投稿を自ら進んで見ることはないでしょう。つまり、一瞬の出来事が一生のイメージになってしまったということです。
 この現象は、対面のリアルな生活でも、誰もが遭遇していることでしょう。たとえば、自分がお客さんで行ったお店の店員さん。なんだか大きな失敗をしてしまったみたいだから、今度来る時はあの人がいないレジにしようとか。でも、実際は体調や調子が悪く、その日はたまたま何事もうまくいかなかっただけかもしれませんよね。仕事をしている方なら思い当たることでしょう。うまくいかない日って、本当に何もうまくいかないものです。仕事もプライベートも、何もかも。でも、そのたった一度の失敗しか見られていなかったら、イコールあの人は仕事ができないと認定されてしまうのです。いつもはもっとうまくできること、社内では仕事ができると思われていること、そういう事実があっても外の人にはいかんせん伝わりませんから。私がSNSを苦手だと認識するに至った経緯も、それが始まりだったかもしれません。特に言葉というのはどれだけ数を尽くしても、どれだけ気を遣っても、受け取る側のニュアンスにどうしても左右されてしまいます。万人受けするのはいつも言っているように困難の極みです。いかにその世界、この場合は界隈といったほうが現代的でしょうか。その界隈にとって常識となる価値観に、いかに背かない対応ができるか、が重要なのでしょう。公式しかり、芸能人の方しかり。今まで私たちが大事にしてきたイメージを本人に崩されたら、やっぱりショックは大きいですから。でも、そのイメージだって元々は私たちの勝手な創造でしかありません。思うほうの想像ではなく、作るほうの創造です。本人の気持ちを想像した結果ではなく、私が私の価値観で作り上げたいわば偶像のようなもの。存在しないも同然なのかもしれません。何を言いたいかって? SNSに限らず、そして言葉の問題だけに限らず、人と人との関わりって難しいですねというお話です。
 そろそろお別れの時間ですね。『炎上』という言葉を聞くだけ、文字を見るだけで、胸が締め付けられるくらい苦しくなるのは私だけでしょうか。その事態に遭遇してしまった皆さんの心境、そして当事者の一瞬を一生にしてしまった方、その双方ともがきっと同じ気持ちだと想像しているからでしょう。これは、思うほうの想像ですよ。ネットがなければ『炎上』という言葉は生まれなかったかもしれません。でも今や、ネットがなければ不便極まりなく、おそらくネットがなくてもまた別の形で『炎上』という現象自体は説明されていくのでしょう。『いじめ』がなくならないとはよく言いますが、きっと原理は同じなのでしょうね。だからといって、なくならないから仕方がないというものでもないのですが。ただ、私たちひとりひとりがいつでもできることといえば、いかに地雷を踏まない自衛をするかに尽きるのでしょうか。または、いかに多くの人にとって地雷とならない行動や言動をできるか、でしょうか。こんなことをつらつらと考えてしまう私は、やはりSNSには向いていないのでしょう。皆さんの向き合い方とは多少違うかもしれません。でも、周りの人が心地よく私と接してくれるように、私自身が疲れきって動けなくなってしまわないように。そして何より、このラジオを聴いてくださっている皆さんに感謝の気持ちを込めて。あなたはあなたの向き合い方をぜひ見つけてください。また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。



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