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悪役令嬢の前世の記憶が戻ったのは全てが終わった後でした。

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「私、アレッシオ・ロアハルト=アイゼンシュミットは、ソフィーア・リュクレース=セレストとの婚約を解消する! 理由は理解しているな?」

 臙脂色のドレスを膝の上でぎゅっと掴み、さっきまで婚約者だったアレッシオ・ロアハルト=アイゼンシュミット王太子殿下の紺色の瞳を堪えていた涙が溢れないように真っ直ぐ見上げ、浅い溜息とともに最後の抵抗を試みる。
「いいえ……」
 殿下が一瞬眉を顰め、私の後方で誰かがひゅっと息を呑む音が聞こえた。

 あぁ本当にもうダメなのね。意を決して舅になるはずだった国王陛下に奏上する。

「国王陛下、お願いがございます」
陛下の目には憐憫の色が見えた。
「申してみよ」
「はい、恐れながら、私は六歳の頃から、王太子殿下の后となるべく努力して参りましたが、このような結果となり私の不徳の致すところにございます。リュクレース=セレスト公爵家は関係ございません。どうか一族の安全の保障をお願い致したく」
「よい。ソフィーア・リュクレース=セレスト今までよく励んだ。一族の安全は保障しよう」
「……ありがたき幸せでございます。ソフィーア・リュクレース=セレスト王命に従い婚約破棄に同意いたします」

 フィランダー教のパヴロヴィチュ枢機卿が私の前に羊皮紙を差し出す。
「では、こちらの婚約破棄宣誓書にサインをお願い致します。王太子殿下の署名は済んでおりますので、そのままで結構です」
 急いでサインを済ませると羽ペンを置く。

「そして、王太子殿下、聖女ヒナタ・サトー=パヴロヴィチュ、こちらの結婚宣誓書にサインをお願い致します」

 サインした王太子殿下と黒目黒髪の小柄な聖女が視線を交わし微笑む。その横でパヴロヴィチュ枢機卿がほくそ笑むのを見て隣に座っていた父、リュクレース=セレスト公爵が忌々しげに口を開いた。
「では、持参金として王家に献上した、一億セタと宝石をこの場で返還していただきたい」
 パヴロヴィチュ枢機卿が軽く答える。
「慣例ならば、反乱の資金にでもされそうなのでお返しはしないのですが、いいですよ、王太子殿下と聖女のご成婚で教会に寄付がどんどん集まっていますから。さぁこちらに」
 パヴロヴィチュ枢機卿が従僕に指示を出すと、テーブルの上に、革袋が二つ置かれた。
「生憎、細かいお金の持ち合わせがありませんでしたので、白金貨に色を付けてお返ししますよ。お確かめ下さい」
「くっ」
「お父様、もう、いいでしょ? 私の小さい初恋が実らなかっただけ。国王陛下は婚約破棄した私達一族の安全を保障してくださいました」
(公爵家は政治戦争に負けたけど、これから難癖を付けられて誅殺されるよりはましでしょう?)
「だが……」
「流石、リュクレース=セレスト公爵令嬢は長い間王妃教育を受けられたご令嬢。とても賢明でいらっしゃる。すぐに良い嫁ぎ先も見つかるでしょう」
 パヴロヴィチュ枢機卿のひどい当て擦りに、我慢の限界が近づく。こんな茶番はもうたくさん。
「お父様、私、気分が……」
「ソフィー大丈夫か? 陛下、娘の体調が悪いようですので、先に退出することをお許しください」
「許可しよう」
「ありがとうございます」

 それからの事はあまりよく覚えていない。

 私はそのまま流されるように生きていた。心はあの時からずっと止まったまま。




 なぜ?




 どうして?




 私ではダメなの?




 あの人に選ばれない私は意味がないのに。




 暗闇の中で泣きながら手を伸ばしてもあの人に届くはずもなく。







*****







 突然、伸ばした手が掴まれた。






「どうした? フィー? 大丈夫か?」
 目を開けると、さっき聖女と結婚したアレッシオ王太子殿下が同じベッドの上で片肘をついて私の顔を覗きこんでいた。


「フィー? 大丈夫か? うなされていたようだが?」
「アレ様?」
「アレ様? お前が愛称で私を呼ぶなんて珍しいな?」嬉しかったのかアレッシオ王太子殿下の顔がほころんだ。
「えっ、ヒロインは?」
「ヒロイン? 誰だそれは?」
「えっ、あっ、のっ、聖女様です!」
「護衛の聖騎士達とボシュトゥルカ領に行ったはずだが? 一緒に式典と壮行パーティーに参加したよな?」
「はい……」
 そう、私達は国王夫妻として式典に参加した記憶がある。
 あれ、ここって……乙女ゲーの「イシュタルの宵闇」の世界? でも国王夫妻って事は、ヒロインがアレッシオ王太子殿下のルートに入らなかったって事?

 ……しかも今って大分後じゃないの? うわっすごーく損した気分!

「で、大丈夫なのか? フィー?」
「あっ大丈夫です、ご心配をおかけしました、アレッシオ様」
 横に向き直って微笑み返すとアレッシオ王太子殿下の紺色の瞳がカーテンの隙間から差し込む光に反射して、キラリと光った。
「アレでいい……」
 そう小さくつぶやくと、私の体に腕を回して引き寄せ仰向けにしてのしかかるアレ様。
「あの、アレ様? もう朝ですよ? ちょっと”はしたない時間”ではないでしょうか? もう少しで侍女が起こしに来るのでは?」
 あちこちにキスを落としながら私の寝間着を脱がせにかかるアレ様に襟元を押さえて抵抗する。
 アレ様は時計をちらりと見て微笑む。
「そうだな。ちょっと”はしたない時間”かもな」
「すごく”はしたない”と思います」
「でも、妻と過ごすのに”はしたない時間”なんてないから」
 悪戯っぽい笑みを浮かべた夫はとても美しくて、流石攻略対象者だなと思いました。



 どっとはらい。
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