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第三十九話 サムライガール、いざ参る
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(一体、何が起こったの……)
伊織は青ざめた顔で、頭部に鉄斧が突き刺さったリーチの死体を見る。
見れば見るほど不可解な光景であった。
どうしてリーチの頭部に、手に持っていた鉄斧が突き刺さっているのだろう。
目を閉じる前のカイエンの口振りからして、カイエンがリーチに対して何かしたのは間違いない。
だが、その何かが分からなかった。
伊織はリーチの死体からカイエンへと視線を移す。
リーチとカイエンの間合いは五メートルぐらいだろうか。
兵法者と思しきカイエンならば、すぐに詰められる距離のはずだ。
(でも、それだけだと説明がつかない)
伊織も素人ではない。
視覚を遮断していたとはいえ、ある程度は聞こえてきた音によって状況を予想することはできる。
それこそリーチとカイエンの二人が闘いを繰り広げたというのならば、音だけでも闘っているということぐらいは把握できたのだ。
しかし、二人が攻防を繰り広げたという音はなかった。
聞こえてきたのは、リーチとカイエンの会話。
そして何かが割れる音――おそらくはリーチの頭部に鉄斧が突き刺さったときの音と、リーチの「化け物」という叫び声であったのだ。
だからこそ、伊織は目の前の光景に頭が激しく混乱してしまった。
現実に起こった出来事として、カイエンがリーチを殺したのは間違いない。
けれども二人は五メートルの間合いを詰めたという痕跡はなく、それでいて一方的にリーチのみが殺されたということになる。
もちろん、伊織はカイエンがリーチを殺した場面を見たわけではなかった。
ただ、状況から察するにそう判断するしかなかったのだ。
伊織が不可解な現状に困惑していると、自分を見る目線に気づいたカイエンは伊織へと顔を向けた。
伊織とカイエンの視線が交錯する。
「拙者の言うことを守ったようだな。その顔つきを見れば分かるぞ」
カイエンは口角を鋭利に上げると、床を噛み締めるような足取りで伊織に近づいていく。
伊織は指一本動かすこともできず、その代わりゴクリと生唾を飲み込んだ。
まるで獰猛な肉食獣が近寄ってくるような圧力を感じる。
「安心せい。そこの阿呆とは違って何もせぬわ……むしろ逆よ」
カイエンは伊織の真横に立つと、おむむろに左手で小刀を抜き放った。
伊織の脳裏に首を斬られるイメージがよぎったのも束の間、カイエンは無表情のまま小刀を一閃させる。
伊織は驚きに目を大きく見開いた。
カイエンが斬ったのは伊織の首ではなく、伊織の自由を奪っていた手首の縄のみを正確に斬ったのだ。
直後、伊織は床を蹴ってその場から移動した。
自由の身になったことを喜ぶこと以上に、武器を持ったカイエンの近くに一秒たりともいたくなかったからである。
「ど、どうして……」
やがて間合いの外へと脱した伊織は、怪訝な顔つきをカイエンに向けた。
カイエンは落ち着いた様子で、伊織の視線を真っ向から受け止める。
「どうしてお主を解放したのか、か? そもそもお主に用があったのは、あのリーチという男で拙者ではない。拙者の目的はあくまでも伝承作品の刀だ」
カイエンは淀みなく言葉を続ける。
「そして取引材料である二代目殿の息子がこちらの手にある以上、もうお主に用などはない。それにお主は今から来る男の弟子らしいではないか。ならば、お主の拘束を解いていたほうが大人しく取引に応じることだろう」
(女子供を誘拐した奴の言い草じゃないわね……でも)
カイエンの話を聞きながら、伊織はちらりとマサミツを見る。
どのような理由であれ、晴れて自由の身になったのは確かだ。
これを機会に何とかマサミツを取り戻すことはできないだろうか。
などと伊織が思考を巡らせた瞬間、カイエンは鋭い眼光を飛ばしてきた。
「余計なことをしないほうが身のためだ。もしも拙者の目を欺き、二代目殿の息子を取り戻そうと考えているのならば、そのときは女だろうと容赦はせんぞ」
突如、カイエンの肉体から颶風の如き殺気が迸った。
その殺気は不可視の刃と化し、伊織の肉体へと容赦なく突き刺さってくる。
伊織は自分とカイエンとの実力差を一発で看破した。
まともに闘っても、今の自分はカイエンには絶対に勝てない。
カイエンは全身を小刻みに震わせた伊織を見て、不揃いな歯が見えるほどの笑みを浮かべた。
「拙者との差を肌で感じたのならば、さっさとこの場から去るがいい……それとも拙者と死合ってでも、二代目殿の息子を取り戻してみるか? 拙者はどちらでも構わんぞ」
カイエンが戯言のつもりで言ったのは伊織も分かった。
それほど二人の実力は雲泥の差がある。
ここで伊織が決死の覚悟で闘いを挑んだとしても、カイエンからすれば赤子が歯向かってくることに等しかっただろう。
つまり、万が一にもカイエンは負けないと思っているのだ。
(そうよね。何の武器も持っていない小娘なんて眼中に入るはずないもの)
正直、伊織はこのまま本堂の外へと逃げ出したかった。
相手は隻腕とはいえ、剥き身の小刀を持った本物の剣士である。
しかも左手でありながら、正確に縄だけを斬れるほどの技量の持ち主だ。
おそらく、右腕を無くしてからも凄まじい修練を積んできたのだろう。
そして伊織も幼少の頃から剣道や居合の修練を積んできたものの、それは安全性の高いスポーツとしての稽古を積み重ねてきたに過ぎない。
武蔵やカイエンのように、命のやりとりのために剣の腕を磨いてきたわけでは決してなかった。
伊織はへそ下から約九センチの場所――下丹田に意識を集中させ、細く長い呼吸を繰り返す。
やがて意識がクリアになっていき、全身の震えが次第に収まっていく。
この異世界に転移される前の自分だったなら、今と同じような状況に遭ったら脱兎の如く逃げ出していただろう。
しかし、伊織はもう強く決めているのだ。
魔法や魔物が存在するこの異世界において、本物の剣聖である宮本武蔵の弟子として生きていく決意を。
だとしたら、このまま本堂の外へと逃げ出すわけにはいかなかった。
武蔵のような一流の兵法者であり剣聖を目指す者として、自分の欲求を満たすために女子供を誘拐するような輩を野放しにするわけにはいかない。
ましてや拘束を解かれた身で本堂の外へと逃げ出せば、自分は宮本武蔵の弟子を名乗る資格を完全に失ってしまうだろう。
それこそ武蔵が今の自分と同じ状況になったとき、必ずカイエンからマサミツを救い出すために全力を注いだはずである。
(まともに闘いを挑んでも勝てる相手じゃない……だけど、まともに闘うことだけが闘いじゃないはず)
伊織は周囲を見渡しながら、何かしらの突破口がないか必死に考えた。
カイエンに対して正面から素手で闘いを挑んでも、返り討ちに遭うのは火を見るよりも明らかであった。
だが、これがスポーツではなく死合いという観点で見れば、もしかすると万に一つは伊織にも勝機があるかもしれない。
なぜなら、兵法者の死合いにはルールがないからだ。
強敵に対して正面から堂々と挑むのではなく、相手の特性や現在の地理的状況を踏まえた上で突破口を見つけ出すのも兵法者の戦い方である。
(可能性がありそうなのは、あの斧を使うことなんだけど)
伊織はリーチの頭部に刺さっている鉄斧を見つめた。
ざっと本堂の中を見渡してみたが、まともに武器として使えるのはリーチの鉄斧ぐらいしか見当たらない。
(ダメだ……さすがにあの斧は使えない)
けれども、伊織はリーチの鉄斧を使うという選択肢を除外する。
勢いに任せてリーチの鉄斧を手にしたところで、カイエンと互角に闘えるほど使いこなせる自信がなかったからだ。
ましてや斧はリーチの頭部に深く刺さっており、引き抜くことすら簡単ではないだろう。
だとしたら、やはりリーチの鉄斧を武器として使うのは非常に危険である。
頭部から引き抜くことに手間取っているうちに、あっという間にカイエンに間合いを詰められて斬られるのがオチだった。
伊織が現状を打破できない自分に歯噛みしていると、カイエンは感心したように「拙者の戯言をまともに受け止めるか」と呟く。
「面白い。その度胸に免じて、あの男が来るまで遊んでやろう」
言うなりカイエンは護摩壇の元へと歩を進めていく。
やがてカイエンは護摩壇の前に立つなり、護摩壇の両隣にあった二本の燭台を交互に見る。
二本の燭台は皿の部分から足の部分までが細長い棒で繋がっていて、見ようによっては鉄パイプのようにも見えなくもない。
するとカイエンは二本の燭台に向かって小刀を振るった。
空中に銀色の閃光が走り、二本の燭台の皿と足の部分が斬り落とされる。
カランカランと金属の音が鳴り、床の上に二本の細長い棒が転がった。
(何をするつもりなの?)
伊織が頭上に疑問符を浮かべたとき、カイエンは小刀を鞘に納めた。
続いてカイエンは細長い棒の一本を手に取って「振れるな」と独りごちると、その手に取った細長い棒を伊織に向かって放り投げた。
伊織は慌てて細長い棒を両手でキャッチする。
「あくまでも余興だ。しかし、余興とはいえ何の見返りもないのは張り合いがなかろう。特にお主にとってはな」
カイエンはもう一本の細長い棒を拾い上げると、その先端を伊織に突きつける。
「さあ、どこからでも掛かって参れ。もしも、お主が拙者に一太刀でもまともに浴びせられたならば、二代目殿の息子を無傷で返すと約束してやろう」
カイエンの言い回しが少し気になったものの、このときの伊織は手にした細長い棒の感触を確かめることに意識が向いた。
伊織は何度か細長い棒を振ってみる。
真剣よりも低く、木刀よりも殺傷力の高そうな鉄棒だ。
長さは八十から九十センチほどかもしれない。
体重の乗った一撃が頭部にでも命中したら、絶対に痛いという表現では済まないだろう。
(これはチャンスかもしれない)
カイエンにとっては武蔵が来るまでの余興だったのかもしれないが、伊織にしてみればマサミツを救い出せる確率が何倍も跳ね上がった幸運なことだった。
もちろん、素手や鉄斧でカイエンに挑むことに比べたらの話である。
だが、それでも大きなチャンスには違いなかった。
カイエンが油断していることと、手頃な武器を手に入れたことは必ず自分にとって追い風になるだろう。
伊織は姿勢を正しく保ち、両手に持った鉄棒を中段に構える。
カイエンは「ほう」と驚きの声を上げた。
「少しは楽しめそうだ……よかろう、お主の名と流名を聞いてやろう」
一角の剣士が対戦相手の名前と流派を聞くということは、それなりの闘いをするに値する相手だと認めたことを意味している。
けれども、伊織はどう答えればいいのか迷った。
自分の名前は名乗れるものの、流派名をどう返答すればいいのか困ったのだ。
一番多く稽古してきた剣道は流派名ではなく、全日本剣道連盟が定めた武道の総称である。
では、二番目に多く稽古をしてきた居合道の流派名――無双直伝英信流を名乗るべきだろうか。
伊織は心中で首を左右に振る。
(違う。私が名乗るべき流派名は……)
意を決した伊織は、下丹田に力を込めた。
そして――。
「円明流、宮本伊織――いざ、参る!」
自分の名前と武蔵の流名を言い放った。
本音を言えば、今の自分が円明流を名乗る資格がないことは分かっている。
伊織はまだ一度たりとも、武蔵から円明流の手ほどきを受けていないのだ。
だが、ここで伊織が武蔵の流名を口にしたのは理由があった。
覚悟である。
この窮地を何としてでも切り抜け、必ず武蔵から円明流を学ぶという覚悟を持った上で名乗ったのだ。
「円明流の宮本伊織だな。承知した……ならば、こちらも名乗るとしよう」
カイエンは眼光を剃刀のように鋭くさせる。
「巌流、ハザマ・カイエン――さあ、掛かって参れ」
伊織は青ざめた顔で、頭部に鉄斧が突き刺さったリーチの死体を見る。
見れば見るほど不可解な光景であった。
どうしてリーチの頭部に、手に持っていた鉄斧が突き刺さっているのだろう。
目を閉じる前のカイエンの口振りからして、カイエンがリーチに対して何かしたのは間違いない。
だが、その何かが分からなかった。
伊織はリーチの死体からカイエンへと視線を移す。
リーチとカイエンの間合いは五メートルぐらいだろうか。
兵法者と思しきカイエンならば、すぐに詰められる距離のはずだ。
(でも、それだけだと説明がつかない)
伊織も素人ではない。
視覚を遮断していたとはいえ、ある程度は聞こえてきた音によって状況を予想することはできる。
それこそリーチとカイエンの二人が闘いを繰り広げたというのならば、音だけでも闘っているということぐらいは把握できたのだ。
しかし、二人が攻防を繰り広げたという音はなかった。
聞こえてきたのは、リーチとカイエンの会話。
そして何かが割れる音――おそらくはリーチの頭部に鉄斧が突き刺さったときの音と、リーチの「化け物」という叫び声であったのだ。
だからこそ、伊織は目の前の光景に頭が激しく混乱してしまった。
現実に起こった出来事として、カイエンがリーチを殺したのは間違いない。
けれども二人は五メートルの間合いを詰めたという痕跡はなく、それでいて一方的にリーチのみが殺されたということになる。
もちろん、伊織はカイエンがリーチを殺した場面を見たわけではなかった。
ただ、状況から察するにそう判断するしかなかったのだ。
伊織が不可解な現状に困惑していると、自分を見る目線に気づいたカイエンは伊織へと顔を向けた。
伊織とカイエンの視線が交錯する。
「拙者の言うことを守ったようだな。その顔つきを見れば分かるぞ」
カイエンは口角を鋭利に上げると、床を噛み締めるような足取りで伊織に近づいていく。
伊織は指一本動かすこともできず、その代わりゴクリと生唾を飲み込んだ。
まるで獰猛な肉食獣が近寄ってくるような圧力を感じる。
「安心せい。そこの阿呆とは違って何もせぬわ……むしろ逆よ」
カイエンは伊織の真横に立つと、おむむろに左手で小刀を抜き放った。
伊織の脳裏に首を斬られるイメージがよぎったのも束の間、カイエンは無表情のまま小刀を一閃させる。
伊織は驚きに目を大きく見開いた。
カイエンが斬ったのは伊織の首ではなく、伊織の自由を奪っていた手首の縄のみを正確に斬ったのだ。
直後、伊織は床を蹴ってその場から移動した。
自由の身になったことを喜ぶこと以上に、武器を持ったカイエンの近くに一秒たりともいたくなかったからである。
「ど、どうして……」
やがて間合いの外へと脱した伊織は、怪訝な顔つきをカイエンに向けた。
カイエンは落ち着いた様子で、伊織の視線を真っ向から受け止める。
「どうしてお主を解放したのか、か? そもそもお主に用があったのは、あのリーチという男で拙者ではない。拙者の目的はあくまでも伝承作品の刀だ」
カイエンは淀みなく言葉を続ける。
「そして取引材料である二代目殿の息子がこちらの手にある以上、もうお主に用などはない。それにお主は今から来る男の弟子らしいではないか。ならば、お主の拘束を解いていたほうが大人しく取引に応じることだろう」
(女子供を誘拐した奴の言い草じゃないわね……でも)
カイエンの話を聞きながら、伊織はちらりとマサミツを見る。
どのような理由であれ、晴れて自由の身になったのは確かだ。
これを機会に何とかマサミツを取り戻すことはできないだろうか。
などと伊織が思考を巡らせた瞬間、カイエンは鋭い眼光を飛ばしてきた。
「余計なことをしないほうが身のためだ。もしも拙者の目を欺き、二代目殿の息子を取り戻そうと考えているのならば、そのときは女だろうと容赦はせんぞ」
突如、カイエンの肉体から颶風の如き殺気が迸った。
その殺気は不可視の刃と化し、伊織の肉体へと容赦なく突き刺さってくる。
伊織は自分とカイエンとの実力差を一発で看破した。
まともに闘っても、今の自分はカイエンには絶対に勝てない。
カイエンは全身を小刻みに震わせた伊織を見て、不揃いな歯が見えるほどの笑みを浮かべた。
「拙者との差を肌で感じたのならば、さっさとこの場から去るがいい……それとも拙者と死合ってでも、二代目殿の息子を取り戻してみるか? 拙者はどちらでも構わんぞ」
カイエンが戯言のつもりで言ったのは伊織も分かった。
それほど二人の実力は雲泥の差がある。
ここで伊織が決死の覚悟で闘いを挑んだとしても、カイエンからすれば赤子が歯向かってくることに等しかっただろう。
つまり、万が一にもカイエンは負けないと思っているのだ。
(そうよね。何の武器も持っていない小娘なんて眼中に入るはずないもの)
正直、伊織はこのまま本堂の外へと逃げ出したかった。
相手は隻腕とはいえ、剥き身の小刀を持った本物の剣士である。
しかも左手でありながら、正確に縄だけを斬れるほどの技量の持ち主だ。
おそらく、右腕を無くしてからも凄まじい修練を積んできたのだろう。
そして伊織も幼少の頃から剣道や居合の修練を積んできたものの、それは安全性の高いスポーツとしての稽古を積み重ねてきたに過ぎない。
武蔵やカイエンのように、命のやりとりのために剣の腕を磨いてきたわけでは決してなかった。
伊織はへそ下から約九センチの場所――下丹田に意識を集中させ、細く長い呼吸を繰り返す。
やがて意識がクリアになっていき、全身の震えが次第に収まっていく。
この異世界に転移される前の自分だったなら、今と同じような状況に遭ったら脱兎の如く逃げ出していただろう。
しかし、伊織はもう強く決めているのだ。
魔法や魔物が存在するこの異世界において、本物の剣聖である宮本武蔵の弟子として生きていく決意を。
だとしたら、このまま本堂の外へと逃げ出すわけにはいかなかった。
武蔵のような一流の兵法者であり剣聖を目指す者として、自分の欲求を満たすために女子供を誘拐するような輩を野放しにするわけにはいかない。
ましてや拘束を解かれた身で本堂の外へと逃げ出せば、自分は宮本武蔵の弟子を名乗る資格を完全に失ってしまうだろう。
それこそ武蔵が今の自分と同じ状況になったとき、必ずカイエンからマサミツを救い出すために全力を注いだはずである。
(まともに闘いを挑んでも勝てる相手じゃない……だけど、まともに闘うことだけが闘いじゃないはず)
伊織は周囲を見渡しながら、何かしらの突破口がないか必死に考えた。
カイエンに対して正面から素手で闘いを挑んでも、返り討ちに遭うのは火を見るよりも明らかであった。
だが、これがスポーツではなく死合いという観点で見れば、もしかすると万に一つは伊織にも勝機があるかもしれない。
なぜなら、兵法者の死合いにはルールがないからだ。
強敵に対して正面から堂々と挑むのではなく、相手の特性や現在の地理的状況を踏まえた上で突破口を見つけ出すのも兵法者の戦い方である。
(可能性がありそうなのは、あの斧を使うことなんだけど)
伊織はリーチの頭部に刺さっている鉄斧を見つめた。
ざっと本堂の中を見渡してみたが、まともに武器として使えるのはリーチの鉄斧ぐらいしか見当たらない。
(ダメだ……さすがにあの斧は使えない)
けれども、伊織はリーチの鉄斧を使うという選択肢を除外する。
勢いに任せてリーチの鉄斧を手にしたところで、カイエンと互角に闘えるほど使いこなせる自信がなかったからだ。
ましてや斧はリーチの頭部に深く刺さっており、引き抜くことすら簡単ではないだろう。
だとしたら、やはりリーチの鉄斧を武器として使うのは非常に危険である。
頭部から引き抜くことに手間取っているうちに、あっという間にカイエンに間合いを詰められて斬られるのがオチだった。
伊織が現状を打破できない自分に歯噛みしていると、カイエンは感心したように「拙者の戯言をまともに受け止めるか」と呟く。
「面白い。その度胸に免じて、あの男が来るまで遊んでやろう」
言うなりカイエンは護摩壇の元へと歩を進めていく。
やがてカイエンは護摩壇の前に立つなり、護摩壇の両隣にあった二本の燭台を交互に見る。
二本の燭台は皿の部分から足の部分までが細長い棒で繋がっていて、見ようによっては鉄パイプのようにも見えなくもない。
するとカイエンは二本の燭台に向かって小刀を振るった。
空中に銀色の閃光が走り、二本の燭台の皿と足の部分が斬り落とされる。
カランカランと金属の音が鳴り、床の上に二本の細長い棒が転がった。
(何をするつもりなの?)
伊織が頭上に疑問符を浮かべたとき、カイエンは小刀を鞘に納めた。
続いてカイエンは細長い棒の一本を手に取って「振れるな」と独りごちると、その手に取った細長い棒を伊織に向かって放り投げた。
伊織は慌てて細長い棒を両手でキャッチする。
「あくまでも余興だ。しかし、余興とはいえ何の見返りもないのは張り合いがなかろう。特にお主にとってはな」
カイエンはもう一本の細長い棒を拾い上げると、その先端を伊織に突きつける。
「さあ、どこからでも掛かって参れ。もしも、お主が拙者に一太刀でもまともに浴びせられたならば、二代目殿の息子を無傷で返すと約束してやろう」
カイエンの言い回しが少し気になったものの、このときの伊織は手にした細長い棒の感触を確かめることに意識が向いた。
伊織は何度か細長い棒を振ってみる。
真剣よりも低く、木刀よりも殺傷力の高そうな鉄棒だ。
長さは八十から九十センチほどかもしれない。
体重の乗った一撃が頭部にでも命中したら、絶対に痛いという表現では済まないだろう。
(これはチャンスかもしれない)
カイエンにとっては武蔵が来るまでの余興だったのかもしれないが、伊織にしてみればマサミツを救い出せる確率が何倍も跳ね上がった幸運なことだった。
もちろん、素手や鉄斧でカイエンに挑むことに比べたらの話である。
だが、それでも大きなチャンスには違いなかった。
カイエンが油断していることと、手頃な武器を手に入れたことは必ず自分にとって追い風になるだろう。
伊織は姿勢を正しく保ち、両手に持った鉄棒を中段に構える。
カイエンは「ほう」と驚きの声を上げた。
「少しは楽しめそうだ……よかろう、お主の名と流名を聞いてやろう」
一角の剣士が対戦相手の名前と流派を聞くということは、それなりの闘いをするに値する相手だと認めたことを意味している。
けれども、伊織はどう答えればいいのか迷った。
自分の名前は名乗れるものの、流派名をどう返答すればいいのか困ったのだ。
一番多く稽古してきた剣道は流派名ではなく、全日本剣道連盟が定めた武道の総称である。
では、二番目に多く稽古をしてきた居合道の流派名――無双直伝英信流を名乗るべきだろうか。
伊織は心中で首を左右に振る。
(違う。私が名乗るべき流派名は……)
意を決した伊織は、下丹田に力を込めた。
そして――。
「円明流、宮本伊織――いざ、参る!」
自分の名前と武蔵の流名を言い放った。
本音を言えば、今の自分が円明流を名乗る資格がないことは分かっている。
伊織はまだ一度たりとも、武蔵から円明流の手ほどきを受けていないのだ。
だが、ここで伊織が武蔵の流名を口にしたのは理由があった。
覚悟である。
この窮地を何としてでも切り抜け、必ず武蔵から円明流を学ぶという覚悟を持った上で名乗ったのだ。
「円明流の宮本伊織だな。承知した……ならば、こちらも名乗るとしよう」
カイエンは眼光を剃刀のように鋭くさせる。
「巌流、ハザマ・カイエン――さあ、掛かって参れ」
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失意の彼が覚醒させたのは、森羅万象を見通し未来さえも予知する超チートスキル【万物鑑定】だった!
この力を使い、アッシュはエルフの少女や凄腕の鍛冶師、そして伝説の魔獣フェンリル(もふもふ)といった最強の仲間たちを集め、辺境の町を大発展させていく。
一方、彼を追放した勇者たちは、アッシュのサポートを失い、ダンジョンで全滅の危機に瀕していた――。
「今さら戻ってこい? お断りだ。俺はこっちで幸せにやってるから」
底辺から駆け上がる痛快逆転ファンタジー、ここに開幕!
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