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第五十四話  覚悟

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 あいつは無明むみょうじゃない。

 俺は嬉しそうに自分の身体を確認している無明むみょうを見て思った。

 姿形すがたかたちはまったく変わっていないが、こちらまで伝わってくる気の性質が今までとまるで違う。

 邪悪をさらに煮詰につめたような、禍々まがまがしい負の力がひしひしと感じられる。

 直後、無明むみょうの肉体に異変が起こった。

 細身だった無明むみょうの身体が数倍に肥大したのだ。

 いや、それは肥大と言うよりも巨大化だった。

 身の丈10しゃく(約3メートル)を超える、小山のような存在感を持った巨人へと無明むみょうは変貌したのである。

 それだけではない。

 そんな巨人と化した無明むみょうの背中からメキメキといういびつな音が鳴り、大人の頭部ほどもある鉤爪かぎつめがついた2枚の漆黒の翼が生えてきたのだ。

 しかもそれは鳥の翼ではなく、巨大な蝙蝠こうもりの翼だった。

 しかし、無明むみょうの変化はまだ終わらない。

 バリバリバリッ!

 無明むみょう穿いていた下衣したごろもが盛大にやぶれ、その下からは漆黒の体毛を持つ雄牛おうしほどの大きさの狼が現れた。

 無明むみょうの下半身が黒狼こくろうに変化したのである。

 その姿は異形いぎょう以外の何物でもない。

 これではまるで本物の……。

 妖魔じゃないか、と俺が思ったときである。

「魔王!」

 大広間ホールの中にアリシアの怒声がとどろいた。

 同時にアリシアが俺の隣へとやってくる。

 すでに長剣はしっかりと抜かれていた。

「アリシア……今、何て言った? あいつが魔王だと?」

 そうよ、とアリシアは険しい表情で言った。

「間違いない。あいつは本物の魔王よ」

「ちょっと待て。魔王は妓女ぎじょ憑依ひょういしていたはずだろう?」

「そうね……だけど、どういうわけか今は化け物の肌を持っていたあの男にりついている。あの蝙蝠こうもりの翼と下半身が狼の姿になったのがその証拠よ。1年前、私が仲間たちと闘ったときも魔王はあんな姿になったわ」

 実際に闘ったことがある、アリシアがそう言うのならそうなのだろう。

 となると、考えられることは1つ。

 すでに俺たちが大広間ホールに来るまでに、魔王は紅玉こうぎょくという妓女ぎじょから別の人間へ憑依ひょういしていたに違いない。

 では、誰に憑依ひょういしていたのか?

 決まっている。

 俺は完全に絶命している笑山しょうざんをちら見した。

 なぜそうなったかは不明だったが、おそらく魔王は紅玉こうぎょくから笑山しょうざん憑依ひょういしていたのだろう。

 そして、俺はそれに気づかず魔王が憑依ひょういしていた笑山しょうざんと闘ったのだ。

 このとき、俺の背筋に悪寒が走る。

 無明むみょう憑依ひょういしたあとの魔王は確かに言った。

 宿にしようかとも思った、と。

 もしも無明むみょうがこの場に現れなかったら、魔王に憑依ひょういされていたのは俺だったかもしれない。

 いや、確実にそうなっていた。

 信じられないことだが、どうやら魔王は血液を経由して他者へと憑依ひょういする妖魔のようだ。

 現在、無明むみょうが魔王に憑依ひょういされた方法がそうである。

 無明むみょう貫手ぬきての攻撃によって笑山しょうざんの肉体をつらぬいたとき、当然ながらその攻撃した手に笑山しょうざんの血がべっとりと付いた。

 その血におそらくは魔王の魂魄こんぱくが宿っており、無明むみょうは油断した一瞬のすきをつかれて体内に血を入れられてしまったのだ。

 結果的に無明むみょうは心身を魔王に乗っ取られた。

 だが、1歩間違えればあの姿になっていたのは俺だっただろう。

 俺は無明むみょうが現れなかったら、まずは〈周天しゅうてん〉で高めた精気を破山剣はざんけんの刀身に集中させる〈発勁はっけい〉でもって、硬質化していた笑山しょうざんの皮膚をつらぬいて心臓を突こうと考えていたのである。
 
 それを実行していれば破山剣はざんけんの刀身に血が付着し、俺は魔王の魂魄こんぱくが宿っているとも知らずに血をぬぐっていた。

 あとは無明むみょうと同じだ。

 油断していた一瞬のすきをつかれ、俺は魔王に心身を憑依ひょういされていたに違いない。
 
 はからずとも命拾いしたということか。

 そう俺が思ったとき、魔王は大気を鳴動めいどうさせるほどの叫び声を上げた。

 最初は俺たちへの威嚇いかくの叫びかと身構えたが、よくよく見ていると魔王は自分の身体を見回して険しい表情を浮かべている。

「この人間風情が! この期におよんで私に抵抗するか!」

 魔王がそう言うと、

「ふ、ふざけるなよ……貴様こそ……俺の身体から……で、出ていけ……」

 同じく魔王がそう答える。

 まさか、本物の無明むみょうが魔王に抵抗しているのか。

 そうとしか考えられなかった。

 魔王はまだ無明むみょうの精神までは完全に乗っ取っていないのだ。

 だとしたら、これは千載一遇せんざいいちぐう好機チャンスである。

「アリシア、お前が以前に魔王を倒したときはどうやって倒した?」

 俺は魔王を見据みすえつつ、アリシアにたずねた。

「火の魔法よ」

 アリシアも俺と同じく、魔王から視線を外さずに答える。

「魔法使いたちの火の魔法で魔王の身体を焼いて弱ったところを、私が精気を込めた一撃で一応は倒した……と、思ったのだけれど」

「そのときは最後まで倒しきれなかった」

 こくりとアリシアはうなずく。

「ただ、魔王は火が弱点なのは違いないわ。1年前、私たちが倒しきれなかったのは火の魔法の火力が足りなかっただけ。だから、私は1人でこの国に来ると決めたときあの魔道具を手に入れたの」

 魔道具という言葉を聞いて、俺はすぐにピンときた。

「胸元に掛けている赤い石の首飾りペンダントか?」

紅蓮水晶ぐれんすいしょう――お師匠さまを経由して手に入れた、強力無比な火の魔法の力を凝縮ぎょうしゅくしている特別な魔石ませきよ」

 アリシアは自分の首に掛けていた首飾りペンダントを外して左手に持った。

「これを使えば今度こそ魔王に致命傷を与えられるはず……仮にそれが難しかったとしても、以前よりは弱らせられるはずだからすぐにとどめを刺せばいい」

 俺たちが会話をしている最中も、魔王と無明むみょうの激しい精神の闘いは続いている。

「それはどうやって使う?」

魔石ませきを装飾部分から外して2呼吸分(約10秒)が経てば発動するわ。それこそ、こんな小さな魔石ませきからは想像もできないほどの凄まじい爆発が起こる。もちろん1回しか使えないけど」

 俺は震天雷しんてんらいのような代物かとさっした。

 震天雷しんてんらいとは瓢箪型ひょうたんがた、もしくは球型きゅうがたの鉄の容器の中に火薬を詰め込んで爆発させる武器のことだ。

 そして震天雷しんてんらいは導火線を使って中の火薬に火を付け、強力な爆風と火炎によって周囲の敵を殺傷する。

 だがアリシアの紅蓮水晶ぐれんすいしょうという石は、装飾部分から取り外すだけで震天雷しんてんらいと同等かそれ以上の威力を発揮はっきするらしい。

 だとしたら、俺が先ほど考えていた〈七星剣しちせいけん〉をに変化させる必要はないだろう。

 そもそもあれは形状変化させるだけでも時間が掛かり、なおかつ1日に1度だけという制約とありったけの精気を放出するので回避かいひされた場合が恐ろしかった。

 しかし、魔王を弱らせるか身動きを封じるだけというのなら話は別だ。

 それに特化した最終形状よりも制約が小さくて使える、〈七星剣しちせいけん〉の他の形状武器はある。

「アリシア、その首飾りペンダントを俺に貸してくれ。俺が何とかその首飾りペンダントの石を魔王に使ってやる。そして魔王がひるんだすきにお前がとどめを刺すんだ」

 アリシアは目を見開き、首を左右に振る。

「だ、だめよ。そんな危険な役目をあなたにさせるわけにはいかないわ」

「いいんだ。それぐらいのことは最初から覚悟の上さ」

 俺はアリシアから半ば強引に首飾りペンダントを取った。

 左手に首飾りペンダント、右手に破山剣はざんけんを持っていた状態でアリシアに微笑ほほえむ。

「アリシア……お前の辛かった旅はここで終わらせてやるからな」

 俺は首飾りペンダントふところに仕舞うと、裂帛れっぱくの気合とともに床を蹴ってけ出した。

 今、自分が口にした言葉を実現させるために――。
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