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偶然、そして必然

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「「「カンパーイ!!!」」」

カチンッとグラスが鳴り、どうもどうもと人混みを掻き分けながら、グラスを鳴らしながら練り歩く。
日本人らしい、社交辞令の面倒くさい乾杯の手順は好きでなかったが、お酒は大好きだった。金曜の夜という事もあり、気持ちも体も開放的に今日は飲むめる。私にとってたまにのご褒美だった。
20人ほどと乾杯の儀式を交わし、席に戻ると、隣の席にいる同期の深雪が話しかけて来た。

「あかね、乾杯!明日の休みどーすんの?」
「うーん、まだ決めてないけど、岩盤浴でも行こうかな」
「あんたね、趣味はいいけど汗かくだけじゃ痩せないからね?わかってる?」
「もー、分かってるよー、ダイエットは別で頑張ってるもん」
「嘘つけ!」

妙にお節介な所もあるけれど、私にとって深雪は本音を言い合えるいい友達だった。
最近、深雪とは「彼氏作るためにダイエットする専業主婦希望同盟」を結成したばかりだった。ふざけた同盟だが、1人でやるよりはよっぽどダイエット頑張れる。
まぁ深雪はともかく、私はそんなにダイエット必要な気はしていないのだけれど・・・彼氏は欲しい。場合によっては専業主婦でなくとも良いが・・・、好きな人と結ばれるなら。
私は眼鏡がトレードマークの24才。そろそろ仕事には慣れたが、結婚する友人も増えてきて長く仕事を続ける気は小さくなっていた。


それにしてもあっつぃなぁ。
胸元のボタンを1つあける。
「よ、深澤。おつかれ。」
「あ、田鍋さん、お疲れ様です」
「飲んでる?」
「はい、頂いてまーす!」
深澤というのは深雪の苗字。深澤深雪なんて、早く結婚したがるのも分かる。
私たちの卓にやって来たのは2つ上の先輩の田鍋さんと、もう1人。
「おぅ。」
と短く言う、濃いめの顔が好きな私にとってはどタイプの黄瀬さんだった。ちょっと憧れていたりもする。
少しだけラッキー、と思い、なんとなく深雪とは私と、4人でテーブルを囲む事になった。
ちらっと黄瀬さんに首元を見られた気がして、偶然とはいえボタン開けといてよかった、よっしゃ!と小さくガッツポーズ。私のトレードマークは眼鏡と、胸だったのだ!
同じ部署同士とはいえお酒が入るとやはり話は弾む。趣味の話、クレイジーな取引先の話、社員の浮いた話など、あっという間に2時間が経ち、部長がお開きを告げる。
「よーしそろそろ出るぞー、二次会行きたい人はご自由に!間違っても強制はするなよ、パワハラだからな、ガッハッハ」
という部長がそもそも二次会来いよの雰囲気を出していたが、ゆとり世代の私は怯まない。明日は用事があって、今日は帰ると決めていたのだ。
「なにあかね、帰るの?」
「うん、明日早くてさ」
「なーに男ー?」
「え、なになにあかねちゃん彼氏出来たの?」
「違いますよぉ、両親が東京に遊びに来るんです」
黄瀬さんが気にしてくれた(?)。ちょっと嬉しい。
「じゃあしょうがないね、またねー!」
深雪は最後まで本当に男じゃなくて家族の用事なのか疑っていたが、部長にズンズン引きづられて居酒屋に消えていったので追及は逃れた。ナイス部長。

さて帰ろうかと踵を返し駅まで歩いていると、前から来たサラリーマン風のおじさんと肩がぶつかる。
ごめんなさい、と言おうとした時、私の眼鏡が飛び、
バキッと目の前を丁度良く通過したタクシーに踏まれた。
あ、とお互い発声したが、おじさんは振り返っただけで行ってしまった。
バラバラになった眼鏡を目の前に呆然としてしまった私は追いかける事は出来ず、ゆっくりゆっくり破片を集める事しか出来なかった。破片を全て集め終わる頃、だんだん相方を失った悲しみと、視界がぼやけて歩く事も危ない焦りがフツフツと湧いてきた。
(どうしよう、こんな時間に眼鏡屋なんてやってるかな・・・)
明日は朝一から出かけるのに。今行っとかないと目が見えない状態で出かける事になる。
現在9時過ぎ。眼鏡屋やっててくれー、と思い、隣駅まで歩きながら探す事にした。
それにしてもあのおじさん、なんなのよ!弁償しなさいよ、私もよそ見してたけど!タクシーの人もあんな音がして割れたのだから気づいたはず!畜生!
と心の中で思いつく限りの悪態をつきながら歩いていた。が、閉店していないかどうかより、眼鏡屋がまずない。コンビニやドラッグストアと違い、そうそうあるものでも無かった。というか、線路沿いを歩いたのが良く無かった。駅前以外は住宅街で人気もなかった。
見つからない事への怒りも手伝って、少し先にある自動販売機を蹴飛ばそうかと迷いながら歩いていると、1つ露店が出ていた。
1畳ほどのボロボロのカーペットの上に並ぶそれらは、なんと眼鏡だった。思わず足を止めた。
白髪の、およそこんな所で露店を営んでいる事が似つかない上品な老婦人がにっこり話しかけてくる。
「いらっしゃい、良かったら見て行って」
あ、どうも、と突然こんな所に眼鏡屋が現れた事への驚きから、すぐに商品を見定める事が出来なかった。が、これはとんでもないラッキーなのでは、と気分が高揚するのが分かった。
カーペットには100点ほど眼鏡が置かれていて、様々なデザインの物があったが、不思議な事に商品のそれらは既にレンズが入った状態で置いてあった。普通眼鏡屋さんの商品にレンズは入っておらず、商品を選んでから視力検査、それから丁度良いレンズを入れてもらうのだ。
まぁ露店だし仕方ないか、とりあえず見える眼鏡ならなんでもいいや、と1つ無難な黒縁メガネを手に取りかけてみると、なんと度数ピッタリ。よく見える。
いきなりピッタリものものを引き当てて驚いていると、どう考えてもこんな露店には似合わない貴婦人が「あら、ピッタリだったかしら。」と声をかけてきた。
あ、はいそうみたいです、と思わず笑みが零れ、良かったと一安心。
ならこの黒いので最低大丈夫だから、もう少し探してみよう。よく見ると本当にいろんなデザインがある。
このべっ甲柄はどうかな、派手かな。と思いながら手を取りかけてみると、なんとこれも度数ピッタリ。極めてよく見える。
不思議に思いながらも赤い太淵フレームをかけてみる。ちょっと重いが、これも度数ピッタリ。
あれ、私の度数ってそんなに一般的だったっけ・・・?
一般的な度数ってなんだよ、と自分でツッコミを入れつつ、不思議さを隠しきれない顔を上げると、貴婦人は満面の笑みで立っている。
「お気に召すものはありましたか?」
お気に召すものしかないので吃ってしまったが、
「あ、もうすこしみます」
と辛うじて発し、他のメガネも手にとってみる。
青いフレーム、チタンの軽いフレーム、ピンクの派手なフレーム。いずれも度数ピッタリだった。ここまでくると混乱は通り越して忘れ去られ、どれにしょうかという迷いのみが残る。じゃあ、ちょっとチャレンジしてべっ甲柄にしようかな。そう思った時、
あれ、値段っていくらなんだろ。とても大切な事を思い出した。
「あの、値段って・・・」
「ええ、フレームの内側に書いてありますよ」
チラッと内側を見ると、12000円と手書きの小さな値札に書いてあった。
12000円か、これでもいいかな。
でも一応、比較したくなるのが乙女心。隣の赤い太ぶちメガネを手に取る。10000円。なるほど、べっ甲はちょっと高いのか。
少し手を伸ばし緑のフレーム。
目を疑った。
「運」
と書いてあった。
頭の中に「???」が溢れる。
書き間違いかな、もう一つ手に取る。
「体力」
とあった。何かのギャグか?ツッコミ待ちなのか?
もう一つ。
「聴覚」
と書いてある。
我慢出来ずに貴婦人に聞いた。
「あの、これって・・・」
「そちらが代金ですよ」
「はぁ」
ダメだ、ジョークについていけない、笑えない。混乱して少し居心地が悪くなって来たので、12000円のべっ甲柄に決めることにした。
代金を支払うと、相変わらず上品な笑顔で「ありがとうございました、どうぞご贔屓に」
と言われ、私は混乱と買えてラッキーな気持ちから少し早足で駅に向かった。


次の日、なんとなくどんどんお気に入りになってきていた新品のメガネを掛けてウキウキと身支度をしていると、母から着信があった。待ち合わせまでまだ2時間、丁度家を出る頃かな。
「もしもしお母さん、おはよ、ちゃんと起きてるよ」
「あぁ、あかねおはよう。突然悪いんだけどさ」
嫌な予感しかしない言い出しから始まった突然の電話は、自分の予感を肯定する結果となった。
父が今朝階段から落ちて足を骨折したから東京には行けない、というものだった。
ドタキャンされる事はどうでも良かったが、お父さんが心配だった。
「自分の家の階段で怪我するなんてねぇ、お父さんも年だわ。元気は元気だから、心配しないでね。また連絡するから。」
わかった、と短く言って電話を切る。身内が入院する事になるなんて、考えてみれば初めてだった。どうにも居心地の悪い動悸が治まらないまま、ベッドに倒れ天井を見る。
お父さん、いくつだっけ?52?53だっけ?
東京に出してもらって数年、すっかり両親との時間は少なくなってしまっていた。今回の東京訪問も、アレコレ口うるさく言われるのかと思うとどちらかというと憂鬱だった。しかしこうなってみると、家族を蔑ろにしていた事に後悔が浮かぶ。
そのまま同じ思考が頭の中をぐるぐると何周も周り、その数だけ同じ後悔を結果として導き出していた。
1時間ほど動かずいただろうか、時計を見ると9時。二度寝しても良かったが、なんとなく今日はちゃんと過ごそうと決心して起き上がる。お母さんが来ていたら指摘されていたであろう、隅々までの掃除や洗濯、散らかった書類やメイク道具の整理整頓を始めた。一度スイッチが入るとこういうのは止められない。2時間ほどかけて、部屋は見違えるほどキレイに整った。まぁ問題は、この状態をキープ出来るかどうかなのだけれど。
まだ昼前だ、いつもなら買い置きのカップラーメンでも啜るところだが、今日は出掛ける事にした。通勤とは反対の電車に乗り、普段は行かない街に出掛けてみる。
私は所謂「お一人様旅行」も好きだった。
フラッと入った定食屋でご飯を済ませ、小さなブティックや雑貨屋を点々と巡る。2時間ほどに一回知らない喫茶店に入る。数時間歩き回って買ったのは何処にでもあるボールペンとハンカチだった。いいんだ、探検が目的なんだから。
すっかり日も落ちて暗くなった頃、ふと昨日寄った眼鏡屋をまぜか思い出した。
あの店、土日もやってるのかな。
今日の探検の締めに立ち寄ってみる事にした。
最寄駅を降り、えーとこの辺だったかなと昨日と同じルートで路地に迷い込む。丁度蹴飛ばしやすそうな(?)自動販売機が見えた所で、
あった。
あの上品なおばさまは昨日と全く変わらない様子で眼鏡屋を営んでいた。昨日からずっとやってたのかと錯覚するくらい、そのままだった。いや、本当にやっていたのかも知れない。
「いらっしゃいませ」
相変わらず見惚れるような笑顔で言われ、私もニコッと会釈を返す。カーペットの上をよく見ると、私が買ったべっ甲柄のメガネの所だけ空いていた。補充はしないのだろうか。
「今日はどのような物をお探しなのかしら?」
「あ、あの、近くに寄ったのでまた来ちゃいました」
「そうでしたか、ゆっくり見ていってくださいね」
貴婦人のあまりの丁寧さに、冷やかしで寄った事を少し後悔し始めた時、ふと奇怪な値札が貼ってあるメガネを思い出した。
緑のメガネを手に取り、
「あの、これ運ってなんですか?」
「代金ですよ」
「運が減るって事ですか?」
「その通りです。ただしこれは、相手の運をみる事が出来ますよ。」
満面の笑みから発せられる言葉には所々謎めいた不安な気持ちが湧いて来るが、一歩踏み後で聞いてしまった。
「かけてみても?」
「もちろん」
言われ、すっとかけてみると、なんの変哲はない、ただのメガネだ。度数は相変わらずピッタリだが。
その時、すぐ先で犬の散歩をしていたおばさんが目に入る。
と、目を疑った。
疑わざるを得なかった。
おばさんからオレンジのオーラのような影がはっきり見て取れたのだ。
目を白黒させていると、
「分かりましたか?あの方の運です。」
・・・。なんのトリックなんだ?
もう一つ手に取ってみる。今度は薄いパープルのメガネ。内側には「過去」と書いてあった。クリアになる視界に、さっきのおばさんを捉える。初めは何も見えなかったので、あれ?と思っていると、突然複数の映像がフラッシュバックのように頭の中に流れ込んできた。
ペッドショップのような所で子犬に笑顔で手を振る少し若いおばさん、
部屋のカーテンを引きちぎった子犬を叱るおばさん、
散歩の途中、ママ友を見つけ井戸端会議に勤しむおばさん、
娘と喧嘩して落ち込んでいると側に寄ってくる犬、
ハッとして我に帰ると、おばさんはもうずっと先の角まで進み曲がっていく所だった。
「見えましたか?」
見えた。なるほど、相手の過去が見える眼鏡か。
試着するのは少し怖くなったので手あたり次第内側の文字を見ていくと、三分の一程は10000円前後の数字が書いてあり、あとは「覇気」「嘘」「気持ち」「性欲」「時間」「光」「音」などがあった。
益々混乱する私に、
「どちらかお求めになりますか?」
と貴婦人。
「じゃあ、これを・・・」
最初にかけた緑色のメガネだった。見える(と思われる)ものは運。
「あの、お金は・・・」
「そちらは必要ありませんよ」
とニッコリ。
私は昨日と同じく、足早に店を去っていた。


家に帰り、なんとなく使わずに机の上に置いていた緑色のメガネを、手に取りかけてみる。ごくごく普通のよく見えるメガネだった。窓を開け、ベランダに出て数メートル下方の道路を歩くまばらな人々を視界に捉えると、それぞれ色んな色のオーラ?が見えた。
ランドセルを揺らしながら走る少年は黄色。
電話しながら早足で歩くサラリーマンは青。
セレブ風のサングラスをかけて自転車をこぐお姉さんは赤。
私はどうなんだろうと思い鏡を見たが、何も見えなかった。
(あのひと、運が見えると言っていたけどもしかしてサーモグラフィーみたいに熱いっぽい色が運が向いていて、寒い色は運がないって事なのかな)
そう勝手に推測をして、でも今日はたくさん歩いたのでもう疲れた。寝よう。明日は日曜日だ、深雪とランチの約束があった。べっ甲と緑、どっちのメガネを持って行こうかなぁ。


混乱する事がたくさんあったからか、よく寝付けなかった。しかしおかげで、今日も健康的な時間に起きる事が出来た。
深雪との待ち合わせまだ3時間ある。久しぶりに半身浴でもするか。朝から半身浴なんて、如何にも東京のOLのやりそうな事だ、とどちらかと言うと流行などは毛嫌いする天邪鬼な気質の私は苦笑いを堪えた。その点、深雪は流行に敏感で色々な所に連れてって(振り回されて)くれる。
お湯に浸かりながらお気に入りの海外ドラマを見て、とてもスッキリした気持ちで家を出られた。考えないようにしていたからか結論は出なかった。メガネは両方持って行っていた。


深雪とは表参道で落ち合い、いま流行り(らしい)鉄板焼きのお店に行った。ここね、夜は1万超えるけどランチはめっちゃお得でねーーー。
得意気に語る深雪は本当に楽しそうで、こっちまで楽しくなってくる。そして少し並んでありつけた鉄板焼きは、なるほど確かに美味しかった。ミーハーよろしく、パシャパシャとポートレートで写真を撮る。
メインのヒレステーキが出てきた頃、例の眼鏡屋の話をしようか迷っていたが、信じてもらえないのではという不安と、なぜだかあの店は自分だけの独り占めにしたいという気持ちから、直接眼鏡屋の話はしなかった。
「ねぇ深雪、こないだメガネ買ったんだけどさ、」
「そういえば新しくなってるね」
「これと、もう一個あって、ほらこの緑。どっちがいいかな?」
「何、相談する前に2個買ったの??倹約家のあんたにしては珍しいじゃん。ちょっとそっちもかけてみてよ」
緑のメガネをかける。深雪は・・・水色のオーラが見えた。確かに、この子男運は悪い。
「緑かぁ、珍しいよね緑のメガネって。さっきのべっ甲でいいんじゃない?」
「だよね、」
と言いながら店内を見渡すと、白、ピンク、青、紫と色々なオーラが見えた。運気ってあるんだなぁと感心しつつ、べっ甲のメガネに戻す。
「てかなんで2個買ったの?度が違うとか?」
「ううん、ただの気分転換」
「ふーん、それにしてもさ、この肉最高だよね」
メガネを2個買うなんて、我ながら不思議な買い物だ。緑の方はケースにしまい、午後も深雪と流行とやらのスイーツや雑貨を巡って貴重な休日は意外と充実して幕を閉じた。


月曜日。最も憂鬱な1日の朝を迎えた。嫌がる体を責任感で引きずり、会社まで何とかたどり着いた。ただその道中、いつも乗っているエスカレーターに躓き醜態を晒す事になったが。
顔にはお気に入りのべっ甲のメガネをかけていたが、カバンには緑の運気が見えるメガネ。自分のみに与えられた特殊能力な気がして、なんとなく手放せなかったのだ。
私の所属する経理部に入ると、田鍋さんと、憧れの黄瀬さん。もう仕事に取り掛かっている。田鍋さんは大欠伸しながらだが、黄瀬さんは凛々しい表情でパソコンに向かっている。
そういえば、とメガネケースに手を伸ばそうとした時、
「よっ、あかねおはよ」
深雪に声をかけられ、ハッとして手を戻す。何となく、悪いことをしようとしていたのがバレた気がして、バツが悪かった。
相変わらず眠そうな田鍋さんと黄瀬さんに挨拶をして、私たちも仕事に取り掛かった。1時間半ほど集中していただろうか、1度目の集中力切れの瞬間がやってきて大きく伸びをする。カタカタとキーボードを打つ音と電話やコピー機の音のみが淡々と聞こえるオフィスのいつもの喧騒の中だったからこそ、私は非日常を味わいたい気持ちを抑えられなかった。
ケースに手を伸ばし、緑の運気メガネをかける。辺りを見回すと、やはり様々な色が見えた。
隣の新入社員は黄緑、深雪は変わらず水色。口うるさい部長は青。眠そうな田鍋さんは緑。黄瀬さんは・・・、ピンクだった。
なるほどなるほど、と思いながら、他にももっと見てみたいと思った私はそのまま給湯室に立ち、隣の部署を覗いたり廊下を散策したりと30人ほどの色を見て遊んでいた。30分ほど経ってしまい、いかんいかんと席に戻る。深雪に、口の動きだけで(サーボーリー)と言われてしまった。
昼休み、都心でランチとはいかないしがないOLの私たちはいつもコンビニだ。深雪と行きつけのローソンに行き、サラダとおにぎりを手に列に並ぶ。私の番が来て、会計金額を告げられた時、財布を忘れている事に気付いた。しまったカバンの中だ、と思い、既に会計を終わらせて正に今店を出ようとしていた深雪を呼び止め、会計を肩代わりしてもらった。
「なーにあかね、さっきのサボりといい、体調でも悪いの?」
うーんなんでだろ、今朝エスカレーターで躓いたし、しっかり者と言われる事はあってもマヌケなどと言われた事はなかった。
ごめんごめん、と笑顔で返し、午後の業務に戻った。


午後も経理部を出入りする人がいる度に緑の運気メガネで品定めしていた。自分と自分だけの秘密が出来たようで、刺激を欲する年頃のOLにとってはこの上ない暇つぶしだった。
思い切って今日、もう一回あの眼鏡屋さんに行ってみようかな。他にも色々種類あったし。そう思っている内に6時となり、席を立った。お疲れ様でしたー!と言ってオフィスを出る私の足はとても軽かった。


行く途中にも道行く人の運気チェックをずっとしていた。が、勢い良くハマり過ぎたせいか、少し飽きつつあった。だって色が見えるだけなんだもん。観察しているだけで、何も返りがない事に今更気づいてしまった。
今日はあのおばさんにオススメ聞いてみよ、と柄にもなくスキップをした時、
グギッと小石を踏んで足首をひねってしまった。思わずその場にしゃがみ込む。
痛い、というより恥ずかしい、の想いが先行するのは年頃のOLだがらだ。
近くのポストにもたれ、少し休みながら今日は絶対面白いメガネ買うんだ、と意地になった私の決意は固くなっていた。


日は落ちていたが、見覚えのある蹴りやすそうな自動販売機の隣にあの露店はあった。相変わらずずっと営業してたんじゃないのか??と錯覚するような出で立ちだったが、今日は足取りまっすぐ露店に向かう。右足はズキズキと痛むが。


「こんにちは!」
自分から声をかけた。
案の定というか驚きというか、並びから減っているメガネは私の買ったべっ甲と緑の2つだけだった。
「あらいらっしゃい、また来てくれたのね」
「はい、ここのメガネ、気に入っちゃって」
「嬉しいわ。今日はどんなメガネをお求めなのかしら」
「オススメってありますか?」
「ええもちろん。これなんてどうかしら。」
貴婦人が手にしたのは、鮮やかな青いフレームのメガネ。内側を見ると、「金」とあった。
カネ、ってマネーの事だよね。なんかすごそう、と思った私は即決していた。
「はい、ありがとうございます」
そう言われ、代金を請求されるかと思ったが何も言わず貴婦人はケースに入れて渡してくれた。やっぱり数字がないやつはお金いらないんだ。ラッキー!
と嬉々と手に取り、スキップで店を後にしようとした時、今度は左足をひねった。


金とかかれたメガネはとっても面白かった。
なんと数字が見えるのだ。
すれ違うサラリーマンの4人組、左から5,550,564、12,152,125、420,330、1,543,221、と頭の上に数字が浮かんで見えた。
これってあれだよね、貯金の金額だよね。
確かに、1000万超えの男性はグレーヘアである程度の立場がありそうな人だった。
ホームで前に並んだ大学生風の男
158,208
まぁお金ないよねー、
隣に座ったジャージのおばさん
6,568,297
以外と貯め込んでるなぁ


運気のオーラが見える緑のメガネよりも、こっちの方が生々しくてよっぽど楽しかった。
相変わらず度数はピッタリだし、明日はこのメガネを持って会社に行こうとスキップしようとして、両足をくじいていた事を思い出してやめた。


翌日、毎日変わらない満員電車で無心で揺られている間にも、青のメガネは時間つぶしに大活躍だった。
風貌に大差ないサラリーマンの群衆ではあるが、貯金金額は全くバラバラで、数万円~一千万超えまで様々だった。
みんな大変なんだなぁとボーッと思っていると、なんとなく自分より年上っぽい人が自分より低い金額だと嬉しくなった。
我ながら性格の悪いことこの上ない。
彼氏が出来ない理由かも知れない。
かく言う私は大体150万円くらい。
学生時代からコツコツと貯めていたのだった。


オフィスに着くと、今日は青のメガネをかけたまま通勤していたので入った瞬間様々な数字が飛び込んでくる。
高校生のお子さんが2人いる経理部長は800万円。道楽家の田鍋さんは60万円。あこがれの黄瀬さんは・・・400万円だった。
すっごーちゃんと貯金してるんだ。
運もいいみたいだし、どんどん結婚したいという気持ちばかり強くなった。現金な女だ。


「あかね、おはよう!あれ、またメガネ買ったの?」
「あ、うんまぁね」
深雪に肩を叩かれ、振り返ると、30万円の数字が見えた。まぁ深雪も浪費家だからなぁ。
「日替わりメガネがマイブーム?変わってるねぇ、でも似合ってるじゃん!」
「そうなの、なんか気分転換に良くてさ」
といいつつ、ずっと数字が見えっ放しでは目がチカチカするので、ノーマルのべっ甲メガネに変える。カバンの中を漁りケースを探すと、
あれ、家の鍵がない。
無くすといけないからおっきなミッキーのキーホルダーを付けていたのであればすぐに分かる。が、ほんとにない。
1人で心臓をバクバク言わせながらガサガサしていると、
「どした?なんか探し物?」
「うん、家の鍵がなくて・・・」
「えー、大丈夫?落とした?」
「うーん、家出てから出してはないから・・・もしかしたらドアに刺しっ放しかも」
「まじ?やばいって、早退する?」
「ううん、鍵探したいから帰りますなんて言えないよ、うちオートロックだし大丈夫だと思う」
「そっかー、災難だね」
ほんとに災難だ。なんだかドキドキして全く仕事に集中出来なかった。
昨日から両足挫くし、なんだか・・・運がない気がする。


終業と共にオフィスを飛び出し、家に飛んで帰った。
お願いお願いお願い、そのままカギ刺さってて・・・!
と心の中でずっと念じながら帰り、マンションのエレベーターを降り、廊下をパッと見ると、あった。鍵はドアにそのまま刺さっていた。
ミッキーのキーホルダーが悲しそうにぶら下がっている。
心の底からよかった~と大きく胸を撫で下ろし、ドアを開ける。
今日は本当に気苦労で疲れた。何しろ一日中そわそわしていたのだから仕方ない。
スーツのままベッドに倒れ込むと、ふとドレッサーの引き出しが少し空いているのが目に入った。
あれ、今朝ドレッサーの引き出し使ったっけ。
いつもメイクはドレッサーの前でしているが、普段使うコスメはテーブルの上に全部散らかって置いてある(先日の整理整頓の効果はもうなくなっている)。
引き出しの中には、勝負メイクに使うとっておきのデパコスと、アクセサリー類だった。
頭の中が「?」でいっぱいのまま、ベッドから手を伸ばし引き出しを開けると、絶句した。
アクセサリー類が、ない。一個も。
隣を開ける。腕時計が数個入っていたが、それもない。
反射的に飛び起きてハンドバックや使わない財布をしまっているクローゼットを開けると、ブランド物だけ根こそぎなかった。
混乱と、恐怖と戦慄と愕然。いや、なんの感情なのか分析している余裕なんてなかった。

もしかして・・・と思い、恐る恐る、本当に恐る恐る、下着を入れてるカラーケースを開けると・・・、ここは異常無かった。
ホッと一息するも、誰かが侵入していたであろうこの部屋にこれ以上居続けることは到底出来なかった。通勤用バッグだけひっ掴み、部屋を飛び出す。ドアの外で深呼吸して、気持ちを落ち着かせるのに30分はかかった。


とっくに日も暮れた夜9時になっていた。あの後とりあえずお母さんに電話して、警察に通報した。
警察官はものの15分でかけつけてくれ、その後お母さんも来てくれた。
警察が部屋の中をアレコレ調べているうちに、深雪に電話して今夜これから泊めてもらう約束もした。
「あんたねぇ、何もされなかったからよかったけど、鍵くらいちゃんと締めなさいよ」
「うん、分かってるよぉ」
お母さんの顔を見た途端、安心感から泣きじゃくっていた私をやはり母は優しく慰めてくれていた。
警察の方には、少しだけ質問をされ、今日は混乱しているだろうから、後日お話聞かせて下さいと言われ撤収していった。


まさか私が泥棒に合うなんて。まだよく数えてないが、バッグやアクセサリー類で20万円くらいかなぁ。
不思議と、怒りは湧いてこなかった。
情けないという自責と泥棒にバッタリ合わなくて良かったという安堵感のみだった。


私が落ち着いたのを見て、母は帰り、私は深雪の家に最低限の荷物を持って行く。
深雪はただただ慰めてくれて、気持ちを代弁してくれて、女の友情ってほんとに偉大だなと感じた。


それから3日は深雪の家に泊めてもらい、土曜日に警察署で事情を話し、日曜日の夜には久しぶりに自宅に帰った。
この頃になってやっと気持ちに整理がつき、怒りと悔しさが沸々と湧いてくることを感じた。自分が鍵を挿しっぱなしにしたとは言え、オートロックだよ?てか普通中入る?どんなヤツだったのか顔を見てやりたい!
警察官には、痕跡がほとんどなく逮捕は難しいだろう、と言われていた。
そんな攻撃的な感情に支配された所で、わたしは閃いてしまったのだった。

翌日。妙な怒りの感情がそのままだったからか、いつもは憂鬱な月曜日にも関わらず足取りは軽かった。否、力強かった。
オフィスに着くなり、深雪に寝れた?と声を掛けられる。うん、と大きく頷いて見せる私の様子を見て、安心したのか軽く深雪も頷いて仕事に集中し始めた。
正確には私は元気になったのではなく攻撃的かつ前向きな気持ちでいるだけなのだけれど。


終業時間キッカリにオフィスを出ようとすると、深雪に声を掛けられた。
「あかね、ちょっと飲んでく?」
私の身辺を聞いていたのか、心配そうな顔の黄瀬さんと田鍋さんも近づいてきた。
「お、飲み行くの?ご一緒しようか?」
黄瀬さんが来てくれるなんて、グラリと音を立てて心が揺らいだが、今日は行くと決めている所があるのだ。
「ごめんなさい、今日用事あるんです。また今度!」
「そっか、じゃあまたな!おつかれ!」
黄瀬さんが爽やかに返す。全く無理には引き止めて来ないあたり、やっぱり私のことみんな心配してくれてるんだな。ちょっと嬉しい。
と同時に、なんとしても解決してやろうという気持ちは責任感を燃料により高く燃えるのだった。


足早にまっすぐ向かった先は、例の眼鏡屋だ。まだ6時過ぎだったし、ここ数日は行っていなかったがやっている確信はなぜかあった。そしてそれは的中する。


「こんにちは!」
今回は貴婦人が気付く前に声をかけた。
「あら、いらっしゃいませ。また来て下さったのね。」
「はい、ほんとここのメガネ、気に入っちゃって」
「嬉しいわ。ゆっくり見ててって下さいね。」
相変わらずこんな暗がりの露店には不釣り合いな上品な笑顔で店主は答える。
ゆっくり見てってと言われたが、今日は目当てが決まっている。


「これ、ください。」
迷わず手に取ったそれは、薄いパープルのフレーム。
「はい、かしこまりました。以前も手に取っていらっしゃいましたものね。お気に入りだったのかしら」
「ええ、この過去の見える眼鏡、おもしろくって」
「ありがとうございます。ケースにお入れするわね」


そう、以前手に取って犬の散歩をしているおばさんの過去を覗き見たこのパープルの眼鏡。
今日はこれをもらうと決めていた。
早速かけてみると、相変わらず店主からは何も見えないが、遠くを歩いている塾帰りの男子中学生を視界に入れる。
すると、普段の学校と思われる様子や、友達とケータイゲーム機に勤しむ光景が見えた。
思わずニヤリ、と笑みをこぼして、「ありがとございます!」と短く言って帰路に着いた。


マンションに着くや否や、パープルの眼鏡をかけ、エントランスの少し離れた所に陣取って人の往来を観察する。
そう、私の閃きとは、人の過去を覗き見る事で犯人を見つけてやろうというものだった。
オートロックのマンションの中で空き巣に合ったという事は、マンション内部の人間、もっと言えば鍵が刺さっている事に気付く同フロアの人間が疑わしい。
その人間をこの眼鏡で視界に捉えれば、犯行の記憶、つまり過去を見られるという閃きだった。


時刻は7時過ぎ。仕事着を来た住人達が足取り重く点々と帰宅して来ていた。
私のマンションは7階建てで大体35戸の部屋がある。どれも広くはないので、私みたいな一人暮らしか同棲カップルなんかがよく住んでいる。
ハイヒールのOLが帰ってきた。ネイルサロンやオイルエステ、岩盤浴の過去。いかにも自分磨きが好きそう。
年下と思われるスーツの男性。眠い目を擦ってパソコンに向き合い、先輩風な男性に叱られ、ふてくされて喫煙所でタバコをふかす。
40代くらいのジャージの男性。パチンコでイライラして台を叩く様子とガールズバーで鼻の下を伸ばしながら女の子の胸をガン見している。
みんなそれぞれ色んな日々を送っているんだなぁ、と感心しつつも20人は過去を覗き見ただろうか。23時を過ぎた辺りで人の出入りはなくなり、自室に上がる事にした。


次の日、私の鼻息はさらに荒くなっていた。しかし私の中には、あのマンションに犯人がいて、この作戦で見つけられる確信がなぜかあった。
今日は会社のランチ中、おじさん社員にコーヒーを足元に零されたり、楽しみにしていたライブのチケット抽選に外れたり、そのチケットホームページのエラーで返金がされなかったりと悪い事が続いていたが、そんな事は気にならなかった。
人間、心底やる気にさせるのはご褒美でも承認でもなく、達成感という至上の快楽なんだなと哲学的な事を考えている間に、終業。
一直線に帰路に着き、パープルの過去メガネを取り出しマンションの前で往来の観察を開始した。


昨日と比べて人の出入りは気持ち少なく、9時を回った所で今日もダメかな、と思っていた時、50代の女性がマンションからゴミ袋を持って出てきた。
ゴミは朝出せよーと心の中で注意しつつ視界に入れると、1週間前の戦慄を思い出し体が硬直した。


ミッキーのキーホルダーがぶら下がったドアを見つけ一旦素通りする女性。
部屋に帰ったあと、落ち着かなくてもう一度ドア前に戻ってきた女性。
まさかな、と思いつつドアノブを捻ると、空いている鍵、開く扉。
中に向け、あのー、と声をかけてみて、しばらく耳を澄ます。
返事がない事を確信に変え恐る恐る靴を脱いで中に入る。
ドレッサー引き出しの中、アクセサリーを手に取る。
いくらになるのかな、罪悪感は既になかった。
目勘定をする前に、全部もらおうと考える。
そこから先、驚くほど迷いはなかった。
クローゼットのバッグも見つける。
手に持てるだけ持って玄関へ。
最後に軽く部屋に会釈。
自室までは小走り。
胸に罪悪感は、
特にない。


ここまでの光景が一気に意識に流れてきて、一瞬卒倒しそうになったが、なんとか堪えた。
女性は既にゴミ捨てを終え、部屋に戻っていた。エレベーターの行き先を見ると、やはり私と同じ3階で止まっていた。


よっしゃ!という爽やかな達成感ではなく、やってやったという、ドロリと纏わりつくような達成感が胸に溢れた。
しかし今の私にとって、こちらの方が居心地が良かった。


私の中には取られた金品を返してもらいたい訳ではなく、謝罪と後悔に歪む顔が見てみたい、という一点のみだった。


次の日、深雪には全て省略し同じ3階に住むおばさんが犯人だったと告げた。
「は?なんで?」
当然の疑問が帰ってきた。
パープル眼鏡の話をしようかと悩んだが、やはり伏せる事にした。こっちこそ信じてもらえないだろう。
「なんでかは聞かないで。でも本当なの。」
「よく分かんないけど、どうするの?警察もきっと信じてはくれないよ」
「そこなんだよね~」
心の底に溜めていたモヤモヤをそのまま言葉にして吐き出す。
そうなのだ、ここからどう形にしていくか。
おばさんの家に押入れば盗品があるかもしれないが、ないかも知れないしあった所で私も不法侵入だ。
「どんな確信か知らないけど、とりあえず気持ちは落ち着いた?」
「うん、色々ありがとね。おばさんの件はもうちょっと考える」
「落ち着いたなら良かった!ね、今度落ち着いた記念に鉄板焼き行かない?美味しいとこ見つけたんだ!」
「え~、鉄板焼き~?こないだいっじゃん」
「え?」

「え?」

「行ったっけ?こないだって先週?」
「・・・あ、ごめんごめん!勘違いだった!」
何かとてつもない嫌な予感に直面した気がして、反射的に身を引いてしまった。
「もー、何と勘違いすんだよー。でね、表参道にランチ激安の鉄板焼きがあってさ、こないだ1人で行ったらすっごくおいしくて!」
身の毛もよだつように大きな嫌な予感は的中した。
深雪の中から私と鉄板焼きに行った過去が、そして私のスマホから、鉄板焼き屋の写真のみ消えていた。


薄々気づいていた予感は、この気づきを以って全て肯定せざるを得なかった。
あの露店のメガネに書かれていた「代金」。
運や金や過去だが、代金として表記されている以上意味はあるのだろう。
最初の緑のメガネは相手の運気がオーラの様に見えるメガネだが、かけ始めてから両足挫いたりコンビニに財布忘れたり、自宅の鍵をかけ忘れたりした。
次に買った青のメガネ。貯金額が数字で見える優れものだが、空き巣に入られ金品を失い、ライブのチケットは返金されず、急遽数日深雪の家に泊めてもらったのでコスメや下着など一通り買い揃える事になった。
そして今回の薄いパープルのメガネ。相手の過去をフラッシュバック映像で覗き見れるが・・・自分の過去が世界から抜け落ちて行っていた。


ここ1週間で手に入れた魔法の力。自分だけの魔法なんだって、夢じゃなくてトリックじゃなくて、ほんとに偉大な力。それを手に入れた高揚感は、いまようやく、とんでもないパンドラの箱を開けてしまったのではという畏れに転換される。


取り返しのつかない事になってしまったのではないだろうか。
いや、取り返しはつくはず。だって、メガネかけただけだもん!
そう、メガネかけただけ。
だからこれは一時的なものか、何か解決策はある。


自分に強くそう言い聞かせ、溢れ出た畏怖をどうにかせき止める。
深雪の話に向き直り、
「いいね、今度行ってみたい。」
とようやく返す事が出来た。


しかし、畏怖をせき止めた心のダムから、それはじわじわと漏れ出していた。



今日の帰りはダメ元で警察に行っておばさんの事を話そうと思っていたけれど、そんな気にはなれなかった。
このメガネの事を話してしまったら、悪い事が加速するんじゃないかって、そんな気がした。
自室に上がり、ベッドに力なく倒れこみ久しぶりにゴールデンタイム前のテレビをつける。
どこかの地方都市のグルメが紹介されていた。


ぐぐっと寝返りを打ち仰向けに。
なんか、楽しくて無邪気な夏休みが終わってしまった様な、そして宿題を全くやっていなくて明日から学校どうしようという様な、感慨深い到達感と焦燥感がなぜか心地良く心を吹き抜ける。


しばらくそんな心地よさに甘えてボーっとしていたが、よっこらせと体を起こし、風呂に入り米を炊き、テレビを見る。いつものルーティーンを終え、早めに寝ようかと思った時、何故かあの露店が頭に浮かび、離れなかった。




行こうかな、と思ってからの行動は早かった。
べっ甲のメガネをかけ、不思議のメガネを3つカバンに突っ込み、パジャマのままタクシーを捕まえて行き先を伝える。
私はずっと、あの上品な店主に会いたくて、話を聞きたくて仕方なかったのだ。


夜10時過ぎの道は空いていて、20分ほどでタクシーは露店の付近に着いた。
こんな時間にこんな人気のない所に降りるパジャマの女。運転手さんは不思議そうに、また少し心配しつつ「ここでいいんですか?」とメガネ越しの優しい眼差しで何度も聞いてくれた。
会計の時、色々と背水の陣の私は自分でも驚くほど躊躇なく青いメガネを取り出し、
「あの、これちょっとかけてみてくれませんか?」
と差し出す。
「え、私が?」
「はい、ほんと一瞬でいいので。」
「どうしてです?」
「いいから、ちょっと見てみたいんです」
こんな時間にパジャマで出かけるなんて、そもそも頭のちょっとおかしい女だと思われていただろう。その女から突然メガネかけてみてくれだなんて、運転手は頼みを聞いてあげたというよりもこの客を早く降ろしたい、という一心で応じた。
「・・・あれ、なんだこれ。なんか・・・お客さん青く見えますね」
「ありがとうございます」
パッとメガネを奪い、少し多めに代金を置いて車を降りた。
運転手はさぞ鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていただろうが、見ずに降りた。
どうか運転手さんの金が失われませんように。


少し歩くと、やはり露店はやっていた。
本当にいつでもやってるなこの店は。
「いらっしゃいませ。また来てくださったのですね。」
明らかにいつもとは様子の違うはずの私を変わらぬ上品な笑顔で迎えてくれた。
「こんばんは。今日はちょっと・・・、このメガネ、お返ししに来ました。」
カバンから3つのメガネケースを取り出す。それぞれ緑、青、パープルのメガネだった。
「あら、お気に召しませんでしたか?」
「そういう訳じゃないんですけど、もう使わないかなって」
「残念だわ。常連さんになってくださったあなたには、今度来てくださった時に特別なお品をご紹介しようと思っていましたのに」
「特別?」
ええ、と笑顔のまま貴婦人の店主は裏から3つのメガネを取り出した。いずれも地味なデザインだが、金属製のようだった。
「金属製ってことですか?」
と聞きつつ値札を見ると、引き込まれる文字が書いてあった。


「みらい」
「じかん」
「いのち」


と書かれていた。
わざとだろうか、ひらがなで書かれている事も返って重々しく文字を見せていた。
なるほど、これは普通とは違うメガネだ。
しかし、このメガネの力が本物だという事と、代金(代償)の大きさもよくよく知っていた。


「いかがですか?とっても気に入って頂けると思うのだけれど」
躊躇する私の気持ちを完全に読み取って店主は言った。


私は今日、メガネを返しに来たのだ。
確かに刺激的だったけれど、考えてみれば必要の無いものだった。
しかしこれは・・・。初めてこの店の不思議なメガネを手に取った時の高揚感が蘇ってきた。
あの時の興奮、自分だけがという特別感、イケナイものを覗き見る背徳感。どれも私の心の奥に深く根を張っていたのだった。


「あの・・・これ・・・」
欲望のままに動く右手の人差し指を、止めるのに充分な理由は見つからなかった。


「あら、またお使い頂けるのね。嬉しいわ」
私が指差したのは、銀色の金属フレームの、「みらい」だった。
「ほんとにいいのか?」と迷う時間を与えずに、店主はケースに入れてくれる。
返ってその淡々とした梱包が私の躊躇を遠慮なく断ち切って「くれた。」


「どうぞ」
と言ってニッコリ笑う店主からゆっくりとケースを受け取る。
無表情のまま会釈をし、店を後にした。


とんでもないメガネを手にしてしまったフワフワした気持ちが胸を支配していたが、すぐにかけてみる勇気まではなかった。
人の多い通りまで来た所で、自分がパジャマにサンダル、手にはメガネケースと財布という不思議な装いである事に気付き、羞恥の気持ちから少し冷静になれた。


「帰ろう」
そう思って、目の前のタクシーを停めた。


走っている最中、今度は話しかけてくるタイプの運転手だったので一人で考え込む事もなく、普段なら鬱陶しいと思ってしまう所だったが今回ばかりはありがたかった。
徐々に心の硬直は解けていき、メガネの事は忘れられた。


自宅前に到着。端数の小銭を負けてくれた。たまにあるこの女の子ラッキーはいつまで使えるのかな。
しかし、タクシーが走り去った途端、静かな住宅街に残されると、また罪を重ねてしまったかのような罪悪感に襲われそうになり、足早に部屋に上がって布団を被って力ずくで眠りに落ちる事にした。


朝目覚めると、昨日襲われそうになった罪悪感はより大きくなっていた。やっぱりもらうべきじゃなかったのでは。時間を巻き戻したい。こんな時、「じかん」のメガネだったら何とかしてくれたのかな。ダメだ、乱用すればまた大きな副作用が出てしまう。
考えはまとまらず、この上なくモヤモヤしていたがこれ以上の行動停止は遅刻に直結するので、またしても力ずくで思考を止め家を出た。

カバンには、例のメガネを入れていた。


会社に来れば何も考えなくて済む。ただボーッとパソコンで数字を正しく入力していればいいのだ。
休もうかと思ったけど来てよかった。少しずつ良くなっていく心の調子は、余裕こそ芽生えた辺りで昼休みとなった。


「あかね、コンビニいこー」
「うん」
いつも通りの日常。今の私にはこれが最もありがたかった。


買ってきたおにぎりとサラダをオフィスで食べているとき、ふとカバンの中のメガネケースが目に入った。
かけてみようかな・・・いや・・・。
まだこの点は悩み切れていない私は、箸を止めた。
「どうしたの?」
深雪に不審がられた。
そういえば、このメガネって使った人には副作用があるけど、見られた人には何もないっぽいな。
見つけてしまった。使うか使わないかの拮抗する思考を後押しする一手が。
我ながらズルイ女だ。自制するフリをして結局、使う理由をずっと探していた。
「ううん、あのね、またメガネ買ってみたんだ」
「えー、またぁ?」
流石に呆れながら言う深雪の前でパッとメガネを変え、「みらい」のメガネをかけて振り向く。


その瞬間、
入院している深雪
程なく看護師さんが来る
ガラガラと押してきたそれには
生まれてすぐの赤ん坊が乗っていた
深雪は嬉しそうに抱きかかえ頬ずりをする
廊下からバタバタと大きな走ってくる足音がする
病院のドアを強く開けてるその男性は、田鍋さんだった


「田鍋さん!?」
絶叫していた。
「なに!」
驚く深雪。
あ、やば、と思い体を丸めるが、時すでに遅かった。


「なーにあかねちゃん、呼んだ?」
丁度缶コーヒーを買ってきた所の田鍋さんが近づいてきた。
「なんか用?」
「いや、あの、田鍋さん今日もいるなぁと思って・・・」
「「え?」」
深雪と田鍋さんは夫婦らしく?シンクロして言った。
そりゃそうだ、言ってる私もそれ以外の返しが思いつかない。


「すみません、なんでもないんです」
もうこれしか言えなかった。
すると、
「なんだぁ、盛り上がってんな」
黄瀬さんが近づいて来た。
ダメ、来ないで!と思う前に顔を上げ、黄瀬さんを視界に捉えてしまった。


車を楽しそうに喋りながら運転する黄瀬さん
どこかの森の中の足湯で、ご機嫌な様子
山の幸がてんこ盛りの御前が出され
あっつい!と言いながら頬張る
夜の高速を眠そうに運転し
見覚えある路地に着く
手を振る先の影は
紛れもなく
私だった


明らかに、楽しそうに私とデートしている光景だった。
混乱と驚きと、歓喜に身が固まる。
よかった、結ばれるんだ、黄瀬さんと。


「どうした?黙っちゃって」
「なんでもないんです」
そう言う私の瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。
しかし私を取り囲む三人は、急に叫んだり泣き出したりと情緒の全く安定しない私に戸惑っていた。みんな短く、そっか・・・と言って離れて行った。空き巣に合ったショックが残っていると思われたかな。でもいいや、説明なんて出来ない。


メガネにある通り未来の話なのだけれど、私にとっては今もう彼氏が出来たかの様な幸せな気持ちで胸がいっぱいになった。

そこから数日は、嫌な事は考えずに済んだ。


週末。まだまだご機嫌ムードが継続中な私は、帰省するため特急列車に揺られていた。
先々週、家の階段から落ちて骨折した父が退院すると言うのでお見舞いに行くのだった。
お母さんは、今頃やっと顔出すなんて、と小言を言われたが、行かなかったらもっと言われるに決まっている。色々あったし、私にとっては精一杯なタイミングでの帰省だった。


2時間ほどかけて中規模な郊外都市に到着し、そのままバスで病院に向かった。
病室にはお母さんが既にいて、松葉杖をついて立っているお父さんの傍らで着替えの整理をせっせとしていた。


「お父さんっ!退院おめでと」
「あかね!今頃来て!」
「おう、ありがとうな」
年季の入った夫婦から真反対の感情を込めた出迎えを受け、都合の良い返事をしてくれたお父さんに近づく。
「大丈夫?もう歩けるんだ」
「いやぁ、参っちまったよ。俺も年だな」
そう笑うお父さんの顔には、少しシワが増えた気がした。


ぶつぶつと小言が止まらないお母さんを引っ張って、母の運転で実家に帰る。
道中、空き巣の件と骨折の件でお互いに心配の言葉を掛け合い、母は小言を続けていた。


実家に帰ってからはなんの事はない、家事を手伝って、ガーデニングに水をやって、テレビを見て・・・。
極めて日常の光景ではあるが、私の心は全く落ち着かなかった。
カバンの中に、メガネを持ってきていた。
数は、かけているべっ甲メガネを除き4個。
「運」「金」「過去」そして「みらい」だった。
家族の事を想ってというもっともな建前を武器に、しかし未だに使うべきか使わないべきか迷っていた。
久しぶりに実家の食卓を囲んでいる時も、足が伸ばせる湯船に浸かっていても、デザートの梨を食べていても、ずっと迷っていた。
答えの出ないまま、しかしそわそわしている事を気付かれない演技力にも密かに驚嘆しながら、その日は眠りに着いた。


翌朝。心の中とは相反して良く眠る事が出来ていた。
一階の台所からはトーストの焼けるいい香りが登ってくる。
髪をガシガシ解きながら階段を降りると、両親の姿が既にあった。


「よう」
新聞を広げているお父さんに短く言われ、よう、と返す。
朝食を終え、掃除を手伝わない私に小言を言い続ける母をスルーしてテレビを見ていた。
東京に戻っても特に用事はなかったのでいつまで居ようかとダラダラしていたが、昼前に母が出かけるというのでついでに駅まで送ってもらう事にした。


小さなバッグに荷物を纏めていると、やはり4つのメガネケースが目に入る。
10秒ほど静止して考え込むが、何も思いつかなかった。
が、手はケースに伸びてメガネをかけ直す。
色々良いように取り繕ってはいたが、結局見てみたいという欲望に勝つほど私は出来た人間では無かった。


リビングで朝から動いていない父にじゃあね、と言おうと近づくと、フラッシュバック的に景色が意識に流れ込んで来た。


号泣する私と神妙な顔でバージンロードを歩いていた
派手なパーティーだったが、笑わずずっと神妙な顔
今度は元気な赤ちゃんを涙目で、恐る恐る抱く父
トイザらスで少年におもちゃをせがまれ、困る
結局購入しじいじ大好きと言われてニッコリ
その次は母と紅葉を見にハイキングに行き
温泉の露天風呂で、手足を伸ばしていた
豪華絢爛な山の幸をビールで流し込む
色々と病院に通う光景が増えてくる
中に入退院を繰り返す様子もある
その度に強がって笑うお父さん
やがて、珍しい親戚も集まる
おだやかに、やすらかに、
ゆっくりと、自宅で
息を引き取った。


「あかね?どうした?」
お父さんの呼びかけにハッと我に帰った私は、ポロポロと涙を流していた。
お父さんの人生は幸せそうだった。
亡くなる時には、今よりかなり老けていた。
長生きしてくれるんだ。


「ごめん、なんでもない」
それしか言えない私に、
「なんでもない訳ないだろう、どうした、まだ俺はこんなのじゃ死なないぞ」
不憫に思って泣き出したのかと思ったのか、お父さんはギプスの足を松葉杖でコンコン突いて見せた。
「ほんとになんでもないの、ごめんね。じゃあまた来るから、お大事にね」
そう言ってべっ甲のメガネに変え、表に停まっていた車に乗り込んだ。


少し目が腫れている私を気遣ってか気遣わずにか、母は小言ではなく楽しい話をしてくれた。
駅に着いて運転席から手を振る母に手を振り返し、車が見えなくなるまで見送った。
母の未来の光景も見てみようかと少しだけ思っていたが、お父さんがああなら幸せなものに違いないと思い、やめた。


そして、この感動的な体験を以って今度こそこの不思議なメガネを卒業しようと決心した。
電車に乗り込み、乗り換え案内を調べた先は自宅の最寄り駅ではなく、眼鏡屋の最寄り駅だった。


日曜の昼下がりだ。都内はウキウキと楽しそうに歩く人たちで賑わっていた。
その中でズンズンと歩く私の歩みは異質で力強い。
路地を何回か曲がり、もう慣れっこのメガネ屋の前までまっすぐ歩く。
蹴りやすそうな自動販売機の隣に、あいも変わらず露店は営業していた。


「いらっしゃ、」
「あの、これ、お返しに来ました!」
貴婦人の店主が言い終わる前にメガネケースを4つ突き出した。
いつもは笑顔のみの店主も、さすがに少し驚いた様子だった。


「あらあら、お気に召さなかったかしら?」
「いいえ、すごく素敵なメガネなんですけど、今の私にはやっぱり必要ないので!」


「そう・・・」
頬に手を当て俯く店主の表情は悲しみ、
ではなく。


凶悪な表情に染まっていた。


意外さと禍々しさに驚き、思わず一歩後退すると、


「では、今までの代償の分、清算して頂かないと」


え、今なんて言った?
ダイショウ?セイサン?
代償なら、少しづつ運気が下がったりお金を失ったりして払っていたはず。
清算するとはどういう事なのか。


「あの、清算って」
「今日からお願いしますね」
「今日?」
「ええ、失った分の代償を取り戻さないと、永遠に眼鏡の負の連鎖から逃れらないの。今日から、清算を始めましょう」
「いえあの、えっと・・・!」


言い終わる前に、目の前が真っ暗になった。





遠くから少しずつ、喧騒が近づいてくる。
視界がゆっくりと明るくなる。
目の前には、見覚えのある様なない様な、裏路地の光景。
手元には・・・明らかに見覚えのある、見すぼらしいカーペットにメガネがたくさん並んでいた。メガネは向こうを向いていた。


ここまで認識して、私は驚きで文字通り飛び上がった。
何度も来た店だけれど、客ではなく「売り手の側に」立ったのは初めてだった。
辺りを見渡すが、貴婦人の姿はない。
ずらっと並ぶ色とりどりのメガネは、欠品はなく全て揃っていた。


帰らなきゃ、と思い足を一歩を踏み出そうとするが、何故だか体が動かなかった。
もう夕方過ぎだろうか、日はだいぶ傾いている。助けを呼ぼうと大きな声を出そうとしたが、これも不思議と出せなかった。


出来ることは、その場での足踏み程度の動きと上半身を動かす事、そして大声未満の発声のみだった。
そうだ、ケータイ。
バッグを探すが、辺りには無かった。


強いパニックは一周すると冷静さに繋がる。
あかねは正に今、一周した後の冷静さに心は支配されていた。


どうしよう、どうすべきか、という思考は湧いてこず、どうしてこうなっているのかばかりをグルグルと考える。
最期の記憶は、清算しないとと凶悪に笑う貴婦人の表情と言葉。
清算、とは何なのだろうか。


考えようとして、答えを探そうとして、やめた。わざとやめた。
答えはだいぶ前から分かっていたからだ。
しかしその答えは、絶望そのままだった。


そう、貴婦人の言う清算とは、今度はメガネを売り渡し、買い手がそれを使用することによって私が失った代償を補填させる、というものだった。
今私がここから動けないのは、あの貴婦人もきっと以前ここのメガネを使用し、ある時代償の清算のため店主となったのだろう。
たまたま営業中に私が来店していたのではなく、勘違いじゃなく本当にいつでも露店は開いていたのだ。
そう、清算が終わるまで。


あの貴婦人が代償として失った分を私が補填したから、店主が交代されたのだ。
来る日も来る日も、不思議なメガネを使用した事を悔やみながら、また使う人を哀れみながら、誰とも連絡を取れずここに立ちっぱなしの店主。清算が済めば、交代できるのだからあれほど上品な貴婦人も凶悪過ぎる笑顔に染まる訳だ。


今の私には絶望感しかなかった。
他には何も考えられなかった。
明日会社どうしようなんて、思いついた所でどうでも良かった。




大通りから数回路地を曲がった所にある店とは言え、あまりにも人は通らなかった。
1人で静かな時間を過ごし続けていた。
不思議と、お腹は空かず眠くもならなかった。
何もせず立ちっぱなしなんて、どんな地獄だろうと覚悟していたが、想像ほど辛くは無かった。
だが、ここで人がメガネを買うまで、私の代償を補填してくれるまで、何もできずただ立ち続けなければならない。
徐々に大きくなっていた私の中の絶望は、3度目の日の出を迎えた所でボキッと音を立てて心を追った。


あれからどれくらい経っただろうか。
もう何の思考も浮かばずただそこに在るたげの店主として存在したいた。


もう数えるのを辞めた何度目かの日没を迎え、やがて夜は深まる。
声を掛けられるまで、人の気配に気付きさえしなかった。


「あの、やってます?」
意識をハッとさせると、そこにはスラッと長身のスーツ姿の男性が立っていた。
驚いた、黄瀬さんだった。
呼びかけに応答しない私に、段々と彼は不思議な表情に変わっていく。
私の過去も、今は丸っきり抜け落ちている様だった。
いや、過去がない、なんて平たい表現ではない。ただそこに存在していなかったかのような、世界との接点を全て失われていた。


「あ、いらっしゃいませ!」
考えを整理して、それでも整理し切れず気合いで声を出すのに15秒はかかってしまった。
「はぁ・・・。まぁいいや、実はそこでコンタクト落としちゃって。こんなとこに眼鏡屋さんあるなんて、助かりましたよ」
「ゆっくり見てって下さいね」


黄瀬さんは数週間前に私がしたように、いくつかのメガネを手に取り、そして試しにかけてみてどれも度数がピッタリな事に目を白黒させていた。
「あの、値段って」
「フレームの内側に書いてありますよ」
このやり取りも覚えがある。
いくつかのメガネを不思議そうに品定めしている黄瀬さんを見ながら、私は困惑を深めて行った。


人にメガネを売る千載一遇のチャンス。しかしこれを売れば、黄瀬さんはやがてここの店主に成り代るだろう。
あの時「みらい」のメガネで見た、私との幸せな日々は?デートは?子どもは?
待てよ、子ども?
重大な事に気付いた。
お父さんのみらいを覗き見た時に登場した少年は紛れもなく私の子どもだったが、お父さんのみらいに黄瀬さんは登場していなかったのだ。
みらいのメガネを使い続けた私は、既に黄瀬さんとの憧れの日々を失ってたって事・・・?
でもそしたら、黄瀬さんに売れば取り返せる?黄瀬さんのみらいはどうなるの?


困惑は深まるばかりで、目が回り卒倒しそうになった。
その時、「じゃあこれで」
黄瀬さんが差し出すメガネは、緑のフレーム。内側には「運」と書かれていた。
そう、かつて私が使っていたものだ。
「運気が上がる、おまじないのメガネですか?」
「いえそれは・・・運気が・・・、あの、お代は結構なので、持って行って下さい」
「え?いいですよ、いくらです、払いますよ」
「いいんです、お試しという事で頂けません」
「そうですか・・・。ありがとうございます、じゃあ遠慮なく」
爽やかに振り返り彼は続けた。
「また来ますよ」


彼が見えなくなるまで背中を見送り、私は大きな後悔に苛まれた。


世界の在り方から抜け出した私は、これから大きな大きな代償を払う。
大好きな人の大切なものを奪い、生きていくしか選択肢はない。
どんな代償を支払うより、私にとっては地獄だった。


頭の中を支配していた絶望はやがて無に変わり、またしても立ち続けるだけの時間がやって来た頃、視界の端にあの貴婦人を捉えた。


「良かったわね、これであなたは運気を取り戻すわ」
恐ろしい事を口にする貴婦人の表情は、懐かしささえ覚える上品な笑顔だった。


「私、なんて事を・・・。あの、どうしたらこのお店閉められますか」
「無理できるのすよ、いつでもいつまでもこの露店はここに在る。清算の仕方はもうご存知の筈よ。世界の理から外れるって事は、とっても大変な事なの」
「でも私、こんなつもりじゃ・・・」
「泣かないで。あなたは人の役に立ってるのよ。普通に生きていてはどうやっても見られない非日常の夢を売ってるの。彼が全て代償を支払うまでの辛抱よ」
「そんな、そんな・・・」
涙は止まらなかった。
優しい言葉の1つも掛けず、貴婦人はいつの間にか去っていた。


そこから黄瀬さんは数回来店し、その度にウキウキとメガネを持って行った。
私がこの露店から動ける様になっている事に気づくまで、そう日数はかからなかった。
代償を全て補填したと言うことか。ならば、店主交代のために、この呪いから脱出するために、黄瀬さんに告げなければ。
清算の方法を。宣告を。


次に来た時に言おう、と覚悟を決めていると、彼はほどなくしてやってきた。
そして、聞き覚えのあるセリフを口にする。


「あの、これ、お返しします。もう必要ないかなって」
「そうですか、では・・・」
用意して何日も温めていた言葉が、出なかった。
口を飛び出したのは、清算の文字ではなく、心からの、気持ちからの感情の叫びだった。


「黄瀬さん!ごめんなさい!!本当にごめんなさい!!私です、仙崎あかねです!騙していたつもりはないんです、でもこのままだと黄瀬さんが大変なことに・・・!」

眼鏡屋の店主としか認識していなかった女性から急にこんな事を言われたら当然困惑するだろう。
一瞬驚きと怪訝に表情を歪ませた後、黄瀬さんは頭をボリボリ掻いて何かを考え込んだ。
「あれ、俺なんか大事な事を・・・」
私を思い出そうとしてくれていた。
続けて感情の叫びをぶつける。
「黄瀬さん、私です!本当にごめんなさい!どうか黄瀬さんに、私のみらいになって欲しいんです」
この眼鏡屋がいつから負の連絡を続けているのか不明だが、知り合いが客として来店する事はこれまでなかったのだろう。
これは千載一遇のチャンスだった。


続けて叫ぶ。
「黄瀬さんの運気も、過去も未来も、私が埋めてあげます。黄瀬さんを、愛しています。心から。代償なら私が払います。だからどうか、どうか私を救い出して下さい」


言い終えた時、力強く引き寄せられていた。
黄瀬さんに、抱きしめられていた。


「ごめん、仙崎。いやあかね。俺君の事、忘れてたよ。でも今、全部思い出した。おかえり。」
「うん、ただいま」


強く強く抱きしめられ、もっと強くと願い、長い間そのまま動かなかった。
しばらくして向き直り、
「ごめんなさい、私さっき変なことばっかり叫んで・・・」
「ううん、嬉しかったよ。俺もあかねを愛してる。いや、この瞬間をずっと待っていた気がする。こんな事忘れるなんて、どうかしてるよ」
「違うんです、黄瀬さんのせいじゃない。でもありがとう。ゆっくり説明するから聞いてくれますか?」
「もちろん」


そう言って手を引かれ、2人でゆっくりと「みらい」に向かって歩き出した。











世界は、理を抱えたまま、回っている。
矛盾だらけの、理不尽だらけの、この世界は、
正義が何なのか、どこにあるのか探しながら回っている。
その歯車たる私たちには果たすべき使命がある。
その使命が何なのかさえ、探しながら。
見つけられるまで、あるいは見つけられなくとも、
静かに回り続ける世界の中で。




主を失った露店は、ひっそりとただそこに在り、今でも来客を待っている。



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