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第4章「女ぎつね オン ザ ラン」
第33話「ただの、噂でしょ」
(Leandro De CarvalhoによるPixabayからの画像 )
清春がバスルームに隠れたあと、佐江の部屋から、屈託のない真乃(まの)の声が聞こえた。
ふたりの話を聞きたくて、清春はわずかにバスルームのドアを開けた。
リビングとバスルームの間には短い廊下があるから、真乃と佐江の姿は見えない。声だけが、かろうじて聞こえた。
「おはよう、早い時間に悪いわね」
真乃の声は明るく、佐江を責める様子はない。清春はわずかにほっとした。
しかし、真乃はいきなり、
「佐。、あんた、キヨちゃんとどうなっているの?」
真乃は遠回しに物を尋ねるのが嫌いだ。どんなことでも最初から踏み込んでいかないと気がすまない。
佐江はいつものように、おだやかにいった。
「どうって?」
「洋輔が、あなたとキヨちゃんが婚約しているっていう噂を聞きつけてきたんだけど?」
「ただの、噂でしょ」
佐江はさらりと答えた。その声があまりにも平静なので、清春は思わずうめいた。
あの朝と夜のことは、佐江の身体にも感情にも、何の痕も残さなかったのか?
清春の身体はあれ以来、何度も何度も佐江の中の熱を思い出している。いまも佐江のマンションの小さなバスルームにかくれ、彼女の匂いに取り巻かれ、気が狂うほどあのほっそりした身体がほしくてたまらない。
バスルームの清春の煩悶も知らず、佐江は笑いながら言った。
「そんなことを聞きに来たの、真乃? こんなに朝早く」
「大事なことよ。だって、この先なにがあっても、あたしが安心して頼れる先は佐江とキヨちゃんだけだもの」
真乃のこの言葉が、佐江の身体の中心を射抜いたのが、清春には分かった。
真乃の役に立ちたい。真乃のために身を投げ打ちたい。岡本佐江は、長年ずっとこう思ってきた。そして今、真乃から頼りにしていると言われて、佐江の声がぐらついていた。
「そうなの? あたしは、あんたに頼ってもらえる人間なの?」
清春が初めて聞く、心細そうな不安げな佐江の声。そこへ、真乃の明るい声がかぶさった。
「あたしは昔から、佐江とキヨちゃんがうまくいけばいいのにってずっと思っていたわよ」
「そんなこと、言ったことないくせに」
「あんたが付き合う男としては、キヨちゃんは悪くないってこと。あんなふうに見えて、意外と女性にはまじめなところもあるし」
「あんなふうって」
佐江が女性にしては低い声で笑った。
「キヨさんに悪いわよ。あのひと、やさしい人だわ。弱いものを、いたわる方法を知っている」
佐江の声が、清春の耳にくすぐったい。
やさしいだなんて、生まれてはじめて言われた。もっとも、佐江は清春が会話を聞いているのを知っているから、悪いことは言いにくいだろう。
それでも、佐江の声で“やさしい人”と言われたことで、清春の身体の中に、あたたかなものが灯った。
佐江と一緒にいると、清春は自分がまともな人間に近いような気がしてくる。
「なによ。やけにキヨちゃんの肩を持つじゃないの。あんた、やっぱり…」
真乃がそう言うのを聞いたとき、清春の身体が勝手に動いた。
バスルームのドアを閉めて奥に入り、浴室につながるドアを開け、シャワーヘッドを掴んで、床に向かって水を出す。
いそいでスーツの上着とベストを脱いでネクタイを取り、シャツの袖からカフリンクスをはずした。そのままシャツの袖をめくり上げる。
一瞬だけ考えてから、目を閉じ、流れるシャワーの下に頭を入れた。
すさまじい冷水が、清春の首筋を打った。
冷たい。
だが――清春の身体は、止まらなかった。
水を止めてタオルをつかみ、水滴をこぼしながら一気に――バスルームのドアを引き開けた。
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