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神の手

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 さて、今日は〇月〇日。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。私は先日、書店に行ったのですが、そこで思わぬ出会いがありました。その書店は、自動ドアをひとつくぐると風除室、その先もうひとつ自動ドアをくぐると店内というつくりなんですね。自動ドアといっても半手動といいますか、目の前に立っただけで開くのではなく、あの、手をかざすタイプの扉です。以前にも体験した現象なのですが、ひとつめの自動ドアをくぐったはいいものの、その先の店内に続く自動ドアが反応しないという、なんとも私と相性の悪い扉でして。仕方なく一度戻ろうとしたのですが、今度はそちらの扉も開かなくなってしまったんです。つまり、私は風除室に閉じ込められたわけですね。店内からはさぞお間抜けに映っていたことでしょう。しかし、幸か不幸か誰も見ていないんです。恥ずかしいから誰にも見られたくない、でも、このまま誰も来なかったら永遠に閉じ込められたまま、そんな葛藤と闘いながら手をかざし続けること数分。なんとか自力で開けることに成功しました。さぁて、本を買ってうきうきと帰ろうとしたところ、当然ながら再びその問題にぶち当たります。そう。もしもまた、扉が開かなかったら? 店内に閉じ込められるならむしろ幸せですが、風除室に閉じ込められた暁には、買った本でも読みながら誰かがやってくるのを待つしかありません。覚悟を決めつつ、扉までの通路を歩いていたら、なんとタイミングよく向こうから入ってきそうなお兄さんがいるじゃありませんか。一緒に出れば私が操作をしなくても出られる、あぁもう少し私が扉に近づいた時に開けて欲しかった、なんて早足で向かっていくと、なんだかお兄さんの様子がおかしいことに気がつきました。手をかざす仕草を何度もしているのに一向に開かない。あれ、もしかしてこの人も? 私はとうに扉の前です。どうしよう、これ、私が店内側の扉に手をかざしても開かなかったら、天の川のこちらと向こうに離されたまるで織姫と彦星のようではありませんか。大げさ? いえいえ、そんなことはありません。そこから始まる出会いがあってもいいでしょう? 書店で同じ本を取ろうとして手が触れ合うのも憧れますが、そうは問屋がおろさない、現実とはそういうものです。どうせあり得ないのなら、より確率の低そうな出会いのほうが燃えるじゃありませんか。ごほん。ともかく、そのお兄さんも自動ドアを開けられないとなると、困ったことになります。お兄さんは入れないし、私は出られない。さて、どうしたものかと立ち止まったところで、そのお兄さんのお連れ様と思われるおばちゃんが現れて、すっと手をかざしたら、なんと、なんなく開いたのです。感動するお兄さんの様子が手に取るようにわかりました。だって私も同じ心境ですから。そのおばちゃんは店内側のドアも颯爽と開けてくれて、私もそれにあやかって外に出ることができました。ありがとう、おばちゃん。そして、おばちゃんを一緒に連れてきてくれたお兄さん、ありがとう。まさに私には『神の手』でした。
 とはいえ、他人が通るタイミングで自動ドアをくぐろうなんてなんだかちょっと、悪いことをしている気分になるのは気のせいでしょうか。ほら、よくあるじゃないですか。そうそう、オートロックのマンションなどで、他人に気づかれずに中に入る方法として、住人の出入りに便乗するってやつです。そうやって中に入ってやることが特段悪いこととも限りませんが、オートロックという崩されてはならない強固なセキュリティをなきものにするという意味では、やはり悪いことなのでしょう。だってそんな時は必ず、実行する側は自ら存在を消しているのですから。やましいことがなければ存在を消す必要なんてありません。いえ、住人や他人にも怪しまれないように堂々としていなければならないわけですから、むしろ存在を強調しているようでもありますが、それが存在を消すことと同義になるんですよね、不思議なことに。制服を着ていると透明人間になれるという心理と似通ったものがあります。
 そう考えると、自動ドアにすら存在を認識されない私ってなんなのでしょう。人間は見る側の心理や見られる側の行動によって、いくらでも認識に差が出ますよね。子どもの頃、よく「怪しい人がいたら先生に言いなさい』と教わりました。今はみんな防犯ベルを持っているのでしょうか。ともかく、その『怪しい人』という定義は人それぞれ違いますよね。先生の言う『怪しい人』が、子どもの見る『怪しい人』と同じかどうかはわかりません。それに、『怪しい人』が『怪しい行動』または『怪しい姿』をしているとも限りませんよね。普通のサラリーマンこそ、ともすれば父親のようにも見えるわけですから、実際に怪しくても、スーツを着て清潔感を保ってさえいれば、たちまち街に溶け込んでしまいます。ほら、また透明人間の出来上がりです。逆に、たとえば大金を持ってこれから銀行に行こうとしている人がいたらどうでしょう。鞄を大事そうに両手で抱え、これ見よがしに防犯ベルをぶら下げる。大人が防犯ベルを身につけるということは、それなりに理由があるはずです。「襲うな」とアピールすることが、より目立った行動になり、普通にしていればただの重そうな荷物を持つ人で済むところ、標的にされる可能性だってあります。
 人の認識というのは曖昧で不確実で、危ういものです。皆さんも街でイケメンや美人を見て、後でその顔や姿を思い出そうとして描いた人物像が、実は全く別人だったかもなんてこともあるでしょう。会社の上司がどんな眼鏡をかけていたとか、ちょっと髪を切っていたとか、そういうことに敏感な人もいれば、全く意に介さない人もいます。私はどちらかというと後者ですが、その理由も様々でしょう。単にその人に興味がないからとか、些細なことに囚われない人間性の持ち主とかね。私たちは他人を常に見ているようで、実のところ、本質にはあまり触れていないのかもしれませんね。え? 言い訳? まぁものは言いようとも言います。
 以前、会社員時代のことですが、直属の上司が他人の変化に敏感な人でした。その頃の私はおしゃれに目覚めた時期で、メイクも見違えるように上達していたんですね。そうしたら、その上司が「いいね~目がギラギラしてる」って言ったんです。いや、まぁわかりますよ? 純粋で優しい上司ですから、悪気がなかったことは。ただね、言い方というか語彙というか、独特な人なんですね。おそらく「目がキラキラしてる」と言いたかったんでしょう。少なくとも、私のメイクを褒めてくれたのだということは伝わります。絶妙に失礼なのが売りの上司語録として、今でもたまに思い出します。その度に大笑いさせてくれるので、案外、私自身気に入っているのかもしれません。
 さて、そろそろお別れの時間です。自動ドアに存在を認識されなかった私ですが、ショックを受けていても、悲しんでいても仕方ありません。またひとつ笑い話ができたと思って、今日も前向きに生きるばかりです。皆さんもいつかどこかで私のような人に遭遇したら、ぜひその神の手で救ってあげてくださいね。私の神の手、あのおばちゃんのモーセの如く自動ドアを割る様子が今も鮮明に頭の中で再生されます。彼女の顔はよく覚えていませんし、彼女の連れのお兄さんの顔はもっとよく覚えていませんが、私の日常の一コマに彼女たちが存在していたことだけは確かです。そうやって私たち人間は、無数の人々の人生にちょっとだけ干渉しながら、日々を過ごしているのでしょう。私も何気ない誰かの日常に、そんなふうに溶け込んでいたら嬉しいものです。また来週お会いしましょう。深見小夜子でした。



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