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002・・・幽雨

幽雨 その7

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後ろに残る足跡は今もそのままなのだろうか?
何度も何度も踏み直しているうちに、もう元の足跡から変わってしまっているのではないだろうか?


母の言葉が、あの日の記憶をこじ開ける。
無理やり剥がしたカサブタの下から血がにじんでくるように、あの日の情景がじわりじわりと蘇る。

あの日、紫陽花が描かれていて茶褐色のシミが付いてしまっている色あせた襖をかじかんだ冷たい手でそっと開けるとモワっと生暖かく煙る空気が流れ出てきた。
お餅の焦げたような匂い。
隙間から覗くとほの暗い部屋の中で動かずに横になっている二人の姿が見えた。
眠っているのだと思った。
「お母さんが、そろそろ帰って来るよ~」と隙間から潜めた声で二人を起こそうとした。
まだ二人は眠ったままだ。
指で隙間を少し広げた。
何とか顔を差し入れた小さな空間から「お母さんが、帰ってきちゃうよ~」とさっきよりも大きな声で呼びかけた。
まだ起きてくれない。
祖父母のことでまた不機嫌になる母の表情が頭に浮かぶ。
「もう早く起きてよ」と地団駄を踏みながら、「起きて」「起きて」と声をかけ続ける。
それでも動かない二人。
母が帰ってくる前に部屋を出てしまえば二人の部屋へ入ったことにはならないだろうと思いながら、焦りに駆り立てながら襖をバンッと大きく開けて、ドシドシ足音を鳴らしながら部屋の中へ入ってゆく。

二人に近付くと、祖父の口からポワッと何かが出てきた。
小さくて白いおぼろげな光は、儚い光の花びらを何枚も重ねた蕾みたいだ。
天に向けて蕾が膨らむようにプックリとしてきて、開花するようにフワッと広がった。
花びらが反りかえるように垂れてくると、天に蝶たちが吸い寄せられるように光が飛んでゆく。
まるで夢の中の幻のようにうっとりしてしまうその光景は心の底の悲しみを連れてきて、ただただ泣きたくなって苦しかった。

しばらくすると祖母の口からも、同じような光がユラユラと浮かんで出てきた。
心を破られるような何だか分からない悲しみから逃れたかったからなのか、勝手に動き始めたカラダがその光を蛍を捕まえるように両手でそっと包み込んで出てきたところへ戻した。

玄関を開ける音がする。
母に見つかる前に部屋を出なくっちゃ。
足が動かない。
私の胸を強く押す母の腕。


慌てていた母は、きっと私があの日あの場所にいたことを忘れているのだろう。
私も祖父のお葬式の終わった夜に鼓膜を震わせた言葉をただの聞き違いだと忘れていたのだから。
……忘れた振り?

「あの日、もう少し遅く帰っていれば……」

憎しみの鎖で繋がれた言葉が母の胸の内を捕らえて離さない。
そしてあの場に居た私も毒の巻き添えの可能性があったことを母が知っているのかどうかの怯えが私を離さない。
憎しみの鎖を断ち切らなかった罪の後悔が後を追ってくる。

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