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変動的不等辺三角形はじまる メグミ編

その3

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 ──翌二十六日、僕こと起圭一郎はいつもどおり出勤して約束通り午前は玉野くんと、午後からは冨田さんと営業まわりをする。どちらも拍子抜けするくらい商談は進み、僕が来る必要などなかったと思ってしまう。

「なんで僕が必要だったんです」

「向こうの担当が代わりましてね、まあ顔繋ぎも兼ねて上司の紹介をしとこうかと」

「歳下の上司なんて紹介すると困りませんか」

「その時は[新人の頃、私が育てたんで早く出世したんですよ]て言ってやりますよ」

 午後三時過ぎだったので大手喫茶店のマイデンでコーヒーブレイクを冨田さんとしている。
 実際、僕の新人教育担当であり、当時不貞腐れていた僕に社会人としての心得を教えてくれた恩人でもある。

「しかしこの時期に担当替えなんてねぇ」

「育児休暇でしたっけ。しょうがないですよ、季節とか時期でとれるものじゃないですから」

「私の頃は無かったから、一瞬、そんなことで、なんて思ってしまいましたよ」

「思っても言っちゃダメですよ、ご時世的に叩かれちゃいますから」

「ですね。なんせ女房には今でも言われてますから。あたしが苦しい時にあなたは……って」

 苦笑いする冨田さんを見ながらかんがえる。子供か……、いや、その前に結婚だな。

「冨田さん、結婚てどうです」

「なんです急に。そりゃあした方がいいですよ。私の場合まわりの雑音にとらわれて婚期遅くにしましたけど、班長くらいの歳にすればよかったななんて偶に思いますから」

「雑音て」

「旦那は女房の、女房は旦那の愚痴をしょっちゅう言うでしょ。まだ若かった私はそれを真に受けてしまいましてね、結婚はしない方がいいなんて思ってたんですよ」

「どうして気が変わったんです」

「勝手なものでね、愚痴を言いながらもまわりの既婚者は結婚を勧める、私はしたくない、意地になっていたところ今の女房と逢ってその……」

「……恋に落ちたと」

照れくさそうに頭を掻く冨田さんが、とても可愛く見えた。

「してみたらね、こんなにいいものかと後悔しましたよ。そりゃあ四六時中一緒に居ますし、結局は他人だから揉めることも喧嘩することもありますよ、でも別れたくない、だから愚痴を他所で言う、そういうことなんだと、その立場になって解りましたよ」

「そういえば冨田さんから家庭の愚痴は聞きませんね」

「ウチの班は独身ばかりですからね。私と同じ失敗させたくないから言いません。既婚者同士の時は言ってますけどね」

にやりと笑う冨田さんになるほどと思い、僕はいい先輩を持ったなと感じた。

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