上 下
4 / 8
学習性無力感

4

しおりを挟む
あの日のことを思い出すと、とてもじゃないけど耐えられなくなった。

どこまで逃げても記憶はあたしを追いかけ、追い詰める。
日本の裏側に存在している遥か遠いブラジルへ逃げたってこの忌々しい記憶から逃れることはできないでしょうね。

無気力なあたしは一ヶ月以上も天日干しをしていないジメジメしたタオルケットに顔を突っ込んだ。
まるで亀が甲羅に顔を引っ込めるように。

身体は疲れているよ。
でもそれとは正反対に頭の中は覚醒状態。ちょっとでも忌々しい過去の記憶に支配されてしまえば、また一睡も出来ずに朝を迎えてしまうんだ。

今の精神状態では寝付けるはずない。

今度は呼吸が苦しくなってきて、タオルケットから顔を出す事にした。

膝を立てた状態で腕を伸ばしコードを引っ張ってお部屋の電気をつける。
すぐさま1Kの狭いお部屋は隅々まで明かりが行き届いた。

気を紛らわさせたくて手元にあるラジオをかけた。

「それは辛いですね。」
スピーカーから悩める相談者に寄り添うDJの声が聴こえてくる。

そっか、今日は月曜日だった。
この時間帯は悩み相談をしている番組が放送されているんだよね。
すっかり忘れていたよ。

DJは一昔前まで国民的アイドルとして活躍していてテレビで観ない日はないと言われるくらい大人気だった。
当時はバラエティの女王と呼ばれていたんだけど現在はラジオ番組だけの人。

世間と恋愛観に関する意見の相違があっただけで心ない人達に誹謗中傷されて彼女のTwitterアカウントは大炎上した。
その後、彼女は謝罪に追い込まれていたっけ。
あたしは可愛い衣装を着ていたアイドル時代より今の方が好き。
時間が許す限り親身になって相談者の悩みを聞いて解決の糸口を一緒に考える人だもの。

炎上した時、ネットのニュースサイトで匿名の人物が書き込みしたコメントを読んだ。
"事前に放送作家が書いた台本ありきのヤラセ番組だ"なんて書かれていたけれど暖かい言葉は彼女自身の等身大の言葉であり、発言も本心だと信じているよ。

あたしは敷き布団の上で胡座をかきながら彼女の声に耳を傾けていたのもつかの間、聴き始めてから五分ほどで番組は終了しちゃった。

もういつものエンディング曲が流れている。
寂しげなこの曲は70年代から活躍していたイギリス人アーティストの曲で全国ツアー中に狂信的なファンに刺されてあたしが生まれる前に亡くなっている。
犯人が犯行に及んだ理由は「ヤツが商業主義に取り込まれていくのが見るに堪えなかった。俺は救いの手を差しのべようと思っただけさ。」だって…。

あたしは唯一の友達にドタキャンされた日曜日、図書館で借りた例の本を思い出した。

テーブルの真ん中に置いてあった「ポジティヴ心理学入門書~幸せの一歩~」を手に取る。

活字ばかりのページを捲り読みかけの箇所を見つけたくて人差し指で線を引くように探したの。

あった、あった。ここだ!

学習性無力感について長々と検証や考察、実験したレポート等がページからはみ出すくらい書かれていて、あたしは何度も本を閉じようとした事か。

あたしとは別世界で生きているアメリカ人の大学教授の文章は地球から遠く離れた惑星から目が眩むほどの得たいのしれない眩しい光線を放っていて、わざと解読不可能なものにしているようにさえ思った。

あたしは天体望遠鏡を用いて解読不可能な文章を全て理解しようとするのをやめたよ。
その光線で目が潰れてしまうから。

ここに書かれている文章は全て日本語。
分からない専門用語ばっかりだけど、根気よく読む事で断片的なものを繋ぎ合わせている感じ?
読解力がないなりに、光線を遮る事が少しだけ出来たよ。

うん。少しだけね。




失敗を続けると次もきっとミスをすると思ってしまう。
何度やっても上手くいかない事ばかりだからますます行動ができなくなってしまい、次第に消極的な芽がどんどん伸びてゆき今や立派な大木になった。
その大木となった樹木を切り倒す術は持ち合わせていない。
この本に登場した27歳のアメリカ人男性が著者に語る文を読んでハッとした。

あたしと同じじゃん!!
改めて学習性無力感なんだと再認識させられたよ。

この先が気になる。
もしかしたら学習性無力感から抜け出すアンサーがこの本にあるかもしれない。
例えば病気や怪我に関する本だったら症状も書いてあるだけで投げっぱなしはしないでしょ?きっと治療方法もセットで記されているはず。

あたしは難しい言葉を相手に悪戦苦闘しつつ更にページを捲った。



今までの長い文章とは異なり、結論が先に書かれていた。
「学習性無力感は後天的なものであるから楽観主義を学ぶことにより変えられる」と。

変えられ…る、のね。

読み進めていくと他にも言語的説得、代理経験、生理的喚起。
聞き慣れない言葉の説明が長ったらしく書かれているけれど、さっきと同じでこれらも日本語。

あたしは、"著者が学習性無力感に悩むみなさんが1番初めに取り組んでほしい事。"という項目を読んだ。
活字ばかりの本でも珍しく笑顔の少年少女の挿し絵が描かれていた。

「小さな達成感を得る。」が必要で初めの一歩らしい。
どんな事でもいいらしく、寧ろ継続してコツコツやれるものでなければその効果を実感できない…とも書いてある。
あたしには何が合うのかな?
継続できる事なんてあったっけ?
しかも楽観主義とやらを学ばなければならない。
難破船とともに深い深い悲観の海の底に沈んでいるあたしが。

1ページを割いて複数の例が書かれていたよ。
ジョギングを継続するとか、日記を書くだとか。
出来る事から始めてある程度の成果を得られれば自己効力感を高められるんだって。
残念ながらここに載っている例はあたしの興味をそそるものはなかった。

それはともかく、もしもここに書かれているのが事実ならば、あたしも今の人生を変えられるの…?
変えられたらいいな。
苦しんでばかりの人生から脱出したいよ。



無意識かな?ゆっくり瞼を閉じた。
あたしは心地良さに抗う事はできず、身体の力が一気に抜けていく感覚があった。









あたしはなぜだか森の中にいた。
真っ暗で怖かったから、どこからともなく聴こえてくる声を頼りに小走りでかけた。
声はだんだん近づいてくるのがわかる。

足元が見えなかったので木の枝で足をとられてしまった。
転ぶ瞬間、間一髪のところで抱き上げられた。
遠い昔に嗅いだ懐かしい煙草の匂いがする。
お礼を言おうと顔を見上げたら匂いの持ち主は死んだはずのパパだった。
あたしは感激した!
パパが生きている!!
もうパパの愛した煙草は7年前、販売停止になっている。
2度とあの匂いには会えないものだと思っていた。
子どもの頃はパパの煙草が嫌いで仕方なかったくせに今ではあたしも立派な愛煙家。
あたしが吸っている煙草なんかよりタールもニコチン量も少ないせいか、ずっと優しい匂いだ。

なぜかあたしは子どもに戻っていた。
たぶん、パパが亡くなる直前くらいの女の子に。
誰に言われたわけでもないのに、あたしの身体は勝手に動き始めて薪に適した木を拾い集めた。

パパは薪を焚べて火を起こしている。
インドア派のパパは、お得意のプログラミングを構築するのとは違って汗だくになりながら火を起こしている。

でも、とっても楽しそう。

すぐ近くにお爺ちゃんもお婆ちゃんもいる。折りたたみの椅子に隣同士で座って、笑顔で紅茶を飲みながら談笑している。

お爺ちゃんもお婆ちゃんも以前より柔和な表情だ。
晩年は2人の悩む表情ばかり見ていたけど今夜元に戻った気がする。

パパが久しぶりに家族でのんびり出来て嬉しいだって!
あの頃はいつも笑い声の絶えない家庭だった。

3人と火を囲んで楽しそうにしている時に、あたしを独り残して死んだ事をーーーーどれだけ孤独な人生を歩んでしまっているかわからせてやりたかった。

でも楽しそうな3人の顔を見たら責めるなんて到底できっこなかった。
もしもそれを口にしたら奇跡の再会を果たしたのに、あたしの側を離れていくような気がしたから。

その変わりどうしても3人に聞きたい事があった。
勿体ぶらずに胸の内をストレートに打ち明けたよ。



3人は一斉にあたしを見つめて答えてくれた。

とても真剣な表情で、「サエコは変われる。」
口を揃えてハッキリそう言ってくれた!


あたしは3人の言葉を聞いて希望が持てた。
あたしの周りに色とりどりの小鳥や蝶が飛び回っている。
赤、青、黄、緑、紫、白。

が、その小さな希望を打ち消すかのごとく何かが近づく気配が感じる。

自由に羽ばたいていた鳥も蝶もバタバタ地面に落下していく。
恐ろしい事に湯気をだして黒焦げになり果てていた。


突然、辺りが暗くなった。
パパが一生懸命、火を起こしていたのに呆気なく消えた。
どこかパパの性格を表していたような暖かみのある炎が消えてしまった事がいたく寂しかったな。

ん?ママがあたし達がいるキャンプに現れた。
なぜかママは全裸で自分の大きく弾けた胸を揉みながら歩いている。

何やら汚い言葉であたしを罵っている。
パパもお爺ちゃんもお婆ちゃんもあたしを残してどこかへ走り去ってしまった。

ママは大きめの黒いバッグのファスナーを開けて、何やらゴソゴソしている。


ママは昔話に登場する花咲じいさんみたいに高々と腕を振り上げて、何かを撒き散らした。

なんだろう?

あたしはそれを拾った。

写真だった。

驚愕した。

その写真には全部あたしが写っていて中学、高校でクラスメイト全員に無視をされ続けた日々の写真。

職場でおばさん達にいじめられているものからパワハラやセクハラを経験した時のものまであった。

呼び起こしたくない深い闇。
できる事なら忘却の彼方へ消し去ってしまいたい記憶。

全裸のママはまた黒いバッグを広げている。

今度はパパが交通事故で亡くなってからお爺ちゃんを亡くし、まるで後を追うようにお婆ちゃんも病死…。

その時の写真だ!

とても恐ろしい顔であたしを見ながら「このままだ。おまえは変われるわけがないぞ!」と言った。

ママは奇声を発しながらマッチングアプリで仲良くなった男のマンションで暮らすママとあたしの写真を天にばら撒く。

あの地獄の日々までもが写真になっている!

あたしは声にならない声をあげて眼を覚ました。






















































しおりを挟む

処理中です...