黒犬と山猫!

あとみく

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バレンタインの物理学合宿

第112話:宇宙はロマンでも宇宙人は怖い

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 結局京王線は動いているみたいだが、大幅に遅れが出ているらしい。東横線が追突事故を起こしたり、何だか大変なことになっていたみたいだった。
 二人でそれぞれ携帯でニュースを見て、黒井が「もういい?」と訊いてきた。
「え?」
「もう、いいでしょ?合宿二日目」
「・・・三日目、だよ」
「そうか。・・・ね、今日は夜食出る?」
「・・・はいはい、出ます」
「はは、俺、お前がキレるといつもびっくりする。で、何でか、終わってから、ああ楽しかったって思う」
「・・・あっそう」
「・・・その、どこにも行けないってやつさ。いつか俺たち、ぶち破ってやろうよ。諦めたりしないで、やっちゃおうよ。温泉だって、行ったじゃん。いろいろあったけどさ」
「・・・そうだね、いろいろ、あった」
「いいじゃん。ぶっつけ本番、何でもありだよ。俺、アドリブも結構好きでさ」
「そう、だろうね」
「はは」
 僕はチョコの最後のかけらを口に入れて、じわじわと溶かした。何だろう、これが、親友ってやつなの?愚痴でもキレても聞いてくれて、<俺たち>なんて言ってくれて、本当に?
 そんなわけ、あるのかな。そんな、僕だけに都合のいい話、あるはずない。巧妙に隠されてるんだろう。どこかには積み上がってる。ためてしまった洗濯物や洗い物が勝手に片付くことなどなくて、放置すればいつか異臭がしてカビが生える。これはきっと、背負ったリスクじゃなくてツケの方。今の僕は部屋着のまま帰るわけでなし、ただ甘えてるだけだ。知りたくはないけど話は聞きたいなんて主張も通したまま、熱で倒れたわけでもないのに、おんぶにだっこ。
 きっとこのツケは大きいな。
 身体で払えるものじゃないな。
 そんな確かな予感がありつつも、このまま泊まってしまって、また黒井の話を聞きたいと願ってしまった。いつまでも、聞いていたいって。

 夜食は簡単なチャーハンに紅しょうがを混ぜて、お茶がないのでまたウイスキーのお湯割り。黒井は一日中家にいたくせによく食べた。僕が洗い物をしたり、こまごまと家事をする間もずっと座って本を読んでいて、でも僕はそれが好きだった。見ているのも好きだし、ドアの向こうにそれを感じるのも好きだ。そしてまた、楽しくてしょうがないという顔で何か話してくれるのを待っている。
「ねこー!おかわり!」
 部屋からご注文が入った。
「え?酔っ払わない?」
 また出してもらったエプロンの紐を解きながら部屋をのぞく。グラスは僕の分まで空になっていた。
「お前、この薄くてまずいの、気に入ってるの?」
「うーん、まあ、何かちびちびやってるとなくなる」
「ふうん」
 ちょっとだけ、また酔っ払って絡んでこないかなあ、なんて期待している自分がいた。そして、そういえば昼間、黒井先生にちょっと襲われた、と思い出し、呼吸が浅くなった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 僕はノートを開いて、今までのまとめを始めた。<ブラックホールとホログラム>について、何が分かったのか。何が分かっていないのか。
 まず、ブラックホールというのは重力崩壊を起こした天体で、たとえば太陽なら、爆縮して半径3キロくらいの大きさになったらそうなるらしい。名もなき悪魔。それはもはや太陽ではない。
 縮みすぎた中心が特異点で、これについては現在の物理学でもお手上げらしい。何が起こっているのかは全く不明。ホワイトホールに繋がっているだとか聞くが、科学者たちでもそんなSFっぽい説を推すことも退けることもあまりなく、さらっと流してしまうような、そんな状況のようだ。
 そして、その超重力と光の速さがつり合うところが事象の地平線。光がこちら側に届かないということは、ただ見えないという意味だけでなく、物理的にどんなモノも情報も、そして時間と空間すら隔絶されているということ。それは考えられる限りの断絶。そこにあっても、地続きではない、パラレルワールド。その境界が、すべてのこちら側とあちら側の事象を隔てる、地平線というわけだ。
 さて、ブラックホールに落ちた情報は、失われるのかどうか。堕ちたものすべてが悪魔の一部になってしまって、質量保存の法則は守られるかもしれないが、熱力学の第二法則というのが守られないらしい。エントロピーという、世界の乱雑さの尺度。放っておけばこの部屋が必ず汚くなっていくように、綺麗にまとめられていたものはいつか必ず散らばって、ムラなく広がっていく。コップは落ちて破片になるが、勝手に破片がコップになることは絶対ない。洗い物だって、僕がやらなきゃ絶対片付かない。エントロピーは必ず増え続ける。だから、ブラックホールという便利なゴミ箱に入れたからって、世界から乱雑さが消え失せてしまったのでは、法則が守られない。
 しかしどうやら、ブラックホールは少しずつ蒸発しているらしい。それと同時にエントロピーも戻ってくるという説もある。結論は出ていない。実験で確かめられる対象ではないので、相対性理論と量子力学を駆使しても、分からないらしい。
 そこで、エントロピーとホログラムの原理を使った新しい可能性が探られている。 
 事象の地平線、正確には地平面だが、これはただ単にそういう地点であって、本当に膜として特異点を覆っているわけではない。けれども、その架空の膜の表面積の持ちうる情報量はその中身と等しい。エントロピーという尺度を情報、つまりビットという尺度に置き換えれば、事象の地平面にホログラム用の特殊な光を当てて、中の立体情報を引き出すことだって・・・というのももちろん確かめられはしない。何やら難しい数学?上ではそのあたりで何か驚くべき一致があるらしいが、そこまでは分からなかった。
 数学上のことは分からないが、僕の興味の範囲でいえば、世界一、宇宙一の精度のブラックボックスに隠された情報を、ホログラム立体として引き出すというのは大変魅力的なアイディアだった。聞けば、LHCとやらでミニ・ブラックホールが生成される可能性があるとかないとか。そして、ブラックホールにとどまらず、宇宙のすべてが、それを覆う架空の膜に投影されているかもしれない、という。それは、投影ということはつまり、その二次元の膜の方が映画のフィルムの元であって、僕たちはそこから光を当てられて浮き上がっただけの存在なのかもしれない。モザイクの二次元バーコードとそこから浮かび上がる立体は、数学的には等価だ。僕が動くから影も動くと思っているけど、逆に、影が動くから僕も動くというのも、理論上は全く変わらず機能する。僕の脳みその配線までもがどこかの膜に貼り付いたバイナリ情報の慣れの果てで、それって何だか映画の<マトリックス>みたいだ。
 資料に目を落とし、そこに書かれた文字をノートに書き移す。
 <It from bit>
 特異点だの地平線だの、手に取って触れないような物体の話ばかりだ。物理学なのに、物がない。タイプライターがパソコンになったように、やがては<0>と<1>の情報に還元されていく。パラメータさえ入力すれば、3Dプリンタで何でも作れるようになる。原子だって組み替えられたら、空気からリンゴが作れる。脳みそを読み取れたら秘密なんかなくなって、スパイを拷問する必要もなくなる。え、脳みその中身はその表面積に、つまり頭蓋骨に書いてあるの?それじゃやっぱり頭の皮を剥がれるのかな。黙秘に意味はない、拷問ではない処理。嫌だなそんなの、覚悟も駆け引きもあったもんじゃない。それならもう言っちゃうよ、好きだって。
 ついノートに<好き>と書いてしまい、あわててぐちゃぐちゃと消した。黒井がたまに、僕に好きな人がいるというようなことを言うから冷や冷やするんだ。
 余韻を残してゆっくりと、ノートを閉じた。
 ・・・うん。分かったような、分からないような。
 もう少し、もうちょっと、という思いがあった。まだつかめてない。自分なりの跳躍が出来てない。この取っ掛かりをどう、出来るのか。魔法の石で本当の魔法を、使うための呪文・・・。
 どこかに行ける、ふとそう思った。どこにも行けない、としか思えなかったさっきの思考。でも、ブラックホールを通り抜けて、別の次元、別の方向は、きっとある。それは現実の生活や会社の中じゃなくて、もっと自分の中。黒井が僕の目を覆ったあの時の、あの、僕の中。それはきっと暗いところだ。
 ・・・世界はどうにでもなる。僕の中身は僕の表面積で、内側と境界が等価になれば、中身はパラレルワールドだ。急にゲシュタルト崩壊を起こす。中身。身体の中身、脳みその中身。心はどこにある。この思考を今紡いでいる本体はどこにいる。皮膚の表面を撫でて、でも、中身の肉なんか、骨なんか見たことない。本当は何が詰まってるんだろう?心臓と臓物しか入ってないなら、<僕>なんてどこにいるんだろう?It from bitなら、僕は何で出来てるんだ?
「ねこ?」
「・・・は?」
 目を見開いて正面を見た。黒井がいる。ああ、黒井の部屋だ。
「・・・何かいた?」
「え?」
「この辺?」
「はい?」
 黒井はベッドの下の辺りを手で示す。え、何かいたの?怖いよ、そんなとこに。
「すっごいずっと、睨んでたじゃん」
「へ?」
「怖いよ」
「お、俺が怖いよ」
「え、お前って何が怖いの?死体も怖くないのに?」
「・・・」
 しばらく考えた。怖いもの?そりゃ死体だって突然落ちてきたら怖いけど、でもそれより、幽霊より、怖いもの・・・。黒井の手で示されたあたりをじっと見る。ベッドの下、もし出てきたら怖いもの・・・。
「宇宙人」
「ぎやあああっ」
 黒井が飛び上がって僕にすがりついてきた。僕も驚いて「うわあああっ」とわけもわからず抱き合う。
「な、なに、何かいるの!?」
「やだやだやだ!ずっと、そこ、俺、座ってた!」
「え、何なの?俺は何を見てたの!?」
「やめて!た、たすけて!」
「バカ、そ、そっち逃げても」
「ひいい、腰、抜けた!」
 ベッドの下の暗がりが、急に、イヤだよ、そんな狭いとこに宇宙人だなんて!よりにもよって宇宙人がベッドの下から這い出てくるなんて!!
 一度落ち着きかけたのに、あらためて見たらすごい嫌になって気持ち悪くて逃げ場がなくて、「うああっ!」と震える悲鳴を上げると、連鎖で黒井もまた「やめてえっ!」と、二人で部屋の端まで這って逃げた。今まで静かにずっと勉強してたのに、それが逆に、そんなモノと一緒に息をしていたかと思うと、嫌でしょうがない。ベッドの下から、どんな顔で、どんな手の角度、どんな音をさせて這い出てくるのやら!
「やだ、俺怖い話とか、やなんだよ!まさかお前そういうの見えるんじゃ・・・」
「み、見えてたまるか!」
 黒井は自分で言って、ひいいと縮み上がる。宇宙人が見える体質なんかないよ!・・・いや、あるのかな?・・・嫌だよそんなの!
「い、いいか、ここにそんなのいない。う・・・う、う・・・」
 うちゅうじんなんかいない!でも、うちゅうじん、って声に出したくなくて、詰まった。
「な、まさかお前・・・」
「・・・え?ち、違うよ、俺、う・・・」
 うちゅうじんじゃない!中から突き破って出て来たりしない!・・・よね?
「お、お前、ほんとにお前なの?う、って何?」
 黒井が若干、座ったまま後ずさる。え、やめてよ、違うって。
「う、は、うだよ」
「うって何だよ!」
「うって・・・、それは・・・、は、あははは、えへへ、う、ってのは、・・・うちゅうじんのう」
 笑い顔のまま、瞬きもせず、黒井の目を見た。
「っやあああ!」
 僕は笑いがこらえ切れなくて、腹を抱えて笑った。バーカ、バーカ!
「・・・っ!ちょ、ちょっと、違うでしょ!違うよね?ちゃんとねこでしょ!?」
 黒井がちょっとおそるおそる、僕に触れる。瞬間その手首をつかむと、「ひやあっ!」と悲鳴。
「・・・くくく、大丈夫だって、ちゃんと俺だよ。中身、ちゃんと」
「や、やだ!だから、こういうの、やなんだって!」
「あははは、何だ、怖がり」
「そうだよ!俺、トイレの蓋とか、開けるの怖くなるもん。開けたら、何か、こっち見てるんじゃないかって」
「そ、そんな悪趣味で暇なやついるか」
「お前は怖くならない?そんな、怖いDVDとか見てさ、一人で、夜中」
「・・・別にホラー映画じゃないし、怖くはないよ。それにもし何かあっても、最終的に殺されるんならそれはそれだし」
「そ、そういうことじゃ、なくてだよ・・・」
「でもお前、そんなんでよくあの現場に出入り出来たな。あんな、真っ暗な建物」
「あ、あれは別。トイレは怖かったけど、あそこはその、別世界だったから」
「・・・え?」
「何でもない」
「そ、そう」
 少し沈黙。・・・別世界?
 黒井は僕の手を取って立たせ、廊下へ押し出すと「トイレ開けて」と後ろからつぶやいた。トイレも怖いがベッドの下もまだ怖いのか、廊下で何度も部屋を振り返る。
「こういう時は、電気を片っ端から全部つけるんだよ。それか、逆に、全部消す」
「ええ?つける方にしようよ、何で消すの」
「だって途中で消える方が怖いし、停電したらそうなるんだし、それに追い詰められれば腹が決まる」
「・・・そんな決まる腹ない。全部つけよ、ね?」
 いっそブレーカーを落としてやろうかなんて思うけど、おしっこするには不便か?と思いやめてあげた。こんな時間からトイレ掃除をしたくない。
 ・・・い、いや、黒井のおしっこならいいかとか、そういう変態な趣味は、た、たぶんない。かけられたいとかそんなこと・・・。う、うん、かけられるなら、別の液体がいいし、なんて。
「ほ、ほら、全部つけるし、待っててやるからさっさとしてこいって」
「さ、先にふた、開けて」
「分かった分かった」
 僕はトイレの蓋を開け、廊下と玄関とキッチンの電気をつけてやった。ああ、怖いときはテレビとか見てると白々しくて現実に戻れるけど、ここにはないもんな。
「なんもいない?」
「いないいない」
「と、トイレのドア、開けてていい?」
「だめだめ。黒井先生、もういい大人だよ?」
「お、大人とか関係ない!」
「ほら、ここで俺やかんに火かけて待っててやるから。何か音がしてた方が怖くない」
「そ、そうかもね」
「そして、戻ってきたらやかんだけが鳴っている」
「や!やめて!お、俺を怖がらせて、楽しんでるでしょ!悪趣味はお前だよ!」
 うっ、何だか、さっきのおしっこのことを言われたようでどきりとする。悪趣味、ですね、すいません。
 結局黒井はトイレのドアを最後まで閉じず、お酒のせいか、やたら長いおしっこをした。別に僕だって怖がりだけど、もっと怖がってる人がいれば全然大丈夫になるってだけだ。
 たき火のように、やかんに手をかざして暖を取った。・・・別世界って何だろう。黒井は本番でどんな別世界を見ていたんだろう。やがて流す音がして、「よかった、ちゃんといた」とクロが綺麗に微笑んだ。
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