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4「キスしか、していない」

第21話 「カラダの関係、がある男」

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(PexelsによるPixabayからの画像 )

 白石は、電車に乗るのが子供のころから大好きだ。
 乗ってしまえば新聞や本を読むこともできる。白石は昔から、音楽よりも本や雑誌などの活字に親しんできた。
 今でも通勤電車の中で本をよく読む。短時間ではあれ、別の世界に飛んで行けるからだ。

 だが今日は本や活字を読む気になれなかった。
 白石は駅を出て歌舞伎座のかどを曲がりながら、暗い気持ちを払拭しようとした。

 山中に伝える、明るいニュースはある。
 白石の捻挫をしていた左手首の固定が、ようやく取れたのだ。
 10日ぶりに自由に使えるようになった左手は心なしか細くなり、まだあまり酷使しないほうがいいように見えた。

 少しずつリハビリをしていこう、と白石は思った。
 手首だけじゃない、心も。
 かなわない恋から――山中から、少しずつ距離を取るのだ。

 歩く白石の手にはコルヌイエホテルのロゴが入った紙袋がぶら下がっている。
 入っているのは、コルヌイエの人気中華料理店”大観楼(たいかんろう)”の調味料セットだ。XO醤や花椒(ホアジャオ)などが入ったギフトセットで、料理好きな山中にはぴったりだと思えた。

 こんなものでは礼にならないかもしれないが、と考えつつ、白石はドリー・Dの銀座店を見上げた。
 センスのいいビルの一階と二階を使ったショップは、道路ぞいのディスプレイから華やかな空気が伝わってくる。

 おれには、似合わないなと、白石はビルを見上げて思った。
 その違和感は、山中とのあいだにある消しようのない摩擦熱に似ている。
 どうあっても、近づけない二人。

 相手のために我を折ろうという柔軟性を持つには、33歳の白石は強情になりすぎていた。
 ――だから、ここで終わりにする。
 頭を振り、そのまま華やかな店に入っていく。

「いらっしゃいませ」

 すぐに、品の良いセーターにチノパンを合わせたショップスタッフが声をかけてきた。

「なにかお探しですか? メンズアイテムは、お二階にございます。ご案内いたしましょうか」
「買い物ではないんです。お手数ですが店長の山中さんがいらしたら、白石が来たとお伝えいただけますか」
「言わなくても、分かってるよ」

 ショップ奥の階段から、例の野太い声がした。白石が見ると、山中が190センチの巨体を軽々とはずませて、階段を下りてくる。

「悪いね、店まで来てもらって。おい、こちらの方をフィッティングエリアにご案内しろ。
 良いほうのコーヒーをお出ししろよ。少し待ってもらわなくちゃならない」

 白石はこわばった顔で笑い、

「忙しいんでしょうから、すぐ失礼します。今日はご挨拶にうかがっただけですから」
「馬鹿いえ、あんたにゃ、やってもらわなくちゃならない仕事がある。前の客が長引いてるから、ちょっと待ってくれ」

 そういうと山中はまた身軽に階段を上がっていった。
 白石はしかたなく、若いショップスタッフの後ろについて二階に上がる。
 二階から、山中の太い声に交じって若い男の声が聞こえた。

 声のするほうに目をやると、洋服が山のように積み上げられ、山中とほっそりした若い男が話していた。
 目鼻だちの整った目立つ男で、白石には芸能関係者のように思えた。
 
「だからさあ、このマーブル柄のコートが欲しいんですよ、山中さん。限定品でしょうけど、俺に売ってくださいよ」
 しかし山中は客相手とは思えぬほど乱暴な口ぶりで答えた。

「あんたにゃ、この色が似あわねえからダメだって言ってんだ。こっちの変形トレンチにしろ。このほうがあんたのワードローブのもんと組み合わせやすいから」
「俺のワードローブなんて、とっくに忘れているくせに」

 ほっそりとした美形の若い男は、うらめしそうに山中を見上げた。
 山中はまったく相手を気にしていない様子で、ふんと鼻を鳴らし、

「俺があんたのワードローブの中身を忘れるって? 俺はベテラン販売員だぜ。
 客に売ったアイテムは、全部、頭の中に入っているよ。この数年、あんたの私服をコーディネートしてんのは誰だ?」
「山中さんですよ。だって、あなたに揃えてもらった服はカメラの前で見栄えがするんだ」

「カンヌに行ったときのことも、忘れんな。あんた、あのタキシードでベストドレッサー賞をもらったんだろう」
「あれは良かったよ。ねえ、今日はどれだけでも買うから、あのマーブル柄のコートも入れてよ」

 あのなあ、と山中は聞き分けのない子供に対して言うように、ゆっくりとしゃべった。

「手持ちの服と合わせられないコートを買って、どうしようってんだ。あんたもセンスの良さで売っている俳優だろう? ちっとは考えろ」

 考えませーん、と俳優らしい男は、軽い口調で言って笑った。

「私服はぜんぶ、山中さんにまかせるよ。これほど楽なことはないでしょうが」

 ちっ、と山中は舌打ちした。
 バーから黒地にブルーとグレーの不規則なマーブル柄をあしらったコートを取り出し、まじまじと見たあと、山中は心底くやしいという声音で、

「いや、やっぱり売りたくねえ。この一枚は俺用にキープしてあったんだ」

 あきれた販売員だ、と山中は内心であきれた。
 そして気が付く。
 この若い男。ぜったいに、山中の元カレだ。
 気づいた瞬間、ぎりりっと白石の奥歯が鳴った。
 コイツ、おれの惚れている男の身体を、知っているんだ――。おれが知りたくてたまらない、この男の身体を。
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