君からなのに。

廃墟のアリス

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第一章 《菫》

第1話 桐谷すみれ

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「別れてほしい」

恋人である、青柳紫苑くんにそう告げられたのは高校最後の卒業式の後のことだった。あまりにも唐突な出来事に、私は耳を疑った。

「え?…ご、ごめん、もう一回言ってくれるかな。よく聞き取れなくて…」

聞き間違いだと思った。だってなんの予兆もなかった。今日だって、朝早くに私の家に来て「一緒に行こう」って、そう言われて一緒に学校まで来た。別に話していて違和感も感じなかったし、彼だって笑っていた。
聞き間違いなはず。いや、お願いだから聞き間違いであってくれ。

そう願った私の想いは、彼が放った言葉で儚くも砕け散った。

「すみれ、僕と別れてほしい」

「…っ」

先程よりもはっきりと、芯のある声で、そう言われる。私は思わず彼から目を逸らし俯いた。
今回ばかりは譲る気はない、という彼の瞳から見える揺るぎない意志に気づいた私は、もう自分を誤魔化すことはできないと感じた。

彼は私をフッた。そして私はフラレたのだ。

そう理解した途端目の前にモヤがかかったように暗くなり、胸がズキズキと痛む。これが俗に言う失恋の痛みというやつなのかな、と他人事のように感じた。これが初めての恋で、これが初めての失恋。
チラッと視線だけで彼を見ると、先程と変わらない真剣な表情で私を見ているが、何かを待っているような気がした。それが何なのか理解した私は、別れ話をしているというのに、彼の以前とと変わらない対応に場違いながらも少し嬉しくなってしまった。
どうやら彼は私が何か言うのを待っていてくれているらしい。

引っ込み思案な私は、中々自分の思いを言葉にできない。でも、そんな私を紫苑くんは

『大丈夫だよ。すみれが話せるまでいくらでも待つから。だから大丈夫。すみれの速度でゆっくり進んでいけばいいんだよ』

そう言って受け入れてくれた。それが私にとってどれだけ嬉しかったか、どれだけ私を救ってくれたか、きっと彼は知らないだろう。そんな彼だから、私はその優しさに甘すぎていたのかもしれない。だから彼は私が嫌になってしまったのか、とそんな思考が頭をよぎる。
でも、今回ばかりはその優しさにありがたく甘えさせて頂こう、そう思い、私は彼に訊きたいことを声に出す。

「なん、で、別れる、のか、聞いてもいい、かな、?」

声が震えた。自分で訊いておきながら答えを聞くのが怖かった。大好きな彼に、私を否定されるのが怖かった。でも、かと言って別れたいと言われて、はいそうですか、とはならない。そんな一言で納得なんて出来ない。したくない。大好きな人とのことなら尚更。だから、ちゃんと、聞かなきゃいけない。怖くても、震えても、聞かなきゃ。ここで何も訊かずに逃げたら、きっと私は後悔する。私が私を許せなくなる。
覚悟を決めて、何を言われても平静を保てるように私の悪い部分を思考する。改めて考えたら止まらないほど沢山あった。泣きたくなった。

すると私の言葉を聞いた紫苑くんが口を開く。

「なんで、か。…えっと、なんか、ね、疲れちゃったんだ、すみれと過ごすことが」

「……え」

「これから、お互い別々の大学で過ごすことになる。だから、今までみたいに常にすみれを気遣っていることが難しくなる。そしたら僕は、すみれに時間を使ってしまって自分の事まで気が回らなくなる」

「そ、それなら、私のことなんて気にしなくても__」

「僕が…、僕が嫌、なんだよ。“付き合っている人”を気にしてあげられないことが、僕は嫌なんだ」

「…っ!ご、ごめん…」

体中の温度がスゥーっと下がっていく気がした。『疲れちゃった』。ひどく曖昧な言葉。具体的に何が疲れさせたのかを言わないのは彼の優しさだろう。でも、私の心を抉るには十分すぎる言葉だった。疲れさせるほど、私は彼に迷惑をかけていたのか。別れたいと思うほど、私は彼に負担を掛けていたのか。どちらにしろ、私は彼にとって重荷でしかなかった。その事実がただひたすら悲しかった。

「だから、大学に行ったら同じ大学内で気が合う人がいたら、付き合おうと、思う…」

「…そっ、か……」

「…うん」

「…わかった」

思わず瞳に涙が溜まる。泣いちゃだめ泣いちゃだめ。泣いちゃだめよ桐谷すみれ。ここで泣いたら優しい彼は気にしてしまう。私がここで泣いたら、最後の最後まで彼に気遣わせてしまう。それは嫌だった。だからこれは私のけじめ。彼のことが大好きな桐谷すみれとしてのけじめ。たとえ嫌われていたとしても、それでも私は、誰でもない青柳紫苑くんのことが大好きだから、だか、ら、最後こそはせめて笑顔でお別れするの。

「わかった、わかったよ紫苑くん。今まで迷惑かけちゃってごめんね、それと今までありがとう!」

やばい、泣きそう、でも我慢するの、笑顔でお別れするんでしょ…!!
頑張って笑う。でも、どうやら私の笑顔は引き攣ってるらしく、紫苑くんは少し悲哀を感じさせるような表情をしていた。彼は嫌いな相手にもそんな顔をしてくれるらしい。

「こちらこそ、今までありがとうすみれ。すみれも新しい恋人作って幸せになってね」

「…っ、うん、ありがとう…!じゃあね紫苑くん、ばいばい」

最後の力を振り絞って全力笑う。ばいばい、と言い終えたところで私はくるっと後ろを向いてそのまま走る去る。走って、走って、走って、紫苑くんから絶対見えないような、場所まで走る。気づくともう、自宅の前だった。両親には「紫苑くんの話してるから2人はどこかに出掛けてていいよ」と言ってあったので、家の中に入ると、当然ながら両親はいなかった。でも今の私にとっては丁度良かった。だってもう、限界だったから。

「うっ…なん、で、なんでぇぇ…ひくっ…わた、し、しおん、くんのっ、やくに、立ちたかった…っのにっ…!ひくっ……なんで、なんでぇ…だめだめ、じゃん、わたし…っ」

その日は両親が帰ってくるまでずっと泣いていた。次の日瞼がパンパンに腫れて、両親にひどく心配されてしまったけど、大丈夫だと言って笑顔を作る。それに対して両親は何か言いたそうにしていたけど、私が言いたくないのだと察してくれて「言いたくなったら言いなさい。私達はいつもすみれの味方だから」と抱きしめてくれた。それでまた私は泣いてしまったのだが。

それから大学に入ってから1年間はあっという間だった。
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