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11 方舟-6-

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 役目を終えた彼女は背伸びをした。

 あの独特な雰囲気のせいで、特に役人たちが黙想したときは呼吸を忘れてしまうほど場の空気に呑まれてしまった。

(どうも合わないわね、こういうムードは――)

 ネメアは血以外にも苦手なものがあることを知った。

 とはいえ仕事は完了だ。

 カイロウからの頼まれ事――厳密には依頼主はダージなので、彼から指示されたことになっている――はクジラの観察だけ。

 気が付いたことは逐一、メモをとってある。

 その内容はかなり細かく、事前に着眼点について指摘がなければ危うく見落としていたであろう事柄ばかりだ。

 方舟が飛び去り、興奮気味だった観衆がぞろぞろと散り始めた時だった。

「今日は仕事は休み?」

 声をかけられて振り向くと、リエがいた。

「リエじゃない! 偶然ね、こんなところで会うなんて――」

 言いかけて慌てて口を噤む。

 ”こんなところ”が侮辱だと取られれば、面倒なことになりかねない。

「果物を買いにね。味には期待していないけど、こっちのほうが安く買えるから」

 そう言うリエは何も持っていなかった。

 これから商店街にでも行くのだろうとネメアは思った。

「あたしは仕事よ。ちょっと頼まれたことがあってね」

「ずいぶん人が集まっているようだけど、雑踏警備とか?」

「まあ、そんなところね」

 友人とはいえ、仕事内容の詳細は口外できないことになっている。

 特に依頼主に関する情報の漏洩は信用に関わる。

「今日は時間ある? よければお茶でもしない? 今度は私がおごるわ」

 この辺りなら時間を潰せるような場所はいくらでもある。

 カフェにしろ酒場にしろ取り扱っている品も多いから、良心的な店を見つけられれば退屈しない。

「悪いわね。このあと町に戻って打ち合わせがあるのよ。せっかくのお誘いだけど――」

「仕事なら仕方ないわよ。また日が合えば改めて声をかけるわ」

 気を遣わせまいとしてか、彼女は大仰に手を振った。

 仕事中ということなら立ち話をするワケにもいかない。

 二、三、言葉を交わしたあと、リエは人混みの中に消えた。

 それと入れ替わるようにしてダージが戻ってくる。

「すごい熱気だったな。どうだい、クジラ様は。何か気になるようなことはあったか?」

「どうだろうね。あたしは言われたとおりに注意して見てただけだからね。個人的には――」

 興味がない、という言葉はこの後の集会までとっておこうと彼女は思いなおした。

 人の姿はまばらだが、役人はまだあちこちにいる。

 あまり込み入った会話をするのは危険だ。

「とりあえずカイロウと合流して町に戻ろう。それとも他に行く場所があるかい?」

 人目を憚るように問う彼女に、ダージは肩をすくめた。

「ダンナ次第だな。オレとしちゃ今すぐ帰りたいけどな」

 どうもこの小奇麗な町は性分に合わない。

 華やかな町に憧れたこともあるが、今はあの町で調達屋を続けてもいいと彼は考えている。

「待たせてすまない」

 数分してカイロウがやって来た。

「ああ、ダンナ。この後の予定はどうなってるんです?」

「町に戻る。それからきみたちが見たものを詳しく聞きたい」

「だそうだ、ネメア」

 ダージはにやにやして言った。

「了解。そうだ、これを返しておくよ」

 カイロウに双眼鏡を渡した彼女は、先頭に立って車を停めている場所に向かう。

「………………」

 その様子を通りの反対側からリエが見ていた。
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