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001・・・霖雨

霖雨

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眠っている間に巨大な隕石が地球にぶつかってしまえばいいのに……と呟きながら、暗闇の中で垂れ流れてゆく世界の青い光を消して枕の上へ置く。
少し湿気をおびた掛布団が明日の予言をするかのようにカラダを覆う。


いつものようにダラダラと床の上に寝転がっている夜、電話が鳴った。
「お父さんが倒れて、今、お母さん病院にいるの。もしかすると今晩そのままもあるかもしれない。準備しておいて」
「……分かった」
「イッチャンが病院へ来てくれるって言うから、何かあったらまた連絡するわ」
「はい」

カーテンの隙間から白い線が薄ぼんやりと伸びてきた頃、「お父さん、持ち直したの。今日、病院へ来れる?」と母から連絡が来た。


小さな雨粒がぽつりぽつりとアスファルトを染めてゆく。
左手に持った傘を開かないですむようにと歩調を速めた。
改札を抜けて電車に乗った頃には窓を打ちつけるほど雨は強くなってきて、外の景色を隠していった。

電車を降りてからバス停までの道のりがえらく遠くに感じられた。
雨粒に包まれたオレンジ色のバスの中は平日の昼間だからなのか、天気のせいなのか、それほど混んではいない。
初めて乗った路線なので、病院前のバス停で降りそびれてしまわないようにと窓の曇りをギザギザの線を書きながら拭った。
ギザギザの線から露が垂れてゆく。
曇りのとれた無骨な小さな空間の向こう側へ行き先を映しながら、膝の上へ指先に残った水滴を擦りつけた。


病院の待合室に入ると、白い4人掛けのテーブルの席へ母と姉が向かい合って座っていた。
席に着くと興奮気味の母の大きな声が止まらない。
まるで待合室にいるみんなへ向けて話しているようだ。
少し落ち着いてきた母を見計らうようにして、待合室の入口付近にある自動販売機でお茶を買ってこようと席を立った。
そこへ少し遅めにやって来た妹がワンピースの裾をふわりと広げながら母の隣へ当然のように座った。
私はみんなにお茶を配って音を立てないように席に着いた。
ゴクリゴクリと喉をお茶で潤した母は父の状況を涙ながらに数回目を語り始める。
「お父さん。夕方から変だったのよ。言葉も出ないし、足もフラついていて。それでお母さんピーンときて急いで救急車呼んだの。お母さん、すぐ何かおかしいって気がついたわ。お母さんだから分かったのよ」
母の肩を抱き寄せながら鼻を啜る音を出す妹。
そんな二人を見ながら「助かって良かったね。本当に良かったね。良かったね」と涙声で母の手を握り締める姉。
まるで仲良し家族のホームドラマのような景色が流れてゆく。
湿気を含んだ消毒と薬の匂いがした。

脳梗塞で倒れた父にはリハビリをしても後遺症が残るらしい。
退院しても一人で日常生活を送ることが難しくなった父。
おそらくベッドの上で横になる時間が多くなり、もしかするとトイレへ行くのさえままならなくなるかもしれない。
みんなのように「良かったね」と心の底から思えない私に気がついてしまった。


細かな雨の音に誘われるように『私がいない世界』への憧れが降ってくる。
ただ何となく生きていることが面倒臭くなるのだ。
満たされていないけれど不幸を叫ぶほど不幸ではないから「死」は願ってはいけない気がする。
「死」を選ぶほどの勇気も強さも覚悟も無いし、散らかったままの部屋や捨てられないままの日記ややりかけの仕事や脂肪を蓄えた身体やボサボサの髪を思うと無理。
それならば「消滅」?
私の存在が消えてしまえば、それに合わせて消えてしまう存在もあるのだろうか?
駄目だ駄目だ。
それでも重くなった瞼を閉じると夜へ落ちる雨音がジワジワと強くなってくるから願わずにはいられなくなる。
この世界そのものが無くなってしまえばいいのに……

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