5 / 19
5 イーサンとソレーヌ
しおりを挟む
蒸し暑い日だった。
窓は開いているのに、風は入ってこない。
午後の空気は粘つき、イーサンの肌にまとわりつく。
息苦しさの正体は、暑さだけではない。
「弁護士のポートマン卿が面会を希望されています」
執事の声に、イーサンは眉を寄せた。
「弁護士だと?」
「奥様も同席されるそうです」
胸の奥で、鈍い音が鳴った。
……マリアも、だと?
嫌な予感だけが背筋を駆け上がる。
「どうされますか?」
一瞬、逃げたいと思った。
だが。
「会わないわけには、いかないだろう」
そう答えながら、彼は背筋を無理やり伸ばした。
*
「初めまして、カリス・ポートマンと申します」
彼は真っ直ぐに歩み寄り、手を差し出した。
イーサンも立ち上がり、形式的にその手を握る。
短い挨拶の後、ポートマン卿は迷いのない動作で書類を机に置いた。
その所作ひとつで、彼が場数を踏んだ男であると分かる。
「奥様が離婚を望まれています。私が代理人です」
「そうか。以前に《離婚協議書》を渡したはずだが」
イーサンは反射的にマリアを見る。
その瞳には、かつて見たことのない決意の光が宿っている。
胸がざわつく。
「こちらも協議書を用意しました。ご覧ください」
紙をめくる。
商会は自分名義。
預金は折半。
――まだ、許容範囲だ。
だが。
親権はマリア。
土地と屋敷もマリア。
「この家は俺が建てた。俺のものだ!」
「土地は奥様の所有です」
「……こっちも代理人を立てる!」
「その方が話し合いが早いでしょう。歓迎しますよ」
薄く浮かぶ笑み。
余裕のある者だけが浮かべられる笑み。
「書類に署名していただければ、すぐに離婚が成立します」
「こんな条件は受け入れない!」
「形勢は不利ですよ? 貴方の不貞の証拠も揃っています」
イーサンは、体中から血の気が引いた。
「俺は潔白だ」
ポートマン卿は表情を変えない。
ただ、小さな《キューブ》を机の上に置いた。
「こちらは貴方の商会で販売中の録画キューブ。二十四時間の映像が保存されています」
マリアが作ったものだ。
自分の人生を縛る鎖になるとは、考えもしなかった。
「チッ!」
舌打ちが漏れる。
「先日の外食時の映像が記録されています。ご確認されますか?」
ソレーヌとの別れ際。
人目を気にしながら交わした、あのキス。
胃の奥がねじれる。
「いや、必要ない」
「ソレーヌ夫人にも慰謝料を請求します」
「は?」
「当然でしょう? それと、愛人に使われた共有財産。その分の返還も求めます」
一語一語が、胸に突き刺さる。
「帰ってくれ」
「今後、奥様との交渉は、すべて私を通してお願いします」
立ち上がるポートマン卿。
マリアも続く。
扉へ向かう途中、ポートマン卿が彼女の腕をそっと支えた。
それだけで、分かってしまう。
――彼女は、もう守られている。
イーサンの手の届かない場所で。
裁判をしても、勝てる気はしなかった。
共同貯金は使い込んだ。
録画キューブの特許収入で、贅沢をした。
ソレーヌが現れたのは、一年前。
『夫が浮気しているの。離婚したいのだけど、親権を渡さないって言うのよ』
泣く女は、美しい。
そして、危険だ。
『協力しよう。でも君が離婚したら、俺の愛人になってくれるか?』
『愛人なんて嫌。奥様と離婚してくれれば、貴方を愛するわ』
その瞬間、理性は壊れた。
後戻りなど、できないほどに。
ソレーヌを手に入れるため、
金で彼女の愛を繋ぎ止めた。
貪欲なソレーヌ。
婚家の伯爵家が傾いたのも無理はない。
そして、もう贅沢させてくれない夫に、ソレーヌは見切りをつけた。
分かっていてもイーサンは、艶やかで美しいソレーヌが欲しかった。
マリアの財産は、いずれ息子ライアンが受け継ぐ。
そしてその金も、最終的には自分の手に戻る――そう思い込んでいたのだ。
ポートマン卿より優れた弁護士を探していた矢先、イーサンに裁判所から通達が届いた。
――夫婦の資産、凍結。
つまり、預金には一銭も触れられない。
通達が届いたとき、頭が真っ白になった。
別宅へ向かう。
マリアなら、まだ許してくれると信じて。
だが門前には護衛。
「どけ!」
「申し訳ありません。奥様のご命令です。ご用の際はポートマン卿を通してください」
マリアはもう、彼のために情など残してはいなかった。
「マリア! 話をしよう! 聞いてくれ!」
返事はない。
護衛に押し戻される。
足がふらついた。
(――俺は間違ったのか?)
*
その夜。
いつもの店で、ソレーヌは甘い声で笑った。
「さっさと離婚すればいいじゃない」
その笑顔に、救われた気になる自分がいた。
「私があの屋敷の女主人よ」
「あの家は、出ることになるだろう」
「じゃあ、もっと立派な家を建てれば? 便利で、富裕層が住む場所に」
軽い。
あまりにも軽い口調が、妙に彼の神経を逆なでした。
「マリアは稼いでくれる。本当は……手放したくないんだ」
「ライアンの養育費をたっぷり貰えばいいのよ」
「そうか、親権を取ればいいんだな……」
「そうよ、母親なんだもの。養育費は出すべきだわ」
その言葉を、正しいと信じた。
(俺は間違っていない)
(第一、ライアンは俺の愛する息子だ、絶対に渡さない)
それに。
――親権を取れば、マリアは今後も自分を支えるだろう。
そう思い込むことでしか、自分を保てなかった。
幸福は、すぐそこにある。
イーサンは、本気でそう信じていた。
――それが、すべて幻想だとも知らずに。
窓は開いているのに、風は入ってこない。
午後の空気は粘つき、イーサンの肌にまとわりつく。
息苦しさの正体は、暑さだけではない。
「弁護士のポートマン卿が面会を希望されています」
執事の声に、イーサンは眉を寄せた。
「弁護士だと?」
「奥様も同席されるそうです」
胸の奥で、鈍い音が鳴った。
……マリアも、だと?
嫌な予感だけが背筋を駆け上がる。
「どうされますか?」
一瞬、逃げたいと思った。
だが。
「会わないわけには、いかないだろう」
そう答えながら、彼は背筋を無理やり伸ばした。
*
「初めまして、カリス・ポートマンと申します」
彼は真っ直ぐに歩み寄り、手を差し出した。
イーサンも立ち上がり、形式的にその手を握る。
短い挨拶の後、ポートマン卿は迷いのない動作で書類を机に置いた。
その所作ひとつで、彼が場数を踏んだ男であると分かる。
「奥様が離婚を望まれています。私が代理人です」
「そうか。以前に《離婚協議書》を渡したはずだが」
イーサンは反射的にマリアを見る。
その瞳には、かつて見たことのない決意の光が宿っている。
胸がざわつく。
「こちらも協議書を用意しました。ご覧ください」
紙をめくる。
商会は自分名義。
預金は折半。
――まだ、許容範囲だ。
だが。
親権はマリア。
土地と屋敷もマリア。
「この家は俺が建てた。俺のものだ!」
「土地は奥様の所有です」
「……こっちも代理人を立てる!」
「その方が話し合いが早いでしょう。歓迎しますよ」
薄く浮かぶ笑み。
余裕のある者だけが浮かべられる笑み。
「書類に署名していただければ、すぐに離婚が成立します」
「こんな条件は受け入れない!」
「形勢は不利ですよ? 貴方の不貞の証拠も揃っています」
イーサンは、体中から血の気が引いた。
「俺は潔白だ」
ポートマン卿は表情を変えない。
ただ、小さな《キューブ》を机の上に置いた。
「こちらは貴方の商会で販売中の録画キューブ。二十四時間の映像が保存されています」
マリアが作ったものだ。
自分の人生を縛る鎖になるとは、考えもしなかった。
「チッ!」
舌打ちが漏れる。
「先日の外食時の映像が記録されています。ご確認されますか?」
ソレーヌとの別れ際。
人目を気にしながら交わした、あのキス。
胃の奥がねじれる。
「いや、必要ない」
「ソレーヌ夫人にも慰謝料を請求します」
「は?」
「当然でしょう? それと、愛人に使われた共有財産。その分の返還も求めます」
一語一語が、胸に突き刺さる。
「帰ってくれ」
「今後、奥様との交渉は、すべて私を通してお願いします」
立ち上がるポートマン卿。
マリアも続く。
扉へ向かう途中、ポートマン卿が彼女の腕をそっと支えた。
それだけで、分かってしまう。
――彼女は、もう守られている。
イーサンの手の届かない場所で。
裁判をしても、勝てる気はしなかった。
共同貯金は使い込んだ。
録画キューブの特許収入で、贅沢をした。
ソレーヌが現れたのは、一年前。
『夫が浮気しているの。離婚したいのだけど、親権を渡さないって言うのよ』
泣く女は、美しい。
そして、危険だ。
『協力しよう。でも君が離婚したら、俺の愛人になってくれるか?』
『愛人なんて嫌。奥様と離婚してくれれば、貴方を愛するわ』
その瞬間、理性は壊れた。
後戻りなど、できないほどに。
ソレーヌを手に入れるため、
金で彼女の愛を繋ぎ止めた。
貪欲なソレーヌ。
婚家の伯爵家が傾いたのも無理はない。
そして、もう贅沢させてくれない夫に、ソレーヌは見切りをつけた。
分かっていてもイーサンは、艶やかで美しいソレーヌが欲しかった。
マリアの財産は、いずれ息子ライアンが受け継ぐ。
そしてその金も、最終的には自分の手に戻る――そう思い込んでいたのだ。
ポートマン卿より優れた弁護士を探していた矢先、イーサンに裁判所から通達が届いた。
――夫婦の資産、凍結。
つまり、預金には一銭も触れられない。
通達が届いたとき、頭が真っ白になった。
別宅へ向かう。
マリアなら、まだ許してくれると信じて。
だが門前には護衛。
「どけ!」
「申し訳ありません。奥様のご命令です。ご用の際はポートマン卿を通してください」
マリアはもう、彼のために情など残してはいなかった。
「マリア! 話をしよう! 聞いてくれ!」
返事はない。
護衛に押し戻される。
足がふらついた。
(――俺は間違ったのか?)
*
その夜。
いつもの店で、ソレーヌは甘い声で笑った。
「さっさと離婚すればいいじゃない」
その笑顔に、救われた気になる自分がいた。
「私があの屋敷の女主人よ」
「あの家は、出ることになるだろう」
「じゃあ、もっと立派な家を建てれば? 便利で、富裕層が住む場所に」
軽い。
あまりにも軽い口調が、妙に彼の神経を逆なでした。
「マリアは稼いでくれる。本当は……手放したくないんだ」
「ライアンの養育費をたっぷり貰えばいいのよ」
「そうか、親権を取ればいいんだな……」
「そうよ、母親なんだもの。養育費は出すべきだわ」
その言葉を、正しいと信じた。
(俺は間違っていない)
(第一、ライアンは俺の愛する息子だ、絶対に渡さない)
それに。
――親権を取れば、マリアは今後も自分を支えるだろう。
そう思い込むことでしか、自分を保てなかった。
幸福は、すぐそこにある。
イーサンは、本気でそう信じていた。
――それが、すべて幻想だとも知らずに。
283
あなたにおすすめの小説
断罪される一年前に時間を戻せたので、もう愛しません
天宮有
恋愛
侯爵令嬢の私ルリサは、元婚約者のゼノラス王子に断罪されて処刑が決まる。
私はゼノラスの命令を聞いていただけなのに、捨てられてしまったようだ。
処刑される前日、私は今まで試せなかった時間を戻す魔法を使う。
魔法は成功して一年前に戻ったから、私はゼノラスを許しません。
虐げられた令嬢は、耐える必要がなくなりました
天宮有
恋愛
伯爵令嬢の私アニカは、妹と違い婚約者がいなかった。
妹レモノは侯爵令息との婚約が決まり、私を見下すようになる。
その後……私はレモノの嘘によって、家族から虐げられていた。
家族の命令で外に出ることとなり、私は公爵令息のジェイドと偶然出会う。
ジェイドは私を心配して、守るから耐える必要はないと言ってくれる。
耐える必要がなくなった私は、家族に反撃します。
『紅茶の香りが消えた午後に』
柴田はつみ
恋愛
穏やかで控えめな公爵令嬢リディアの唯一の楽しみは、幼なじみの公爵アーヴィンと過ごす午後の茶会だった。
けれど、近隣に越してきた伯爵令嬢ミレーユが明るく距離を詰めてくるたび、二人の時間は少しずつ失われていく。
誤解と沈黙、そして抑えた想いの裏で、すれ違う恋の行方は——。
聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)
蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。
聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。
愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。
いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。
ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。
それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。
心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。
貴方のことなんて愛していませんよ?~ハーレム要員だと思われていた私は、ただのビジネスライクな婚約者でした~
キョウキョウ
恋愛
妹、幼馴染、同級生など数多くの令嬢たちと愛し合っているランベルト王子は、私の婚約者だった。
ある日、ランベルト王子から婚約者の立場をとある令嬢に譲ってくれとお願いされた。
その令嬢とは、新しく増えた愛人のことである。
婚約破棄の手続きを進めて、私はランベルト王子の婚約者ではなくなった。
婚約者じゃなくなったので、これからは他人として振る舞います。
だから今後も、私のことを愛人の1人として扱ったり、頼ったりするのは止めて下さい。
夏の眼差し
通木遼平
恋愛
伯爵令嬢であるティナの婚約者とティナの妹が恋仲になり、ティナは婚約を解消することになる。婚約者に対して特に思い入れはなかったが、姉妹の婚約のすげ替えについての噂と勝手なことばかり言う妹に気疲れしたティナは、昔から彼女を気にかけてくれていたイライザ夫人の紹介で夫人の孫娘リネットの話し相手として雇われることになった。
家から離れ、リネット共に穏やかな日々を過ごすティナは、リネットの従兄であるセオドアと出会う。
※他サイトにも掲載しています
【完結】白い結婚はあなたへの導き
白雨 音
恋愛
妹ルイーズに縁談が来たが、それは妹の望みでは無かった。
彼女は姉アリスの婚約者、フィリップと想い合っていると告白する。
何も知らずにいたアリスは酷くショックを受ける。
先方が承諾した事で、アリスの気持ちは置き去りに、婚約者を入れ換えられる事になってしまった。
悲しみに沈むアリスに、夫となる伯爵は告げた、「これは白い結婚だ」と。
運命は回り始めた、アリスが辿り着く先とは… ◇異世界:短編16話《完結しました》
今から婚約者に会いに行きます。〜私は運命の相手ではないから
毛蟹
恋愛
婚約者が王立学園の卒業を間近に控えていたある日。
ポーリーンのところに、婚約者の恋人だと名乗る女性がやってきた。
彼女は別れろ。と、一方的に迫り。
最後には暴言を吐いた。
「ああ、本当に嫌だわ。こんな田舎。肥溜めの臭いがするみたい。……貴女からも漂ってるわよ」
洗練された都会に住む自分の方がトリスタンにふさわしい。と、言わんばかりに彼女は微笑んだ。
「ねえ、卒業パーティーには来ないでね。恥をかくのは貴女よ。婚約破棄されてもまだ間に合うでしょう?早く相手を見つけたら?」
彼女が去ると、ポーリーンはある事を考えた。
ちゃんと、別れ話をしようと。
ポーリーンはこっそりと屋敷から抜け出して、婚約者のところへと向かった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる