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第六章 逃避行
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――記録。西暦2045年8月11日。福建省奥地、ワイルドハントベース基地、裏手。
基地は未だ、騒然としていた。
大勢で瓦礫をめくり、仲間を探す兵士。重機を操り、ひっくり返った車を吊り上げる兵士。フェニアス(とドレイク)が破壊した壁を補修するため、鉄板を乗せたトラックを運転する兵士。それら下々の働きアリを尊大な態度で俯瞰しながら、ドレイクは、まさに自分が破壊した壁際でタバコをくゆらせていた。
大穴から見える景色はIMAXシアターに匹敵する大パノラマだ。それだけの面積が基地の壁面に開いていた。というか開けた。眼前には今、基地の後ろ側を流れる大河と、その向こうに広がる大草原が美しいコントラストを描いている。草花が湛える朝露が、朝日を反射して大変に清々しい。草原の左奥で長々と伸びている黒い通路だけが、視界の中で唯一薄ら寒い。あれは滝壺へ続くものだ。鉄板で囲わないと、業者が安全に行き来できないのだ。
「忌々しい。ドレイク、ここは禁煙だ」
引き裂いた段ボールに背中をなぞられた。ドレイクはタバコを足下に落とし、ミリタリーブーツの踵でぐりぐりとつぶした。
「申し訳ありません。外かと思いまし、て」
自分のことを棚に上げて皮肉った。
「派手にやったな」
「手加減すればこっちが死にます。あ、いや、こっちは死にます。こっちだけが」
途中で言い間違いに気付き、一応訂正を挟む。
「申し訳ありませんが、給料引きにしていただけますか?あいにく手持ちがなくて」
「忌々しい。酒と煙草をやめろ」
「一度でも彼女を捕らえられたことが奇跡です。以前も申し上げましたが」
「協力者が?」
「火災でデータセンターが焼けました。防犯カメラの映像を精査するのは困難です。証拠がない。ただ――」
ドレイクは一瞬言いよどむ。しかし兵士たちには無線で流してしまった事実だ。いずれバレる。
「彼女は、ウラオー・ホタルを連れていました」
この言い方が表面張力、限界ギリギリだ。
「なんだと!?」
雇い主は白く濁った眼を極限まで大きく見開いた。
「ウラオー博士の娘です」
「そんなことはわかっている。手引きしたと?」
「まさか、かしこいはずです。仮にも博士の肉親だ」
「だが彼女は、環境問題に熱心だと聞いている」
我が雇い主は両手で杖を揉みしだき、ドレイクに疑うような視線を投げかける。
「環境活動家というのは厄介だ。脳の構造が普通と違う。人権活動家にも通ずるものがあるのではないか?」
ドレイクはスキットルを取り出し、アルコールに逃げる。
「ウラオー博士を呼び出せ」
「拷問しますか?私が?」
「いや、それは私がやる。お前は娘の捜索にあたれ」
「彼女ではなく?」
「博士がどこまで話しているかわからん。だがもし……ダインスレイヴについて話しているなら……」
雇い主が言わんとすることを、ドレイクは熟年夫婦の一言より速く理解した。
それを実行するだけの胆力と実力を自分が持ち合わせていることを、この時ほど恨めしいと思ったことはない。
「ま、そうです、な」
――記憶。西暦2045年8月11日。福建省奥地、メンセス川ほとり。
ホタルは穏やかなまどろみの中にいた。ぽかぽかと火照った体を、ちょうどよく冷やすように、ひんやりとした感触が包み込んでいる。それが川のせせらぎだと気付いた時、彼女は追い立てられるように目を覚ました。
「ごほっ!けほっ……!」
「はっ!ホタルぅ!」
「ワ……ワタル……?」
突然ワタルに抱きしめられ、ホタルは目を白黒させた。ワタルの、思いのほか硬い胸板の感触が、頬の向こう側にある。気持ち悪いと口汚く罵る以前に、自分の置かれている状況がよくわからない。
いつの間にか夜が明け、朝になっている。足元を見ると、大きな丸石が途方もなく敷き詰められているのがわかる。幅が百メーターはあろうかという大河のほとりを埋めている。背後にあるのは深い緑、背丈の高い森だ。
「よかった……お前、全然目ぇ覚まさねえからさ!」
「え?なに?なにがどうやって、わたし、生きてるの?」
「フェニアスさんが助けてくれたんだ。ほら――」
ワタルが空を指さした。つられて空を見上げると、ジェットエンジンのような爆音とともに、炎を伴って飛んでくるフェニアスが見える。
フェニアスは両手にカバンを持っていた。右手にあるのはえんじ色のホタルのリュックサック。左手にはワタルのだろうか、大きめのボストンバッグ。ただ、ホタルはそのどちらにも興味を向けることができなかった。彼女の腰に吊り下げられている、灰色の大剣に目を奪われていた。
「これで回収できる分は全部だ」
二つに結んだ赤髪が、空へ逃げる熱風にバタバタとはためいている。丸石の河原には小さなカバンがいくつか積まれていて、フェニアスはその上に二つのカバンを絶妙に乗せる。
「あぁ!ありがとうございます!」
「どうして持ってきたの!?」
ふにゃふにゃとにやけるワタルの頬を、ホタルは両手で挟み込む。
「へあ?」
「け!ん!」
ホタルは語気を強めた。ワタルが締まりのない笑みをこぼすものだから、鍋が煮詰まったような怒りを感じていた。
「だって、必要なものをって、お前が言ったんじゃないか」
ワタルはあうあうと頭の後ろから音を出す。
「でも、武器なんて……」
「大丈夫か、ホタル」
威厳たっぷりの声が胸奥に響き、ホタルは思わず背筋をしゃっきり伸ばす。
「え、えぇ……ありがとうございます。フェニアスさん」
「礼はいい」
フェニアスはぷい、とそっぽを向く。
それが機嫌を損ねた女子のように可愛くて、ホタルは思わず見とれてしまう。
「動けるようなら、早くここを発った方がいい。朝日が昇って二時間はたつ。ドレイクは抜け目のない男だ。すぐに追手が来るぞ」
ホタルは雄大な大自然の中を走る。左手にはゆったり流れる銀色の大河が、その向こうには無限に続く碧い大草原が、右手には、古より息づく高き深き緑の森が続く。歩いてもあるいても、地平線の向こうから同じ景色がやってくる。果てが見えない。えんじ色のリュックサックが肩に重くのしかかる。
フェニアスは腰から大剣を吊り下げ、ホタルとワタルが持ちきれなかった荷物を全部担いでいるのに、誰よりも速く、また息を飲むほど優雅で、洗練されていた。ホタルやワタルは何度も河原の石を蹴飛ばし、つまずくのに、フェニアスは一つの石も弾かない。常に先行し、時々立ち止まっては、後ろを振り返る。ルビーのような瞳に見つめられる度、ホタルは遅れまいと足を速める。しかし、舗装面を歩くことを想定しているローファーでは、ざくざくした河原を歩けない。何度もなんども足先をさする。
大河はやがて、左右に支流を持った。ホタルたちは水の流れと逆方向に進んでいるから、おそらく、源流に近づいているのだと思う。フェニアスは、右へゆるやかにカーブを描くそれに沿って、森の中へ歩を進める。ワタルに続いて、ホタルも森へ入る。靴底の感覚が、しっとりとした大地に変わる。川のせせらぎは後方へ消え、代わりに、葉が風にそよぐ音が、首すじを心地よく撫ぜる。
森の中には太古の時間が流れていた。修学旅行で見た屋久杉なんて目じゃない。それらの二倍以上も太く、大きい木々が所狭しと生え、巨大なうちわのような葉が生い茂って、陽光をエメラルドグリーンにフィルタしている。巨人の血脈のような根が、地中で行き場を失って、土の上をのたうちまわっている。時にはあまりに巨大すぎて、ワタルの手を借りなければ体を乗せることさえできない。フェニアスはもちろん、ひとっ飛びで乗り越える。
シカやイノシシ、クマなどが出やしないかとホタルは心配になったが、森はいたくひっそりとしていた。ホタルたち以外には、アリの子一匹いないような、不安さが残る静けさだった。
「人間が木を切り倒したからだ」
肩にかけたカバンから水筒を取り出し、フェニアスが言う。
差し出されたそれを受け取りながら、ホタルは心がささくれ立つのを感じる。
「みな、怯えて逃げだしてしまった」
ワタルが持ってきたカロリーバーをリスのように素早くかみ砕き、束の間の休憩を終える。
ホタルたちは再び森の中を駆ける。ほんのわずかだが、登っているように感じる。大河から別れた支流に、何度か大きな段差が現れる。岩の隙間を水がどぼどぼ音を立てながら落ちている。フェニアスは自身の背丈ほどあろうかという岩を飛び越え、ジャマな荷物をどこかへ置くと、帰ってきて手を差し伸べてくれる。ホタルたちは幾度となくフェニアスにひっぱりあげられる。登り切ったところでぜえぜえと息を整えていると、フェニアスはいつの間にか大荷物を抱え上げている。
歩行に加えて、両腕や腹筋、背筋まで使う昇降運動の繰り返し。段々、気分が悪くなってくる。これが疲労からくる気だるさだけでないと気付いたのは、行動を開始して三時間ほどがたった後だった。
体の奥底で、自分ではない何か別の生き物が鼓動しているような違和感を覚える。ドクンドクンと、心臓よりも大きな音が、鼓膜を内側から叩く。左肘と肩が焼けるように熱く、胸と脇腹には度々、刺すような激痛が走る。痛みはさざ波のように繰り返しやってきて、ほっと息をついた数刻後に、また激しくズキンズキンと痛みだす。
ローファーが木の根のこぶに当立った時、ちょうどその激痛が襲ってきて、ホタルは、頭の片隅で踏ん張っていた自分の気力がくじける音を聞いた。
「ホタル!」
ワタルの声が、どこか遠くでこだましている。硬い胸板に、ホタルは頬をぶつける。そのままずり落ちる。
「どうして!?治ったんじゃ……!」
「私の炎には治癒能力があるが、作用するのは人体組織だけだ。弾の摘出まではできない」
「じゃ、弾が残ってる?」
ワタルの声がみじん切りされたように切羽詰まっている。フェニアスが無言で頷くのを、視界の端で薄ぼんやりと感じる。
「そんな……!」
「城まで戻ればなんとかなる。だが、飛べばドレイクに見つかってしまう」
「ワタル……大丈夫……大丈夫だから……」
ホタルはうなされたように呟いた。ワタルの腕を掴み、立ち上がろうと考えた。しかしすでに、玉のような汗が額に浮きだし、マラソンでも走ったかのように呼吸が乱れていた。
そこからどうやって進んだのか、ホタルはよく覚えていない。
いつの間にか日が暮れて、夜になっていた。月明かりの届かない森はほとんど真っ暗だった。
大きな木の根に頭をあずけて、ワタルが持ってきたカロリーバーをまたはんだ。大河から距離をとったのだろう、川のせせらぎが、木の幹を通じて異世界の出来事のように聞こえる。
ホタルは息を吐いた。沸騰したやかんのように白い。外の世界は夏真っ盛りだが、この世界はひどく寒い。あの滝をくぐった瞬間、世界の理そのものが書き換わるのだ。体の奥底で不気味な熱が燃え上がっていても、唇の先まで震えあがる。吐き気と汗がとめどなく溢れ、ホタルは座ることさえ苦しくなる。ワタルがそっと――なんなら、ホタルの体を抱くように――体をくっつけてきたが、原因不明の体調不良に悩まされている身では、もはやスケベの三文字すら口にする元気がなく、右半身に感じる暖かさに、すがるように頼るほかなかった。
「二人とも、こっちに来なさい」
どこからか、フェニアスの声が聞こえる。
右耳に当たっているワタルの胸が、ドキンコドキンコ高鳴り始める。
「え!?いや、でも――」
緊張の中に邪な考えが混じっていることを、ホタルは意識のカーテンの向こう側に感じる。
「いいから来なさい。火は焚けない」
フェニアスは穏やかにそう言った。ホタルはワタルに連れて行かれ、フェニアスの左わきに頭をうずめた。反対側で、ワタルが心底申し訳なさそうに同じことをしているのが見えた。
フェニアスの肌に触れたとたん、布団の中に湯たんぽを入れたような、優しい暖かさを感じた。体の芯からじんじんと温めてくれる熱が、彼女の体からにじみ出ているのだ。
「すごい……暖かい……」
ただ暖かいことが、こんなに心地のよいことだなんて。母の胸に頭をあずけた時のように、ホタルはしみじみと感じていた。
安心すると不思議なもので、ゆるやかに睡魔に引き込まれる。半分寝ているような、起きているような、曖昧な意識の中でホタルは聞く。
「あなたは、人間なの……?」
「半分だけな。さぁ、寝なさい。私が見張っている」
フェニアスの手が、頭の上に乗せられる。手の平がカイロのように暖かくて、ホタルはうっとりと目を閉じる。
「すまない。私のせいで、ドレイクにさえ見つからなければ」
「ううん……ある程度覚悟はしてた……先にひどいことをしたのは、わたしたちの方だから……」
まどろみの中、ホタルは贖罪をつぶやいた。
「それでも、お前が責を負うべきではなかった」
フェニアスは毅然とした口調で否定した。
「わたしたち、もう帰れないのかな」
「大佐が許してくれるとは思えない」
フェニアスの大きな胸の向こうで、ワタルが渋柿を食ったように顔をしかめていた。
「今大切なのは生き延びることだ」
フェニアスはワタルの頭にも手をかけ、子守唄を歌う母親のように、ゆっくりとしたリズムで優しく叩いた。
「寝なさい。考えても、考えなくても、朝は来る」
基地は未だ、騒然としていた。
大勢で瓦礫をめくり、仲間を探す兵士。重機を操り、ひっくり返った車を吊り上げる兵士。フェニアス(とドレイク)が破壊した壁を補修するため、鉄板を乗せたトラックを運転する兵士。それら下々の働きアリを尊大な態度で俯瞰しながら、ドレイクは、まさに自分が破壊した壁際でタバコをくゆらせていた。
大穴から見える景色はIMAXシアターに匹敵する大パノラマだ。それだけの面積が基地の壁面に開いていた。というか開けた。眼前には今、基地の後ろ側を流れる大河と、その向こうに広がる大草原が美しいコントラストを描いている。草花が湛える朝露が、朝日を反射して大変に清々しい。草原の左奥で長々と伸びている黒い通路だけが、視界の中で唯一薄ら寒い。あれは滝壺へ続くものだ。鉄板で囲わないと、業者が安全に行き来できないのだ。
「忌々しい。ドレイク、ここは禁煙だ」
引き裂いた段ボールに背中をなぞられた。ドレイクはタバコを足下に落とし、ミリタリーブーツの踵でぐりぐりとつぶした。
「申し訳ありません。外かと思いまし、て」
自分のことを棚に上げて皮肉った。
「派手にやったな」
「手加減すればこっちが死にます。あ、いや、こっちは死にます。こっちだけが」
途中で言い間違いに気付き、一応訂正を挟む。
「申し訳ありませんが、給料引きにしていただけますか?あいにく手持ちがなくて」
「忌々しい。酒と煙草をやめろ」
「一度でも彼女を捕らえられたことが奇跡です。以前も申し上げましたが」
「協力者が?」
「火災でデータセンターが焼けました。防犯カメラの映像を精査するのは困難です。証拠がない。ただ――」
ドレイクは一瞬言いよどむ。しかし兵士たちには無線で流してしまった事実だ。いずれバレる。
「彼女は、ウラオー・ホタルを連れていました」
この言い方が表面張力、限界ギリギリだ。
「なんだと!?」
雇い主は白く濁った眼を極限まで大きく見開いた。
「ウラオー博士の娘です」
「そんなことはわかっている。手引きしたと?」
「まさか、かしこいはずです。仮にも博士の肉親だ」
「だが彼女は、環境問題に熱心だと聞いている」
我が雇い主は両手で杖を揉みしだき、ドレイクに疑うような視線を投げかける。
「環境活動家というのは厄介だ。脳の構造が普通と違う。人権活動家にも通ずるものがあるのではないか?」
ドレイクはスキットルを取り出し、アルコールに逃げる。
「ウラオー博士を呼び出せ」
「拷問しますか?私が?」
「いや、それは私がやる。お前は娘の捜索にあたれ」
「彼女ではなく?」
「博士がどこまで話しているかわからん。だがもし……ダインスレイヴについて話しているなら……」
雇い主が言わんとすることを、ドレイクは熟年夫婦の一言より速く理解した。
それを実行するだけの胆力と実力を自分が持ち合わせていることを、この時ほど恨めしいと思ったことはない。
「ま、そうです、な」
――記憶。西暦2045年8月11日。福建省奥地、メンセス川ほとり。
ホタルは穏やかなまどろみの中にいた。ぽかぽかと火照った体を、ちょうどよく冷やすように、ひんやりとした感触が包み込んでいる。それが川のせせらぎだと気付いた時、彼女は追い立てられるように目を覚ました。
「ごほっ!けほっ……!」
「はっ!ホタルぅ!」
「ワ……ワタル……?」
突然ワタルに抱きしめられ、ホタルは目を白黒させた。ワタルの、思いのほか硬い胸板の感触が、頬の向こう側にある。気持ち悪いと口汚く罵る以前に、自分の置かれている状況がよくわからない。
いつの間にか夜が明け、朝になっている。足元を見ると、大きな丸石が途方もなく敷き詰められているのがわかる。幅が百メーターはあろうかという大河のほとりを埋めている。背後にあるのは深い緑、背丈の高い森だ。
「よかった……お前、全然目ぇ覚まさねえからさ!」
「え?なに?なにがどうやって、わたし、生きてるの?」
「フェニアスさんが助けてくれたんだ。ほら――」
ワタルが空を指さした。つられて空を見上げると、ジェットエンジンのような爆音とともに、炎を伴って飛んでくるフェニアスが見える。
フェニアスは両手にカバンを持っていた。右手にあるのはえんじ色のホタルのリュックサック。左手にはワタルのだろうか、大きめのボストンバッグ。ただ、ホタルはそのどちらにも興味を向けることができなかった。彼女の腰に吊り下げられている、灰色の大剣に目を奪われていた。
「これで回収できる分は全部だ」
二つに結んだ赤髪が、空へ逃げる熱風にバタバタとはためいている。丸石の河原には小さなカバンがいくつか積まれていて、フェニアスはその上に二つのカバンを絶妙に乗せる。
「あぁ!ありがとうございます!」
「どうして持ってきたの!?」
ふにゃふにゃとにやけるワタルの頬を、ホタルは両手で挟み込む。
「へあ?」
「け!ん!」
ホタルは語気を強めた。ワタルが締まりのない笑みをこぼすものだから、鍋が煮詰まったような怒りを感じていた。
「だって、必要なものをって、お前が言ったんじゃないか」
ワタルはあうあうと頭の後ろから音を出す。
「でも、武器なんて……」
「大丈夫か、ホタル」
威厳たっぷりの声が胸奥に響き、ホタルは思わず背筋をしゃっきり伸ばす。
「え、えぇ……ありがとうございます。フェニアスさん」
「礼はいい」
フェニアスはぷい、とそっぽを向く。
それが機嫌を損ねた女子のように可愛くて、ホタルは思わず見とれてしまう。
「動けるようなら、早くここを発った方がいい。朝日が昇って二時間はたつ。ドレイクは抜け目のない男だ。すぐに追手が来るぞ」
ホタルは雄大な大自然の中を走る。左手にはゆったり流れる銀色の大河が、その向こうには無限に続く碧い大草原が、右手には、古より息づく高き深き緑の森が続く。歩いてもあるいても、地平線の向こうから同じ景色がやってくる。果てが見えない。えんじ色のリュックサックが肩に重くのしかかる。
フェニアスは腰から大剣を吊り下げ、ホタルとワタルが持ちきれなかった荷物を全部担いでいるのに、誰よりも速く、また息を飲むほど優雅で、洗練されていた。ホタルやワタルは何度も河原の石を蹴飛ばし、つまずくのに、フェニアスは一つの石も弾かない。常に先行し、時々立ち止まっては、後ろを振り返る。ルビーのような瞳に見つめられる度、ホタルは遅れまいと足を速める。しかし、舗装面を歩くことを想定しているローファーでは、ざくざくした河原を歩けない。何度もなんども足先をさする。
大河はやがて、左右に支流を持った。ホタルたちは水の流れと逆方向に進んでいるから、おそらく、源流に近づいているのだと思う。フェニアスは、右へゆるやかにカーブを描くそれに沿って、森の中へ歩を進める。ワタルに続いて、ホタルも森へ入る。靴底の感覚が、しっとりとした大地に変わる。川のせせらぎは後方へ消え、代わりに、葉が風にそよぐ音が、首すじを心地よく撫ぜる。
森の中には太古の時間が流れていた。修学旅行で見た屋久杉なんて目じゃない。それらの二倍以上も太く、大きい木々が所狭しと生え、巨大なうちわのような葉が生い茂って、陽光をエメラルドグリーンにフィルタしている。巨人の血脈のような根が、地中で行き場を失って、土の上をのたうちまわっている。時にはあまりに巨大すぎて、ワタルの手を借りなければ体を乗せることさえできない。フェニアスはもちろん、ひとっ飛びで乗り越える。
シカやイノシシ、クマなどが出やしないかとホタルは心配になったが、森はいたくひっそりとしていた。ホタルたち以外には、アリの子一匹いないような、不安さが残る静けさだった。
「人間が木を切り倒したからだ」
肩にかけたカバンから水筒を取り出し、フェニアスが言う。
差し出されたそれを受け取りながら、ホタルは心がささくれ立つのを感じる。
「みな、怯えて逃げだしてしまった」
ワタルが持ってきたカロリーバーをリスのように素早くかみ砕き、束の間の休憩を終える。
ホタルたちは再び森の中を駆ける。ほんのわずかだが、登っているように感じる。大河から別れた支流に、何度か大きな段差が現れる。岩の隙間を水がどぼどぼ音を立てながら落ちている。フェニアスは自身の背丈ほどあろうかという岩を飛び越え、ジャマな荷物をどこかへ置くと、帰ってきて手を差し伸べてくれる。ホタルたちは幾度となくフェニアスにひっぱりあげられる。登り切ったところでぜえぜえと息を整えていると、フェニアスはいつの間にか大荷物を抱え上げている。
歩行に加えて、両腕や腹筋、背筋まで使う昇降運動の繰り返し。段々、気分が悪くなってくる。これが疲労からくる気だるさだけでないと気付いたのは、行動を開始して三時間ほどがたった後だった。
体の奥底で、自分ではない何か別の生き物が鼓動しているような違和感を覚える。ドクンドクンと、心臓よりも大きな音が、鼓膜を内側から叩く。左肘と肩が焼けるように熱く、胸と脇腹には度々、刺すような激痛が走る。痛みはさざ波のように繰り返しやってきて、ほっと息をついた数刻後に、また激しくズキンズキンと痛みだす。
ローファーが木の根のこぶに当立った時、ちょうどその激痛が襲ってきて、ホタルは、頭の片隅で踏ん張っていた自分の気力がくじける音を聞いた。
「ホタル!」
ワタルの声が、どこか遠くでこだましている。硬い胸板に、ホタルは頬をぶつける。そのままずり落ちる。
「どうして!?治ったんじゃ……!」
「私の炎には治癒能力があるが、作用するのは人体組織だけだ。弾の摘出まではできない」
「じゃ、弾が残ってる?」
ワタルの声がみじん切りされたように切羽詰まっている。フェニアスが無言で頷くのを、視界の端で薄ぼんやりと感じる。
「そんな……!」
「城まで戻ればなんとかなる。だが、飛べばドレイクに見つかってしまう」
「ワタル……大丈夫……大丈夫だから……」
ホタルはうなされたように呟いた。ワタルの腕を掴み、立ち上がろうと考えた。しかしすでに、玉のような汗が額に浮きだし、マラソンでも走ったかのように呼吸が乱れていた。
そこからどうやって進んだのか、ホタルはよく覚えていない。
いつの間にか日が暮れて、夜になっていた。月明かりの届かない森はほとんど真っ暗だった。
大きな木の根に頭をあずけて、ワタルが持ってきたカロリーバーをまたはんだ。大河から距離をとったのだろう、川のせせらぎが、木の幹を通じて異世界の出来事のように聞こえる。
ホタルは息を吐いた。沸騰したやかんのように白い。外の世界は夏真っ盛りだが、この世界はひどく寒い。あの滝をくぐった瞬間、世界の理そのものが書き換わるのだ。体の奥底で不気味な熱が燃え上がっていても、唇の先まで震えあがる。吐き気と汗がとめどなく溢れ、ホタルは座ることさえ苦しくなる。ワタルがそっと――なんなら、ホタルの体を抱くように――体をくっつけてきたが、原因不明の体調不良に悩まされている身では、もはやスケベの三文字すら口にする元気がなく、右半身に感じる暖かさに、すがるように頼るほかなかった。
「二人とも、こっちに来なさい」
どこからか、フェニアスの声が聞こえる。
右耳に当たっているワタルの胸が、ドキンコドキンコ高鳴り始める。
「え!?いや、でも――」
緊張の中に邪な考えが混じっていることを、ホタルは意識のカーテンの向こう側に感じる。
「いいから来なさい。火は焚けない」
フェニアスは穏やかにそう言った。ホタルはワタルに連れて行かれ、フェニアスの左わきに頭をうずめた。反対側で、ワタルが心底申し訳なさそうに同じことをしているのが見えた。
フェニアスの肌に触れたとたん、布団の中に湯たんぽを入れたような、優しい暖かさを感じた。体の芯からじんじんと温めてくれる熱が、彼女の体からにじみ出ているのだ。
「すごい……暖かい……」
ただ暖かいことが、こんなに心地のよいことだなんて。母の胸に頭をあずけた時のように、ホタルはしみじみと感じていた。
安心すると不思議なもので、ゆるやかに睡魔に引き込まれる。半分寝ているような、起きているような、曖昧な意識の中でホタルは聞く。
「あなたは、人間なの……?」
「半分だけな。さぁ、寝なさい。私が見張っている」
フェニアスの手が、頭の上に乗せられる。手の平がカイロのように暖かくて、ホタルはうっとりと目を閉じる。
「すまない。私のせいで、ドレイクにさえ見つからなければ」
「ううん……ある程度覚悟はしてた……先にひどいことをしたのは、わたしたちの方だから……」
まどろみの中、ホタルは贖罪をつぶやいた。
「それでも、お前が責を負うべきではなかった」
フェニアスは毅然とした口調で否定した。
「わたしたち、もう帰れないのかな」
「大佐が許してくれるとは思えない」
フェニアスの大きな胸の向こうで、ワタルが渋柿を食ったように顔をしかめていた。
「今大切なのは生き延びることだ」
フェニアスはワタルの頭にも手をかけ、子守唄を歌う母親のように、ゆっくりとしたリズムで優しく叩いた。
「寝なさい。考えても、考えなくても、朝は来る」
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