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第25話
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暗い、とても暗い場所だった。
四方すべてが漆黒の闇に包まれ、自分が今どこにいるのかもわからない。
それでも足は動いていた。自分の意思とは関係なく、行き先を知っているかのように歩き続けていた。
何故だろう? 自分の手も見えないほどの暗闇の中にいるのに、まったく恐怖を感じない。それどころか、恐怖よりも身が裂けるほどの悲しさが溢れてくる。
痛い。胸が痛い。目的の場所に近づくにつれ、痛みが激しくなっていくようだ。
それでも足は動いていく。ゆっくりと、ゆっくりと、足は動いていく。
時間が止まったような空間を延々と歩いていくと、目の前に小さな光が見えてきた。夜空に煌々と浮かぶ月の光よりも弱々しく、水辺の畔に生息している蛍の光よりも強い。
その薄っすらと浮かぶ光は、近づくにつれ輪郭がはっきりと見えてきた。
光の正体は流麗な長髪が印象的な全裸姿の少女であった。
少女は膝を抱えてぽつねんと座っていた。
泣いているのだろうか? 顔をうつむかせて震えている。
目の前まで近づき、少女にそっと話しかけてみた。
「何故、あなたは泣いているの?」
少女は顔を上げた。顔をくしゃくしゃにさせていた少女は、大粒の涙を流しながら泣いていた。
何が悲しいのだろう?
自分に何かできることはないのだろうか?
そう思っていると、逆に少女のほうから訊き返してきた。
「お姉ちゃん……誰?」
考える間もなく、口が勝手に動き出す。
「私は……イエラ」
口に出してようやく気づいた。
そうだ。私の名前はイエラ。ミゼオンの街に住む、サブリナとカールの娘。だが、それしか今は思い出せない。頭の中に霧がかかっているようだ。
少女は手の甲で涙を拭った。ルビーのような紅い瞳と目線が重なる。
「お姉ちゃんは悲しくないの? 苦しくないの? 痛くないの? 怖くないの?」
少女の問いかけにイエラは押し黙った。少女の質問の意味がよくわからない。
イエラが返事を返せないでいると、少女が立ち上がった。
その少女の顔を見て、イエラはすべてを思い出した。
「カサンドラ……あなた、シモン先生の娘さんのカサンドラね」
少女――カサンドラは小さくうなずいた。
「カサンドラ、ここはどこなの? あなたはここで何をしているの?」
イエラの問いかけに、カサンドラはひたすら「ごめんなさい」と謝っていた。
「謝っていてもわからないわ。ここはいったいどこなの?」
片膝をつき、イエラはカサンドラの両肩を優しく摑んだ。
カサンドラは静かに言った。
「ここは〝カタワレ〟と化した人間が行き着く現世と幽界の狭間……」
「〝カタワレ〟? 現世と幽界の狭間?」
聞き慣れぬ単語にイエラが戸惑いを見せると、カサンドラの胸元が少しずつ膨らんできた。子供の握り拳ほどに膨らむと、皮膚を突き破るように鉱物の形をした石が出てきた。
その石にイエラは見覚えがあった。誰も立ち入らない森の奥で見つけ、シモンに渡した不思議な石。たしかシモンは〈マナの欠片〉と呼んでいた。
「この石がお父さんを狂わせた。一度死んだ私を生き返らせるためにこんな石の力に頼ったせいでお父さんは死んだ。私の目の前で……私は……何も出来なかった」
イエラはカサンドラを優しく抱きしめた。
そこにはただ恐怖に怯え、小さな身体を震わせている少女しかいなかった。
大通りの路地で最初にカサンドラを見たときは、正直、全身に鳥肌が立った。何か得たいの知れない化け物を見るようで、恐怖に駆られたのは事実であった。
でも、ここには化け物はいない。その証拠に、抱きしめているカサンドラの身体は温かかった。これは、心が通った人間の体温だ。
「教えて、カサンドラ。私はどうすればいい? どうすればここから出られるの?」
カサンドラの耳元でイエラはそっと囁いた。
「私はここから出られない……でも、あなたなら出られる。出させてあげられる」
体内から出した〈マナの欠片〉をカサンドラはイエラに手渡した。イエラの手の平には人間の体温に似た温かな熱が広がる。
そのときであった。
『駄目じゃないカサンドラ。それは大事な大事なモノなのよ。それを人間に簡単に渡すなんてイケナイ子だわ』
イエラは無機質な声がした後方を振り返った。
自分たちから数メートル離れた場所には、今自分が抱きしめているカサンドラと瓜二つな顔をしているもう一人のカサンドラがいた。頬を耳元まで吊り上げて笑い、両手を後ろで組んで佇んでいる。
その立ち振る舞いから嫌でもわかる。
突如として現れた二人目のカサンドラからは、人間味というものが感じられなかった。
負の感情が凝り固まり、人間の姿を模しているとしか思えない。その姿を見つめているだけで、肉体の五感を徐々に侵食されていくような気さえしてくる。
一人目のカサンドラは素早く立ち上がり、イエラの前に立ちはだかった。両手を大きく左右に広げ、イエラの盾になるような仕草を取る。
『なに? 自分で自分の邪魔をするの? わかっていると思うけど、あなたと私は一心同体なのよ。光と闇、表と裏、善と悪のように』
二人目のカサンドラはゆっくりとこちらに近づいてきた。その足取りは生命を刈り取ると伝えられていた死神の歩みを連想させた。
「わかっている。あなたは私の心の奥底にいたもう一人の私。だからこそ私はあなたを否定する。こんなことはやってはいけない」
刹那、二人目のカサンドラの右手が急激に伸びた。人間の肉体構造を完全に無視したその異常現象を前に、イエラは思わず後ずさった。
二人目のカサンドラが伸ばした右手は、蛇の肉体を思わせるくねりを見せながら一人目のカサンドラの首を摑んだ。
『あなたの言い分なんてどうでもいいのよ。こうして蘇ったのはお父さんのお陰。そして、〈マナの欠片〉のお陰なのよ。それにあなたも死ぬ直前に望んだはずよ。お父さんと一緒に生きたいと』
一人目のカサンドラの首を摑んでいる二人目のカサンドラの右手は、ギリギリと真綿のように締め付けていく。
「その結果……お父さんは死んだ……それに……多くの人を巻き添えにしてまで……私は生きたくない」
首を絞められながら、一人目のカサンドラはイエラをちらりと見た。苦しそうな表情をしている中で、精一杯の言葉を伝えた。
一人目のカサンドラの言葉を聞くなり、イエラは覚悟を決めた。手の中に収まっている〈マナの欠片〉を強く握り締めると、その場から一目散に走り出した。
『やめなさいッ!』
二人目のカサンドラはイエラに怒声を発するなり、右手と同様に左手も伸ばした。
凄まじい速度で伸びていく左手の目標は、背中を見せて走り去っていくイエラの首であった。もし摑まったら、間違いなくイエラの首の骨は粉々になっただろう。
だが、そうはいかなかった。
『何故なのッ! 何故邪魔をするの、カサンドラッ!』
二人目のカサンドラが伸ばした左手は、一人目のカサンドラの手でしっかりと摑み取られていた。
一人目のカサンドラも自分の腕を伸ばすことができていた。その人間とは思えない力を使って、イエラを襲うとした攻撃を未然に防いだのである。
カサンドラ同士が熾烈な戦いを繰り広げている中、イエラは走っていた。後ろを振り向かず、ただ全力で走り抜いていた。
距離的にどれぐらい走ったかはイエラ本人もわからない。だが、確実に目的の場所に近づいている。それだけはわかる。
「はあ、はあ、はあ、どこ? どこにあるの?」
ふと足を止めたイエラは、乱れる呼吸を気にも留めずに周囲を見渡した。
この辺りである。一人目のカサンドラの言葉を信じるとしたら、必ずこの辺りにあるはずであった。
縦横無尽に首を動かし漆黒の闇の中を見回していると、イエラはある一点で視線を止めた。慎重にその場所まで歩いていき、手で弄って確認する。
見つけた。イエラの目の前の空間には、わずかな光が漏れていた。それは本当に注視しなければ見えない、糸クズほどの小さな光の亀裂であった。
イエラはその光の亀裂を確認するなり、握っていた〈マナの欠片〉を亀裂に向かって叩きつけた。
鉄板を叩きつけたような甲高い音が鳴り響いた。
「お願い! 割れてッ!」
何度も何度もイエラは〈マナの欠片〉を光の亀裂に叩きつけた。
その度に〈マナの欠片〉を握っていた手に痺れが走るが、そんなことは関係ない。
一人目のカサンドラは確かに言っていたのだ。
――光の亀裂を見つけて……そこがこの場所から出られる……唯一の出口……そしてそこは……〈マナの欠片〉でしか壊せない。
イエラはその言葉を信じた。そして、現に光の亀裂は存在していた。ならば、後は全力で実行するのみ。
きちんとした回数は数えていなかったが、二十回以上は思いっきり〈マナの欠片〉を叩きつけた。すると、少しずつではあるが光の亀裂の数が多くなっていく。
そしてさらに何十回か〈マナの欠片〉を光の亀裂に叩きつけたとき、目に見える確かな変化が訪れた。
葉脈のような亀裂が走っていた空間の一部から、成人男性の握り拳ほどの漆黒の欠片がボロッと剥がれ落ちたのである。
イエラはその剥がれ落ちた穴から向こうの様子を覗き見た。
「ミゼオンだ! ミゼオンが見える!」
穴の向こう側には、ミゼオンの街並みが広がっていた。相変わらず炎に包まれた無残な光景であったが、そこは確実に自分が生きていた現実の世界があった。
だが、今はまだ穴が小さいために通ることができない。身体全部が通れるほどの大きさにするには、もっと叩いて壊さなければならない。
胸に手を当てたイエラは、一度大きく深呼吸をした。
一旦落ち着いてから再び作業の続きをしようとしたのだが、そんな悠長な時間は一秒たりとも残されていなかった。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!』
後方から響いてくる咆哮に、イエラの身体から血の気が急激に引いた。振り返ると、遠くから光の塊が迫ってくる。
カサンドラだ。だが、迫り来るカサンドラの右手には首を摑まれているもう一人のカサンドラがいた。首を摑まれていたもう一人のカサンドラは全身がぐったりとしていて、ピクリとも動いていない。
それだけでわかる。迫ってくるのは邪悪な面が露出した二人目のカサンドラだ。
だとしたら呑気に休んでいる場合ではない。一刻も早くここから脱出しなければ、確実に死が訪れるだろう。
「お願いッ! はやく壊れてッ!」
先刻よりも渾身の力を込めて亀裂を叩くイエラ。その度にボロボロと空間の一部が剥がれ落ち、漏れ出てくる光が大きくなっていく。
だが、まだ小さい。せいぜい頭がやっと入るほどの大きさだ。
焦りながら延々と〈マナの欠片〉を叩きつけている間にも、後方からは圧倒的な脅威が着実に迫ってくる。
『ハハハハハハハハッ! 逃がさないよ、絶対に逃がさないよッ!』
段々と聞こえる声が大きくなってくる。もうあまり時間がない。何分? いや、何十秒もないかもしれない。
そのとき、より一層甲高い音が鳴り響いた。
突き出すように〈マナの欠片〉を叩きつけると、今までで一番大きく漆黒の空間が剥がれ落ち、身体の三分の二まで通れるような大きさにまで破壊することができた。
あと一打。あと一打でここから脱出できる。
そう確信したイエラは、最後の一打を自分が持っている最大の力で叩こうとした。
〈マナの欠片〉を持つ手を大きく振りかぶり、今まさに叩きつけようとした瞬間、
「ぐっ!」
イエラは最後の一打を放てなかった。
首を誰かに摑まれた。それも尋常な力ではなかった。滑らかな感触から蛇でも巻きついたような感じだった。
二人目のカサンドラが伸ばした左手だった。
距離的には数十メートルの場所から人間の身体構造を無視して伸ばされた左手が、イエラの首をしっかりと摑んだのだ。
ぎゅうぎゅうと真綿のように首を締め付けられる。そのせいで呼吸もままならない。このままだと意識が飛んで一環の終わりである。
イエラは必死に抵抗した。
自分の首を掴んでいる二人目のカサンドラの手を引き剥がそうとするが、一向に引き剥がせない。それどころか身体が徐々に徐々に後方に引っ張られ、光の亀裂から遠ざかっていく。
ずるずると二人目のカサンドラの元へ引きずられていくイエラ。もし普通の人間であればパニック状態を引き起こし、何の抵抗もできずに捕まったかもしれない。
しかしイエラは違う。
自分が置かれている状況を把握し、対処する方法を知っていた。
満足に声も出せない状況の中、イエラは大きく右手を振り上げた。その右手の中には、先ほどよりも熱が篭っていた〈マナの欠片〉が握られている。
『やめろおおおおおお――――ッ!』
無機質な二人目のカサンドラの絶叫が轟くが、イエラは聞く耳を持たず実行した。
イエラは絶対に成功することを祈りながら、〈マナの欠片〉を思いっきり目的の場所へと投げ放った。
手元から綺麗に離れていった〈マナの欠片〉は、吸い込まれるように光の亀裂に直撃した。
瞬間――地震により建物が崩壊するような特大の衝撃音が沸き起こった。
それは、イエラの祈りが通じた瞬間でもあった。
人一人が通れるほどに空いた亀裂からは膨大な光が放出され、漆黒の空間すべてを瞬く間に包んでいく。それだけではなかった。景色が黒から白へと反転するや、イエラたちが立っていた地面が一瞬で崩壊していった。
イエラの身体は重力に導かれながら真っ逆さまに落ちていった。悲鳴を上げることもできず、ただ手足をバタつかせることしかできない。
落ちている。どうしようもなく落ちている。
あまりの恐怖で意識が飛びそうになったが、確かにイエラの瞳は目撃していた。
風景が逆転している視界の中で、自分に向かって飛んでくる光の塊を。
それは、真夏だというのにロングコートを羽織った男の姿――。
四方すべてが漆黒の闇に包まれ、自分が今どこにいるのかもわからない。
それでも足は動いていた。自分の意思とは関係なく、行き先を知っているかのように歩き続けていた。
何故だろう? 自分の手も見えないほどの暗闇の中にいるのに、まったく恐怖を感じない。それどころか、恐怖よりも身が裂けるほどの悲しさが溢れてくる。
痛い。胸が痛い。目的の場所に近づくにつれ、痛みが激しくなっていくようだ。
それでも足は動いていく。ゆっくりと、ゆっくりと、足は動いていく。
時間が止まったような空間を延々と歩いていくと、目の前に小さな光が見えてきた。夜空に煌々と浮かぶ月の光よりも弱々しく、水辺の畔に生息している蛍の光よりも強い。
その薄っすらと浮かぶ光は、近づくにつれ輪郭がはっきりと見えてきた。
光の正体は流麗な長髪が印象的な全裸姿の少女であった。
少女は膝を抱えてぽつねんと座っていた。
泣いているのだろうか? 顔をうつむかせて震えている。
目の前まで近づき、少女にそっと話しかけてみた。
「何故、あなたは泣いているの?」
少女は顔を上げた。顔をくしゃくしゃにさせていた少女は、大粒の涙を流しながら泣いていた。
何が悲しいのだろう?
自分に何かできることはないのだろうか?
そう思っていると、逆に少女のほうから訊き返してきた。
「お姉ちゃん……誰?」
考える間もなく、口が勝手に動き出す。
「私は……イエラ」
口に出してようやく気づいた。
そうだ。私の名前はイエラ。ミゼオンの街に住む、サブリナとカールの娘。だが、それしか今は思い出せない。頭の中に霧がかかっているようだ。
少女は手の甲で涙を拭った。ルビーのような紅い瞳と目線が重なる。
「お姉ちゃんは悲しくないの? 苦しくないの? 痛くないの? 怖くないの?」
少女の問いかけにイエラは押し黙った。少女の質問の意味がよくわからない。
イエラが返事を返せないでいると、少女が立ち上がった。
その少女の顔を見て、イエラはすべてを思い出した。
「カサンドラ……あなた、シモン先生の娘さんのカサンドラね」
少女――カサンドラは小さくうなずいた。
「カサンドラ、ここはどこなの? あなたはここで何をしているの?」
イエラの問いかけに、カサンドラはひたすら「ごめんなさい」と謝っていた。
「謝っていてもわからないわ。ここはいったいどこなの?」
片膝をつき、イエラはカサンドラの両肩を優しく摑んだ。
カサンドラは静かに言った。
「ここは〝カタワレ〟と化した人間が行き着く現世と幽界の狭間……」
「〝カタワレ〟? 現世と幽界の狭間?」
聞き慣れぬ単語にイエラが戸惑いを見せると、カサンドラの胸元が少しずつ膨らんできた。子供の握り拳ほどに膨らむと、皮膚を突き破るように鉱物の形をした石が出てきた。
その石にイエラは見覚えがあった。誰も立ち入らない森の奥で見つけ、シモンに渡した不思議な石。たしかシモンは〈マナの欠片〉と呼んでいた。
「この石がお父さんを狂わせた。一度死んだ私を生き返らせるためにこんな石の力に頼ったせいでお父さんは死んだ。私の目の前で……私は……何も出来なかった」
イエラはカサンドラを優しく抱きしめた。
そこにはただ恐怖に怯え、小さな身体を震わせている少女しかいなかった。
大通りの路地で最初にカサンドラを見たときは、正直、全身に鳥肌が立った。何か得たいの知れない化け物を見るようで、恐怖に駆られたのは事実であった。
でも、ここには化け物はいない。その証拠に、抱きしめているカサンドラの身体は温かかった。これは、心が通った人間の体温だ。
「教えて、カサンドラ。私はどうすればいい? どうすればここから出られるの?」
カサンドラの耳元でイエラはそっと囁いた。
「私はここから出られない……でも、あなたなら出られる。出させてあげられる」
体内から出した〈マナの欠片〉をカサンドラはイエラに手渡した。イエラの手の平には人間の体温に似た温かな熱が広がる。
そのときであった。
『駄目じゃないカサンドラ。それは大事な大事なモノなのよ。それを人間に簡単に渡すなんてイケナイ子だわ』
イエラは無機質な声がした後方を振り返った。
自分たちから数メートル離れた場所には、今自分が抱きしめているカサンドラと瓜二つな顔をしているもう一人のカサンドラがいた。頬を耳元まで吊り上げて笑い、両手を後ろで組んで佇んでいる。
その立ち振る舞いから嫌でもわかる。
突如として現れた二人目のカサンドラからは、人間味というものが感じられなかった。
負の感情が凝り固まり、人間の姿を模しているとしか思えない。その姿を見つめているだけで、肉体の五感を徐々に侵食されていくような気さえしてくる。
一人目のカサンドラは素早く立ち上がり、イエラの前に立ちはだかった。両手を大きく左右に広げ、イエラの盾になるような仕草を取る。
『なに? 自分で自分の邪魔をするの? わかっていると思うけど、あなたと私は一心同体なのよ。光と闇、表と裏、善と悪のように』
二人目のカサンドラはゆっくりとこちらに近づいてきた。その足取りは生命を刈り取ると伝えられていた死神の歩みを連想させた。
「わかっている。あなたは私の心の奥底にいたもう一人の私。だからこそ私はあなたを否定する。こんなことはやってはいけない」
刹那、二人目のカサンドラの右手が急激に伸びた。人間の肉体構造を完全に無視したその異常現象を前に、イエラは思わず後ずさった。
二人目のカサンドラが伸ばした右手は、蛇の肉体を思わせるくねりを見せながら一人目のカサンドラの首を摑んだ。
『あなたの言い分なんてどうでもいいのよ。こうして蘇ったのはお父さんのお陰。そして、〈マナの欠片〉のお陰なのよ。それにあなたも死ぬ直前に望んだはずよ。お父さんと一緒に生きたいと』
一人目のカサンドラの首を摑んでいる二人目のカサンドラの右手は、ギリギリと真綿のように締め付けていく。
「その結果……お父さんは死んだ……それに……多くの人を巻き添えにしてまで……私は生きたくない」
首を絞められながら、一人目のカサンドラはイエラをちらりと見た。苦しそうな表情をしている中で、精一杯の言葉を伝えた。
一人目のカサンドラの言葉を聞くなり、イエラは覚悟を決めた。手の中に収まっている〈マナの欠片〉を強く握り締めると、その場から一目散に走り出した。
『やめなさいッ!』
二人目のカサンドラはイエラに怒声を発するなり、右手と同様に左手も伸ばした。
凄まじい速度で伸びていく左手の目標は、背中を見せて走り去っていくイエラの首であった。もし摑まったら、間違いなくイエラの首の骨は粉々になっただろう。
だが、そうはいかなかった。
『何故なのッ! 何故邪魔をするの、カサンドラッ!』
二人目のカサンドラが伸ばした左手は、一人目のカサンドラの手でしっかりと摑み取られていた。
一人目のカサンドラも自分の腕を伸ばすことができていた。その人間とは思えない力を使って、イエラを襲うとした攻撃を未然に防いだのである。
カサンドラ同士が熾烈な戦いを繰り広げている中、イエラは走っていた。後ろを振り向かず、ただ全力で走り抜いていた。
距離的にどれぐらい走ったかはイエラ本人もわからない。だが、確実に目的の場所に近づいている。それだけはわかる。
「はあ、はあ、はあ、どこ? どこにあるの?」
ふと足を止めたイエラは、乱れる呼吸を気にも留めずに周囲を見渡した。
この辺りである。一人目のカサンドラの言葉を信じるとしたら、必ずこの辺りにあるはずであった。
縦横無尽に首を動かし漆黒の闇の中を見回していると、イエラはある一点で視線を止めた。慎重にその場所まで歩いていき、手で弄って確認する。
見つけた。イエラの目の前の空間には、わずかな光が漏れていた。それは本当に注視しなければ見えない、糸クズほどの小さな光の亀裂であった。
イエラはその光の亀裂を確認するなり、握っていた〈マナの欠片〉を亀裂に向かって叩きつけた。
鉄板を叩きつけたような甲高い音が鳴り響いた。
「お願い! 割れてッ!」
何度も何度もイエラは〈マナの欠片〉を光の亀裂に叩きつけた。
その度に〈マナの欠片〉を握っていた手に痺れが走るが、そんなことは関係ない。
一人目のカサンドラは確かに言っていたのだ。
――光の亀裂を見つけて……そこがこの場所から出られる……唯一の出口……そしてそこは……〈マナの欠片〉でしか壊せない。
イエラはその言葉を信じた。そして、現に光の亀裂は存在していた。ならば、後は全力で実行するのみ。
きちんとした回数は数えていなかったが、二十回以上は思いっきり〈マナの欠片〉を叩きつけた。すると、少しずつではあるが光の亀裂の数が多くなっていく。
そしてさらに何十回か〈マナの欠片〉を光の亀裂に叩きつけたとき、目に見える確かな変化が訪れた。
葉脈のような亀裂が走っていた空間の一部から、成人男性の握り拳ほどの漆黒の欠片がボロッと剥がれ落ちたのである。
イエラはその剥がれ落ちた穴から向こうの様子を覗き見た。
「ミゼオンだ! ミゼオンが見える!」
穴の向こう側には、ミゼオンの街並みが広がっていた。相変わらず炎に包まれた無残な光景であったが、そこは確実に自分が生きていた現実の世界があった。
だが、今はまだ穴が小さいために通ることができない。身体全部が通れるほどの大きさにするには、もっと叩いて壊さなければならない。
胸に手を当てたイエラは、一度大きく深呼吸をした。
一旦落ち着いてから再び作業の続きをしようとしたのだが、そんな悠長な時間は一秒たりとも残されていなかった。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!』
後方から響いてくる咆哮に、イエラの身体から血の気が急激に引いた。振り返ると、遠くから光の塊が迫ってくる。
カサンドラだ。だが、迫り来るカサンドラの右手には首を摑まれているもう一人のカサンドラがいた。首を摑まれていたもう一人のカサンドラは全身がぐったりとしていて、ピクリとも動いていない。
それだけでわかる。迫ってくるのは邪悪な面が露出した二人目のカサンドラだ。
だとしたら呑気に休んでいる場合ではない。一刻も早くここから脱出しなければ、確実に死が訪れるだろう。
「お願いッ! はやく壊れてッ!」
先刻よりも渾身の力を込めて亀裂を叩くイエラ。その度にボロボロと空間の一部が剥がれ落ち、漏れ出てくる光が大きくなっていく。
だが、まだ小さい。せいぜい頭がやっと入るほどの大きさだ。
焦りながら延々と〈マナの欠片〉を叩きつけている間にも、後方からは圧倒的な脅威が着実に迫ってくる。
『ハハハハハハハハッ! 逃がさないよ、絶対に逃がさないよッ!』
段々と聞こえる声が大きくなってくる。もうあまり時間がない。何分? いや、何十秒もないかもしれない。
そのとき、より一層甲高い音が鳴り響いた。
突き出すように〈マナの欠片〉を叩きつけると、今までで一番大きく漆黒の空間が剥がれ落ち、身体の三分の二まで通れるような大きさにまで破壊することができた。
あと一打。あと一打でここから脱出できる。
そう確信したイエラは、最後の一打を自分が持っている最大の力で叩こうとした。
〈マナの欠片〉を持つ手を大きく振りかぶり、今まさに叩きつけようとした瞬間、
「ぐっ!」
イエラは最後の一打を放てなかった。
首を誰かに摑まれた。それも尋常な力ではなかった。滑らかな感触から蛇でも巻きついたような感じだった。
二人目のカサンドラが伸ばした左手だった。
距離的には数十メートルの場所から人間の身体構造を無視して伸ばされた左手が、イエラの首をしっかりと摑んだのだ。
ぎゅうぎゅうと真綿のように首を締め付けられる。そのせいで呼吸もままならない。このままだと意識が飛んで一環の終わりである。
イエラは必死に抵抗した。
自分の首を掴んでいる二人目のカサンドラの手を引き剥がそうとするが、一向に引き剥がせない。それどころか身体が徐々に徐々に後方に引っ張られ、光の亀裂から遠ざかっていく。
ずるずると二人目のカサンドラの元へ引きずられていくイエラ。もし普通の人間であればパニック状態を引き起こし、何の抵抗もできずに捕まったかもしれない。
しかしイエラは違う。
自分が置かれている状況を把握し、対処する方法を知っていた。
満足に声も出せない状況の中、イエラは大きく右手を振り上げた。その右手の中には、先ほどよりも熱が篭っていた〈マナの欠片〉が握られている。
『やめろおおおおおお――――ッ!』
無機質な二人目のカサンドラの絶叫が轟くが、イエラは聞く耳を持たず実行した。
イエラは絶対に成功することを祈りながら、〈マナの欠片〉を思いっきり目的の場所へと投げ放った。
手元から綺麗に離れていった〈マナの欠片〉は、吸い込まれるように光の亀裂に直撃した。
瞬間――地震により建物が崩壊するような特大の衝撃音が沸き起こった。
それは、イエラの祈りが通じた瞬間でもあった。
人一人が通れるほどに空いた亀裂からは膨大な光が放出され、漆黒の空間すべてを瞬く間に包んでいく。それだけではなかった。景色が黒から白へと反転するや、イエラたちが立っていた地面が一瞬で崩壊していった。
イエラの身体は重力に導かれながら真っ逆さまに落ちていった。悲鳴を上げることもできず、ただ手足をバタつかせることしかできない。
落ちている。どうしようもなく落ちている。
あまりの恐怖で意識が飛びそうになったが、確かにイエラの瞳は目撃していた。
風景が逆転している視界の中で、自分に向かって飛んでくる光の塊を。
それは、真夏だというのにロングコートを羽織った男の姿――。
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