スパイラル・デリバリー

のえる

文字の大きさ
1 / 1

いつもの、いつも

しおりを挟む
「赤坂さーん、4番さん上がったよー!」
「はーい!ただいま!」

軽快な指示に軽快な返事。今日も変わらず賑わいを見せているここは、原宿にある喫茶店「Noel」。若者でごった返す有名な竹下通りからは少し離れたところにあるせいか、大学生~大人のカップルに人気の隠れ家的な店だ。

ここでウェイトレスとして働く赤坂さんこと、詩音は今日も大忙しの店内で目を回していた。メイン通りから外れているとは言え、ここは天下の原宿・表参道エリア。土日となれば息つく 暇もないほどに忙しい。詩音は今年二十歳の大学2年生だ。北陸地方から上京してきて早2年。田舎コンプレックスからとにかく東京に出たくて何とか両親を説得し、志望校に見事合格。詩音の華の大学生活はスタートした。そして家から近い訳でもないのにただ憧れだけで「原宿のカフェ」なんかを勤め先に選んでいたのだった。

「赤坂、3番入りまーす!」
ピークの昼時を超え、時刻は15時を回っていた。詩音は元気にキッチンに向けてそう言うと、一度店を出て裏口から事務所へ。「3番」と言うのは、30分休憩の隠語である。
ロッカーにあった、お気に入りの銘柄のジャスミン茶に飛びつく。と言ってもコンビニで売っているペットボトルだが。詩音はとにかく、麦茶よりジャスミン茶、アンパンよりスコーンという様に、好みというよりは「オシャレそうだから」という選び方をするフシがある。典型的な上京娘のそれだった。
ゴクッゴクッゴクッ・・・とペットボトルの半分を一気に飲み、プハァ~と息を吐く。まるでスポーツドリンクのC Mの様な豪快な彼女の飲みっぷりに、先に「3番」に入っていた少し先輩のミキはクスッと笑う。

「もう、詩音たら。自分がいうほどまだまだ都会っ子にはほど遠いよ?」
「えーっ、なんでですかぁ」
「ほら、そういうところ」

ミキは東京生まれの東京育ち。とびきり美人という訳ではないが、気取らない感じが東京の空気にとても馴染んでいる感じがして、詩音のイメージする「都会っ子」のイメージそのままだった。
手の甲でジャスミン茶を拭う詩音に、ミキは可愛がりのある後輩をいつも通りアドバイスをつらつらと話す。
「いい?あんた大体、ジャスミン茶ってほんとに好きなの?」
「うーん、正直そこまでではないかも。でもなんか大学のみんながいっつも持ってるから」
「ね、そこよそこ。協調生は大切だけど、個性を我慢することとは違うの。自分らしくあるのがあんたの言う所の都会っ子の第一歩な訳よ。見てくれは悪くないんだから。」
「うーん、なるほどぉ。」
メモしたくなる様なミキの説得力のある言葉ではあったが、「本質」を理解できない詩音にとって、じゃあ麦茶飲んでればいいの??という疑問が頭に浮かぶ。
どうやら彼女にとって、「都会っ子」が目指すモノではなく成るモノだと言う事はまだまだ深淵の奥深くに隠された秘宝の様だった。

東京に来てからと言うもの、こんな風にあどけなさの抜けない詩音だったが、やはりこの大都会に揉まれ、たくさんの色んなことが既にあって2年前の彼女とは比較にならないくらい大きく成長していた。
特に家事全般と自己規律が身につき、最初は散らかり放題だった部屋も今はフレグランスなんか焚いたりして、いつでも片付いたちょっとオシャレな部屋をずっとキープしている(詩音の場合、とりあえず焚いておけばいいと思ってもいるが)。しかし彼女はもう一つ、自立しなければいけない事があった。2年前、両親を説得する上での交渉材料として深く考えずに出してしまった条件。今になってその重みが圧倒的な威圧感を持って目の前に立ちはだかっている。その巨大な壁の真ん中には
「3年時から金銭的支援ゼロ」
とあった。

来月の4月から施行されるこの条件だが、詩音は正直戦々恐々としていた。
今だって、結構頑張って「Noel」のバイトを週5日以上は入れている。学校帰りには数時間しかいられないので、週で大体25時間。月で100時間少し。時給は1200円なので月収約12万円。学校と両立しているにしてはかなり頑張っている方だ。プラスで実家から7万円の支援があり、トータル19万円。しかし1人とは言え、東京で暮らすにはあまりにもギリギリの数字だった。
家賃、光熱費、通信費、定期代の固定費で9万。奨学金の返済が5万。食費で2万。たまに行く飲み会なんかの交遊日が1万。とすると、余りは既に2万円。教科書やら洗剤やら、仕方ない出費があったり、ちょっと旅行に行ったり自分の洋服でも買おうもんならあっという間に赤字だ。
これまでは色々我慢してギリギリやってきたが、収入があと7万円ガサッと減ると、どうにもならない事は目に見えていた。

今日は3月2日。あと2ヶ月弱でバイトを増やすか、悔しいが両親に頭を下げるかの決断をしなければならない。両親に頼みたくないのは、自分のプライドが大切という事もあるが下にまだ2人いる妹達の負担になりたくないという姉心もあった。来年から高3の上の妹に、出来る限り多くの選択を残しておいてやりたい。
とは言え、ここからあと7万円分のアルバイトを増やせている自分が全く想像できなかった。
「お疲れ様でした!」
元気に言って事務所を出ると、外はすっかり夜模様。
「ハァ~・・・」
出るため息は、星の無い東京の空より暗く、深い。

「おはよー」
残り少ない2年生の授業の挨拶だけは元気にと思ったが、突きつけられる現実のせいでイマイチ調子が出ない。そんな詩音を察知してか、詩音とはおよそ釣り合いそうに無い派手な見た目の女生徒返す。
「なーに詩音、元気 ないじゃーん」
「えーそう?うん、そうかも」
本当はどうしたのって聞いて欲しかった詩音。無意識だが人に心配を掛けたくなる日は往々にしてある。
声をかけた女生徒の名前は、真奈美。見た目は今時のギャルだが、地方出身というところで詩音とは早い段階から意気投合し今では親友の1人だった。
「ユキトとなんかあった?」
「ううん、バイトの方」
ユキトとは詩音の彼氏。まだ来ていない様だが、同じ経営学部経営法学科の生徒だ。
詩音は真奈美にはなんでも話していた。彼氏とのこと、バイトのこと、金銭的にずっと苦しいこと、そして来月から大変なことになること・・・。真奈美も詩音に対しては同じスタンスだった。
「バイト変えちゃえば?」
「えー無理だよ、結構シフト融通効くし、慣れたし楽しいもん」
「でもカフェのバイトでプラス7万はキツくね?」
「まーそーだよねー。やっぱ実家に頼るしか無いかぁ」
俯く詩音に、真奈美が不敵な笑みを浮かべて隣にぐっと近づいた。
「ね、いいバイトあんだけど」
「なに?」
俯きながら言う詩音に耳元で
「キャバ」
「キャバ!?」
詩音は反射で叫んでいた。ざわめく教室。
「バカッ!声でかいよ!」
「あ、うん、ごめん」
予想外な答えに素っ頓狂な声を上げてしまい、また教室の注目を買ってしまったことで急激に顔が真っ赤になる。
しばらく2人して顔を伏せたあと教室を見渡すが、よかった、ユキトはまだ来ていない様だった。
ふぅ、と胸を撫で下ろす詩音に、
「よっ詩音」と肩を叩かれ
「ヒャッ!?」
とまた変な声を出してしまった。
再び集まる注目。
詩音は今度こそ机に突っ伏してしまった。
「なんだよ、そんなに驚かなくても」
声をかけた張本人も驚いていた様だった。
「おはよ、ユキト。今はね、タイミング悪かったよ」
代わりにフォローする真奈美。
詩音は俯いたまま動けなかった。
「なんのタイミングだよ、まぁいいや、あとでな!」
爽やかに手を振り前方の席に向かって歩いていく長身の青年は、
彼の友人グループに混じって席についた様だった。
「詩音、行ったよ。」
「もー、朝から変な声2回も出しちゃったよ!」
「悩み続きだねぇ」
カラカラと笑う真奈美。
「で、なんの話だっけ」
「バイト、困ってってるんでしょ?紹介するよ~」
「紹介?なに、真奈美経験あんの?」
「実はね、経験てほどでも無いけど2週間くらい前から始めたんだ」
得意そうに言う真奈美。なるほど、最近なんとなく付き合いが悪かった事を思い出した。
「えっそうなの!?なんで言ってくれなかったのよ」
「やって見て、勧められる様だったら話そうと思ってね」
なんだそれ、まるで私のために仕方なく内偵してたみたいな。詩音は自分をダシに使われた気がして少しムッとしそうになったが、新世界への溢れる興味が不思議と沸き続けていた。
「え、それってさー、」
なんでも答えてくれそうな真奈美の得意顔を前に何から聞こうかと戸惑いながらも発した一声目は、ガラガラと大げさにドアを開き入ってきた1限目の「北京ダック」こと太った中国人講師の妙に調律の狂った挨拶に遮られた。

詩音はしかし、戸惑っていた。
水商売か。そういう仕事がある事は知っていたし、需要がある事も知っている。ただ、実際にやっているの人を見たのは初めてだった。それに水商売する人って、もっとこう・・・チャラくてどうしようもない程生活に困っていて、えっと、そう、ビッチだと思っていた。
多少ギャルっぽとは言え、ごく普通の女子大生である真奈美がまさか、と思った。一瞬見損ないそうになったが、大事な親友だ。なんだか楽しんでいる様にも見えたし、まずは話を聞いてみよう。
ここで過ぎる光景があった。両親と、ユキトの笑顔だった。なんて言うかな、お父さんとお母さん。悲しむかな、怒るかな。案外軽く笑われて終わりかな。ユキトは、どうだろう。少なくてもいい顔はしないだろう。もう付き合って1年近くになるが、詩音とユキトの関係性は極めて良好だった。1年仲良く続いている自信からか、詩音は勝てなかった。
何か大切なモノを失いそうな恐怖感と背徳感を持ちながらも、溢れ出る興味と経済的な救済への欲望に。

昼休み。
今日の1限目はクラス単位での授業だったので馴染みの顔が揃っていたが、他は皆選択科目を持っているのでバラバラになる。その日の午前中の最終授業にいた馴染みと昼食を取るのがなんとなくの決まりだったが、今日はどうしても真奈美と話たかったので連絡を取り合流していた。
「ごめんごめん、お待たせ」
「いいよ、混んできたからいつもの頼んどいたよ」
ヒラヒラと手を振る真奈美の手元にはカツ丼のレシートが2枚。こういう、大雑把に見えるが気の利く世話好きなところも詩音は好いていた。
「もう神!そんでさ、例のアレなんだけど・・・」
「なに、そんな興味持つとは思わなかったなぁ」
言う真奈美の顔は、今日は朝からずっと、得意げだ。

それから詩音は矢継ぎ早に質問していた。真奈美が始めたきっかけ、実際の仕事内容、楽しい事、嫌な事、勤務時間、そして貰えるお給料。
「基本は時給2500円で、あとはバックだよ」
「2500!?既にNoelの倍以上・・・。バックってなに?」
「お客さんに気に入られて、次来たときに指名してもらったり同伴して連れてくると貰える、歩合のお給料。私はまだそんないないけど、夜出てちょっとバックあれば1万超えるよ」
「え、まじで!?」
詩音は初めて触れる新しい世界の情報に驚きっぱなしだった。ここが朝の教室でなく、賑わう学食で本当によかった。
学校終わりに行っただけで1万。週4で行けば4万。土日休んでも月20万円に届きそうだった。
「本業でやってる人は比べられないかも知んないけど、月何百マンも稼ぐ人見るし、副業の人でも30万は取ってるかな。アンタ見てくれは悪くないんだし、客もつくと思うけど」
昨日も言われた妙に嬉しくない褒め言葉も今は気にならない。しかし、すごい金額を目の前に、詩音は少し怖くなっていた。
「でもさ、そんなに貰えるって事は、やっぱりその・・・おじさんに触られたり、際どいドレス着せられたりするんでしょ?」
「ハハッ!いつの時代の話だよ、何、詩音の地元にはキャバクラないの?」
予想外の反応に表情が固まる詩音。今はボーイっていう男性従業員が守ってくれるし、ドレスも自分で選べるし至って普通のものだという事だった。
ところが詩音はどんどん混乱していった。真奈美の話は魅力的なことばかりだった。でものめり込めばのめり込むほど、え、本当に自分がキャバ嬢に!?という何だか受け止められない現実味が迫っていた。知らなさすぎる世界だったとは言え、いやだからこそ詩音の中で馴染むのが居心地悪いと感じる排他的な恐怖心が大きくなっていた。

しかしそのどうしても踏み込めない詩音の背中を、ポンッとちょうど良い力加減で押す2つの言葉が続く。
「フリーターもいるけど、意外と普通の女子大生もいっぱい働いてるよ」
「体験入店てのもあるから、興味あったら今度ウチの店に一回だけ入って見たら?」

「ありがとうございましたー!」
夕方。詩音の姿は昨日と同じく原宿の「Noel」にあった。土日だけでなく、可能な限り学校終わりにも通っている。4時間でも出れば5000円くらいになる。
割と要領がよく、元気に働く店長の澤田も彼女の事を気に入っていたが、付き合いが長いからこそ、彼女の元気さになんとなく陰りがあることにも気づいた。
「詩音ちゃん、何か元気ない?シフト入れすぎて疲れちゃった?」
なるべく元気に、と思っていた詩音は見抜かれた事に驚いた。
「え!そんな事ないですよ、夜のバータイムも頑張りますよ!」
「そっか、ならいいんだけどさ。今日も頼むよ。じゃ、そろそろ看板変えて来て!」
はいっと返す詩音は表に出て看板を入れ替える。「Noel」では19時からアルコールメニューが増えるバーになるのだった。
詩音はウェイトレスなので基本動き回っているが、顔馴染みがくれば立ち止まって他で呼ばれない限り客と話し込む事もしばしば。気の知れた客と話すのは好きだった。何時間も動き回って、せいぜい5000円。もしあっちの店なら、1万円以上。この店の事は好きだけど、背に腹は変えられない。
詩音は気付いた。やってみようか迷っているのではなく、踏み込むに足る理由をひたすら探しているだけなんだと。心は決まっている事をにやっと気付いた。
「いらっしゃいませー!!」
気付いて、詩音の声は1トーン高く明るくなっていた。

翌日。2限目で真奈美と一緒になった詩音は早速話題を振っていた。
「体験っての、あるんでしょ?嫌だったらもう行かなくていいんでしょ?」
「え、なにまじでやんの?まぁ私は嬉しいけどね」
ちょっと誘惑してからかうだけのつもりだったのに一晩で詩音の方から申し込んでくる様になるとは思っていなかった真奈美は少し驚いた。
「ユキトには内緒だよ。ううん、クラスの誰にも。」
「わかってるって。私だって彼氏に言ってないし。知らぬが善ってね」
仏でしょ、のツッコミは置いといて、店長に話通しとくから、と真奈美は早速どこかにメールし始めた。あ、最初は真奈美がいる日にしてね?の大事な一言を付け加えたところで、始業のベルがなった。

放課後。今日は数少ないバイトのない日だったので、ユキトと出かけることにしていた。と言っても、もう日は落ちているのでご飯を食べに行くだけだが。テリトリーにしている表参道のブティックに入り、いいなーいいなーと買わない「ショッピング」をしていた。店を回るのは好きだが、どんなに気にいるものがあっても買わないのだ。詩音にとってウィンドウショッピングは、我慢の連続になるので好きとは言い切れなかった。しかしユキトと居れば別だった。彼は男のくせにこう言ったウィンドウショッピングが好きで、詩音と一緒にアレはどう、これはいいんじゃないか、と同じく買わないがみてる事を楽しめる男子だった。
詩音はそんな、自分と価値観の合うところ、そして何より気を使わずに一緒にいられる事がとても嬉しかったし、好きだった。
ひとしきり回ったあと、近くにあったレストランに入る。レストランと言っても、小洒落た居酒屋程度の店だが。
週に1回は会おうと言うささやかながら2人にとって大切にしてきた約束は、心地よい拘束力を以って関係性を良い方向に導いて来た。
学校の事、バイトのこと、最近見たテレビのこと。最後に、今日は何の話をしたの?ともし聞かれてもきっと答えられないだろう。それほど他愛ない会話。ただ2時間ずっと、楽しく食事は進んだ。
2人とも気持ち良く酒が回って来た頃、23時を少し回っていた。
いい店だったね、と会計に立とうとした詩音は、ピピッと鳴るスマホを見た。
「明後日の夜、空いてる?」
真奈美だった。簡単な文章だったが全てを理解した詩音は、慌ててスマホを伏せた。
「なに、急ぎの用事?」
「真奈美!何でもないよ!」
やば、妙に慌てちゃったかな、と焦る詩音の中に、酒のせいだろうか、目の前の青年に対する罪悪感はなく新学期が始まる時の様なウキウキする高揚感と心地よい不安感しかなかった。

ユキトと駅で別れたあと、詩音はすぐに真奈美に返信していた。
明後日の木曜もバイトを入れていない。
偶然だか完全に空いていたが、何となく少し勿体ぶっていた。
「一応空いてるっちゃ空いてるけど、体験の話?」
2秒で返信が来た。
「OK!じゃ、18時に一緒に学校でよ!持ち物は特になし!」
真奈美の返事は早いだけであまりにも呆気なかったが、今の詩音にはそれで十分だった。

木曜日。昨日は真奈美にもユキトにも合わなかった。ずっと今夜のことで頭がいっぱいだったが、夕方が近づくにつれ正直なところ不安感が募っていた。
今日の授業は16時で終わり。2時間空くことになるが、詩音にとってこの2時間が長かった。ドキドキの中待つことに耐えられず、帰ってしまおうかとも考えていた。
学校の図書館に入りスマホでキャバクラの体験入店の感想を調べたりしていた。中には確かに少し不安になる様な内容もあったが、少しくらいある方が返って現実的な感じがして安心できた。良い内容はもちろんそのまま受け取った。
詩音は下調べをして少しでも知識をつけたかったのではなく、何でもいいから安心材料が欲しかったのだった。

時刻は17時50分。さっきから1分おきに時計を見ているからよく分かる。
早めにくるならまもなくだな、ちょっと遅れるならあと15分はあるな、なんて当たり前のことを深く分析してしまうほどに混沌としていた詩音に、一通のラインが入る。
「お待たせ!2号館の前でいい?」
軽く深呼吸をして、バックをわし掴み、席を立った。

「おつかれ~」
いつも通りの真奈美。手をヒラヒラと振っている。こっちの気持ちもしないで、と一瞬膨れっ面を見せる詩音だっだが、真奈美にとっては何のこっちゃである。
「なーに、緊張してんの?あ、今日はメイク全開だね」
「緊張してるよ!事前情報が何もないんだもん」
「あーごめんごめん。でもほんと、お酒飲みながらお話するだけなんだって」
軽く言う真奈美に緊張の限界にいた詩音はは少し安心した。
「じゃ、行こっか。店はね、池袋。」
OK、と言いそうになって詩音は、店の場所さえ聞いていなかった自分の緊張度合いを再確認することになった。

学校から池袋までは地下鉄で1本。すぐついた。まだ18時20分だ。飲み屋は開いているが、賑わいはまだまだと言ったところ。
あそこだよーと真奈美が指差す先に、キャバクラと思われる看板がいくつも入った雑居ビルがあった。
「え、何階?」
「2階の、コバルト・ジュエリーってとこ」
2階を見ると、なるほど紺色っぽく纏められているがキラキラと派手で、すごく綺麗なお姉さんの顔が数人、描かれていた。
ゴクリ、と音を立てて唾を飲み込む詩音。
真奈美は慣れた足取りでビルの裏側へ回り込み、階段で2階へ。表口とは打って変わって生活感のあるドアを開けると、広い一般的なリビングの様になっていて、数人の女性たちが脇のドレッサーの前で支度をしている。
「店長ー!真奈美ですー!連れて来たよ!」
数人の女性たちは完全に無視していたが、奥から返事はすぐに返って来た。
「はーいはいはい、真奈美ちゃんどうも~!あら、あなたがお友達ね、可愛いじゃない!やっぱり面接の必要はなかったわね。」
背は高いが柔和な表情を浮かべる男性が小走りで近づいてきた。
「でしょ!でもめっちゃ緊張してんの、ウケる」
「あなただってゆかりちゃんに連れられて来た時はカチカチだったわよ。すぐ楽しめるわ。」
キャバクラの店長とはもっと強面で威圧的で無愛想な人を想像していた詩音にとって、このやりとりはポカンと口を開けさせるのに十分な衝撃があった。なんて言うか、こんな柔らかいオネェ?は少なくとも想像だにしていなかった。しかしこの衝撃は、詩音の限界まで高まった緊張を一気に半分は解いた。さ、こっちこっち、とリビングの中に通され、ドレッサーの前に座らされる。お願いねー!と店長が声をかけると、数人の女性が寄って来て、詩音のヘアメイクを始めた。
気づけば隣に真奈美が座り、すでに髪をオールアップに纏められて顔のメイクが始まっていた。
「ここね、メイクしてくれるんだよ。だからほんとに手ぶらでいいの」
「へー、そう、なんだ・・・」
予想はしていたが新しいことづくしで混乱している詩音に、店長が言う。
「そういえば、詩音ちゃん、だっけ?お名前どうしましょうね」
「そうだ、詩音。キャバ嬢としての名前、つけないと。私は、リンって名乗ってるよ。ほら」
真奈美が指さした方向の壁に、「Rin」と書かれた派手な女性が映っているポスターがあった。
え、これ真奈美?と吹き出しそうになったが、なるほど、プロのメイクと撮影でこう完成されるのか。自分の仕上がりが楽しみになって来た。思えば、他人にメイクされることなど初めてだった。
「自分で決めていいのよ。思いつかなかったら考えてあげるけど」
「えっと、じゃあお任せで」
考えても良かったが、自分のセンスが問われそうで恥ずかしかった。
「オーケー、じゃあそうね・・・。リンちゃんと同じで、田舎から出て来たんだっけ?ならあなたの名前はユメ、にしましょう。」

いらっしゃいませー!!
19時。店はオープンして、すでに支度を終えていた先輩たちが玄関口に並んでいた。
つけられた名前を気に入ったかと言われれば疑問だったが、ここにいる自分が別の自分に慣れた気がして心の底に少し残っていた悪いことをしているのではと言う詩音の罪悪感を消すのに、店長の命名は大きく役立っていた。
すでに数人の客がホールに入って来た様だったが、真奈美によると一気に混むのは21時かららしい。多くの客は2軒目でやってくるのだそうだ。

程なくして先に完成した真奈美は、いつもの彼女より数倍綺麗で、完全に美人の域だった。元々整っているといえば言えたが、メイク映えする顔ってこんな顔を言うんだ、と無意識にも失礼なことを思っていた。しかし鏡の前の詩音もまた、キャバ嬢そのものに完成していた。
「うん、いいじゃん。ドレス選びにいこ」
名前をつけられ、雰囲気も変わり、完全に「別人」になれたことに上機嫌の詩音は、真奈美についてウォークインクローゼットに入っ行く。ドレスは300着ほど用意されており、派手なものから一般的なパーティードレスまで色々あった。
真奈美はサッと1着黄色いドレスを選んんだが、詩音は迷った挙句パステルグリーンの地味目のドレスを選んだ。
着替え終わった時、店長が近づいて来て初めて見る真顔で詩音に言った。
「完成ね。いい?ユメちゃん。あなたに必ず守って欲しいことが3つあるわ。何か嫌な思いをしたら遠慮なくボーイに言うこと。お客様を楽しませること。そして、あなた自信が接客を楽しむこと。キャバクラの掟はこの3つよ。」
「はいっ」
店長の気迫に押され、詩音は答えていた。
「あ、ごめんもう1個」
振り返り、
「今日は来てくれてありがとう」
店長の気持ち悪い色気ですら、詩音の高揚感の前では燃料となった。

それから10分ほど待機していたが、待機時間は何をしていても良かった。他のキャストはスマホ触ったり、仲間内で喋ったり、テレビ見ていたり。光景は異様だったが、ただの家のリビングルームの様だった。続々キャストは出勤して来ては、ボーイと呼ばれる黒服が待機しているキャストに指示を出しに来る。
詩音は真奈美とずっと話していたが、最初は誰かのヘルプとして接客させられる様だった。つまり、 オマケだ。真奈美が呼ばれ、1人になり急に心細くなったが詩音もそのあとすぐに呼ばれた。
「ユメさーん!11番テーブルお願いします!カエデさん、一緒に行って上げてください!」「はーい。ユメちゃん、ね。よろしくね」
赤いドレスのこれまた綺麗なお姉さまに連れられ、詩音のキャバ嬢デビューは果たされた。

テーブルには2人のサラリーマン。30歳くらいだろうか。仕事帰りの様だった。
「よ、カエデちゃん久しぶり!」
「大磯さん、川内さん、会いたかったんですよ~」
「あ、ヘルプの子?よろしくね!」
「はい、ユメと申します!よろしくお願いします!」
ブリキ仕掛けの様にパタっと頭を下げる詩音に一同は和んだ。
「この子今日初めてなんですよ、ダメですよ手出しちゃ」
「えーどうしっかな、若さは正義だからなぁ」
カエデに軽く小突かれて喜ぶ男性客。カエデと客らの慣れきった接客に、詩音の緊張はやっと0になった。

接客は始まってみれば何のことはない。客に酒を注ぎ、愛想笑いをして相槌を打つ。時々される質問に答え、詩音も酒とつまみを勧められるがままに飲み食いした。
カエデは詩音のことを自然にフォローしてくれる優しい先輩だったので詩音はすでに懐いていたが、1時間ほどでボーイから別のテーブルへ行く様に指示される。客からも名残惜しまれつつ別のテーブルに行ったが、その先でも先輩キャストのフォローもあり難なく接客することができた。
5度目だろうか、すっかりお酒も入りケラケラ笑っていた詩音に、ボーイが話しかける。
「ユメさん、アップです」言われ詩音は愛想よく手を振ってまたしても名残惜しまれつつ席を立った。
リビングに行くと、既に真奈美がいて髪を解いていた。
時刻は23時。店は盛り上がりのピークを迎えていたが、彼女たちは23時までのシフトだった。
「どうだった?」
「うん、全然楽しかった」
「でしょ?ここの人みんないい人だから」
他にも帰り支度をしているキャストは数名いた。副業としてやっている人達らしかった。
「はーいみんなありがとねー!」
奥から店長が機嫌良さそうにでき来た。手には茶封筒が1つ。
「ユメちゃん、今日はありがとうね。はいこれ、体験だから日払いよ。お給料。」
ありがとうございます!と喫茶店で働いている時の様に元気に受け取った。手渡しの給料というのも詩音にとっては初めてだった。
「今日は疲れたろうから帰ってゆっくりしてね。で、また良かったらウチに来てね。ユメちゃんだったからいつでも大歓迎だから」
「はい!今日はありがとうございました!」
真奈美と荷物をまとめ、店を出た詩音の足取りは軽い。
我慢できずに恐る恐る封筒を開けた詩音は、おぉ!と声を上げていた。中には11000円入っていた。
実際に動いていたのは3時間少しのはず。メイクやヘアセットもしてもらって、11000円とはやはり詩音にとっては別世界の出来事だった様だ。
上機嫌に駅に歩く詩音の頭の中では、次はいつ来れるかな、とスケジュール帳がパラパラと捲られていた。

翌日、学校に行く詩音の足取りは軽かった。
昨日は楽しかったし、お腹も膨れたし、何より数時間で普段の3倍は稼いだ。あれ、キャバクラってありなんじゃね?通りで普通の女子大生の働いているはずなんじゃね?と詩音の中では得意の「自分に都合よく物事を解釈する能力」が発揮されていた。
しかし現実的な経済難を乗り越える、という大義名分もありすっかり詩音はジョブチェンジに前向きだった。否、意欲的だった。
しかし手帳を見てみると、既にバイトの予定でいっぱい。しかもそろそろ来月のシフトを出す時期だ。詩音は新たな問題に直面した。Noelに、どうやって辞めることを伝えよう。2年近くお世話になった店だ。店長もミキさんも、他のスタッフもみんあ大好き。そりゃあ、学生である私からすればいつかは辞める日が来るが、まだ早すぎる気がしていた。辞めなくても、大幅にシフトを減らしてもらおうかな。とにかく、今日の夜もシフトだから行って店長に相談してみよう。
ここまで結論付けた詩音の足取りは、再び軽くなっていた。

「店長、相談があるんですけど、いいですか?」
閉店後、机を拭きながらクローズ作業をする詩音に、店長の澤田は半身振り返って言う。
「何、シフトの件なら待てないよ」
「うーん、待って欲しいっていうかー・・・」
詩音は正直に、といっても架空の設定だが、学業に専念したいのでシフトを大幅に減らしたい旨を伝えた。澤田はとても残念そうに表情を暗くするが、すぐに顔を上げ承諾してくれた。
澤田にとって大学生は貴重な労働力だが、数年経つと就活やゼミ、または就職でパタっと来なくなってしまう。詩音は特に可愛がっていたスタッフの1人だが、覚悟は済んでいる、澤田にとっては慣れたことだった。
とりあえず籍は残しとくから、落ち着くまでシフトは白紙で、また連絡待ってるねと言われて詩音は店を出た。
あまりにも澤田があっさり承諾して学業を応援してくれたので詩音は返って罪悪感を募らせ、再び自分の生活が大きく変わろうとしていることへの不安を募らせていた。
が、彼女には現実的な直面している問題もあったし、何より仕事内容を気に入ってしまっていた。自身の不安心を大丈夫、間違ってない選択だと言い聞かせねじ伏せ、落ちかけた気分にテコ入れして原宿駅までを小走りで進む。
俗に、「女のカンは当たる」というが、彼女の募らせたこれでいいのかなという迷いと不安な気持ちは、的中することになる。
影が忍び寄る時は、いつだって足音などしないのだ。

翌日と翌々日の土日はNoelのシフトがあったので出勤した。
少しずつメンバーに伝えなきゃと、シフトにほぼ入らなくなる旨を打ち明けて行ったが、皆一様に残念がり、しかし応援してくれた。
間も無く春休みがスタートし、詩音は今度は1人で「コバルト・ジュエリー」に向かっていた。正式にキャストにしてもらえる様、あの馴れ馴れしくも憎めない新たな店長に頼みに行くためだった。

春休み中、詩音の予定は3パターンのうちどれかだった。恋人のユキトに会うか、Noelで働くか、キャバ嬢として出勤するか。毎日このどれかの繰り返しだった。予定のなかった所には全て「コバルト」の出勤を入れたため、割と好きだった「自分1人の休日」というのは」皆無だった。両親からは来月から仕送りを打ち切って本当に大丈夫なのかと何度も電話が来たが、こうなることは分かってたから少しは蓄えがあるから大丈夫、とはぐらかしていた。
コバルトの仕事にもかなり慣れ、ポスター撮影や名刺作りは終わり数日に一回だが指名してもらえる事もあった。忙しすぎて実感する暇もなかったが、詩音の生活は最高に充実していた。
ほぼ毎日働いたおかげで収入は過去最高の23万。今月は仕送りもあり、約30万を手にしていた詩音の新学期はキラキラしてスタートすることになる。

4月。
初めの1週間は各授業のオリエンテーションなんかで忙しいが、時間を見つけては詩音はコバルトに出勤していた。Noelの店長もかなりシフトに融通を利かせてくれていたが、コバルトはもっとすごい。そもそも、なるべくたくさんの女の子をストックして置きたいシステムからか、当日欠席はできない様だったが今日行きまーす!という連絡はいつでも歓迎された。
もう15回目ほどだろうか、月の半ばに差し掛かり毎月の必要最低限月収の20万円に到達しようとしていた。
東京に来てからというもの、ひたすら無駄な出費を省いてきた詩音は飲み会を開くことが多くなり、まずは化粧品や文房具などを100円均一の商品からランクアップ。薬局や雑貨店に通うことが多くなった。
「我慢」ばかりの学生生活に、この歯止めが効かなくなったことは詩音にとって何よりのストレス軽減だった。
毎日上機嫌だからか、ユキトとも何だか上手くいっている様である。
詩音はクラス内のもう1人の親友、響子にも指摘されていた。
「詩音最近、機嫌いいよね。ユキト君とうまくいってるの?」
「うん?まぁね~」
溶け出したソフトクリームのようなだらけ切った笑顔で返す。響子も入学時からの長い付き合いだったが、真奈美や私と違って東京育ちのお嬢様だ。確か世田谷の一軒家から通っている。見た目も地味で冴えない感じだが、素直で健気で、頑張り屋さんの彼女のことを詩音は慕っていた。真奈美とはタイプが正反対だからか、あまりウマが合わない様だったが。
「実はね、」と彼女は上機嫌の勢いに任せて最近初めたアルバイトの話をしてみることにした。響子は金銭的に困っている風もないし、男っ気もない。興味はきっとないだろうが親友の彼女にこのまま黙っているのも気が引けた。
響子は詩音が真奈美から聞いた時と同じく目を白黒させて驚きながら聞いていたが、聞き終わった後、「詩音は楽しいんでしょ?」と笑顔で返し、「うん、楽しいよ」と笑顔で応える詩音に「ならいいんじゃない!」と言った。響子のこの、欲しい共感の気持ちを現してくれる所が詩音は大好きだった。
しかし、大切な物を積み上げる事は大変な事だが、崩れる時はあっという間だという事を、詩音はまだ知らない。

4月下旬の昼休み。真面目な顔が似合わない真奈美から深刻そうに切り出された話題は、
「彼氏にキャバ勤めがバレた」というものだった。
女子大生が普通に水商売をする時代だ、少し考えれば分かりそうなことではあるが、キャバクラに遊びに行く学生もいる。
真奈美の彼氏が来店した訳ではない様だった、彼氏の友人が来店しまさかと思い真奈美のポスターを撮影、彼氏に報告。昨日の夜呼び出され問い詰められて白状してしまったという事だった。
すぐ別れ話にはならなかったが、距離を置きたいと言われている様だ。
「そっか・・・」
詩音はこれしか言えなかった。全く他人事ではない。いやそれ以前に、親友で自分に新しい世界を教えてくれた真奈美が悲しんでいるのが辛かった。
「辞めるの?お店」
「今は分かんない。私も収入無くなったら生活出来ないし。でも出勤は減らすと思う。」
「そっか・・・」
また同じセリフ。どうしていいのか、何といってあげれば良いのか。いつか来ることが分かっていたけれど、直面する用意だけは怠っていた。
深い同情の底に落ちた後、詩音は次に自分の身のことを案じていた。真奈美の彼氏は、経済学部ではないにしろ同じ学校で同級生だ。ユキトとも、名前と顔を知っているくらいの面識はあったはず。まさか・・・。大丈夫だよね。詩音は自分に言い聞かせた。そして以前キャバ嬢の体験記にあった一節を思い出す「水商売しているスタッフの半数は家族や恋人に許可を取っている」という統計だった。風俗ならまだしも、私がやっていることは生活のためだし決して淫らでない衣装を着てお客さんと話をしているだけだ。嫌悪感のあるボディタッチもない。
詩音は、引き返すタイミングを自らの「都合よく解釈する」特技によって失っていた。

警戒しながらも仕事を続けていた詩音だったが、ユキトから意味深なラインが来るまでそう時間はかからなかった。
今日会えない?端的な内容は帰って詩音を不安にさせたが、受けない訳には行かない。なーに、いいよ、どうしたのー?と少しとぼけてみたが、ユキトからは16時に本館の2階のカフェで待ってる。とだけ返事があった。詩音は画面を見つめたまま動けなくなっていた。

時間通りにカフェに行くと、既にユキトは座っていた。話の心当たりはありまくりだったが、違う話かもしれない。あえていつも通り声をかけた。
「お待たせ!何、改まってどうしたの?」
「詩音さ、Noel辞めたんだって?」
直接的ではいが、あまりにも単刀直入な問いだった。
「え、辞めてないよ。何で?」
「辞めたんでしょ、こないだフラッと立ち寄ったら澤田さん言ってたよ」
ユキトは詩音の勤務中に時たまフラッと来店することがあった。しまったーと詩音は心の中で額に手をやる。
「毎日バイトで忙しそうだけど、今度は何してんの?正直に言って」
いつもは柔らかいユキトの語尾がこんなに鋭角に尖っているのは初めてだ。詩音は怯みかけたが、もう核心を突かれている、正面からちゃんと話そうと思った。
「友達にこないだ誘われて、キャバクラだよ」
「友達って真奈美だろ」
そこまで知っていたのに間接的な話の導入をしてきたユキトに、詩音は少しイラつく。ずっと考えていたはずの弁明ではなく、予定にない攻撃的な返答が出てしまった。
「全部知ってんじゃん。いいでしょ、ただお酒飲んでお話するだけだよ。Noelとやってることはほとんど変わらないのに3倍近く稼げるんだよ。現実問題、それくらいしないと自分で全部負担するのは無理だなって、Noelで働いて分かったの。」
ユキトが飛ばしたほんの小さな火の粉は詩音を予想外に燃え上がらせていた。彼女の中で押し殺され溜まっていた背徳感と罪悪感に引火したのだ。
「俺に相談もなく水商売を?」
「だかた、仕方なかったの!それにキャバクラ行ったことないでしょ?私も行くまで知らなかったけど、仕事の内容は本当に普通だから!イメージだけで否定しようとしないで」
気づけば、周りも振り向く口喧嘩になっていた。
「じゃあ詩音は、今の仕事気に入ってんだな?」
「そうだよ」
「じゃあ何で指摘されてそんな怒ってんだ?始める時に何で俺に報告しなかった?親御さんにはもちろん言ってんだよな?」
詩音は黙っていた。
「それに悪いけれど、仕事内容のことは置いといても、俺は水商売してる人とは付き合えない」
続け様に出された、死刑宣告。
「なんで?」
涙が出そうだったが、思考が涙腺に追いつかない。
「俺は詩音の笑顔が見たくて一緒にいるんだよ。詩音も俺の何かを好きになってくれたから、俺と一緒にいてくれるんだろ。」
次の一言で、詩音の涙のダムは完全に崩壊する。
「金で買える愛想なら、恋人である必要ないじゃん」
暗くなる視界の端で、去っていくユキトの背中を辛うじて捉えて、見失った。

その日、詩音は初めてコバルトの出勤を当日キャンセルした。落ち着いてから店長に電話したつもりだったが、泣きはらした後の声を察してかすんなり受け入れ「お大事に」と付け加えてくれた。
家に帰り、まだ日の光が明るく差し込む部屋のベッドに倒れ込む。
今まで自分が結論付けてきた理論は徹頭徹尾、自分の中で完結しただけだったんだと痛感していた。
もうお店辞めようかとも思ったけれど、生活できなくなる現実問題もある。後には引き返せなかった。ユキトに電話してみようかと思ったが、なんて言えば良いのか、もしもし以外の言葉が思いつかない。
でもこんな静かな部屋に1人でいたら変になりそうで共感してくれそうな真奈美に掛けてみた。
「おーす、どした?」
すぐ出る真奈美。彼女はいつもスマホを触ってる。
「ごめんね、今話せる?」
「どした、まさかバレた?」
半笑いで問う真奈美に
「当ててんじゃないよぉ!」と大声を出してた。

ひとしきりたった今あった話を伝え、そうか、ユキトは許せない派だったか・・・。と同情する真奈美。真奈美の方は関係性を依然凍結中の様だ。
今回のショックは大きすぎて友人に打ち明けるだけでは気持ちが収まらない詩音を察してか、「今日飲みにでもいく?」と真奈美が誘う。
まだ着替えもせずメイクも落としていなかったので詩音は「行く!」と返しながらもう靴を履いていた。

学校からほど近い水道橋のイタリアンバーで待ち合わせた詩音は先に店についたが、程なくして真奈美と、もう1人思わぬゲストが一緒に来店していた。
「よっユメ。あ、本当はシオンちゃんだっけ?」
彼女はコバルトの先輩キャストで、源氏名しか知らないがユカリさん。毎月人気上位に入る、ベテランかつやり手のキャストだった。ちゃんと話したことはなかったが、ちょっぴりミステリアスな雰囲気と姉御肌の合わさった彼女の大人の魅力に、詩音は密かに憧れていた。
「あ、ユカリさん!おつかれさまです!」
思わず立ち上がる詩音。
「ごめん、私も言い忘れたと思って。今日さ、元々サトコさんと飲みに行く約束してたんだよ」
「ごめんね詩音ちゃん、でもたまにはいいでしょ?」
知らない名前が出てきたが、きっとユカリの本名だろうと結論付ける。
「ほら、私も詩音も今悩める子羊だし、お姉さまに聞いてもらお?」
確かにこの人なら頼りになりそうだった。先輩キャバ嬢として何か良いアドバイスがもらえるかも知れない。しかし詩音はさっきからジロジロとサトコの身なりを舐める様に見回していた。いつも表参道なんかで何度も手にっては何度も諦めてきたブランド物の数々。バックはグッチ、イヤリングはシャネル、ネックレスはヴィヴィアンウェストウッド。取り出したスマホのカバーは・・・アニエス・ベーだった。
スマホカバーまでブランド物かよ、と少し警戒心を高める詩音だったが、サトコは詩音の羨望の眼差しに気付いてか気付かずか、マイペースに前髪をいじっている。
「じゃ、なんか頼もっか」
自分のタイミングで言い出したサトコに釣られて、待ってましたと言わんばかりに「はいっ」と詩音と真奈美は返事をした。

詩音にとっては慣れない宴席だったが、さすがはキャバ嬢3人組。どんなささいな話題でも場は大盛り上がり。ムカつく客や好きな客、更には学校や地元のことなど、3人は数年来の大親友同士の様に仕事からプライベートまで色々な話で盛り上がった。
詩音が丁度3杯目を頼もうとした時だった。既に5杯飲んでもテンションの変わらないサトコが唐突に切り込んだ。
「で、詩音ちゃん今日フラれちゃったんだって?」
すいませーん!と挙げた手が空中で止まる。手はゆっくりと高度を下げ、そうなんですよぉ~と前のめりになって返した。詩音は楽しくてすっかり忘れていた本日のメイントークテーマを、吐き出す様に一気に吐露した。
来店時から相変わらずどこか不思議な、でも深く吸い込まれそうになる微笑みを浮かべているサトコは、そのままの表情でうんうん、と聞いていた。
3分ほどだろうか、詩音があまりにも早口に情報を詰め込んで話すので一方的なトークショーは案外短く幕を引いた。サトコは間髪入れず全て引っくるめて一言返す。
「で、本当はそのヒトになんて言って欲しかったの?」
詩音は返答に詰まった。ほぼ同じ気持ちでいる真奈美も同じ。
「詩音ちゃん。可哀想だとは思うけれど、先輩キャストとしてあえて厳しい事言うね。相手に自分の都合の良い答えを期待してばっかじゃダメ。だから女は舐められるの。相手に対して本気なら、自分の信念ぶつけて、感情でねじ伏せて、欲しい答えを相手に言わせなきゃ。」
固まって聞くことしかできない詩音と真奈美。
「相手が自分の思う様にならなかったからもう嫌い、信じられないって、それは勝手だよ。」
果てしなく正論で、厳しくて、詩音の瞳には涙が溜まりつつあった。
「でもね、詩音ちゃん。」
ホロ、とこぼれる一筋の滴。
「女は泣いた分だけ強くなれるの。男はその逆だけどね。だからそんなに深く考えることはないの。少し強くなれた。それでいいじゃない。もっともっと強くなって、もっともっと幸せになれば今日のことなんて笑い話よ。」
真奈美の頬にも伝う滴が一筋。詩音の頬には二筋あった。

今日の本題だったとは言え、ムードは一気に最下層まで下がってしまった。ベテランキャバ嬢のサトコは軽やかに切り返す。
「さ、これでちょっとでも整理できたらお姉さんは本望。飲み直しましょ!今日は奢るぞ!」
いつの間にか濡れていた頬を拭って、詩音は自分のグラスが空だったことを思い出した。詩音も得意としているテンションの切り返しとして、さっきより元気にすいませーん!!と店員に声をかけた。
詩音は、もちろんまだ完全に吹っ切れた訳ではないがかなりスッキリした気持ちになっていた。これまでモヤモヤすることがあれば誰かに吐露することで解消してきたが、信念のあるアドバイスなら聞くだけで効果抜群であることを学んでした。詩音はこの1時間半程で、サトコにすっかり信頼を寄せる様になっていた。
「ところであなた達、私がいくら貰ってるか気にならない?」
サトコはあえて若手が好きそうな話題を振る。詩音と真奈美の瞳は一気にキラキラと輝き出す。
「え、ガチですか?」
「そうそう。当ててみて。まぁ私はフリーターみたいなモンだけど、コバルトはお小遣い稼ぎだけどね」
「そうなんですか!?毎週上位なのに」
詩音は素直に驚いていた。その隙に真奈美が答える。
「じゃ、40万!」
「えーと、30万?」
言われてみれば週2程度しかいないサトコのシフトを計算して、コバルトは副業らしいしそれでも多めに言ってみた。
「・・・ザンネーン、大体55万よ」
「「えっ!ごじゅうご!?」」
同じセリフは吐いて飛び上がる2人。人気キャストになるとそんなにもらえるのか。詩音は、20万以上もらえる様になっただけでもこんなに生活が変わったのに、50万ももらえたらどうなっちゃうんだろうとヨダレが溢れそうになっていた。
「お客さんに高いお酒入れてもらったり、勤務中ずっと指名取れればこれくらいイクよ」
へ~・・・、と根は田舎娘の2人は感心することしか出来なかった。
「あ、でも他にもお仕事されてるんですよね、なにしてるんですか?」
「デリだよ。デリヘル」
え?
詩音と真奈美は驚き続きで思考が停止した。
あまりにも呆気からんというサトコはお構いなしに続ける。
「知ってるでしょ?そっちが週3くらいかな。コバルトよりは多いよ。」
「そんで合わせて月収120万ってとこかな。」
「どう?夢あるでしょ。」
詩音と真奈美は、追いついて理解しようとするのを辞めた。

月収120万といえば単純に年収1440万。並のサラリーマンでは一生到達できないであろう破格を、目の前の美女は簡単そうに叩き出していた。途切れそうになった会話を真奈美が辛うじて繋ぐ。
「え、と、デリヘルってあれですよね、お客さんの家に行って、その、するんですよね」
「そうだよ。まぁほとんどはどっかのビジホかラブホだけどね。するったって、本番はないよ」
「へ~・・・」
詩音はさっきからこれしか言えていなかった。
「楽だよ?キャバと違って すること決まってるから、変に気を使うこともないし。」
「でもその、キスしたりもするんですよね」
「そりゃあね」
「嫌じゃないんですか」
「真奈美、牛タン食べたことある?」
「え、あります」
「それと同じよ」
なるほど、と言いかけて詩音は飲み込んだ。そういう物なのか?割り切っていれば、気持ち次第ってことか?
なんにせよ、驚きの次に彼女の中に芽生えた感情は興味だった。
だんだんと思考が落ち着いてきた詩音はやっと自分の言葉で質問を返せた。酔いも手伝ったのかもしれない。
「サトコさん、やっぱりその仕事も気に入ってるんですか?」
「気に入ってるもなにも、需要があるから供給してる。私は人と世の中の役に立ってるって実感を持ってる。ありがとうって言ってくれる人もいるしね。それに私は自分の力でお金を稼いで欲しいもの買って、食べたい物食べて我慢せずに生きてる。気に入ってるっていうなら、今の生活は気に入ってるかな。」
真っ直ぐな瞳で、それでも尚微笑みを崩さないサトコに詩音はさらに興味を持っていた。
「お金はあるだけいいよ。2人もやってみる?」
うっ、とさすがに尻込みする2人。
「うそうそ。冗談だよ。コバルトでもまだまだ上があるから、もっと稼いで、それでももっとお金が欲しかったら言って。他にも紹介できるバイトはいくつかあるし」
ですよねー!と2人は言いまたしても重くなりつつあった空気はやはりサトコの切り返しで軽くなる。3人はカチンッとグラスを鳴らし、後半戦に向けて酒のペースを上げていた。いろんなことがあった数十分間だったが、詩音も気持ちを切り替えて楽しい酒に酔いしれていた。彼女の脳裏に、サトコの言う「他の仕事」というのが引っかかって取れなくなっていたことに、彼女自身まだ気付いていない。

サトコのお陰でフラれた当日にある程度リセット出来た詩音は、ほぼいつも通りのテンションを取り戻して登校していた。また同じ日々が始まるかと思いきや、詩音にとってまたしても驚きの事件が起こる。
昼休み。大人しいお嬢様で有名な響子と昼食を食べていると、なんと響子の方から「私もキャバクラやってみたい」と言ってきたのだ。詩音は、ユキトとキャバクラが原因で別れた、というのを報告しようと思っていたが、どういう風の吹き回しか響子の方から全く別の形で話題を振ってきた。
「え、何どうしたの?」
「なんかね、私あんまり自分のこと好きじゃないの。内気だし地味だし話し下手だし・・・。詩音見てたらいいなって思っちゃって。全く違うこと始めたくてさ」
そんな風に思っていたことにまず驚いていた。詩音にとっては彼女が持っている上品さ、慎ましさ、健気さ、それに都会生まれだし、こっちこそずっといいなって思っていた。隣の芝生は青く見えるということか。
「そうなんだ、でも嬉しいよ、興味持ってくれて!店長に話してみよっか?響子可愛いし、すぐ出れると思うよ!」
俯き、顔を赤らめて「うん、おねがい」と恥じらいながら言う響子に、詩音のハートはオヤジのそれのように高鳴っていた。

自分の時と同じく、響子がコバルトの接客に出るまでそう時間はかからなかった。店長はちょっと恥ずかしがり屋だけど、今までいなかったタイプだからこれは注目株ね!とロクに面接もせず支度に入らせていた。
流石に緊張している様子だったが、遠くのテーブルに付いてソファの端っこで小動物にように頑張って相槌を打っている響子の姿を遠目に確認し、元々賢い子だし大丈夫そうだなと安心していた。
丁度今日は真奈美と3人で出勤していたので退勤後一緒に駅の方に歩きながら、「どうだった?」と聞いてみると「楽しかった」と響子。
「私ね、今まで男の人と付き合ったことなんてないし、可愛いねとか色白だねなんて褒められることもなかった。でも今日はなんかいっぱい言ってもらえてすごく嬉しかった!」
「ようこそ、コバルトへ」
自分のお陰で2人もキャストが増えた事を自慢したいのか、偉そうに言う真奈美に
「今日の主役は響子だろ!」と小突い他ところで駅に到着した。

ユキトはクラスメイトなので週に何度か顔を合わすが、お互い気にしている素振りはあるものの目を合わすことはなく連絡を取ったり話かけることも皆無だった。
真奈美は彼氏を説得しコバルトを続けるそうだ。詩音ももう一度、話し合う時間が欲しいと思っていたがサトコの言う「相手にぶつけられる信念」とやらがないまま話し合いに臨んでも溝は深まると思い、未だ切り出せずにいた。
仕事の方は順調だった。すっかり慣れて指名をとる日も少しずつではあるが増えてきていた。真奈美は少し先を言っていて、週間ベスト10に何度か載るようになっていた(コバルトのキャストは全部で30人ほど)。
今日の放課後も出勤だった。真奈美も確か入っていた気がする。
放課後になり真奈美にラインしてみたが、いつもすぐ返ってくるはずの返事がない。そんな時もあるか、と気にせず1人で向かう詩音だったが、コバルトの近くまで来た時近くの焼肉屋へ中年男性と親しげに入っていく真奈美の姿があった。詩音は直感した。キャバ嬢を始めて約2ヶ月。店長からもそろそろチャレンジしてみたら?と言われていたあれは「同伴」だった。

そっかー、真奈美も頑張ってるんだ。隣にいたはずの親友が少し先に行ってしまったような気がして寂しく思いながら支度をしていた詩音は、用意するように言われたカードケースを開ける。中には接客中に客からもらった名刺が数十枚入っていた。こちらから客にお礼や営業の連絡をした事はまだない詩音は、真奈美はこういう所も頑張ってたんだな、もし今日名刺もらったら営業の連絡の仕方教えてもらお、と小さく握り拳を作り、開店と同時に店内に並ぶと、丁度真奈美がさっきの男性と入ってきた。
その日の接客に詩音はいつも以上に気合を込めていた。指名こそ入らなかったが、ヘルプでついたテーブルで先輩の邪魔をしないように、それでも自分を主張しつつ元来彼女が持つ人懐っこさを発揮した今の彼女にできる限りの接客をしていた。その甲斐あってか退勤直前に優しそうな40歳くらいの客から名刺をもらい、またよろしくねと言われた詩音ははしゃぎながら「ありがとうございます!お礼の連絡させてください!」と挨拶していた。
待機室に戻り、先に着替え始めていた真奈美に駆け寄ると
「ねぇ真奈美、営業メールってやつ、やり方教えてくれない?」
とそのままのテンションで告げたが真奈美はよく見るとどうやら急いでいるようだった。
「え?あ、ごめん!ちょっと用事あるから、また今度ね!お疲れ!」
カバンを引っ掴み出ていく真奈美を見送り、こんな時間から用事?彼氏ンちでも行くのかな。と少し不思議に思いながら店を出ると、店から少し離れた所で夕方とは違う男性と親しげに話す真奈美の姿があった。
反射的に目の前にあった電柱の影に隠れる詩音。真奈美は男性の手を両手握り何やら小刻みに飛び跳ねながら喜んでいる様子だった。
やがて駅とは反対側に歩き始めた真奈美を、いけないと思いつつ追う足を詩音は止められなかった。10分ほど歩き、路地を曲がって入って行ったその建物は、ラブホテルだった。

混乱が収まらない詩音は、誰にも相談する事ができず1人帰路に着いていた。明日学校で真奈美に聞いてみようかな、いや聞くだけ野暮だよね、アレってそう言う事だよね。
売り上げを伸ばしている友人を応援したい気持ちと、ランカーにまでなるには、つまり今以上の収入を得るにはああ言う事もしていくしかないのかな、と様々な気持ちが折り混ざり詩音は寝れない夜を過ごす事になる。

翌日。1限目を欠席した真奈美は、2限目から登校してきた。起こる事象が全て悪い想像に繋がってしまう。やっぱり泊まったから朝は来られなかったのかな。どんどんと妄想を進めてしまう想像力に怯え、詩音は結局真奈美にこの件を尋ねる事は出来なかった。
昼休み。最近はコバルト3人娘、もとい詩音と真奈美と響子でランチを囲む事が増えていた。
キャバクラの仕事をする事で以前よりずっとハキハキして明るくなった響子は、真奈美とも気が合うようになっていた。
「そういえば詩音、営業メールのやり方知りたいって言ってなかった?」
「ん、あぁごめん、アレはもういいよ。やっぱり大雑把な私には向いてないかなって」
「そんな難しくないよ?指名増えるのにもったいない」
終わりそうになったこの話題を、
「なになに、お客さんに挨拶とかのメールするやつ?」
意外にも響子が拾う。彼女は元々努力家でもあり、しばしばランキングに載る真奈美や人気キャストに憧れを持っていた。
「そうだよ、来てくれてありがとうございましたー、とかまたお会いするの楽しみにしてますーとか、本当テンプレを送るだけだよ。たまに同伴してもらえれば、バックも増えるし美味しい物食べれるし」
「へーそうなんだ、真奈美はいつも何通ぐらい送ってるの?」
「日によるけど大体ー・・・」
昨日のショックから急にこの仕事について積極的になれなくなっていた詩音だけが会話に取り残されいた。営業の仕方は本人が良ければ良いんだろうから置いといて、詩音は向上心を燃やす2人の姿を眩しく感じてしまいキャバ嬢としてのステップアップが完全に見えなくなっていた。

なんとなく元気の出ない詩音はコバルトのキャストの中で唯一憧れているサトコに連絡していた。お時間ある時、ご飯どうですか。短い分だったが、世話好きのサトコにとって後輩からの食事の誘いは断る理由がない。
翌日の夜、詩音は2人っきりでサトコと大衆居酒屋に出向いていた。

「サトコさんも、コバルトでその、営業とかしてるんですか」
この誰もが振り返る美女で、意外にも姉御肌の先輩に遠回しな質問は必要ないと詩音は本題から入っていた。
「そりゃあね。仲良くなればご飯食べれるしプレゼント買ってくれるし、何よりお店にお金落としてくれるからね」
いきなり本題に入る後輩の不躾ながら素直さを、サトコは心地よく感じていた。
「同伴とかアフターとかしたことあります?」
「しょっ中さ。キャバ嬢の必須課題みたいなモンだろ」
「あの、ホテルとかも行君ですか」
一瞬視線を天井にやるサトコ。
「なるほどね、それが今日の本題って訳だ。お客さんに誘われた?」
「いえ、私はまだなんですけど。その、真奈美が」
「アフターしてたって訳ね。なるほど、頑張ってんじゃん」
全く驚かないサトコの反応に、詩音は上位のキャストになるには必要な通過点なんだと確信し、同時に落胆する。
「でも私、私だって人気のキャストになりたいですけど、そんなことまで出来る自信がなくて」
「いいんだよ、やりたくない事はやらなくて。あのオカマ店長に言われなかった?自分が楽しむ事が一番大事だって」
詩音は初めて出勤した時のことを思い出していた。
「じゃあ真奈美はその、好きでしてることなんですかね」
「そりゃそうでしょ。でも多分、詩音が想像してるのとはちょっと違うと思う。私たちはさ、お金の繋がりからのスタートだけど、お客さんに仮だとしてもその時だけは友達であり、望まれて対価を貰えれば仮の恋人にもなる。それで喜んでもらえて、喜ばれて嬉しいならいいと思わない?詩音が考えるほど複雑な話じゃないよ」
胸の奥に刺さる言葉だったが、詩音はユキトに言われた言葉を思い出していた。

「金で買える愛想なら、恋人である必要ないじゃん」

恋人ってやっぱり世界で1人だけだし、その人だけには無条件で心も体も差し出すべきだと思う。恋人って2人いてやっと成り立つ関係だ。自分が良くても、相手が納得しないならやるべきではない。少なくとも今のユキトは全く納得していない。
先日のサトコの教えからか、詩音は自分の中で信念を組み立てていた。
だからこそキッパリ言う。
「私、キャバ嬢としてこれ以上ステップアップできないと思います。楽しかったし、後悔はないけれど」
「そう。よく言ったね。こないだから大分成長したじゃん。」
「サトコさんのお陰です」
エヘヘ、と笑う詩音は久しぶりに心の底から笑った気がしていた。
「でもさ、このまま続けるのも良いと思うけど、収入、どうするの?」
あ、と素に戻る詩音。最近お金の悩みから解放されたことですっかり忘れていた。
学業と両立しながら普通のアルバイトではかなり難しい、最低月20万円を稼がなくてはならないのであった。
「紹介できるバイトならあるよ」
サトコのこの一言を、詩音は心のどこかで期待していた。
「でも私、ヘルスとかはちょっと・・・」
「分かってるって。私の彼氏が使える人間探しててさ、宅急便みたいなモンらしいんだけど」
「宅急便?」
一応聞いてみたが、え、サトコさん彼氏いるの、という方にこそ興味を持っていかれていた。

サトコによると、精密機器だかなんだか、とにかく壊れやすく高価なものは通常の宅配便できないので人間が手で運ぶ必要があり、その配達員を探しているとのことだった。サトコも初め誘われたが、乗り物が苦手な彼女は断っていた。
「簡単な案件から回してくれると思うから、やってみたら?割ともらえるみたいよ」
1人でも出かける事が好きだった詩音は、信頼するサトコの彼氏からの紹介と言う事もありじゃあ今度の日曜日にでもと申し入れていた。

数日後。教えてもらった電話番号からかかってきたのは軽薄な男性の声だったがサトコの名前を出された事で詩音は安心していた。初めに、始発で横浜に何時に来れる?と聞かれてそんなに朝早いの!と驚いたが紹介してくれたサトコに迷惑をかける訳にはいかない。朝早いという理由で断る訳にはいかなかった。
日曜日、指定通り始発に乗り6時過ぎに横浜駅についた。指定されたコンビニの前で待っていると、まもなく黒い軽自動車がやってきてコンビニの前に路駐した。中から茶髪に変なパーカーの声のイメージ通り軽薄そうな男性が降りてきた。
「よっ!詩音ちゃんだね!今日はよろしくね」
「おはようございます、はい、こちらこそ」
「じゃ、これ。気をつけてね~高級品だから」
と言って渡された水色の至って普通のトートバックには、ウサギほどの大きさだろうか小包が入っていてバスタオルでぐるぐる巻きにされているようだった。さほど重くはない。
「大事に扱ってね!間違っても、どっかに忘れてきたらダメだよ~。じゃ、これ届け先。ここについたら公衆電話あるからこの番号に電話して、取りにきた男の人に渡せば任務完了!お給料はその人がくれるから。んで、給料もらうとこまで終わったら一回電話頂戴。あとは自由に帰って良いよ。なんか緊急事態があった時も俺に電話してね。じゃ、気をつけてね~!」
聞きたい事は山ほどあったが、野間と名乗るサトコの彼氏は軽自動車に乗ってさっさと行ってしまった。
渡されたトートバックをしっかり肩にかけ、渡されたメモを開くと、
『神奈川県鎌倉市七里ヶ浜東2-8 田辺公園』
とあった。鎌倉?江ノ島の方かな、と当たりをつけてスマホで調べてみると、江ノ島の少し手前の駅で降りてすぐ、住宅街の真ん中にある小さな公園だった。どこかの会社か工場に持っていくと予想していた詩音にとって意外な場所だったが、ここ横浜から1時間半ほどらしい。よく分からないが届ければ帰って良いって言ってたし、ついでに海辺を散歩するのも良い。海水浴にはまだ早いが、気持ちの良い5月晴れの日だった。
詩音はピクニックにでも行くような気分で再び横浜駅に向かっていた。

朝の電車は、空いていて最後江ノ島電鉄に乗り換え最寄駅についた。早起きはちょっと辛かったけれどこんなんで本当にお金もらえるの?と別の不安が過ぎる頃、田辺公園についた。Google マップで見た通り、小さな、どこにでもある公園だ。辺りを見回すと閉じているたばこ屋の前に公衆電話。メモをよく見ながら電話をかける。公衆電話なんて使うの、何年ぶりだろう。
2コールで繋がった。
「あの、私野間さんに言われて横浜から機械を・・・」「ブツッ」
ここまで言って突然電話が切れた。え?何?かけ間違えた?
生憎公衆電話に発信履歴を閲覧する機能はない。どうしよう、もう一回かけてみようかな。
詩音は迷った挙句、さすがに相手の声が一声も聞けていないので10円玉を投入した。
プルル、プルル、プルル・・・、何回かコールしたが、今後は出ない。番号は何度もチェックした。
急に不安になった詩音は、野間に電話しようか迷っていた。迷って、しかし彼女にすぐ電話をさせなかったのは初回から手もかかるヤツだと思われてたくなかったからだ。まだ9時前だ。トラブルを解決するのに十分な時間はあった。少しだけ、待ってみよう。
詩音はそう自分に言い聞かせると、誰もいない早朝の公園のベンチに腰掛けスマホでネットニュースを見たりして緊張をほぐそうと試みた。
9時が過ぎ、最初に電話してからそろそろ30分が経過しようとしていた。待つだけでは解決されないのかも知れない、だとしたら早く野間に連絡した方が良いのではと焦り始めた詩音に、後ろから近づき声を掛ける男がいた。
「ちょっと、あなた」
電気ショックでも受けたかのようにビクッと跳ね上がり、裏返った声で答える。
「はいっ!?わたし、ですか」
振り向くと短身で色黒の、いかにも湘南のチンピラという風な中年男だった。自分からは絶対に話しかけないタイプだったし、精密機械を預かりに来たとも思えなかった。
「それ、あれでしょ?横浜から持ってきてくれたんでしょ?」
横浜という単語を聞いておおよそ信じがたい風貌ではあったがこの男に預けるものだと安堵した。詩音は、はい、これなんか精密機械・・・とモゴモゴ言うと、男は頭を掻きながらあぁ、精密機械ね、そうそうありがとう、と答えた。
詩音は持ってきた水色のバックごと渡すと、男は電話番号が書かれたメモも要求してきたので手渡す。すると男はその場で細かくビリビリと破き、風に沿わせて破棄した。
詩音は少しだけ驚いたが、詩音にとって最も大切なイベントがあるはずだったのであまり気にならない。そう、給料を貰わねば。
詩音のもの欲しそうな視線を察知してか、男は尻のポケットから茶封筒を取り出し、雑に詩音に手渡した。「あ、ありがとうございます!」と言い終わる前に男はそそくさと路地の奥へ消えていった。
なんだろう、やっぱり製造業の人って忙しいのかな。詩音にとっては大変な緊張を伴った初めての取引は、ものの数分で終了した。言いつけの通り野間に電話する。野間はすぐ電話にでた。
「あ、詩音ちゃ~ん?お疲れお疲れ!うん、終わった?ありがとね!お金もらった
?いくら入ってる?」
大事な事確認するの忘れてた。この謎のバイトの報酬かいかに。えーっと、と言いながら片手で器用に封筒を開ける詩音。何枚かお札が入っているらしかった。
「えっと、1、2、3、あれ、え?」
詩音は一度ベンチにスマホを置き両手で札を数える。一万円札で7枚。7万円入っていた。
絶句する詩音に、
「詩音ちゃーん?大丈夫?」
声を掛ける野間。
「あ、あの、7万円も入ってます!」
「OKー。じゃ、今回はお疲れ!またよかったら頼むね!」
「あ、あの、これって!」
言い切る前にやはりこの男は電話をすでに切っていた。
横浜駅から1時間移動してバッグ渡して、7万・・・?
詩音の中に大きな、暗い色をした疑問が風船のように膨らんでいった。
しかし隣で明るい色をして膨らむ喜びの方が速く膨らんでいた。

折角江ノ島の方まできた詩音は、まだ人も少ない人気の観光地を散策してから帰路についていた。散々涼しい海風をたっぷり浴びてからの帰宅だが、時刻はまだ昼過ぎだ。受け渡しも上手くいったし、上機嫌だった詩音はコバルトの店長に電話して、今日出勤していいですかー!と電話していた。

完全に貧乏学生生活から抜け出した詩音は、空いた時間にウィンドウショッピングに出かけることが多くなっていた。どんな商品があるんだろう、と見ているだけだった少し前とは違い、最近は欲しいものあるかな、という巡り方に変わっており、数倍、いや数十倍ショッピングが楽しかった。今日は夜から出勤を控えていたが、響子と池袋のデパートの中を散策していた。響子も自分で使えるお金が増えたからだろう、さっきも気に入ったブランド物の数万円するポーチを購入していた。私も負けてらんない、なんて的外れな対抗心を燃やす詩音に、電話が入る。登録していなかったが、見覚えのある番号だった。ちょっとごめん、と短く響子に言い少し離れて電話を取ると、あの軽薄な男の声だった。
「もっしもーし、詩音ちゃん?こないだはどうも!」
急なハイテンションについて行けず、はぁ、と短く返す。
「よかったらさー、またお願いしたくて!明後日の土曜はどう?」
土曜は確か19時からコバルトに出る予定だ。
「えっと、18時くらいに都内に戻れれば大丈夫です。」
「そっかよかった!今回も早朝の出だからそれなら間に合うよ。じゃ同じ時間に同じ場所で、いいね?」
お願いします、というとブツッと切れた。どうしてこう、せっかちな人ばかりなんだろう。

土曜の朝。早起きした詩音の姿は横浜駅近くの例のコンビニの前にあった。
同じように軽自動車で登場する野間。2回目なので要領は大体分かっていたが、それにしても大雑把な説明は相変わらずだった。メモを見ると、『東京都八王子市散田町3-24 東散田公園』とあった。今回は八王子か。帰りに寄りたいところもないなぁと思いながら、まずは横浜駅に進路を取る。
指定の公園は八王子駅の隣の西八王子駅から10分ほど歩いた、またしても前回の公園と同じような何の変哲もない公園だった。到着して辺りを見回すと、やはり視界に公衆電話が入る。今時公衆電話なんて探す方が大変なのに、近くに設置されている公園が受け渡し場所の条件なのかな、と前回とは打って変わってリラックスした様子で受話器を取ろうとした時、声を掛けられた。
「あの、それアレですよね?」
またしても大袈裟に見えるほどビクッと飛び上がり振り向く詩音に、男は続ける。
「それ、アレですよね?」
黒っぽいジャージをきた、30代半ばくらいだろうか、大人しそうな男性だった。
明らかに持ってきた品と関係のある人間に見えたが、彼女の中に運ぶだけで大金がもらえるほどのとても大切な物なんだという確信があったし、水商売のおかげで年上の男性の扱いは慣れていた。野間に指示されている形での取引ではない。キッパリと言い放つ。
「何がです?」
簡単に渡して貰えると思っていたのか、男は少し怯んだように見えたが吃りながら続ける。
「それ俺、そのバッグ。預かるよ。」
「ちょっと待って下さいね」
余裕を持って返す詩音は、よく確認しながら指定の電話番号に電話を掛ける。コールが鳴るが、男の身の回りから着信音らしき音はしない。5コールほどで出た。もしもし、と声を掛けながらしかし詩音は不審な男の目の前で具体的な事は言わなかった。
「あの、私のこと、分かりますか?」
男は突っ立って残念そうにこちらを見ている。しばらくして受話器の向こうから低い男の声が返ってくる。
「野間くんの使いの人?」
「そうです。黒いジャージの人、知り合いですか?」
男は振り返り足早に立ち去って行った。
「なに?なにいってんの?公園にいるんでしょ、ちょっと待ってて」
ゆっくり受話器を置き、胸の底から深く溜息を吐いた。深く胸を撫で下ろしていた。
3分ほどだろうか、紺色のジャケットを羽織った男性がお待たせ、と言いながら公園にやって来た。聞き覚えのある声だった。
詩音は失礼な電話をかけた事をまず詫び、今しがたあった事をそのまま話した。すると男は
「やるなぁ姉ちゃん。なにせ高価な部品だからよ、稀に受け渡しの情報をどっかから掴んだ輩が横取りしようとしてくんだよ。そのまま渡しちゃってたら、俺たち大損するとこだったよ。」
「良かったです」
短く言う詩音の心臓は、さっきからバクバクと鳴りっぱなしだった。
「野間くんに良く俺から言っとくよ。助かったって。ほらこれ、お礼ね」
茶封筒と合わせて、男は臨時ボーナスだと言いながら自らの財布から1万円札を詩音に渡した。

前回と違い周辺に特に観光地がない事と、何となくこの場にいたくなかった詩音は野間に電話をかけた後、すぐ駅に戻り自宅に向かっていた。封筒には前回と同様、7万円が入っており男がくれたボーナスと合わせて8万円の収入となった。
数ヶ月前までは、一ヶ月ほとんど出勤してやっと稼いだ金額以上を詩音は2日、いや半日×2で稼いでいた。こんなに貰っちゃっていいのかなと言う背徳感と夢心地が渦巻いていた。何にせよ今日は何だか大活躍だったらしい。昼寝して、早めに出てカフェでも行ってゆっくりしようと気分は上向いていた。

夕方。そろそろ支度をしようかと起き始めた詩音に、先日やっと登録した番号から電話がかかって来ていた。
「あ、詩音ちゃん?今日はありがとね~聞いたよ、変なやつから商品守ってくれたんだって?ほんとありがとー!そんでさ、俺の上司に報告したら是非お礼と次回からも仕事頼みたいから挨拶したいって言っててさ。合わせるからちょっと時間もらえない?」
「え、そんなわざわざ挨拶だなんて、大した事してないですよ」
「まーまーそんな事言わずにさ、ほんとちょっとだけだから。ね?」
「じゃあ、火曜の夜なら空いてます。」
「オーケーオーケー!大丈夫!じゃあ、19時で良いかな?いつも待ち合わせしてるコンビニの隣さ、カフェあんじゃん?あそこでいい?」
詩音が行く時間にやっている飲食店はほとんどなかったので記憶にないが、言われてみればカフェだった気がする。
分かりました、と短く言う詩音は、新しい始めた仕事で早くも評価され始めていることに今日二度目のウキウキを得ることになる。



都内のとある警察署の会議室で、さっきから眉間に深いシワを寄せている男がいた。厚生労働省職員であり、通称『麻取』と呼ばれる麻薬取締官の佐久間だ。
勤続30年。この道ですでにベテランの域に達していた彼は今、そのキャリアの中で前例のなかった『異質』な事件を取り扱っていた。
「どう思います、佐久間さん」
先ほどからずっとしかめっ面を黙ってしまった上司に、横から若い男が話しかける。
彼も同じ麻取の新人取締官の矢崎だった。
2人が見つめる先には1枚のリスト。ここ数ヶ月台頭し始めた新たな麻薬シンジケートの構成員と思われるメンバーのリストだった。
彼らの仕事の一つとして違法薬物を扱う不届き物を逮捕する事がある。麻薬組織の壊滅は佐久間ほどのキャリアのある人間であれば何度も経験している事だったが、前述の通り今回は『異質』だった。
「初めてだよこんな連中に振りまされるのは」
苛立った声で答える佐久間に矢崎が返す。
「そうっすよね。こいつらみんなカタギの人間ですもんね。時代っすかね。」
こう言った違法薬物を取り扱う組織は必ずと言って良いほど暴力団が関係している。今回も元締めにいるのかもしれないが、現状彼らが入手にした構成員と思われるメンバーの中に暴力団の名前はなかった。
「26才会社員、28才フリーター、25才公務員、こいつなんて22、学生っすよ」
矢崎の言う通りおよそ薬物とは無縁そうな一般人ばかり。ベテランの佐久間からしてもこれはかなり異質な案件にだった。
このリストは、先月所轄の警察官が職務質問した際に大麻を所持していた青年から大麻の出所を吐かせて作成された物だ。大麻所持で挙げられた被疑者が一般人である事は珍しくないが、出所は大抵暴力団の構成員でここで一般人の名前が出る事は大変珍しい。
青年が吐いたメンバーは現在4名だったが、これは明らかに氷山の一角だった。
麻薬の販売ルートを確保する上で最も課題となるのは流通網も確保だ。輸入と客探しはパイプがあれば可能だが、流通させると言う事は組織自身で在庫を抱え、販売先まで運搬しなければならない。売ってしまえば後は知らん顔だが、とにかく所持している所を抑えられるのだけは避けなければならなかった。輸入したら即座に効率良く捌く。回転率を上げる事で利益も上がるし、これは鉄則だった。
そして佐久間たち麻取が頭を抱えている理由は、新しい形の組織に驚いているからだけではなかった。
「それにどんどん一般人を巻き込んでますもんね。一番リスクある運び係をスカウトするなんて」
先日逮捕されたという青年も、指定の場所に大麻を運んでいる最中だった。


詩音の姿は横浜駅近くのカフェにあった。偉い人に認めてもらえる事は嬉しかったが、やはり緊張は隠せていない。馴染みになりつつあったコンビニの隣には野間のいう通りカフェがあり、2階の窓際の席に30分前から座っている。現在19時15分。早めに来たのに、未だに野間達は現れていなかった。
わざわざ横浜まで来たのに、何なの?と緊張が苛立ちに転換され始めた頃、窓から見覚えのある軽自動車が車を停めているのが見えた。ダークスーツの似合う40才くらいのオールバックの男性中から頭をペコペコと下げながらその男性のカバンを持ち先導する野間が出で来た。
来たっ!と転換されていた苛立ちは一瞬で緊張に戻り、背筋を伸ばし膝の上で手を揃える。
まもなくバタバタと階段を上がってくるあのせっかちな男がやって来た。詩音は立ち上がる。
「いやーごめんごめん詩音ちゃん、待たせたね!こちらがその俺の上司の松村さん!」
「君が詩音ちゃんだね、聞いてた通り聡明そうないい子だ。ま、座りなよ」
紳士的に着席を促され、会釈して着席した。店員を呼び、野間がコーヒー3つ!と勝手に注文する。松村はタバコに火をつけながら機嫌良さそうに言う。
「コイツから聞いたよ、こないだは大事な製品を守ってくれたんだってね」
「いえ、私はそんな。指示通りしただけです」
「ハハッ、謙遜しなさんな。たまにね、いるんだよ手順を踏まない輩がね。高額な製品だからこそ慎重にやり取りしたい所だが、中々骨のあるのがいなくてね。君みたいな子と仕事ができて嬉しいよ」
「いえ、そんな・・・」
ベタ褒めする村松に詩音は面食らっていた。野間はニコニコしながら聞いている。自分が見つけた(正確にはサトコの紹介だが)子が評価されて上機嫌なようだった。
「どうだい、仕事は。慣れたかい。」
「ええ、まだ2回しかしてないですけど、私1人旅とか好きだし楽しいです」
「それはよかった。またこれからも是非頼みたいんだが、いいかな?」
「はい是非!よろしくお願いします」
「詩音ちゃんには、少しずつ大きな受け渡しをお願いしようと思っててね」
ずい、と松村は前傾姿勢になる。
「例えば関東以外の場所でも大丈夫?遠ければ遠いほど、給料は弾むよ」
「遠いって、どれくらいですか?」
「国内どこでもだよ。一泊してもらう事もあるかもしれない。経費は気付いてると思うが給料から出してもらう。だからこそ受け渡し以外は何をしても構わない。交通手段も自由だが、悪いけど飛行機と自家用車は禁止なんだ」
首を傾げる詩音に、
「飛行機は気圧の影響で製品が痛むし、車は事故した時が怖いからね」
なるほど、と小さく頷く詩音に、ずっと黙っていた野間が口を開く。
「次はね、高知に行って欲しくて!」
高知ってあの、四国の?
「一泊二日の一人旅になるね」
ニッコリ笑う松村の笑顔の奥に潜む、獲物を見つけた時に見せる猛禽類の眼光の鋭さに気付けるほど詩音はまだ大人ではなかった。

翌週の土日。一泊二日となるとコバルトのシフトの調整が必要だったので一週間待ってもらった。
いつも通り早朝のコンビニ前に立っていると、野間がやって来た。
「おはよー!今日は遠いけどよろしくね。なんかあったら電話してね。じゃ、これ!」
メモとトートバッグを渡され、足早に去ってしまった。今日は向こうで泊まることになりそうだったので小さめのスーツケースで来ていた詩音は近くのベンチでスーツケースを広げ、バッグごと仕舞った。
よし、と鼻息荒くメモを開けると、
『高知県高知市はりまや町1-1 播磨屋橋』とある。ネットで調べてみると今度は寂れた公園ではなく、市街地の真ん中にある観光スポットになっている橋のようだった。日本橋みたいなもんかな?そう思いつつ、飛行機は禁止言われていたのでまずは新横浜駅に向かう。

新横浜から新幹線で岡山へ。そこから土讃線とかいうJRで高知駅へ。果てしない旅に思えたが、新横浜からの乗り換えは一回だった。片道約7時間。
一人旅が好きな詩音にとっては景色を楽しんでいられるギリギリのラインだった。しかし今日も早起きしていた詩音は新幹線に乗車後、すぐに眠ってしまう。起きた時には既に京都を過ぎており、移りゆく景色を楽しみにしていた詩音は少しがっかりしていた。

午後3時過ぎ。少し旅疲れが浮かぶ詩音は指定のはりまや橋に到着していた。ぐーっと大きく背伸びをして改めて橋を見るが、さほど大きくなく朱色に塗られているだけの橋を前に「所謂ガッカリスポットか」と失礼な事を思っていた。辺りを見回すがスーツケースを広げられそうな丁度良いベンチがない。公衆電話はあれか、と目星をつけ少し辺りを歩いてみることにした。
少し歩くとちょっと不安定そうな形をしていたが何やら石製のオブジェがあり、その上で広げる事にした。何とか広げてトートバッグを取り出しオブジェの端に置く。しかしスースケースを閉める弾みでバッグがオブジェから落ちてしまった。アッ!と叫びながら飛びつくが間に合わずバッグは無残にも側面から墜落する。
ボス、という鈍い音を立てて落ちたバッグをすぐに抱えて中を確認した。
やっば、落としちゃった。高知まで来て任務失敗??
詩音の心中は穏やかでなかった。中を見るなとは言われてなかったのでそっとタオルを捲ってみると、およそ高価な精密機械を梱包しているとは思えないような使い古されたスーパーの袋に10個ほど小分けにされた小包が入っていた。
あれ、これが機械?でも最新の機械ってやらかい事もありのかな、とトンチンカンな事も思いながら包みを触ると、カサカサと音がする。まさか落としたせいで粉々に!?と焦った詩音は包みを開けてしまっていた。

「え、何これ。・・・葉っぱ?」

思わず声に出してしまった彼女の手元には透明な袋に入った深緑色のコケのようなものがぎっしり入っていた。誰でもわかる、これは機械の類のものではない。
何か見てはいけない物を見てしまった気がした詩音は反射的にコケをしまい、出来る限り元どおりにバッグの中に戻す。勢いそのままにスーツケースを閉じ、スタスタと橋に戻る詩音の心臓は過去最高にバクバクと大きな音でなっていた。
何あれ、私が運んでた物は何だったの!?混乱と戦慄がひたすら渦巻いていた。さっさと受け渡しを終えてこのバッグを手放したい気持ちでいっぱいだった彼女は公衆電話から電話をかける。今度はかなり年配男性の声だった。
男性が来るまでの数分間がとてつもなく長く感じた。早く来てくれないと、頭の中で高速回転する混乱に押しつぶされそうだった。
実際には3分ほど経って予想通りの男性はやって来た。グレーのトレーナーを来た、いかにも休日の家から出て来ましたと言った感じの老人は詩音に近づき、ヘラヘラ笑いながら言う。
「よ、ご苦労さん」
「あの、これ!」
とバッグとメモをいつも通り、しかし今回は勢いよく突き出す。
「はい、どうもね。お姉ちゃんもコレ、やってくかい?好きなんだろ?」
胡散臭く笑う老人の唐突な誘いを封筒を力任せにひったくり踵を返す勢いを以って断る詩音の胸中にある確信が生まれた。
「あれ機械じゃない。ドラッグだ」
詩音の足取りは早歩きから小走りになっていた。

予め取っていた宿に到着した詩音は興奮が収まらずとりあえずシャワーに入っていた。体を伝う低い温度に設定した水は体の火照りをみるみる冷ましていくが、煮えそうな頭の中はどうにもならなかった。
やがてシャワーから出て来た詩音は机の上に放り投げられていた封筒を手に取る。何だかいつにない分厚さの封筒からはただならぬオーラが出ている気がした。
取り出し、数を数えると35枚。当然全て一万円札。旅費と宿泊費で数万円使っているが、それにしてもキャバクラで稼ぐ一ヶ月の給料を1日で稼いだ。詩音の中にあった確信を、この業務内容からしたらあり得ない破格の金額がより強く肯定していた。
「やばい事になってんのかも」
また独り言を呟く詩音は野間に電話してない事を思い出した。しまった、とスマホをとり、しかし固まる。どうしよう、野間さんに中身の事聞いてみよっかな。聞いてみようと意思を固め、発信ボタンを押す。
「あ、詩音ちゃん?お疲れ!大丈夫だった?今日はそっち泊まっちゃうんでしょ?」
「あ、はい泊まります。あの、野間さん、」
「そっかそっか、じゃ、帰りも気をつけてねー!また連絡する!」
ブツっと切れる通話。またしても彼のペースに呑まれてしまったが、しかしホッとしていた。野間の口から真実を聞いてしまったら、本当に引き返せなくなりそうだったから。

翌日、あちこちと観光する予定だった詩音だが、駅前で名物のカツオのタタキを食べた後は真っ直ぐ帰路に着いていた。



しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

処理中です...