錬金術師マリア・ミオヴェルの再婚

ミカン♬

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15 イーサンの最後

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 マリアが目の不自由な人のために研究を始めた。
 ――その事実は、街で大きな噂になっていた。

 補聴器の件も、イーサンが裁判に持ち込んだせいで、かえって彼女の名は広く知れ渡ることになった。

 皮肉なことに、彼がマリアを追い詰めようとした行為は、彼女の功績を白日の下にさらしただけだった。

 人々は賞賛を口にしながら、「ミオヴェルの錬金術師」に未来を託す。
 希望という光を、マリアに預けていた。

 そんな熱狂の外側で。

 イーサンの胸の内には、後悔と憎しみが荒れ狂っていた。
 特許を取っていれば――どれほどの金が転がり込んだだろう。

 歯ぎしりするたび、金貨の音が頭の中で鳴る。

 だが、腹立たしさはそれだけではなかった。

 屋敷に戻れば、ライアンは父を見ようともしない。
 今さらのように、別れた母を恋しがっている。

 ソレーヌは、義務を果たすように隣にいるだけ。
 愛は、もう温度を持っていない。

 それはイーサンも同じだった。

 不倫という甘美な熱が冷めると、彼の中に残ったのは、商人の計算高さだけだった。
 情熱が引いたあとに残るのは、損益勘定だ。

 ソレーヌは儲けを生まない。
 ただ「妻」というだけの存在。
 連れてきた家族は贅沢を好み、遠慮を知らない居候。

 離婚して良かったことといえば、レイモンドが生まれたことくらいだ。
 母親譲りの美しい金髪を持つ息子。

 だが、遅すぎる気づきが、彼の胸を締めつける。

 本当に大切だったのは――“ミオヴェル商店”だった。

 マリアと共に築き上げた、あの栄光の店。
 並んで未来を語った日々。

「くそっ! 俺は間違えたんだ。一番大事なものを失ってしまった!」

 吐き出した言葉は、誰にも届かない。

 そしてさらに、彼は知ることになる。
 待ち受ける、残酷な運命を。

 *

 その夜、ソレーヌは優しく寝酒を勧めた。
 彼は深く酔い、重たい眠りに落ちる。

 毎夜、妻が恋人の元へ足を運んでいることなど、疑いもしない。
 その恋人と共に、彼のすべてを奪おうと企てていることも。

 息子に危機が迫っていることも。

 目を覚ましたとき、部屋は煙で満ちていた。

「ゲホッ……ゲホ……火事?」

 喉がひりつく。
 だが、そこに妻の姿はない。

 廊下へ出ると、視界は真っ白だった。
 煙がすべてを奪っていく。

「ソレーヌ!」

 返事はない。

 レイモンドの部屋へ向かったのだ――そう思い込むことで、自分を安心させる。

「ライアン……ライアン! ゲホッ……」

 煙をかき分けるように、彼は長男の部屋を目指す。

 扉を開けた瞬間、世界は赤く染まった。

 火の海。
 その中心に、ライアンは倒れていた。

 火元は、この部屋だった。

 理由を考える時間はない。

「ライアン!」

 血を流し、意識のない息子。
 炎は容赦なく迫る。

 イーサンは彼を抱き上げ、炎をくぐった。
 皮膚が焼ける。息を吸うたびに肺まで焦げつく。

 それでも腕の中の重みだけは、絶対に手放さなかった。

 ライアンは軽い。
 こんなに小さかったのかと、今さら思い知らされる。

 自分は何を見てきたのだろう。
 金か。店か。誇りか。

 息子の命より、大切なものなどなかったはずなのに。

 そんなことも忘れて、彼は、いつも間違えた。

 傲慢で、冷酷で、損得でしか物事を測れない男。
 だが――この瞬間だけは違う。

 父だった。

「ライアン! 死ぬな!」

 窓へ向かって走る。
 炎が背を舐め、衣服が燃え上がる。

 自分はどうなってもいい。

 ライアンだけは。

「うおおおおおぉおお!」

 その叫びが轟いた瞬間、火だるまの影が二階の窓から落ちた。

 使用人たちが駆け寄り、衣服で炎を叩き消す。

 焦げた匂いに覆われた庭。
 父と子は、ぴくりとも動かない。

 イーサンの腕だけが、最後まで、
 焼けただれながらも、息子を庇うように強く抱き締めていた。


「きゃぁぁああ!」

 悲鳴を上げたのはソレーヌだった。
 両手で口元を覆い、今にも崩れ落ちそうな仕草。

「早く治療院へ」

 レイモンドを抱いたジャックも声を張り上げる。

 完璧な芝居だった。
 誰が見ても、取り乱した妻と心配する義兄。

 けれどその声の裏側で、二人の口角がわずかに持ち上がる。

 ──あれでは、生きていないだろう。

 そう確信した冷酷な悪意は、真夏の夜の空へ消えていった。


 *


 翌朝。

 マリアのもとに届いたのは、イーサンとライアンが瀕死の重傷だという知らせだった。

「早く会いに行った方がいい」

 カリスの声にマリアは、ゆっくりと首を振る。

 「ソレーヌさんがいるわ。二人が生きているならそれでいい」

 だが――彼女の肩が小刻みに震えているのを、カリスは見逃さなかった。


「瀕死ですよ? マリアに後悔はして欲しくない。行きましょう」

 その一言は、彼女の背を強く押した。


 そして駆けつけた先で見たのは――

 痛ましい息子の姿。

 包帯に覆われ、血の気を失い、呼吸はかすか。
 面影は消え、壊れ物のように横たわっている。

 そして。

 その傍らに横たわる、もう動かない男。

 息を引き取ったばかりのイーサンだった。

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