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第二部 天皇杯本戦

30 少し俯いて恥ずかし気に

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 三日目は宿泊地を変える。海に行くと言ったら、玲人の母が良い宿を教えてくれたらしい。昔、父と一緒によく来ていたそうだ。玲人と医師が子供の頃にも家族で何度か訪れたはずだが、二人とも記憶にないという。だから楽しみなのだと、二人は声を揃えた。近海で漁をする漁師一家が経営する小さな民宿で、朝水揚げされたばかりの新鮮な魚介を振舞ってくれるのだとか。

 鎌倉から西へ。茅ケ崎、小田原を抜け、伊豆半島を南下する。旅館で朝食を食べてからすぐに出発したので、目的地の下田には午前中のうちに到着。宿に電話をかけると、いつ来ても大丈夫だという。ガイドブックを抱える女性陣に今日の目玉はどこか訊ね、クルーズ船や恋愛スポットを幾つか紹介されて、先にそちらを見て回る事にした。
 近くに縁結びの神社があるから行きたいと言われ、先日も行ったばかりなのに、どうして女性はこうも好きなのかと、首を傾げつつ向かう。風光明媚な『竜宮窟』で写真を撮り、昼食は『下田バーガー』なるB級グルメを堪能。史跡を巡った後、船酔いするから嫌だというメンバーを強引に、引き摺るようにクルーズ船に乗せた。江の島で生まれて初めて船に乗ったという。その時の小船でさえ限界に近かった様子で、中型のクルーズ船、かつ波の高いこの辺りの海を一周すると、真っ青になってベンチに突っ伏していた。船を降りてからも「地面が揺れる。気持ち悪い……」すっかりゾンビのような顔色になっていた。

 夕方前にチェックイン。夕食までは1、2時間ほど時間があったので付近を散策。潮風の吹く漁港をぶらついてから宿に戻ると、ちょうど夕食の準備が整っていた。お待ちかねのディナータイムである。世界の美食を食べ尽くした父母の勧めるものだ。どんな豪奢な料理なのだろうかと思っていたら、出てきたものは割と普通であった。魚介の刺身や魚のフライ、煮物、汁物など、種類は多かったが、それほど珍しいものはない。だけど口に入れた瞬間、納得の美味しさ。獲れたての魚はどれも新鮮で、刺身よりむしろフライの方が僕好みであった。味噌汁は甲殻類の出汁だろうか、少し変わった風味が不思議と口に合う。みんな「美味い!」と、声を揃えた。

 朝食も地味だが美味かった。アジの干物は旨味がたっぷりで塩加減も良く、磯海苔の佃煮は濃厚でご飯が進む。朝から腹いっぱいで眠くなってしまった。日焼けの跡はまだ痛むし、三日間遊び歩いて疲労もあったが、最後の一日、伊豆の観光スポットを巡った。「お土産も買わなくちゃ」という女性陣の声に「そうだな、忘れるところだった」と、下田の土産屋に立ち寄り、朝食べた干物と同じものを発見して、大量に買い込んだ。

 帰る車の中で、みんなの一番思い出に残ったものを聞いた。
「やっぱり海ですね。水が冷たくて気持ち良かったです」と、野心。
「ラーメン! 美味しかったよぉ~」と、與範。
「今度は俺と勝負だ!」と、医師。腹筋大会に参加すれば良かったと繰り返す。
「民宿で食べた味は忘れられない」と、玲人。
「お前はどうなんだよ?」との質問に、まだ誰も答えていないものの中から、僕は大仏を選んでおいた。

 埼玉に戻った時には、もう深夜になろうとしていた。家が遠い人から先に送り届けて、最寄り駅が同じメンバーは駅前で解散。僕と野心、與範、それに同じ方角の栗岡。4人で暗い夜道を歩いて帰る。栗岡にも今回の思い出を聞くと、「大仏。大きかったよね~」予想外の答えが返ってきた。もっと別の、そう、例えば『龍恋の鐘』とか、何かそういった返答があるものと思っていた。「はいはい。もう結婚しちゃってどうぞー」などと、冷やかされたものである。
 変に気を回した野心と與範に「マネージャーをきちんと送って下さいね」と、尻を叩かれた。栗岡の方を見遣ると、暗くて表情は分らなかったが、少し俯いて恥ずかし気にモジモジしている。トイレかな? 早く送ってあげた方が良さそうだ。「分かった。じゃあ行こっか」僕は栗岡の先に立って歩き出した。旅の疲れだろう、栗岡は家の前に着くまで、ほとんど何も喋らなかった。

「じゃあ!」
 家の前で別れを切り出すと、
「また……」
「ん?」
 栗岡が、普段の元気な声とは全く違う、小さな声で呟いた。
「また……行きたいね」
「ああ~そうだね。良いところだったし」
「うん。楽しかったよ」
「だね。みんなでワイワイ出来て良かった。卒業してから、こういう機会もなかったし」
「うん。だけど……」
「?」
「ん……何でもないよ」
「じゃあ来年も、みんなで計画立てよっか」
「……」
「同じ鎌倉でもいいし、今度は下田の方から先に行くとか」
「……」
「栗岡?」
「うん……でも……」
「どうした? トイレ?」
「!」
「ずっとモジモジしてるから我慢してるのかと」
「じゃあねッ!」

 急に駆け出したと思ったら、勢いよく家に飛び込んで、バタンと大きな音を立ててドアを閉めた。そんなに我慢していたのか。もっと早く言えばいいのに。
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