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序章:神様の手

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 小さい頃に一度だけ、不思議な体験をしたことがある。

 まだ小学校に上がる前の、たぶん夏休みだった。
 家の周りではあちこちでセミが鳴いていて、窓の外にはわたあめみたいな入道雲が見えたのを覚えている。
 田舎の町は太陽を遮るものがなくて、輝くような青空がどこまでも広がっていた。

 その日、私は六つ離れた兄と一緒に、近くの川で遊んでいた。
 住宅街を抜けて少しだけ山へ入ったところに、ちょうどいい岩場があるのだ。

 本当は、子ども二人だけで水遊びをすることは禁じられていたけれど、親の目を盗んで、私たちはこっそりとそこへ向かった。

「いいか、ましろ。川の中に入るのはダメだぞ。水につけていいのは、手のひらだけだ。それ以上は危ないから禁止。わかってるな?」

「うん! だいじょうぶだよ、おにいちゃん」

 川の危険性は、頭ではわかっているつもりだった。
 水の中に落ちたら流されてしまうし、溺れたら息ができなくて死んでしまう。

 けれど今思えば、『死ぬ』ということの重大さはあまり理解できていなかったように思う。

 だから私は、きっと油断していたのだ。

 兄がこちらから目を離した隙に、私は不用意に足を滑らせて川に落ちてしまった。
 バシャンッ! とすごい音がしたはずだけれど、それ以上にセミの声がうるさかったのか、兄はこちらに気づいていないようだった。

(おにいちゃん、たすけて!)

 すぐに助けを呼ぼうとしたけれど、川の流れは想像していた以上に速くて、私は下流へと流されながら、水面から顔を出すことも叶わなかった。
 息ができなくて苦しくて、次第に意識は朦朧もうろうとしてくる。
 幼心に、これはもうダメなんじゃないか——と、どこか他人事のように考えた。

 不思議なことが起こったのは、そのときだった。
 それまでただ水をかいていただけの私の手を、不意に誰かが掴んだのだ。

 驚いている暇もなく、私の体はその手によって川の外まで引っ張り上げられた。
 硬い地面の上へ乗り上げ、反射的に勢いよく吸い込もうとした空気にむせ返る。
 そのまましばらくは起き上がることもできず、ただ咳を繰り返しながら呼吸を整えることに努めた。

 助かった、と認識したのは、やっとのことで呼吸が落ち着いてきた頃だった。

 私はまだ、生きている。

 一体どんな人が助けてくれたのかと、私は顔を上げてみたけれど、

(……あれ?)

 そこにはすでに誰もいなかった。

 辺りには殺風景な川原の景色が広がるだけで、人の気配はどこにもない。
 どこかへ立ち去ってしまった、というよりは、まるで最初から誰もそこに存在していなかったかのようだった。

 狐につままれたような気分だった。
 まるで幽霊か何かにでも助けられたような。

 もしかすると通りすがりの親切な人が助けてくれたのかもしれないけれど、それにしたって、あんなに咳き込んでいた私のことを放って先に行ってしまうなんてことがあるだろうか。




 結局、無事に兄と再会した後も、真相は謎のままだった。
 目撃者は誰もおらず、そもそもあんな場所を人が歩いていることなんてほとんどない。

 夢でも見たんじゃないか、と誰もが私の記憶を疑う中で、たった一人、私の言葉を信じてくれたのは祖母だけだった。

「ましろちゃんを助けてくれたのはね、きっと神様だったのよ」

 まるでそれが当たり前だとでもいうように、祖母は穏やかな笑みを浮かべて言った。

「かみさま……って、どんなひと?」

「とっても優しい人よ」

 祖母は私を膝の上に乗せると、シワの刻まれた温かい手で、ふわりと私の頭を撫でてくれた。

「でも、かみさまって、ほんとうはどこにもいないんでしょ? ようちえんのみんなも、そういってたよ。だれもみたことがないんだって」

 神様というのが不確かな存在だということを、当時の私もなんとなく知っていた。

 実際、両親に連れられて神社へお参りしたときも、「ここに神様がいるんだよ」とは言われるものの、その姿を目にしたことは一度だってなかった。

「……目に見えるものだけが、真実じゃないこともあるのよ」

 そう言った祖母の声は、どことなく寂しげだった。

 「どういういみ?」と私は聞こうとしたけれど、見上げた先にある祖母の顔があまりにも儚げに見えて、私はつい言葉を失ってしまった。

「目に見えるものだけが、全てじゃないの。世の中には、誰にも信じてもらえないようなことが、真実だったりすることもあるの。だから、大事なのは、本当のことを知ろうとすること。……なんて、ましろちゃんにはまだ早かったかしらね」

 ふふっと誤魔化すように笑って、祖母はやんわりと話を切り上げた。




 あのとき祖母の言っていた神様というのが、本当に存在するのかどうかはわからない。
 ひょっとしたら私を納得させるためだけに考えた作り話だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
 どちらにせよ、祖母が亡くなった今となっては、もう誰にも確かめることはできない。

 あれからもう、何年もの月日が経った。

 今年で中学一年生になった私は、あのとき祖母とそんな話をしたことも、もうほとんど思い出さなくなっていた。


 今年もまた、夏休みが始まる。

 そして、待ちに待った花火大会の日。

 私は、思いもよらなかった形で、その『神様』と再会することになる。
 
 
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