7 / 11
第七話 ハーシェルの正体、そして騎士団を去る者
しおりを挟む
気が付くと香帆としての私が涙を流しローゼリアの頬を濡らした。過去と現在、二つの時間が胸の内で交差し、意味もなく痛んだ。
ハーシェルの叫び――「香帆、待って!」――が耳の奥で切なく反響した。その声は前世の恋人・涼也の残響そのものだった。
「リア嬢、大丈夫ですか? ど、どこか痛みますか……」
隣でデミアン・スキュアート伯爵が狼狽した声を上げる。
「ごめんなさい……」私は嗚咽の合間に何度も謝った。何に対しての謝罪なのか、自分でも釈然としないまま。
* * *
屋敷へ戻るとミゼットが玄関で待ち構えていた。だが私の顔を見て気圧され、「あ、あら……」と逃げるように姿を消す。――情報を漏らし、ハーシェルを呼び寄せたのは妹に違いない。
伯爵に礼を言ったのち、私は自室で泣き疲れそのまま眠った。目を覚ますと部屋はランプが灯され、ベッド脇に長姉レイチルが腰を下ろしている。
「起きた? デミアン様から事情は聞いたわ。……今夜は二十二時を回っているけれど、少し話せる?」
私は頷いた。
「リア、彼を断る気?」
「いい人よ。でも……会ってまだ二日だもの」
「そうね、わかるわ」姉は深く息をつく。「彼ね、吃音とオッドアイのせいで家族に冷遇されてきたらしいの」
同情を誘う口調。私は沈黙した。姉は立ち上がり、廊下へ出て軽食を命じてから戻る。
「それからね――ミゼットなんだけど、もう社交界でハーシェルを“義弟”呼ばわりしているわ」
私は唇を噛む。
「グスタビオの件も、貴女が父に泣きつき無理やり奪ったって吹聴してる」
「……殴ってやりたい」
姉は肩をすくめたあと、ふと目を細めた。
「いっそカナディア国へ来ない? 私たちの屋敷で暮らせば、ミゼットの影響から逃げられるわ」
胸の奥が温かくなる。前世の記憶を最初に打ち明けた相手は、この姉ただ一人だった。
「……行きたい」
「決まりね。ミゼットの挙式が済んだら一緒に国境を越えましょう」
* * *
翌朝、姉と伯爵と私の三人で応接間に集い、カナディア国へ行く為の段取りを決めた。伯爵は驚きながらも「お、お力になれるなら嬉しい」と言った。
吃音も異色の瞳も、私には気にならない。穏やかでちょっと頼りなさそう――でも傲慢より遙かに良い。婚約の決定を下すには、まだお互いをよく知らない。
伯爵にお土産のカフスボタンを手渡すと、顔をほころばせた。
「つ、次にお会いできたら……愛情の証を必ず」
「婚約が整ってからね」と姉が茶目っ気を込めて肩をポン叩き、伯爵は照れてうつむく。その様子にやはり不安が広がる。
「お姉様、頻繁に男性に触れるのは……」
「勘違いしないで」
長姉が話すには、これは女性が苦手な伯爵への“慣れる為の練習”。これまでの練習で伯爵の苦手意識はかなり改善されたらしい。
「デミアン様は街で私に触れても平気でしたよね?」
「まぁ、そうなの?」
伯爵は何か思い出したようで、「もう練習はいい……」と耳まで赤く染め、長姉は嬉しそうに微笑み、私の中で燻っていた疑惑は晴れていった。
父には「カナディアへしばらく遊びに」と告げるだけ――これが姉の策だ。私は頷いて了承した。
翌日、姉と伯爵は馬車に乗り国境へ向かった。石畳に残る轍を見送り、急に邸が広く寒々しく思えた。
* * *
婚約を解消した私への社交界の招待状はめっきり減った。母も今やミゼットを連れてばかり外出し、二人で私の悪評を上塗りしているらしい。
自室でため息をつく夜、ほぼ毎日届く伯爵からの手紙を開いた。几帳面な筆跡で私への想いがびっしり綴られ、読み終えればふわりと胸が温まる。
一方、ハーシェルからの書簡は丁重に断った。ところが父とミゼットは執拗に「ニルカート家こそ得策」と迫る。
私は静かに答えた。
「ハーシェル様に嫁ぐくらいなら、デミアン様と結ばれます」
その瞬間、ミゼットの顔色が変わった。
「あんな男よりハーシェル様の方が数千倍いいわ! 頭がおかしいんじゃないの?」
「知らないわ。私は私の意思で決める」
口論の末、妹は私を罵り、私は淡々と応じた。
そのやりとりを、廊下の影でグスタビオが聞いていたらしい。後日、王宮騎士団に突然グスタビオの辞職願が提出された。
「アゼラン侯爵家の内情が穢れている。それを治められぬまま、私は剣を掲げられない」
――そう理由を述べたと、騎士団詰所の噂が邸へ届いた。
妹の栄光のために私を捨て、更に剣まで捨てたグスタビオ。前世で姉に魅入られ私を捨てた涼也。悲劇は巡るように似通うが、私はもうその輪の中に残らないと決めている。
カナディアへ渡り、新しい風を私の人生の中に吹き込むのだ。伯爵の手紙を胸に、私はランプの火をそっと吹き消した。
ハーシェルの叫び――「香帆、待って!」――が耳の奥で切なく反響した。その声は前世の恋人・涼也の残響そのものだった。
「リア嬢、大丈夫ですか? ど、どこか痛みますか……」
隣でデミアン・スキュアート伯爵が狼狽した声を上げる。
「ごめんなさい……」私は嗚咽の合間に何度も謝った。何に対しての謝罪なのか、自分でも釈然としないまま。
* * *
屋敷へ戻るとミゼットが玄関で待ち構えていた。だが私の顔を見て気圧され、「あ、あら……」と逃げるように姿を消す。――情報を漏らし、ハーシェルを呼び寄せたのは妹に違いない。
伯爵に礼を言ったのち、私は自室で泣き疲れそのまま眠った。目を覚ますと部屋はランプが灯され、ベッド脇に長姉レイチルが腰を下ろしている。
「起きた? デミアン様から事情は聞いたわ。……今夜は二十二時を回っているけれど、少し話せる?」
私は頷いた。
「リア、彼を断る気?」
「いい人よ。でも……会ってまだ二日だもの」
「そうね、わかるわ」姉は深く息をつく。「彼ね、吃音とオッドアイのせいで家族に冷遇されてきたらしいの」
同情を誘う口調。私は沈黙した。姉は立ち上がり、廊下へ出て軽食を命じてから戻る。
「それからね――ミゼットなんだけど、もう社交界でハーシェルを“義弟”呼ばわりしているわ」
私は唇を噛む。
「グスタビオの件も、貴女が父に泣きつき無理やり奪ったって吹聴してる」
「……殴ってやりたい」
姉は肩をすくめたあと、ふと目を細めた。
「いっそカナディア国へ来ない? 私たちの屋敷で暮らせば、ミゼットの影響から逃げられるわ」
胸の奥が温かくなる。前世の記憶を最初に打ち明けた相手は、この姉ただ一人だった。
「……行きたい」
「決まりね。ミゼットの挙式が済んだら一緒に国境を越えましょう」
* * *
翌朝、姉と伯爵と私の三人で応接間に集い、カナディア国へ行く為の段取りを決めた。伯爵は驚きながらも「お、お力になれるなら嬉しい」と言った。
吃音も異色の瞳も、私には気にならない。穏やかでちょっと頼りなさそう――でも傲慢より遙かに良い。婚約の決定を下すには、まだお互いをよく知らない。
伯爵にお土産のカフスボタンを手渡すと、顔をほころばせた。
「つ、次にお会いできたら……愛情の証を必ず」
「婚約が整ってからね」と姉が茶目っ気を込めて肩をポン叩き、伯爵は照れてうつむく。その様子にやはり不安が広がる。
「お姉様、頻繁に男性に触れるのは……」
「勘違いしないで」
長姉が話すには、これは女性が苦手な伯爵への“慣れる為の練習”。これまでの練習で伯爵の苦手意識はかなり改善されたらしい。
「デミアン様は街で私に触れても平気でしたよね?」
「まぁ、そうなの?」
伯爵は何か思い出したようで、「もう練習はいい……」と耳まで赤く染め、長姉は嬉しそうに微笑み、私の中で燻っていた疑惑は晴れていった。
父には「カナディアへしばらく遊びに」と告げるだけ――これが姉の策だ。私は頷いて了承した。
翌日、姉と伯爵は馬車に乗り国境へ向かった。石畳に残る轍を見送り、急に邸が広く寒々しく思えた。
* * *
婚約を解消した私への社交界の招待状はめっきり減った。母も今やミゼットを連れてばかり外出し、二人で私の悪評を上塗りしているらしい。
自室でため息をつく夜、ほぼ毎日届く伯爵からの手紙を開いた。几帳面な筆跡で私への想いがびっしり綴られ、読み終えればふわりと胸が温まる。
一方、ハーシェルからの書簡は丁重に断った。ところが父とミゼットは執拗に「ニルカート家こそ得策」と迫る。
私は静かに答えた。
「ハーシェル様に嫁ぐくらいなら、デミアン様と結ばれます」
その瞬間、ミゼットの顔色が変わった。
「あんな男よりハーシェル様の方が数千倍いいわ! 頭がおかしいんじゃないの?」
「知らないわ。私は私の意思で決める」
口論の末、妹は私を罵り、私は淡々と応じた。
そのやりとりを、廊下の影でグスタビオが聞いていたらしい。後日、王宮騎士団に突然グスタビオの辞職願が提出された。
「アゼラン侯爵家の内情が穢れている。それを治められぬまま、私は剣を掲げられない」
――そう理由を述べたと、騎士団詰所の噂が邸へ届いた。
妹の栄光のために私を捨て、更に剣まで捨てたグスタビオ。前世で姉に魅入られ私を捨てた涼也。悲劇は巡るように似通うが、私はもうその輪の中に残らないと決めている。
カナディアへ渡り、新しい風を私の人生の中に吹き込むのだ。伯爵の手紙を胸に、私はランプの火をそっと吹き消した。
250
あなたにおすすめの小説
忘れるにも程がある
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたしが目覚めると何も覚えていなかった。
本格的な記憶喪失で、言葉が喋れる以外はすべてわからない。
ちょっとだけ菓子パンやスマホのことがよぎるくらい。
そんなわたしの以前の姿は、完璧な公爵令嬢で第二王子の婚約者だという。
えっ? 噓でしょ? とても信じられない……。
でもどうやら第二王子はとっても嫌なやつなのです。
小説家になろう様、カクヨム様にも重複投稿しています。
筆者は体調不良のため、返事をするのが難しくコメント欄などを閉じさせていただいております。
どうぞよろしくお願いいたします。
甘そうな話は甘くない
ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
「君には失望したよ。ミレイ傷つけるなんて酷いことを! 婚約解消の通知は君の両親にさせて貰うから、もう会うこともないだろうな!」
言い捨てるような突然の婚約解消に、困惑しかないアマリリス・クライド公爵令嬢。
「ミレイ様とは、どなたのことでしょうか? 私(わたくし)には分かりかねますわ」
「とぼけるのも程ほどにしろっ。まったくこれだから気位の高い女は好かんのだ」
先程から散々不満を並べ立てるのが、アマリリスの婚約者のデバン・クラッチ侯爵令息だ。煌めく碧眼と艶々の長い金髪を腰まで伸ばした長身の全身筋肉。
彼の家門は武に長けた者が多く輩出され、彼もそれに漏れないのだが脳筋過ぎた。
だけど顔は普通。
10人に1人くらいは見かける顔である。
そして自分とは真逆の、大人しくか弱い女性が好みなのだ。
前述のアマリリス・クライド公爵令嬢は猫目で菫色、銀糸のサラサラ髪を持つ美しい令嬢だ。祖母似の容姿の為、特に父方の祖父母に溺愛されている。
そんな彼女は言葉が通じない婚約者に、些かの疲労感を覚えた。
「ミレイ様のことは覚えがないのですが、お話は両親に伝えますわ。それでは」
彼女(アマリリス)が淑女の礼の最中に、それを見終えることなく歩き出したデバンの足取りは軽やかだった。
(漸くだ。あいつの有責で、やっと婚約解消が出来る。こちらに非がなければ、父上も同意するだろう)
この婚約はデバン・クラッチの父親、グラナス・クラッチ侯爵からの申し込みであった。クライド公爵家はアマリリスの兄が継ぐので、侯爵家を継ぐデバンは嫁入り先として丁度良いと整ったものだった。
カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
逆行転生した侯爵令嬢は、自分を裏切る予定の弱々婚約者を思う存分イジメます
黄札
恋愛
侯爵令嬢のルーチャが目覚めると、死ぬひと月前に戻っていた。
ひと月前、婚約者に近づこうとするぶりっ子を撃退するも……中傷だ!と断罪され、婚約破棄されてしまう。婚約者の公爵令息をぶりっ子に奪われてしまうのだ。くわえて、不貞疑惑まででっち上げられ、暗殺される運命。
目覚めたルーチャは暗殺を回避しようと自分から婚約を解消しようとする。弱々婚約者に無理難題を押しつけるのだが……
つよつよ令嬢ルーチャが冷静沈着、鋼の精神を持つ侍女マルタと運命を変えるために頑張ります。よわよわ婚約者も成長するかも?
短いお話を三話に分割してお届けします。
この小説は「小説家になろう」でも掲載しています。
“妖精なんていない”と笑った王子を捨てた令嬢、幼馴染と婚約する件
大井町 鶴
恋愛
伯爵令嬢アデリナを誕生日嫌いにしたのは、当時恋していたレアンドロ王子。
彼がくれた“妖精のプレゼント”は、少女の心に深い傷を残した。
(ひどいわ……!)
それ以来、誕生日は、苦い記憶がよみがえる日となった。
幼馴染のマテオは、そんな彼女を放っておけず、毎年ささやかな贈り物を届け続けている。
心の中ではずっと、アデリナが誕生日を笑って迎えられる日を願って。
そして今、アデリナが見つけたのは──幼い頃に書いた日記。
そこには、祖母から聞いた“妖精の森”の話と、秘密の地図が残されていた。
かつての記憶と、埋もれていた小さな願い。
2人は、妖精の秘密を確かめるため、もう一度“あの場所”へ向かう。
切なさと幸せ、そして、王子へのささやかな反撃も絡めた、癒しのハッピーエンド・ストーリー。
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さくら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
【完結】運命の赤い糸が見えるようになりまして。
櫻野くるみ
恋愛
伯爵令嬢のアリシアは目を瞬かせていた。
なぜなら、突然赤い糸が見えるようになってしまったからだ。
糸は、幼馴染のジェシカの小指からびろーんと垂れていて——。
大切な幼馴染のために、くっつけおばさん……もとい、くっつけ令嬢になることを決意したアリシア。
自分の小指に赤い糸が見えないことを気にかけつつも、周囲の幸せのために行動を始める。
すると、アリシア本人にも——?
赤い糸が見えるようになったアリシアが、ハッピーエンドを迎えるお話です。
完結しました。
小説家になろう様にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる