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1巻

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「てゆうかさぁ。もしかして、旦那様にバレないようにするのって結構大変なんじゃない?」

 偽者妻で夫をだまくらかすなんて、結構どころではなく大変に決まっている。

「ええ。その通りですよ。旦那様は明日お帰りの予定でしたから、今日中にすべてを詰め込めばよいと思っていましたが……今すぐにはじめなくてはいけませんね。軽食を用意させますから、食べながら話を聞いてください。奥様に成り代わるため、色々と覚えていただかなくてはなりません」

 勢いだけで替え玉になってしまったリーには、本物のレティーシア奥様について知る機会がほとんど与えられなかった。

「しばらくは私がいつもおそばにいるようにしますから生活面はなんとかなるとは思いますが、あれやこれやを少しずつ覚えていただかなくては」

 たとえばコレ、とトマは壁からぶら下がっていた太い綱を引っ張った。
 ほどなくして女中が現れ、「お呼びでしょうか、奥様」と言う。

「今朝は朝食をここでとられるそうだから、軽食をお持ちして」

 トマが答え、女中はかしこまりましたと頭を下げてすっとその場を辞した。
 一連の流れをきょとんとした表情で見つめていたリーに、トマは「これを引っ張ると使用人部屋のベルが鳴るようになっており、すぐに誰かがここに参りますので」と丁寧な説明をする。

「知ってるよ?」
「え?」
「知ってるよ、それ。呼び鈴でしょう」

 リーはあっけらかんと言う。

「ご存じなのですか?」
「うん。引っ張ったことはないけど」

 トマは驚きを隠さず、いぶかしげにリーを見る。

「なぜご存じなのですか?」

 まさか、小汚い恰好で花を売っていた少女が呼び鈴を知っているとは思わなかったのだろう。

「だってお屋敷で働いてたときに、いつもそれで呼び出しをくらってたもん」
「どこかのお屋敷で働いておられたのですか?」
「うん。奥様のマネはね、そのお屋敷の大奥様を参考にしてるの」

 トマは、それで花売りにしては驚くほど違和感なく奥様を演じてみせたのかと得心した。
 リーは椅子いすに浅く腰かけ直すと、すっと背筋を伸ばしてあごをつんと上に向ける。そして尊大な様子で肩を揺らしながら言い放つ。

『そこのお前、この壁についた汚れが見えませぬか。お前の目はふしあなですか。すぐに磨きなさい。それが終わったら部屋にお茶を持って来て。お前のれるお茶はいつも熱すぎるから、ちゃんと適温にするのですよ。お前はのろまだから急ぎなさい。あまり待たせないで頂戴ね』

 トマは呆然とする。

「そっくりです……奥様と……」

 どうやら奥様は相当にたかしゃな人だったらしい。そういえば、あのぼろ家でもそんな感じだった。
 リーは、トマの言葉を聞くなり嬉しそうに微笑ほほえんだ。

「やっぱり? 奥様と話したときに、あの大奥様にそっくりだなって思ったんだよね。あたしさ、お屋敷で働いてる間、陰でしょっちゅう大奥様のマネしてたんだよ。だから、奥様のフリは結構うまくできると思うよ」

 なんて……なんて都合のいい人材が転がっていたのでしょうか、と感激しきりのトマである。
 トマが花をまき散らさんばかりに喜んでいるところに食事が運ばれてきた。リーは嬉々として、きれいに並べられたサンドイッチに手を伸ばす。

「これで軽食なんて信じられない! 私の夕食の二日分だよ!」

 さっそく手を伸ばしてもしゃもしゃとサンドイッチをほお張るリーに、トマは腕まくりをして鼻息荒く言った。

「基本的なことはご存じのようですから、すっ飛ばしてしまいましょう」

 呼び鈴と大奥様のモノマネだけでは基本的なことをご存じとは言えないはずだが、トマは非常に機嫌よく、そして自信満々な様子で腕組みをしている。
「トマさんも、お一つどう?」というのんきなリーの言葉にも、笑顔で答えた。

「いいえ、私は結構です」

 トマは次に、執事と主だった使用人の名前をリーの脳みそにたたき込むことに着手した。

「執事のアルフレッド様、侍女のミルドレッド、女中のマリアンヌ、マリエッタ、ミリセント、ミュリエル、マルグリッド、ミリアージュ、クリスティーナ……」

 もしゃもしゃ、ごっくん。
 リーの細いのどをサンドイッチのかたまりが通過していった。

「……みんな名前、似すぎじゃない?」

 たしかに嫌がらせかと思うほど、侍女と女中の頭文字にはMがずらりと並んでいる。

「復唱してください」

 トマはきっぱりと言う。

「えーと……マルドレッド……ミリエッタ……ミルグリッド……マルセント」
「……混ざっていますよ」

 非常に残念だが、一つも当たっていない。

「……クリアンヌ……」

 随分とおいしそうな名前である。
 頭文字がMではないクリスティーナまで混ざってしまうとなると、もはや救いようがない。
 そもそもこの花売り娘、自分が成り代わっている奥様の名前ですら一夜で忘れてしまうほどなのだ。

「ええと、あ、でも、アルフレッド? は、覚えた」

 とか言いつつ語尾が持ち上がっているあたり、トマの顔が険しくなるのも仕方ない。
 大体アルフレッドは唯一の男性名なのだから、それくらいは覚えられないとむしろ怖い。
 トマはがっくりと肩を落とした。瞳に浮かんでいた輝きは消え失せ、口からは絶望のため息が吐き出される。
 このままでは、クリスティーナばかりが仕事を言いつかる羽目になりそうだ。

「……お名前を覚えるのは苦手なのですか」
「うん。長いのは特にね。前に働いてたお屋敷の大奥様の名前も、若旦那様の名前も覚えてない」
「……そうですか」

 気の毒なトマの声は消え入りそうなほどかすかだ。

「それでは最低限、執事のアルフレッド様と旦那様と奥様の名前だけ……奥様のお名前は覚えておられますか?」
「ええっと、セレスティーアだっけ?」

 トマはがっくりとうなだれた。
 だが、トマの心に傷を負わせた当の本人はいたって平和な様子である。

「……レティーシア様です」
「あ、そっか。でもさ、自分の名前を呼ぶことはあんまりないんじゃないかな」

 自分で名前を呼ぶことはなくとも誰かから呼ばれたときに自分だと気づけなくては困る。レティーシアと言われて反応しないだけなら無視をしたと受け取られるだけで傷は浅い。が、セレスティーアと呼ばれて返事でもしようものなら、お前は誰だと言われる由々ゆゆしき事態になってしまう。
 しかしリーは、きっぱりと『嫌だわ、わたくしったら。ちょっと耳の調子が悪くって、自分の名前を呼ばれたのかと思ってしまいましたの』と言えば誤魔化ごまかせる、と言い切った。あまりにも自信満々なので、トマは色んな思いをいったん自分の胸に収めておくことにした。

「では……旦那様のお名前は?」
「……ご領主様?」

 それが名前であるはずがない。ゴリョーシュ・サマという名だとでも言うのか。

「ジュール・シルヴァスタイン様です」
「ちょっと長すぎない?」

 長すぎない? と言われたって、それが名なのだから仕方ない。

「旦那様って呼ぶんじゃダメなの?」
「普段はそれでいいのですが、夜会などの正式な場ではファーストネームでお呼びいただきませんと」
「ジョール、ね」

 惜しい。

「いいえ、ジュールです」

 ジュールというのは珍しい名ではなく、むしろ極めて一般的な名前の一つだ。その名前ですらすぐに忘れてしまうあたり、もう不安しかない。

「ジュ、ジュール」
「ええ。レティーシア・シルヴァスタイン様と、ジュール・シルヴァスタイン様です。奥様はシルヴァスタイン夫人と呼ばれることも多いですから、名字も覚えていただきませんと」

 そう告げたトマは一気に十歳くらい老け込んで見えた。

「ジュール……アルフレッド……セレ……レ……」
「レティーシア」
「レティーシア……シル……シルヴェスター」
「シルヴァスタイン」
「……シルヴァスタイン……ジュール……レ……レティーシア……」

 ぶつぶつと繰り返すリーと、ときおり訂正をはさむトマ。

「まぁ、奥様のお名前は旦那様がいつもお呼びになりますから、すぐに覚えてしまうと思いますが」
「そういえばそうだったね。何か変な飾りがついてたけど」

 リーが変な飾り呼ばわりしたのは、旦那様が奥様の名前の頭につけていた形容詞のことである。
 可愛いレティーシア、愛しいレティーシア、私のレティーシア……そのバリエーションがいったいどれくらいあるのかわからないが、いずれにしても相当な暑苦しさであることは間違いない。ついでに言うと、長い。レティーシアですら短くないのに、そこに形容詞までつけるものだから、長すぎだ。呼びかけ一つで「ああ、それにしても私の可愛いレティーシア!」となるのだから、普通なら一瞬で終わるはずの短い会話までやけに長ったらしくなってしまう。
「ただのリーですけどねって言いたくなっちゃったよ」とリーは続けた。そんなことを口にされては大変とトマはあたふたするが、リーは「もちろん言わないよ」とあっさりとその焦りを一蹴した。

「ねぇ、旦那様はいつも奥様をああ呼ぶの?」
「ええ、そうですよ」

 トマはそう言って嘆息する。
 ――そうですとも、奥様の前ではね。
 そんなかすかな声が響いた。
 その言葉からすると、旦那様はいつもいつもあの長ったらしい呼び方をしているというわけではないらしい。まぁ、外で「私の愛しいレティーシアがね」とか言い出した日には、領主の沽券こけんにかかわる。今のところ妙な評判がたつこともなく皆から慕われる領主であるところからすると、一応普通に振る舞っているのだろう。
 しかしトマの言葉がリーの耳に届くことはなく、リーは「何種類くらい呼び名があるのかなぁ」と能天気な声を上げている。
 トマはそんなリーをしばらく見つめたあと、覚悟を決めたように言った。

「やはり、きちんとお話ししておくべきなのでしょうね」

 気が重そうなトマは、ふーとさらにため息をつく。
 そのものものしさに、リーは椅子いすにしっかりと深く座り直して姿勢を正した。

「さっきも言いましたが、旦那様は奥様を愛しすぎています」

 ふんふん、とリーはうなずく。

「それはあの変な飾りのついた名前とか、強すぎるむぎゅう以外にも?」

 むぎゅうというのは言わずもがな、熱烈な抱擁ほうようのことである。

「そんなのは序の口なのです」

 そう言ってトマは、シルヴァスタイン夫人としての心得をつらつらとあげた。
 もっともこれは旦那様が作ったものでも、旦那様のお父上である先代の領主が作ったものでもない。ただただこのお屋敷で皆が平和に過ごすために当代のシルヴァスタイン家に自然にできあがった不文律だ。


 一つ、返事は『はい、その通りです、旦那様』。
 一つ、旦那様の許可なく屋敷を出てはならない。
 一つ、旦那様以外の男と話してはならない。
 一つ、月のものの間以外は、風呂とねやを旦那様と共にする。


 のっけからおかしなものを突きつけられたリーは、「ちょ、ちょっと待って」とトマを止めた。

「一番はじめのやつ、何?」
「いわば呪文です。旦那様を黙らせるための」
「……そういえばさっきトマさんの口パクに合わせて、言った気がする」
「そうですよ。効果テキメンだったでしょう?」

 リーがこの呪文を唱えた途端、旦那様は満足げにうなずいていた。

「えっと……屋敷を出ないっていうのは?」
「お屋敷を出ると旦那様が大騒ぎなさるので、許可なく出てはいけません」
「許しをもらえば出てもいいの?」
「基本的に許可は出ません」
「なんで?」
「外の世界には危険と誘惑があふれているから、だそうですよ」

 それはまた、窮屈きゅうくつな話である。

「男と話してはならないっていうのは?」
「これも、旦那様が大騒ぎをなさいますから。おひかえください」
「じゃあ、執事の……えーっと……アル……なんとかさんとも話せないの?」

 トマは「アルフレッド」と小さく訂正したものの、半ばあきらめ、首を振った。

「アルフレッド様とも、旦那様を介してお話しください」

 旦那様を介してってことは、執事と一言二言しゃべるためにわざわざ伝言ゲームみたいなことをしなきゃならんということか。

「えーっと、あと風呂と閨っていうのは?」
「月に二度の月のものの間以外は、お風呂にも一緒に入り、同じ寝室で過ごすことになります」

 げほんげほんとき込みながら、トマは言った。のどが痛かったわけではなく、気まずさを咳払せきばらいらしい。

「月に二度?」

 おかしいな、あたしの月のものは月に一度だよと言うリーに、トマはもちろん私もですよと頷く。

「じゃあ、なんで?」
「それくらい休ませてもらわないとたまらないというので、奥様が月に二度あると旦那様におっしゃったんです」
「嘘ついたってこと?」

 リーの眉が少しだけ中央に寄った。

「まぁ、簡単に言えばそうなりますね」
「お風呂、二人で入るの?」
「そうです」

 トマは表情を動かさないように苦心して、しばらく顔をひきつらせていた。

「あのお風呂に?」

 リーが指さしたのは、昨日足をごしごしとやられた、部屋についている風呂である。

「いいえ。あれは奥様のお部屋に附属している小さなお風呂ですから。主寝室にはもっと立派なお風呂がございますよ」
「へぇ」

 へぇ、と言ったきりリーは口をつぐみ、何やら考え込んだ。
 その様子を見ながらトマが気の毒そうに尋ねる。

「ほかにもありますが、お聞きになりますか?」
「ほかにも?」
「ええ、お仕事の都合のよいときは食事を一緒にとるだとか、ドレスの試着よりも旦那様を優先するだとかいう、細かいものが」
「まとめると、ずっとお屋敷にいて、旦那様の言う通りにしなくちゃいけない、と」
「そうですね」
「これを守らないと旦那様が怒るの?」
「怒る、という表現が正しいのかはわかりませんね。旦那様は大変悲しそうになさって……そうですね、しばらく離してくださらないのはたしかでしょうね」

 リーは複雑な表情で黙り込んだ。
 トマは心配そうにリーの顔をのぞき込む。

「……後悔なさっていますか?」

 ところがリーは、顔を上げて驚いたような声を上げた。

「え? 後悔? 何を?」
「この役目を引き受けたことを、です」
「え? なんで?」

 なんで? って、なんで? という表情をしたトマに、リーは平然と言う。

「ここから出ないで、旦那様の言うとおりにしてればいいんでしょ?」
「……驚かないのですか?」
「いやぁ、びっくりだよ!」

 リーは明るく言った。

「結婚って結構大変なんだね! だから皆、結婚式で泣くんだね! 私二回くらい教会で結婚式をのぞいたことあるんだ!」

 結婚式での涙は一般的に大半が嬉し涙である。
 世の中の奥様みんながこんな目にっているわけではないことを、いつかこの娘に教えてあげようとトマは固く誓う。

「でもそれは、今ではないわ」

 と彼女はひそかにひとりごちたのであった。


「しかしトマさんも人が悪いよねぇ」

 もこもこの泡に表面を覆われた湯に体を沈めながら、リーは言った。


 執事のアルフレッドに捕まったまま夕刻まで仕事に追われていた旦那様は、「可愛いレティーシアと夕食を一緒にとれなかったのだからお風呂くらい一緒に!」と主張した。しかし、トマが「奥様は今、月のものでございますので」とか「奥様は逃げていきませんからね」とか嘘八百を並べ、なだめすかして旦那様を追い出したのだ。
 本物の奥様はもう逃げちゃってるのにさぁ、とつぶやくリーの口をトマは慌ててふさぎ、「お風呂場は声が響きますから」と言い含める。

「ふぁーい」

 リーはトマの手の中でもごもごと返事をする。しかし、返事こそ素直だが反省している様子はまるでない。

「ああ、疲れたなぁ」

 リーはふーっと深い息をつきながら言った。
 あれからもトマの指導は続き、リーは食事のマナーに美しい歩き方、挨拶あいさつ、お辞儀の仕方などをみっちりと詰め込まれたのだ。さすがモノマネが得意とあって、トマがやってみせる手本のマネはさらりとこなした。だが、どのタイミングで何をするかを自分で判断するにはまだ至っていないようである。淑女が生まれたときから何年もかけて日々の生活の中で身につけることを一日でやってしまおうというのだから、無理なのは当然といえば当然だ。
 だからといって、この先ずっとトマと一緒にいるわけにもいかない。トマいわく「正直申し上げて、旦那様に付きまとわれている奥様に付きまとわれるというのは、相当に鬱陶うっとうしゅうございますからね」ということだ。ガモを先頭としたカルガモファミリーが結成されるのを防ぐために、リーはなんとしても、いつどのような行動を取るべきかを覚えなくてはならない。
 それに、トマの頭痛の種はもう一つある。

「文字を、覚えなくてはなりませんね……」

 奥様のサインを練習させようとリーにペンを持たせてみたら、「サインっていうか、あたし字書けないよ?」とにっこり言われ、読み書きが一切できないことを知らされたのである。トマの動揺は想像にかたくない。その表情は、さながら土砂降りの雨の中で濡れそぼるねずみのようだった。
 それでもトマは気をとり直し、リーにペンの正しい持ち方から教え、サインだけは気合でなんとか書けるように仕上げた。とはいえ、読み書きができないのは致命的な問題である。リーは自信満々に『嫌だわ、わたくしったら。ちょっと頭の調子が悪くって。文字を忘れてしまいましたの』で誤魔化ごまかせると言い切ったが、こればかりはそうもいかぬとトマに懇々こんこんと言い聞かされ、仕方なしに文字のお勉強をしたのであった。偽物の奥様に文字を教えるなんて、侍女頭という職業の範疇はんちゅうとはかけ離れた仕事内容である。

「こうやってのんびりしてると全部忘れちゃいそう」

 湯にかったまま、リーはトマを震撼しんかんさせることを平気で言う。だが、朝からのリーの頑張りを知っているトマは、あまり強くしかる気になれないらしい。明日もまた頑張らなければなりませんね、と優しくなだめて、リーが浸かっている湯の温度をたしかめた。
 そのときだ。

「トマさんも一緒にどう?」

 もこもこの泡の中からリーはのんきに言った。トマはいったい自分が何を提案されたのかわからず、エプロン姿のまま曖昧あいまいな表情になる。ここで「何を?」と聞き返さないあたり、きちんと訓練された侍女らしい。

「お風呂。一緒にどう?」

 サンドイッチお一つどう? と同じテンションで風呂に誘われるとは思ってもみなかったのだろう。トマは震える手で、エプロンの紐の結び目をきゅっと結び直す。そうして動揺を押し殺すことに成功し、冷静な声で「私は結構です」と言った。
 だいたい、この小さなバスタブにどうやって一緒にかるのか。
 ふくよかすぎるトマが入れば湯があふれるし、それ以前に、主従で風呂に入るなど聞いたことがない。
 裸の付き合いになんの抵抗も見せない娘を前に、トマは口をパクつかせた。聞きたいことが山ほどあるが、どこからどのように切り込んで何を聞けばいいのか整理がつかないらしい。トマの様子にリーは何を勘違いしたのか「もしかしてトマさん、お腹空いた?」などと尋ねるから、性質たちが悪い。食事のマナーを教えるためにさっき一緒に夕食をとったのだから、お腹は全然減っていないというのに。
 リーは足先を湯の上に突き出し、バスタブのふちに乗せてしれっとくつろいだ。
 トマの問いに対する答えなど聞くまでもない。
 トマは「旦那様とお風呂に入る際には足を湯の中におしまいくださいね」と述べる。
 リーの姿が視界に入っていると、あれこれ口を出したくなるからだろう。トマは小さく首を振って、洗い場にあふれた泡を流したり、リーの体をく布を用意したりと、かいがいしく動き回りはじめた。

「お湯加減はいかがですか?」

 しばらくして思い出したように聞いたトマは、バスタブからにょきりとつき出された足の裏にふと目をとめ、「この傷はどうなさったのですか?」と尋ねた。
 リーの足の裏のちょうど真ん中辺りに、古いきずあとのようなものが残っている。
 本物の奥様にはないあとがあるとなると、旦那様が不審に思わないよう何か考えねばなるまい。通常なら足の裏を人に見られることなどないだろうが、なんたってあの旦那様である。安心はできない。
 トマは奥様の身の回りのお世話をしてきて、爽やかとは言いがたい朝を幾度も経験していた。
 なぜこんなところに枕が?
 なぜこんなところに得体のしれぬ紐が?
 なぜ壁のここに手形が?
 なぜシーツがこんなことに?
 なぜ天蓋てんがいのカーテンが破れ……
 とまぁ、口に出せぬような惨状を見たのは一度や二度ではないのだ。
 トマはそれらをしっかりはっきりリーに説明しつつ、「そんな日は決まって奥様は昼過ぎまで休まれ、旦那様は輝く笑顔で寝室を飛び出して行かれるのですよ」と締めくくった。そして、「足裏の傷痕だって、旦那様にかかれば三日と置かずに見つかってしまうでしょう」と小さくうめく。

「三日? 結構すぐだね」
「ええ、そうですよ。旦那様は奥様を深く愛しておられますからね」
「ふうん? 深く愛してると傷痕にも気づくの?」
「ええ、まぁ、そういうことになるでしょうね」
「そうなんだ」
「ええ、そうですよ」

 トマは遠い目をした。

「ふうん、そっか。んー、なんの傷だろうなぁ。怪我けがなんてしょっちゅうだから、いちいち覚えてないけど……たぶんこれは前にガラス踏んだときのやつかなぁ。あっ……」

 短く上がった声にトマが視線を戻すと、自分の足の裏を確認しようとあられもない格好になったリーが、今にも湯の中に沈みそうになっている。自分の足をかかえ込んでいるものだから、どこかにつかまることもできず、尻が浴槽の床を滑った。
 リーの頭はずるりと泡の下に沈み、続いてざばっと上がってきた。頭には泡がもこもこと乗り、水にぬれた髪が顔にべったりと貼りついている。

「わぁ滑った。びっくりしたぁ」

 額に貼りついた髪をかき分けながらリーは言った。
 トマこそ「びっくりしたのはこっちだ」という気分だろう。それを口に出さずに「大丈夫ですか?」と心配するあたり、さすが侍女頭である。
 リーは「うん」とうなずいて、「この傷がどうかしたの?」と聞く。

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