無口な少女と文芸部の僕

筋肉至上主義

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人生の光明たる少女の温かみをボクはまだ知らない

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人間というものは、なぜこうも簡単に思い上がるのだろう。
なぜこうも容易く勘違いをするのであろう。
例えば読解力がないとか、いわゆる理解力がないとか、根本的な問題を抜きにしても、人生においてはこの思い違いと言うものが往々にして起こり得るのである。

そして厄介な事に、勘違いの連続の中でボクらの評価は他人によって決定し、自身の本意を無視して世界の中にボクという仮象を作り上げるのだ。
ボクの仮象は気付けば仮象の枠をも簡単に飛び出し、現象を追い抜いてボクの世界を侵食し、そして奪い去るのである。現象と仮象の流転が何時からか逆転し、ボクという小さな存在を呑み込み没し埋る。
仮象の自己主張は際限なく強欲であり、そして現象の委縮もまた際限なく消極である。二つの乖離が決定的にまでなると、人生の意味合いも大きく変わる。
生まれた瞬間に戻るのだ。

赤ちゃんの人生は、赤ちゃん本人に力がない為に赤ちゃん自身の人生ではない。赤ちゃんを育てる人間の人生の、一部としてしか機能はしない。
赤ちゃんがどこかのタイミングで、自我を獲得し得た瞬間に、赤ちゃんにとって自身の人生は始まるのである。
仮象の偶像も似たようなものだ。ボク自身に決定権を持たず、自身の意見すら封殺されている状態で人生は等と説法したところで意味はない。
少なくとも、仮象体験に現象が押し潰されてしまった段となっては、誰かの人生の一部としてしか、その人の価値は機能しないので、必然的に自己の埋没と他者への奉仕が人生の第一義となるのである。

これら二つの人生における価値観が提示されてみれば、世間で声高に謳(うた)われる平等や公平性というものが、見当外れな、ともすると価値そのものへの冒涜に成り得る暴論へと豹変するのである。
もう一度念を押しておくと、人生の価値は同義ではない。
人の命は誰もが平等ではない。全ての誹謗中傷を恐れず言えば、一人ひとりの命の価値はまるで違う。
量的功利主義の立場をとって、最大多数の最大幸福の追求を見てみても、誰かの犠牲の上に立つ幸せというものは、人生においても全てこれ同じではないか。

ボク達が気軽に食べているチョコレート、原材料のカカオは何処で誰が、どの程度の賃金と労働の過酷さが伴い、中間を挟んでの搾取があって、大量生産における単価の低価格化が可能となり、そしてその分配がどこの層に旨味を与え、そしてどの層に負担を強いるのか。
チョコレート一つとって極めて雑に思いを巡らしただけでも、そこには公平も平等もまるで感じない諸事情の背景が、ありありと滲み出してくるのである。

ピストルの弾一つで失われる命。命は、人生は、無論個人にとっては何物にも代えがたい貴重な財産ではあるけれど、社会で見た場合には畢竟無価値に等しいのである。

そんな人生の価値を、ボクのような齢15のクソガキに求めたところで、年相応の屁理屈しか出てこないであろう一事は想像に難くない。
いいや、ボクがガキだと開き直るのは、よしんぼ若者の特権と大目に見て欲しいのだが、良い年をした大人までもが同じ感性でいるのだとしたら、甚だ滑稽この上ない。

さて長めの前振りで何が言いたいのかと問われれば、先入観で彼女の弟に対し、とてつもない敵意を持って憎悪に燃え、彼女のもとへと直談判に来たボクの恥ずかしい愚行も、若気の至りと水に流して欲しいから煙に巻こうという浅知恵です。ごめん。
「弟さんも、ボクと同じ一年生なんですか」
「……そう。年子」
ボクの早合点で本当に良かった。彼女に群がる悪い虫の類かと思って、本当に心配してしまった。
尤も彼女にしてみればいらぬ心配であろうが、彼女の事を世界で一番大好きなボクとして、そうは軽々に看過など出来ない問題だったのだ。

彼女の弟とは後日仲良くなった。将を射んとする者はまず馬を射よなんて下種の勘ぐりは止めたまえ。
彼女の全てを愛するボクが、彼女の弟を嫌う道理はないじゃないか。決して、弟から篭絡して彼女のいかがわしい情報を得よう等とは、塵一つも思っていない。

彼女の弟も、同性であるボクから見ても魅力的な痩身のイケメンである。
ボクほどの渋みは足りないにしても、十分ハンサムの称号は得られよう顔立ちだ。
そんな彼であるが、無口な彼女とは対照的に実によく喋る。ボクも弁舌が立つ部類ではあるが、根っからのお話好きというか、とにかく彼の話口調には嫌味や自己卑下のようなものがまるで無いのである。
持っている力量をそのまま顔に出し、そして言葉に乗せる。天性の才覚とも呼ぶべきものを彼は持っていた。
彼の話し言葉にだんだん魅入られていたボクはすっかり聴き手に回り、彼自身もさることながら、彼女の事も多弁に教えてくれた。

彼女は昔から声が小さく、話す事自体が好きではない。そのせいか友達も少なく、気付けば読書ばかりの毎日を送っていたそうだ。
弟の目から見ても容姿端麗、頭脳明晰の彼女は誰近寄る事もない孤高の花として狂い咲き、その様子を揶揄して『機械少女』なるあだ名まで付けられたのだとか。

ボクはこの『機械少女』という言葉が、何か可笑しかった。蔑称として付けられたあだ名ではあるのだろうが、その表現が余りに正鵠を射るので、つい失笑してしまった。
彼もそのあだ名を気に入っているようで、同じく理解者が出来た事を素直に喜んでいた。ひとしきり笑ったあと、彼は席を立ちながらボクに言った。
「じゃあ、そろそろ行くよ。お姉ちゃんのこと、よろしく――なんて弟の口からお願いするのも変だけど、キミが良い人でよかった」
「うん、ありがとう、ボクの方も楽しませて貰っているから、よろしくってのはお互い様だよ」
教室の扉を開けてから、彼はもう一度振り返り、ボクにもう一度声をかけた。
「キミが入部してから、お姉ちゃんは毎日機嫌が良いんだ。この前なんか、キミが随分と面白い熱弁を奮ったんだって?あんなに人の事を話すお姉ちゃんは、ちょっと見た事がないなぁ。出過ぎた真似かもしれないけど――きっとキミの事を、好きなんじゃないかな」

あぁ、いと高き麗人の血を持つ弟よ。天使の甘露とも呼ぶべき馥郁たる唇で、そのような発言をするのは止めてくれ!ボクには刺激が強すぎるのだ!
例えお世辞にせよ――いいや、もしかしたら本当かもしれんが、いずれにせよボクには度を過ぎたる幸福だ!
天にも舞い昇る、有頂天の頂きへと駆け上がるボクの韋駄天が如き健脚を見よ!ギリシア神話のヘルメスさえも、ボクの走術を見れば振り返ったであろう。

走った。この幸福を前に、ボクは息つくのも忘れ走った。
何人も止める事は出来ない。廊下を走るなと怒鳴る教員を以てしても、今のボクは止められない!
廊下の突き当りに文芸部はある。走る足を止め、その重厚なる天の門を前にして、ボクは姿勢を正し呼吸を整え、そして扉を開いた。

いつもと変わらぬ光景がそこにはあった。
美しかった。
一点の曇りなく、その部屋における主『機械少女』と呼ばれる彼女の姿は、太陽の光を浴びて一層の美しさを、ある種の神々しささえ携えて、そこに鎮座していた。
「おはようございます」
「……おはよう」
いつもと変わらぬ、普段通りの挨拶。それが、ボクにとっては何にも代え難い宝物。

人生の節目の話を覚えているだろうか。
光さえ射し込まない暗澹たる世界の中で、社会の不満に不貞腐れる一端面した中学生の話。
きっと、この高校で彼女に出会わなければ、ボクの人生は今なお暗がりの底を這いずり回る蛇の人生であったろう。
だがボクを閉じ込めている老朽化した天井は、彼女の出現によりいとも容易く崩れ去り、洞窟の中で過ごし続けた地中人が、始めて太陽のもとに連れられるような、もしくは満天の夜空煌めく天蓋に心奪われるような、そんな感動を与えてくれたのである。

ボクは何を恐れていたのか。価値観の崩壊は自己否定ではない。真に恐れるべきは、既存の価値観に拘り続け、日々変動する世界の感性から自分自身を遠ざけ殻に篭る行為である。
若者よ、奮い立て。
自身の殻に人生の師匠は存在しない。
自身を助けるのは、自分の力だけに頼る自己超克でも、ましてや自己責任などでもない。
人生の転機は人の数ほどある。そしてその転機は良くも悪くも左右されうる。だが覚えておかなければならない。
自己との対話だけの人生は不幸である。他人との接点の中にこそ、自分自身の現象と仮象が存在する。かつそのバランスを自我でもって保つ事により、人生の価値は均衡を得る。
そして遅々として成長する大樹のように、いずれ大きく育つのだ。

ボクの人生最大の幸福は『機械少女』との出会いであった。自分自身の殻に閉じ籠っていては、一生出合わない他生の縁。でも出会えた。この因果は偶然の産物であろう。人の世界では、この天文学的確率を超越する不思議が、そこかしこに溢れている。手繰ろう、その糸を。人生の価値を勝手に決めるのは、いつだって諦めた時の自分しかいないのだから。
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