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第14章「惚れているからこそ、探さない」

第119話「それはもう、理屈じゃない」

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(Unsplashのmahdi chaghariが撮影)

 
 明るい初夏のカフェで、環は北方御稲《きたかたみしね》に向かって、こくりとうなずいた。

「たしかにこの腕時計は、紀沙おばさまのアトリエにありました。あの一社《いっしゃ》のお家に」
「ああ、そうか。お前はあの家に行ったんだね。環、この時計は、紀沙があの家ごとお前に遺《のこ》したものだ。売るなり捨てるなり、お前の好きにするがいいよ」
「売るなんて……あの、これはサト兄さんに渡すもの……じゃないんですか?」
「ちがう。紀沙は、お前にのこしたんだ。あの家にあったということは、そういう意味だよ」
「では、このイニシャルの意味は? 紀沙おばさまのイニシャルはK・Mです。Sではありません」

 御稲は、ちらりと聡を見た。
 その目の色に、聡は嫌な予感がした。
 想像もしなかったもの、あけてはいけない箱から飛び出してきそうな感じ。
 たぶん禁忌《きんき》の箱をあけてしまうときは、こんな感じがするんだろう。

 聡は口をひらいた。

「K・Sの“K”はともかく、“S”は、“城見龍里《しろみりゅうり》”の頭文字ですね」

 ふん、と聡の言葉に銀髪のシルフィードは鼻を鳴らした。

「お前にしちゃ、めずらしく頭が切れるじゃないか聡」
「演繹法《えんえきほう》ってやつですよ。
 一社のアトリエには、俺とたまちゃんが見たこともないものが山ほどあった。水墨画しか描かないはずのおふくろが、色あざやかな少女の絵を描いていた。そして、ひとりの映画監督の作品であふれていた。
 そもそも、家そのものがおふくろの秘密の隠《かく》れ家《が》だったんでしょう。あの映画監督との関連性がないと思うほうが、おかしい」

 聡が隣を見ると、環が蒼白な顔で時計を見つめていた。
 そこへ、ぽん、と投げ出すように御稲が言った。

「城見《しろみ》はね、だったんだ」

 こくっと、環がつばをのむ音さえ、聡には聞こえた。

「ごく若いころの話だよ。あたしと紀沙が東京の大学にいたころのことだ。
 城見は映像科の学生で、海のものとも山のものとも知れなかった。
 紀沙は、ひょんなことから城見と付き合い始めて、それでもうまくいかなくて、最後は紀沙が城見を捨てたんだ ――紀沙は、そういっていた」

 御稲はそっとロレックスをカフェのテーブルに置いた。

「紀沙と城見、どっちが先に別れると言い出したのか、あたしは知らない。紀沙にとってはどうでもよかったんだろう。
 あの男と別れる事と、この世のすべてが崩れていくことは、紀沙の中では同じだったから」
「……おばさまは」

 と、環は小さな声で言った。
 目はいっぱいまで広げられ、まつげがかすかにふるえている。

「おばさまは、その方を愛していらしたのでしょうか」
「惚れていたよ」

 御稲は環をまっすぐに見ていった。
 これだけは伝えておかなければ死ねない、といったふうに、力のある目で環を見ていた。

「あの男しかいないと思い切るほどに、惚れていた。楽《らく》な道でもなければ、安寧《あんねい》につながる男でもないことは、紀沙にもわかっていた。
 それでも、紀沙にはあの男しかいなかった。それはもう、理屈じゃない――わかるかい、環」

 環は見ひらいた目じりを少しゆるめ、ぽっと目もとを赤らめてうなずいた。
 そんな妹分《いもうとぶん》の表情を、聡はいぶかしげに眺めていた。

 たまちゃんに、何が分かるっていうんだ?
 いったい、何がおきている?
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