幻獣の棲みか

iejitaisa

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第一章 寒い夏

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 今から3000年前――

 フェニックス、ドラゴン、バハムート……数多の幻獣が地上を闊歩し、海を荒らし、大空を支配していた。
 人々は彼らを崇め、神の使者と理解して生活していた。
 しかし、ノアの大洪水から月日が経つにつれ、人は人を超越した力の存在を忘れ、自らの持つ知恵と驕りをみるみる肥大させていった。
 それは科学を生み、文明を生み、ついには、神をも恐れぬ傲慢さを生み出した。

 そのうち、一頭の幻獣が狩られた。

 グリフォンの高貴な頭が地に落ちた時、人々の間で何かが弾ける音がした。
 そこからは一瞬だった。
 一頭、また一頭と、強大かつ神聖な獣たちが、醜き人間の手によって血塗られていった。

 神官たちは憂いた。

 このままでは、他ならぬ人間の手によって、神の創造した生き物が一つ残らず失われてしまう。

 大いなる呪文が始まった。
 もう一つの世界を創造する、神の御業に匹敵する呪文だ。
 神官たちは、自らの命をいとわず心血を注ぎ、この世界の裏側に、もう一つの〝世界〟を創り上げた。
 生き残った幻獣たちは、神官たちの説得によりその〝世界〟へと入った。
 神官たちは、幻獣の守り人として十一の騎士を遣わし、そして、〝世界〟を閉じた。
 幻獣の王と、不可侵の条約を結んで。

 決して明かされることのない、その〝世界〟の名は――――









   幻獣の棲みか









 毎日同じ夢を見る。

 燃えるような赤い髪の少女が、火にくべた石炭のようにあかい剣を持っている。
 彼女の瞳はルビーのようにあかく、はく吐息は火炎を伴って揺らめく。
 炎は渦となって巻き、二つにまとめた彼女の髪を、大空に舞う鳥の翼のようにはためかせている。

 毎日同じ夢を見る。

 数千、数万の兵士が、渓谷と、渓谷の先に広がる城下街を埋め尽くしている。
 その数で地を鳴らし、兜と剣で火花を散らす。
 城下町には真っ白な、天を貫くような城が建っている。
 赤い髪の少女は、城のてっぺんから兵士たちを見下ろしている。

 毎日同じ夢を見る。

 少女は炎と共に身を投げる。

 兵士たちが歓喜する。

 そこで必ず、目が覚める。


――記録。西暦2045年8月8日。福建省奥地、ワイルドハントベース基地、居住区。



 ホタルはぐしぐしと目をかいた。
(また同じ夢だ……)
 掛布団を抱え込むようにして、ベッドの中で寝返りをうった。
 寝覚めが悪い。
 もう一度眠り直したいが、生来眠りの浅いホタルにはそうもいかない。
(お水飲も)
 そう決心して、素足をスリッパに通した。
 今夜は少し冷える。ブランケットを体に巻き付け、薄暗いリビングを横切る。
 巨大な冷蔵庫を開けると、大仰なシステムキッチンに光が当たる。ホコリ一つなく、薄明りを鏡のように反射している。
 ホタルは水の入ったピッチャーを取り出し、冷蔵庫の明かりを便りにコップを探す。壁かけ戸棚には少し背が届かない。ホタルはつま先立ちになって、重たいガラスのコップを手に取る。
 コップを片手に、ちびちびと喉を潤しながら、ホタルはリビングを横切る。のれんをくぐるようにカーテンを、片手でそっと開く。冷蔵庫とはまた違う、青白い光にホタルは迎えられる。


 ホタルは、コップを握りしめた両手をベランダの手すりに預けた。
(……きれい)
 声もなく呟くと、真っ白な吐息が、湯気のように立ち上った。
(あののようにはいかないか)
 赤髪の少女の幻を見ながら、ホタルはお月様を見上げた。
 あの月が欠けたところを、ホタルは見たことがない。
 ホタルがここに来たその日から、ずぅっと、ずぅっと、まん丸のままだ。
 ホタルはふと視線を落とし、またお月様を見上げた。
 彼女がいるのは、高級マンションでも、一流ホテルでもなかった。
 鬱蒼と生い茂るジャングルの中に建てられた軍事施設だ。
 木々を切り倒し、地面をならし、鉄筋とコンクリートと、鉛の兵器で積み上げられた巨大な要塞だ。
 ベランダの手すりはむき出しの鉄、身を乗り出して見えるのは壁の上端にズラリと並べられた銃座に砲門。青白いお月様に照らされ、薄灰色の壁が無機質な光を反射している。
 ホタルは身震いして、部屋の中へと戻った。


――記録。西暦2045年8月9日。福建省奥地、ワイルドハントベース基地、居住区。



 翌朝、ホタルは目覚めると洗面台に向かった。
 コンタクトレンズのケースを手に取り、パチリと音を立てて開けた。
 指先でつまむと、柔らかいレンズが、湯葉のようにすいついてくる。
 反対の手で右目のまぶたを抑え、怖がって震える眼球の表面に、無理やり蓋をした。
 これはあなたのためなんだからと、そう言い聞かせて。
 左目も同じようにしたあと、ホタルは鏡と向き合って、まつ毛をハチドリのようにパチパチさせた。
 薄味のコーヒーキャンデーみたいな色した瞳を、ひとときの間見つめていた。
 しばらくたった後、ホタルはシステムキッチンに移動していた。
 長い、ウェーブのかかった黒髪をぱぱっと後ろで束ね、赤いヘアゴムで留めると、寝間着の上からもみじ色のエプロンをかぶった。
 材料は勝手に入って来る。頼んでいなくても冷蔵庫はパンパンだし、戸棚を開けばパンや缶詰が飛び出してくる。
 ホールトマトを贅沢に一缶丸々煮込んで、そこに塩を少々。白と黒のビーンズと、一口大に切った鶏もも肉を、小石を投げ入れるように鍋に落とし、青い葉をくわえて蓋をする。
 出来上がりを待つ間に、分厚くパンを切る。
 ノコギリのようなパン切り包丁をギィコギィコしていると、木こりになった気分で大変に愉快だ。
「……あら?」
 どういうわけか、この部屋にはラップがなかった。もっと探すと、お弁当箱やタッパーも無いことに気付いた。
 仕方がないので、ホタルはスカーレットのハンカチーフを取り出して、その上にパンを置いた。そこから順に、新鮮なケールとスライスしたオニオンを乗せ、最後に、つぶした卵をマヨネーズで和えたものをたっぷりと塗った。
 パンで蓋をして、ハンカチーフで綺麗にくるんだころ、お鍋がコトコト頷き始めた。



 ホタルは学校の制服に着替えると、木製のお椀を両手で包み込むように持ち、鉄板むき出しの廊下を歩いた。
 ここは兵士だらけだ。
 人種は様々だ。白人もいれば黒人もいるし、ホタルと同じ、アジア系の人もいる。同じなのは、皆、若く、たくましく、迷彩服に身を包み、機関銃を肩からかけていることだ。
 ガン、ゴン、と、偉そうにブーツを鳴らして巡回する者、朝食をとるため、足早に食堂へ向かう者、同僚と馬鹿話をしながらダラダラと歩く者……ホタルの存在に驚き、物珍しそうに見る者もいれば、品定めするようにジロジロと見てくる者もいる。
 全身を針で突っつかれたような気分に、いつもなる。
 ホタルはミントの葉のように小さな口をさらに小さくすぼめ、スープがこぼれないギリギリまで歩調を速める。



 針のむしろから抜け出し、施設の外までやってきた。
 体を捻って後ろを見上げると、分厚い鋼鉄の要塞と、その壁に埋め込まれた自分の部屋のバルコニーが見えた。
 肩をすくめて、なにも見なかったことにして、朝露に濡れた草地に踏み出した。
 薄い朝日が心地いい。
 ちょうどいいベンチを見つけると、右腕に引っかけていたバスケットを先に下ろし、片手で木のお椀を賜杯のように掲げながら、もう片方の手で、長いスカートを押さえつつ、腰掛けた。
 女の子は大変なのだと、昔から、事あるごとにそう思う。
 男子なら、ちょっとエッチな風が吹いたところでなんら気にする必要がない。強いて言うなら視線の行く先くらいだ。見るのか、逸らすのか、人によって違う。場合によっては、こちらも片手を準備する必要があるかもしれない。
 でも、そういった危険をはらんでいたとしても、スカートの方がカワイイ。
 男女平等と、カワイくありたい気持ちは別の話だ。ホタルはズボンよりスカートの方が自分に合っていると思っている。だから、スカートを選んでいる。
 何より、制服のカワイさにかけて、ホタルの学校は地域で一番だ。プリーツスカートと、ブレザーの袖のデザイン、そしてなにより、胸元の大きなリボンがとってもキュートなのだ。
 身長が低いホタルでは、ベンチに腰掛けると足の裏が浮いてしまう。ローファーの先をバレリーナのように立てて、ももの上で肘をついた。お行事が悪いが、ここにはホタルを叱る人はいない。木のお椀を傾けて、まだ熱いスープを一口すする。トマトの酸味が口の中にじわじわ染み込んで、ぼうっとしていた頭をしゃっきりさせてくれる。
 ほう、と息をついて、目の前の景色をだらんと眺めた。
 綺麗に芝刈りされたベンチ周りを照らすために、一本だけ街灯が立っている。配線はむき出しで、無限のねずみ花火のようにうねうねと施設まで続いている。
 街灯の向こうには、大きな木々が身を寄せ合うように生えており、その隙間に青ヘビのような蔓が垂れ下がっている。大きな葉はシダ植物だ。多種多様な植物の間を時おり、小さな鳥が行き交っている。
 ジャングルを切り開いて作られた要塞ではあるが、全ての木々を切り倒すにはまだ時間が足りないのだろう。一番外側の、高いたかい防壁の内側には、ここと同じように緑地帯が点々と残っている。
 ホタルがいるところはさながら、要塞で働く人たちの憩いの場だ。
 ベンチのすぐそばに備え付けの灰皿があり、要塞の出入り口を振り返ると、コカ・コーラの契約自販機が煌々と光っている。
 早朝のこの時間はどうも、当直員がもっとも眠たくなるタイミングらしかった。みな、持ち場でうとうとしているのか、一服するために歩いてくる者が少ない。ホタルはその隙を狙って、息苦しい自室から這い出たのだが。
「あっ」
 スープをもう一口、と思ったところで、ふと、群生している高山植物に気付いた。ベンチから大股で四歩、いや六歩飛び跳ねればたどり着くだろう。即席の街灯の足下に、ピンク色の花が咲いている。人が刈りこんで、踏みつけにしてしまったの中で、そこだけが色づいて見える。
 ホタルはお椀をベンチにおいて、ビックリ箱が悔しがる速度でバスケットを開いた。
 サンドウィッチではなく、その隣に立てかけておいた小さなスケッチブックと、底の方に転がっていた巻き取り式の筆箱を引っつかみ、大股で三歩飛び跳ねた。
 ピンクの花々は、準備体操のために距離をあけた小学生のように、互いに程よい距離感を取っていた。
 ホタルはそのうちの一つに狙いを定めると、筆箱の紐をほどき、秘伝の巻物を開放するようにびゅん!と転がした。こんにゃく二枚分くらいのスケッチブックを急いでめくりながら、泥がつくのもお構いなしに草地に膝をつき、肘をつき、鼻と花が触れ合うくらい顔を近づけた。
「うわぁ」
 それはサーモンピンクとでも言うべきか、くっきりとしたピンク色の花だった。大きな花びらと、その中に黄色い花粉をつけたおしべがいる。街灯と競争するかのように伸びた、長くて真っ直ぐな茎が、一番上で枝分かれし、三つから四つほどの花をつけている。花自身も姿勢を正して上を向いている。百合のようにうなだれたりしていない。
「アルストロメリアかしら、アルストロメリアだわ」
 ホタルは制服のポケットからスマホを取り出し、Googleにアルストロメリアの写真を出してもらった。
 この軍事施設には――どう見ても人里から離れているのに――電波が届いている。基地の屋上に据え付けられた巨大なパラボラアンテナをホタルは一瞥する。
 無用な電気を消費するのは大変に嫌いだが、こういう時は役に立つ。
 ホタルはスマホをしまうと、筆箱の上に指を走らせ、この鮮やかなピンクを再現するのに一番ふさわしい色鉛筆を探した。少し悩んでから、桜色の鉛筆を手に取り、一心不乱に書き始めた。



「んふふ」
 ホタルは口を閉じたまま笑った。
 高級フレンチのフルコースを食べ終わったあとのように満足していた。
 スケッチブックには、目の前のアルストロメリアに瓜二つの写生が残されていた。特徴なサーモンピンクも見事に再現されていた。
 ホタルはほくほくしながらスケッチブックをめくった。黄色いキンバイソウ、オレンジのエリシマム、透き通った氷のようなブルーポピー……ホストクラブでイケメンを侍らせるのは、きっとこういう気分なのだろうと思っている。どこを見ても可愛い花か、綺麗な花しかおらず、みな、ホタルに笑いかけてくれる。
 ここに来てから、スケッチブックの半分以上が埋まった。あと数日もあれば、次のを買わなければならないだろう。お小遣いが少ないホタルにとって、それは嬉しい悩みだった。困っているのにワクワクして仕方ないのだ。なんでこんなに気持ちがいいのだろう。ホスト狂いになる人は、きっとこんな感情を抱いているのだと思っている。
 バラバラになっていた色鉛筆たちをちゃっちゃと回収し、巻きずしを作るようにずっしりと筆箱を閉じた。
 立ち上がって初めて、スカートと肘が泥だらけになっていることに気付いた。
「あっ!」



「やっちゃった……」
 ベンチの前でホタルはうなだれていた。
 目の前には、置いて行かれたトマトスープがあった。
きっと、真っ赤になって怒っていたに違いない。
 しかし、怒りというものは長く続かない。いつか疲れてしぼんでしまう。
 トマトスープ君もそうだった。今ではすっかり冷え切っている。
 バスケットの中に入れていたアルコールスプレーで手を消毒して、ごめん!と念じながらスープに口をつけた。
 予想通りの冷たさに身震いしながらも、残しちゃ悪いと口を膨らませた。ひんやりとしたトマトは予想以上に酸っぱみが増していた。唇の根本に力を入れ、両足をぱたぱたさせ、少しずつ飲み進めていった。
 スープを半分ほどすすったので、サンドウィッチに手を付けることにした。木のお椀は、バスケットの上に座らせた。
 スカーレットのハンカチーフを半分ほど開き、サンドウィッチと対面した。
 パンの表面をすこしちぎり、地面に転がすと、小さな鳥がチョン、チョン、と寄ってきた。
(あぁ、チーズを入れればよかった)
 もしゃもしゃとケールをはみながら、そんなことを考えていたところ、小鳥が慌てたように飛び立って行った。
「ホタル様、外に出ては危険です」
 音もなくやってきたその人に、ホタルは遺憾の意を示してもしゃりと口を鳴らした。
「ドレイク大佐……」
 やってきたのは、オーサム・ドレイクという大男だった。
 分厚い紺のコートを羽織り、その内側に、拳銃やマガジンをこれでもかと差し込んだベストを着ている。ミリタリーブーツとロングパンツで隠されて見えないが、足回りにも隠しナイフや予備の拳銃を忍ばせていると、ホタルは人づてに聞いたことがある。当然、コートの内ポケットにも手榴弾やら何やらが入っていることだろう。すなわち、生粋の戦闘屋だ。
 大佐という肩書に似合わず、ドレイクの顔にはまだ、シワが入り始めたばかりに見える。三十代後半、四十にはまだなっていないだろうか。ささくれ立った黒髪と、目の下の大きなクマがなんとも不潔だ。瞳の色も、燃え尽きた炭のようにくすぶっている。頬がこけているせいで、余計によどんだ雰囲気を醸し出している。
 だが、ホタルがなにより嫌いだったのは、大佐のその、喉の奥に何かが引っかかったような喋り方だ。声は渋くてかっこいいのだが。
「あなたは軍属ではない。どうか、あー〝ドレイク〟と」
 大佐は断りもせず、バスケットを挟んでホタルの隣にどすんと腰掛けた。
 ホタルは、大佐の側だけ、おしりが数センチ沈むのを感じた。
 大佐は別に太っているわけではない。むしろ、鍛え上げすぎて筋肉の塊になっているのだ。服の上からでもわかる。どうしようもないのは、戦闘たたかい以外にはてんで無頓着な大佐の生き方性分だ。
「ここは〝外〟じゃないわ、ドレイク」
 ホタルは咎めるように大佐を見て、バスケットを自分の方に引き寄せた。
「ええそうですね。ですが奴らは、空を飛べます」
 大佐は気にするそぶりも見せず、コートの内側から銀色のスキットルを取り出すと、その手で空を指さした。
 大佐は手も大きい。小さなスキットルなど、握りつぶしてしまえそうだと思えるほどに。
 スキットルにはせっかく、勇壮なるドラゴンが描かれているのだが、大佐の手のせいで、その全容を見られたためしがない。
「我々は戦争をしているんです。いつ何時襲われるか」
「これは戦争じゃなくて侵略だわ……!そうでしょう!?」
 無責任な発言に、ホタルの怒りは一瞬で頂点に達した。普段か細い声を、キンキンに捻り出して大佐に浴びせた。
 大佐はやれやれと言いたげに首を振りながら、スキットルの口を捻った。
「ならばなおのこと危険です。窮鼠猫を噛む。侵略された側が何をしでかすかわかりません」
「だったらやめればいいんだわ!侵略なんて!今すぐ!」
 ホタルはサンドウィッチを握りつぶした。
「それはできません」
 大佐はピシャリと言った。
「私は雇われの身だ。ただのバウンティハンターだ。この侵略戦争のかじ取りをする立場にない」
 スキットルを少しだけ傾け、大佐は酒を楽しんだ。
 声がいつもしゃがれているのは、ウイスキーの飲みすぎだと、ホタルは思っている。
「私が仰せつかっているのは、ウラオー博士の身を守ることです。その娘である、あなたも――」
「その話、もう百回は聞いたわ」
「それだけあなたが、施設を無断で抜け出しているということです」
 痛いところを突かれ、ホタルは無言になった。つん、と鼻先を上げ、肩に力を入れ、姿勢を正した。むき立てのゆで卵のように私の身は潔白です、一つの穢れもありません、と、態度で示した。
 大佐はニヤリと笑った。
「指輪の話は?まだしてくれないのね」
 ホタルはすこし悔しくなって、大佐の左手をジロリと見た。
「あぁ」
 大佐はスキットルを持ったまま、手を掲げた。
 朝日にチカリと光るのは、スキットルともう一つ、左手の薬指に収まっている金の指輪だ。
 指輪は幅広で、側面にレリーフが彫ってある。このレリーフには赤色の染料が流し込まれており、朝日に照らされたそれが、小麦畑に落ちる夕陽のような色を放って実に美しい。
 ただし、大佐はこの指輪について何も話してくれないし、よく見せてもくれない。
 だからホタルは、このレリーフが何を模っているのかわからないし、大佐が結婚しているのか(あるいはしていたのか)さえ知らない。
「大人になると色々あるのですよ」
 大佐はいつもそう言って、適当にはぐらかす。
「その話、もう百回は聞いたわ」
「それだけあなたが、施設を無断で抜け出しているということです」
 こうして大佐の話は終わる。
「ドレイク大佐!失礼します!」
 一人の兵士が、報告のために走ってきた。白人の兵士だ。ベレー帽の下に見える髪は金髪だ。
 緊張しているのか、走り方も、敬礼も、いちいちかしこまっている。機関銃を支える手は、少し震えている。
 一方の大佐は、話しの途中で割り込まれたにも関わらず冷静だった。顔をしかめたり、声を荒げたりしなかった。落ち着いてスキットルからアルコールを補給し、ゆっくりと頷いた。
 ホタルは蚊帳の外に身を引き、ぐっちゃりつぶれたサンドウィッチの、はみ出した卵をぺろぺろなめた。
「ウラオー博士からの報告です!被検体が……その……また暴れたと――」
 大佐が稲妻のような速さで立ち上がった。
 ホタルはビックリして、頬に卵をべっとりつけたまま振り返った。
 大佐は若い兵士に詰め寄り、スキットルをミシミシと音がするほど握りしめていた。
「そんな話をするな。ホタル様の目の前で……!」
 それが龍の逆鱗だったのだ。
 普段温厚な大佐が、歯をむき出しにして、兵士の耳を今にも噛みちぎらんばかりに唸っていた。
「も、申し訳ありません!」
 報告に来た兵士はこの世の終わりのような顔をして、頭の先まで縮み上がっていた。
 びっしょりと汗をかき、機関銃を握りしめている手に、青白い血管が浮き出していた。
 ホタルは大佐が怒っているところを初めて見たが、そんなことよりも、はるかに気になることがあった。
「大佐!」
 ホタルはサンドウィッチを再び握りつぶし、大佐に追いすがった。
「ドレイクと」
 大佐は兵士を睨みつけたまま、スキットルを持った手を激しく振った。
「ドレイク!」
 大佐はようやく振り返った。
 一瞬、世にも恐ろしい鬼がホタルには見えた。
 いつもくすぶっていた炭色の瞳が、呪われたサファイアのように禍々しい蒼い光を放ち、こけた頬や口元に、深いシワが刻まれていた。
 遠慮知らずのホタルも、思わず身がすくんだ。
 氷がつたったように背中が冷えあがり、すでに具のなくなったサンドイッチを、三度握りつぶしてしまった。
 しかし、大佐が何度か瞬きすると、瞳はいつもの炭色に戻った。取り繕うようにスキットルを傾けた後には、刻まれていたシワも溶けるように消え失せていた。
 ホタルは卵でべちゃべちゃになった両手を、急いでハンカチーフにこすりつけた。
「被検体ってどういうことなの?捕虜がいるなら、きちんと取り扱うべきだわ!」
 サンドウィッチの残骸をくるみながら、ホタルは訴える。
 その間に、大佐は若い兵士に目配せを送り、下がらせた。
 兵士は逃げるように、全速力で走っていった。
「ご存知ですか、ホタル様」
 ホタルがバスケットの蓋を乱暴に閉めた時、大佐が言った。
 大佐はスキットルをポケットに戻し、代わりに、タバコとライターを取り出した。手が大きいものだから、人差し指と中指でタバコの箱を、中指と薬指でライターを挟んでいた。
「アメリカでは、タバコの規制が厳しい。子供の前で――いや、子供の前でなくとも、タバコを吸うシーンがあれば、それが規制の対象になる。私など、黒塗りにされてしまうでしょう」
 自虐的な笑みを浮かべながらタバコをくわえると、大佐はライターをヂッと言わせた。
 真っ赤な火をともすと大佐は、煙をいっぱい吸って、吐き出した。
 鼻から煙を吹き出す龍のようだと、ホタルは思った。あと、煙たくて顔をしかめた。
 ホタルの困ったような顔を見て、大佐は愉快そうに笑っていた。
「だがそれはひとえに、フィクションと現実の区別がつかなくなった『バカな大人』が増えたせいだ。映画だろうがアニメだろうが、マンガだろうが小説だろうが……関係ない。彼ら彼女らにはその区別ができない。人殺しを見れば我が子もそうなると信じて疑わない。自ら教育する手腕はない……だから声を上げる。規制させる。そして、分別のあるかしこい連中だけが、バカがまた騒いでいると遠くでつぶやく……」
「答えになってないわ、ドレイク」
 ホタルは素早く切り返した。
 大佐はホタルの言葉を無視して、しばらく煙とのダンスを楽しんでいた。
 本来、ここは喫煙所であるわけだから、大佐の行いに間違いはない。勝手に施設を抜け出して、喫煙所であることを知ってなお居座っているホタルの問題だ。子供とは言えもう16なのだから、立ち入ってはいけない場所の判断は自分でつけて然るべきだ。
 とは言え、大佐の言うところの〝分別のつかない人たち〟がこの光景を見たら、大佐が社会的に死ぬか、本当に死ぬかするまで追い詰めるだろう。ここに来るまで、そういった光景を幾度となく見てきた。
 だが、大佐の話に惑わされてはいけない。ホタルが聞きたかったのは被検体の話だ。規制が、人がどうこうではない。それにホタルは、人様のことをバカだのアホだの言いたくない。
 タバコがホタルの人差し指の爪ほどに短くなったころ、大佐は火のついたそれをおもむろに投げ捨てた。
 あっ、とホタルが言うまもなく、タバコはジャングルの中に消えた。
「なんてことをするの!?」
 ホタルは胸ぐらを掴む勢いで詰め寄り、大佐を睨みつけた。
 咎めるようなホタルの視線をものともせず、大佐は笑った。
「――彼らの方が正しかったとしたら?」
 ひどく恐ろしいことをした後の声色ではなかった。
 どんなに平和な世の中でも、この時の大佐ほど穏やかに話せないだろう。
 ホタルは怖くなって、それ以上何も言えなくなった。
 やがて、ジャングルの奥から、線香をあげたようなか細い煙が立ち上った。
「どんな願いでもかなうとしたら?歌声一つで、世界を変えられるとしたら。どんな傷を負っても死なず、エスパーのような力が使え、夢の中を自由に走り回れるとしたら……」
 ぷすぷすと煙の量が増え始め、パチパチと爆ぜる音が鳴った。
 大佐が、炭色にくすぶった瞳で、ホタルを見つめる。
 ポン!と小さな爆発音がして、ジャングルから火の手が上がる。
 施設の方からたくさんの兵士が走ってくる。手にバケツを持った者、ぐるぐる巻きになったホースを、大玉ころがしのように押してやって来る者、その全てを無視して大佐は続ける。
「フィクションだと思っていたことが、現実に起きていたと知れば話は変わる」
 大佐の語気が強まる。ジャングルの炎を反射して、瞳が燃え上がる石炭のように赤くなっている。その奥に、サファイアの怪しい輝きが見え隠れする。消火のためにやってきた部下たちに目もくれず、燃えるような視線でホタルを見つめ続ける。
 大佐の瞳に魅せられて、ホタルの手足は痺れたように動かなくなる。
「バカな連中はそれ見たことかと声を大にし、騒ぐでしょう。その裏で、かしこい連中は暗躍し、虎視眈々と狙うでしょう」
 大佐が右手を上げる。
 今や天にまで届く炎を上げ、ごうごうと黒い煙をまき散らしているジャングルに、その手を向ける。
 ホタルは息を飲んで、大佐の右手を見つめる。
 何かが来る。
 ホタルの知らない何かが。
 動悸が、どんどん激しくなる――――

 大佐が右手を握りつぶした瞬間、嵐が生まれた。

 ホタルは荒れ狂う風の中に放り込まれた。

 恐怖が全身を駆け巡る。体がどこかへ吹っ飛んでしまうのではないかと。
 スカートがめくれ上がり、後ろで縛っていた髪が暴れて、ホタルの頬を交互にぶつ。
 ホタルは片方の手でスカートを押さえ、もう片方の手で自分自身を抱きしめた。

 嵐は一瞬で――何事もなかったかのように――過ぎ去った。
 大佐は静かに微笑み、そっと、右手をおろした。    
 その手の先――ジャングルの炎が消えている。
 火元に残っているのは、黒焦げになった木々の燃えカスと、立ち上る白い煙だけだった。
 炎は連れて行かれたのだ。あの風に。嵐に。
「私はそのために雇われました。あなたのお父様も」
 それだけ言い残すと、大佐はコートをはためかせ、ホタルの前から去っていった。
 ホタルはただ、ただ、呆然と、去っていく大佐の背中を見つめていた。
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