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15 翔破-3-
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薄曇りの中に浮かびあがるイルミネーションの草原は、輪郭の曖昧な光芒をそこかしこに伸ばしていた。
ここに集うのはあくまで敬虔な信徒ばかりのハズだった。
だが時が経つにつれ騒ぎに乗じて有象無象がたむろする催事に成り下がってしまった。
法外な値段で飲食物を売りつける露店が並び、華やかな通りは信仰とは無縁の、異性との出会いを求める不埒者が行き来している。
教団非公認のグッズを売り歩く輩、密かに薬物の売買を行なう者もいる。
一方、信心深い者たちはクジラへの畏敬から、そうした派手な言動を慎んでいた。
クジラ教の信徒はこの日に備えて身を清め、巡礼の列をしずしずと歩く。
より徳を積んだ信者は錫杖を手に列の前を行く。
教団は各地に礼拝所を設けており、信者たちは各地域の支部から礼拝所を目指す。
その一団は小規模なところで十数人、要所であれば数百人にものぼる。
そのため巡行者の列は蛇のように長くたなびくが、その列がわだかまったり途切れたりすることはない。
巡行を妨害することは許されていないからだ。
狼藉を働けば信徒を護衛する騎士にただちに斬られる。
クジラ教を含め、いくつかの主要な教団には政府から様々な自由が認められている。
武具を持ってそれを使用することも、私兵を組織することも国に与えられた正当な権利だ。
だから命が惜しい者は言葉で教団を批判することはあっても、暴力に訴えることはしない。
したがって狂騒の坩堝と化した一帯も、信者たちが近づいてくると途端に静まり返る。
「今夜、我々は偉大なるクジラ様の御威光を拝するであろう!」
大教祖は町の中央にそびえる神殿の屋上にいた。
ここからは町を一望できる。
彼らが所有する建造物の中では最も天に近い場所だ。
最高幹部を左右に従え、選ばれた数百名の信者たちを前に老女は手に持った鈴を何度も鳴らした。
「ここに祈り、全てを捧げよ。我らはクジラ様と共にある」
大教祖の体は震えていた。
彼女は凡百の宗教家とはちがう。
幼い頃、落雷に撃たれ生死の境をさまよったあの日から、彼女は不思議な力を授かったのだ。
それはおぼろげながら未来を見通す目。
いわゆる予知能力だ。
各地で起こる山火事や洪水を、この老女はことごとく言い当ててきた。
それらが見えるのだ。
漠然と。
だが確かに。
山が燃え上がる光景、水が押し寄せる様。
まるで擦りガラスを通して見たように、ぼんやりと頭の中に浮かび上がってくる。
彼女はそれを神からのお告げ、ということにした。
こうすれば万が一、その能力を失ってもお告げが降りてこない、と言い訳ができる。
また見えるといっても鮮明でないので予言がはずれる場合もある。
その際には予言の解釈を誤ったことにすればいい。
重要なのは大教祖としての神秘性、尊厳性を守ることだ。
当たれば自分の功績に、はずれれば神の責任に。
そうして今日までこの地位を維持してきた。
そんな彼女が震えてしまうのは、これまでとは決定的に異なる何かを見たからだ。
火災でもなければ洪水でもない。
地震や火山の噴火ともちがう。
それは今までに見たことのない光景。
クジラから放たれる神々しい光だ。
それしか分からないから、彼女には予言――つまり神のお告げ――について詳しく言及することができない。
とはいえ何かが起こるのは間違いない。
だから彼女は自分が見たものを、クジラの威光だの恵みだの新世界の幕開けだのと、適当な言葉でごまかして伝えてきた。
苦肉の策だったのだ。
今夜起こるであろう何事かについて無視を決め込んでいたとしたら、明日以降の彼女の立場は危うくなる。
重大事なのにお告げを聞くことのできない、ただの老婆と謗られるにちがいない。
そうなれば尊厳は保てず、信者が離れてしまう。
「祈れよ! 心を潔くせよ! 偉大なるクジラ様をお迎えするのだ!」
恐れることは、もうひとつ。
自身が見た光景そのものだ。
クジラから放たれた光は視界いっぱいに広がり、世界を包み込んだ。
しかしそこから先は何も見えないのだ。
地震にせよ洪水にせよ、それらが過ぎ去っても後はある。
災害によって蹂躙された都市や、そこから復興していく過程が必ずあるハズだ。
だが今回の予知には続きがない。
光に包まれたままなのか、その光がやがては消えるのか、それさえも分からない。
たいていの事柄を見てきた彼女にとり、”分からない”は恐怖でしかない。
このとてつもない不安感から逃れるには、人々の熱狂が必要だった。
煽り、浮かれ騒ぎ、妄信するのは信者でなくともかまわなかった。
とにかくひとりでも多く、今夜起こる奇跡のために集ってくれさえすれば。
自分はそれら有象無象の一部になれる。
正体不明の恐怖を、お祭り騒ぎが和らげてくれる。
クジラにまつわる事柄だから、公権力も必要以上に介入しては来るまい。
むしろ官も民も一緒になって盛り上げてくれれば、それだけ苦しみは遠ざかる。
「私たちは全てを捧げます! 偉大なるクジラ様のために!」
信者たちの追従が心地良い。
今夜、何が起こるのかは分からないが、それが過ぎれば自分はこれまで以上に尊ばれるにちがいない。
名声が得られ、信徒は増え、布施も集まる。
そのためのしばしの荊の道だと思えば、彼女も少しは気が紛れた。
「………………」
夜空の向こうには、まだ何も見えない。
だが彼女には見えていた。
じきにクジラは姿を現す。
そして漆黒のカーテンを乱暴に引き裂き、昼よりも明るく世界を照らす。
その後、どうなるのか――。
彼女はゆっくりと目を閉じ、未来を見ようとした。
見えたのはまぶたの裏の暗闇だけだった。
ここに集うのはあくまで敬虔な信徒ばかりのハズだった。
だが時が経つにつれ騒ぎに乗じて有象無象がたむろする催事に成り下がってしまった。
法外な値段で飲食物を売りつける露店が並び、華やかな通りは信仰とは無縁の、異性との出会いを求める不埒者が行き来している。
教団非公認のグッズを売り歩く輩、密かに薬物の売買を行なう者もいる。
一方、信心深い者たちはクジラへの畏敬から、そうした派手な言動を慎んでいた。
クジラ教の信徒はこの日に備えて身を清め、巡礼の列をしずしずと歩く。
より徳を積んだ信者は錫杖を手に列の前を行く。
教団は各地に礼拝所を設けており、信者たちは各地域の支部から礼拝所を目指す。
その一団は小規模なところで十数人、要所であれば数百人にものぼる。
そのため巡行者の列は蛇のように長くたなびくが、その列がわだかまったり途切れたりすることはない。
巡行を妨害することは許されていないからだ。
狼藉を働けば信徒を護衛する騎士にただちに斬られる。
クジラ教を含め、いくつかの主要な教団には政府から様々な自由が認められている。
武具を持ってそれを使用することも、私兵を組織することも国に与えられた正当な権利だ。
だから命が惜しい者は言葉で教団を批判することはあっても、暴力に訴えることはしない。
したがって狂騒の坩堝と化した一帯も、信者たちが近づいてくると途端に静まり返る。
「今夜、我々は偉大なるクジラ様の御威光を拝するであろう!」
大教祖は町の中央にそびえる神殿の屋上にいた。
ここからは町を一望できる。
彼らが所有する建造物の中では最も天に近い場所だ。
最高幹部を左右に従え、選ばれた数百名の信者たちを前に老女は手に持った鈴を何度も鳴らした。
「ここに祈り、全てを捧げよ。我らはクジラ様と共にある」
大教祖の体は震えていた。
彼女は凡百の宗教家とはちがう。
幼い頃、落雷に撃たれ生死の境をさまよったあの日から、彼女は不思議な力を授かったのだ。
それはおぼろげながら未来を見通す目。
いわゆる予知能力だ。
各地で起こる山火事や洪水を、この老女はことごとく言い当ててきた。
それらが見えるのだ。
漠然と。
だが確かに。
山が燃え上がる光景、水が押し寄せる様。
まるで擦りガラスを通して見たように、ぼんやりと頭の中に浮かび上がってくる。
彼女はそれを神からのお告げ、ということにした。
こうすれば万が一、その能力を失ってもお告げが降りてこない、と言い訳ができる。
また見えるといっても鮮明でないので予言がはずれる場合もある。
その際には予言の解釈を誤ったことにすればいい。
重要なのは大教祖としての神秘性、尊厳性を守ることだ。
当たれば自分の功績に、はずれれば神の責任に。
そうして今日までこの地位を維持してきた。
そんな彼女が震えてしまうのは、これまでとは決定的に異なる何かを見たからだ。
火災でもなければ洪水でもない。
地震や火山の噴火ともちがう。
それは今までに見たことのない光景。
クジラから放たれる神々しい光だ。
それしか分からないから、彼女には予言――つまり神のお告げ――について詳しく言及することができない。
とはいえ何かが起こるのは間違いない。
だから彼女は自分が見たものを、クジラの威光だの恵みだの新世界の幕開けだのと、適当な言葉でごまかして伝えてきた。
苦肉の策だったのだ。
今夜起こるであろう何事かについて無視を決め込んでいたとしたら、明日以降の彼女の立場は危うくなる。
重大事なのにお告げを聞くことのできない、ただの老婆と謗られるにちがいない。
そうなれば尊厳は保てず、信者が離れてしまう。
「祈れよ! 心を潔くせよ! 偉大なるクジラ様をお迎えするのだ!」
恐れることは、もうひとつ。
自身が見た光景そのものだ。
クジラから放たれた光は視界いっぱいに広がり、世界を包み込んだ。
しかしそこから先は何も見えないのだ。
地震にせよ洪水にせよ、それらが過ぎ去っても後はある。
災害によって蹂躙された都市や、そこから復興していく過程が必ずあるハズだ。
だが今回の予知には続きがない。
光に包まれたままなのか、その光がやがては消えるのか、それさえも分からない。
たいていの事柄を見てきた彼女にとり、”分からない”は恐怖でしかない。
このとてつもない不安感から逃れるには、人々の熱狂が必要だった。
煽り、浮かれ騒ぎ、妄信するのは信者でなくともかまわなかった。
とにかくひとりでも多く、今夜起こる奇跡のために集ってくれさえすれば。
自分はそれら有象無象の一部になれる。
正体不明の恐怖を、お祭り騒ぎが和らげてくれる。
クジラにまつわる事柄だから、公権力も必要以上に介入しては来るまい。
むしろ官も民も一緒になって盛り上げてくれれば、それだけ苦しみは遠ざかる。
「私たちは全てを捧げます! 偉大なるクジラ様のために!」
信者たちの追従が心地良い。
今夜、何が起こるのかは分からないが、それが過ぎれば自分はこれまで以上に尊ばれるにちがいない。
名声が得られ、信徒は増え、布施も集まる。
そのためのしばしの荊の道だと思えば、彼女も少しは気が紛れた。
「………………」
夜空の向こうには、まだ何も見えない。
だが彼女には見えていた。
じきにクジラは姿を現す。
そして漆黒のカーテンを乱暴に引き裂き、昼よりも明るく世界を照らす。
その後、どうなるのか――。
彼女はゆっくりと目を閉じ、未来を見ようとした。
見えたのはまぶたの裏の暗闇だけだった。
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