潜水艇『げんおう』の海難

風見鳥

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潜水艇『げんおう』の海難

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 我が船が自走不能になってから八時間と四十二分が経過した。このボイスレコーダーは四十時間分の音声を記録することが可能なので、少しずつ使えば必要な情報をすべて残せるものと思う。不思議と落ち着いた気分だ。いま我々は地球で最も地獄に近いであろう地点を漂っているというのに、僕は単純な状況をここに陳述することで、確実に天国へ行けるものと信じているかのようだ。
 昨日、我が潜水調査艇は日本近海での海底資源埋蔵量の測定および海底での化学合成生態系における生体サンプル採取、そして昨年はじめに沖縄本島沖合に設置されたマッコウクジラの死骸にできているであろう鯨骨生態系を調査するために、秘密裏に四国沖へ出港した。乗員は僕宮里裕也(みやさとゆうや)艦長と潜水士の富山幹太郎(とみやまかんたろう)、そして鈴木英治(すずきえいじ)博士以下三名の研究員、合計して六名だ。本当はもう一人いたが、彼は原因不明の漏電に伴う機関部の爆発に巻き込まれ、頭部を損傷して命を落とした。さらにその事故で船の機関が破損し、前進、後退が不可能となる。船の内殻と外殻の間に海水を取り込む弁は開閉するが、水を排出するポンプが作動しなく、従って我々は潜行できるが浮上できないという情けない状況に置かれることとなった。僕が録音している後ろで、ほかの乗員がここの位置情報を割り出そうとしている。確かな情報が得られれば、事態は好転するだろう。おわり。

 衛星を介した現在位置測定は分厚い水の天井に阻まれ、地磁気を頼って原始的な位置特定も試みたが失敗に終わる。確実にこの船は潮流に捕まって海中を流れているが、日本海流がこの深度でもこれほどのパワーをもっているものか、英治君が首を捻っている。富山君が二人の研究員と機関部の修復にあたってくれているが、僕は希望をもたないことにしている。ほかの乗員は暗澹(あんたん)たる海に不安をくすぐられるのか、窓から目を背けているが、僕はむしろこんなときこそ穏やかに、母なる海に為されるがまま、彼女の胎内の奥深くをしっかり目に焼き付け、冥土の土産とするつもりだ。さしあたっては、このレコーダーが僕の話し相手であり、僕が見たものを聞いていてくれる。
 辛うじて機能を保っているジャイロ(均衡装置)では均衡が不安定で、潜水艇はかなり揺れる。さらに自分たちがどこにいるかも知れない不安と、あえて誰も口にしない、海への回帰にいだく恐怖が艦内を満たしている。地上からは遥か深淵(しんえん)にあるが水のないこの密閉された離島で、なお僕たちは溺れているといったところか。海外のパニック映画ではこんなとき、一種のアナーキー状態に陥るものだが、そうなるには日本人は真面目すぎるので、しばらくその心配はいらないだろうと思う。
 そういえば僕は小さいころ、ラジオのディスクジョッキーに憧れていた。このような状況なら、少しくらい真似してもいいかもしれない。リスナーは太陽光を知らない海のはらわた、そしてそこをうごめく妖怪じみた深海魚である。おわり。

 深海の天気は海のち海、ところによりプランクトンが降るでしょう。依然として我が船は潮流に流されている。先ほど、英治君が僕に神妙な面持ちで気になることを言った。いわくコンパスが不愉快な感じで動くのだそうだ。とにかく確認したところ、備え付けのコンパスの示す方角がくるくると安定せず、一つの向きをささない。海底の磁鉄を含む岩石の影響かもしれないと僕は言ったが、彼は、コンパスが行くべきだと示すのは下だ、と言う。言われてみればコンパスは頼りなく震えながらも、Northの矢印が下方へ引っ張られているような気がしないでもなかった。僕は彼に、神経をすり減らしてはいけないからなるべく休んでいるべきだと勧めた。大人しく彼はうなずいて船室へ引っ込んだが、この会話を聞いていた研究員が青ざめてしまった。
 この極限状態でも腹は減るもので、我々はサンプルとして吸引マニピュレータ内にいたエソやヨコガニの仲間を何とか料理して食べた。腹を下すことはなかったが、ひどくまずい。内臓がねとねとしており、何を食べたらこうなるのかと思った。また、マニピュレータは特定不能の生物の組織と思しき円柱形の物体も回収していた。ミズダコじみた凹凸ある表面と、不規則に生えている黒いヒレが特徴的だ。魚類の尾ヒレか、頭足類の触手に属するものかは分からない。これに僕は気分をよくしたが、本格的に分析できる施設へ持ち込むことはもはや叶わないわけだから、僕のプライドはこの痛烈な皮肉に痛めつけられた。
艦内は落ち着いており、乗員は時計の針以外に時間感覚のなくなった空間で遺書を書いたり、虚空を見つめて涙を流したりしている。おわり。

 窓の外に広がる永久の夜は、刻一刻と人間の精神を溶かしてゆくようだ。体感としては、自走不能に陥ってから四日前後は経過しているものと思われるが、時計の針は三時間前から逆走を始めたので、確かなところは分からない。単なる故障に違いないのだがその仕方が普通でないため、これを見てうろたえる者があらわれた。動揺は乗員全員に広がり、英治君がコンパスの話を持ち出してきた。彼は宗教に熱心な信者で、何か神の御導きがあるに違いないから、残る力を動員して潜水を断行すべきだ、と提案した。我が国では信仰の自由が保証されており、艦内でもその自由を尊重したいが、乗員全員の運命を託すのに十分な根拠があるとは考えられないため、僕が代表して潜行するわけにはいかないと諭した。船室で落ち着いてくれるといいが……。
(艦体が揺れる音)たった今、潜水艇全体が揺れるのを感じた。窓の外を見ると、どうやら長らく我々をもてあそんでいた潮流から抜けたようだ。東京湾沖だろうか、それともオホーツク海流の付近だろうか。今、艦内がにわかに色めきたっている。機関が復旧しないのは変わりないが、もし湾港都市の近くに運ばれたのであれば、そこから出る漁船なり調査艇なり、もしくは組織されているかもしれない我々の救助船なりが見つけてくれる可能性がある。予備電源がもつか不安があったが、ここに見えた希望の炎がその電源を上回ったとでも言えるだろう。後ろで皆が珈琲を乾杯しようとしている。富山君に呼ばれているので、僕も行く。おわり。

 蝋燭の芯から灯が消えゆくときの気持ちは、こんなものだっただろうか。燃え尽きるものならば、最初から火を点けるのでなかった。今、艦内は墓地のように沈黙している。富山君が僕と同じように窓を眺めているが、薄く微笑んでいるのが喜びの感情なのか、僕にはわからない。
潮流から抜けた船は、上下左右も知れない浮遊を続けている。照明を始めとする電源があと二十時間しかもたないことが分かり、我々は艦内の懐中電灯をありったけ集めた。緊急を要する事態なのに英治君が妙に無気力であるのがひどく気に障った。
あえて口にしないが、我々は考えうる限り最悪の状況にある。水に閉ざされた深海で、わずかな灯明も尽きれば、海中から酸素を取り出す装置も働かず、助けを望むことも無駄、今いる場所も時刻も定かでない。正直、僕は死を受け入れることに躊躇(ちゅうちょ)はない。少ないながらも得られた調査データはいつの日か当局に回収されるだろうし、深海開発は我が国の急務であるため、僕は無駄死にではないと誇れると思うからだ。
――宮里艦長、いいかげん決めねばならないよ、マイクと遊んでいる場合じゃない。――
録音中は邪魔をしないでくれと言っただろう、どうしたんだ英治君、何を決めるって。
――潜水するか、酸欠で死ぬかだよ――
その言い草だと、ブラックスモーカーには我々の好きな酸素がたっぷりとあるようだね。話にならない、離れてくれ。
――艦長、海は母だ。息子たちを殺しはしないよ――
いいかな、英治君。深海は自然淘汰に選ばれたごく少数の生物の領域だ。ギガントキプリスの巨大な目とか、ゴエモンコシオリエビのもつ特異な共生関係に用意されたフィールドだ。そこへ限界まで降りていったアウェーの生物、しかも虚弱な哺乳類に、いったい何ができるというんだ。
――あまり声を荒げて酸素を無駄にするな。俺は知ってるんだよ。海には文明があるんだ。あなたはレコーダーにではなく、俺と話すべきなんだよ。この海に迷い込んだ人間の代表としてな。こんなおもちゃの電源など切ってしまえ――

私は富山幹太郎。宮里裕也艦長に代わり録音を担当する。艦長は精神的落胆が著しく、本人の希望で私が代わりを務めることとなった。数時間前に艦長は鈴木博士と船室で話し込み、扉が開かれてからずっと気分が沈んでいるようだ。鈴木博士に問いただしたが、艦長から聞いてくれとはぐらかすばかりだ。私とて気分が優れているわけではない。ただでさえ絶望感に溢れる艦内で、余計な心的負担は御免こうむりたいところだ。彼らの会話を話題にするのは控えておく。それにしても博士は艦長に何を吹き込んだのか。
照明がほのかに照らす艦内は淋しいもので、鈴木博士以外には誰も喋らない。研究員の三人は船室に入ってしまった。なので私も黙って外の海を眺めているとしよう。水さえなければ、ここも空だと呼べるのだろう。そこに美しい発光クラゲやマンタの通りかかる様を窓から覗き見るのは、こんな場所でも至福の光景だ。終了。

引き続いて富山が録音しているものである。死へと向かう本艦で狂気的なことが起こった。三人の研究員がいた船室内から水気のある摩擦音を聞き取り、私と宮里艦長が扉を押し破って室内へ踏み込むと、最も起きてはならないことが実現していた。ああ、人間の尊厳を冒涜(ぼうとく)する極悪の境地が、地獄へ迫る鋼鉄の棺桶の中で起こるとは。おぞましいカニバリズムの凶宴、この旅の最初の死者が陸地へ埋葬される前に、魂の還る術もなく同僚の喉を滑り落ちる有様となろうとは。
博士の戯言と艦長の落胆にかまけて私は彼ら研究員のことを注意していなかったが、道徳の錯乱は彼らの中でこそ急激に進行していたのだ。現在は三人とも動かない機関室へ閉じ込めているが、あらぬことを喚きたてている。三人が一様に叫ぶのは、窓の外に見えたとかいう不条理なもの、そしてコンパスの指し示す方向、そして回収された円柱形の組織についてだ。艦長はこれを聞いて意気消沈し、物憂げに考え込む時間が増えてしまった。
私個人の考えを言えば、知見ある霊長たるものならば、このように死が確定した極限状態であっても、いや、それだからこそ人間らしさを失うことは許されないと考える。こうなっては少しでも生き延びることより、いかに人間らしさを精神の拠り所とするかが重要だ。神をつくり出した人間も、同じような心境であったかもしれない。とにかく拠り所が必要だ。艦長を励まさねば。希望がないとしても、人間らしい秩序こそが我らの神となり得るのだ。終了。

再び、僕がレコーダーを使うことになった。英治君は凄まじいことを口走った。ありえないことだ。しかし、そうだ、この目で確認してしまったものはどうしようもない。この辺りの岸の都市から沈み込んだものだろうか……そんな馬鹿なことがあるだろうか。あの廃墟は……人間が作るにはあまりにも馬鹿げた大きさだった。
星の明かりでもあれば、宇宙の方がまだ賑やかだろう。そこにあるのはロマンであり、輝きであり、無限の光年の広がりだ。海は、確かに母だ。シアノバクテリア、ピカイア、我々の祖先はまぎれもなくここからやって来た。屍の成分も虫や菌類に分解されて、巡り巡ってやがては海に流れ着くだろう。だが恐怖だ。海は恐怖だ。永遠に閉ざされた海底の大地は、僕らを生んでおきながら殺す、水圧と恐怖に満ちた牢獄だ。
電源はもういくばくもなく尽きるだろう。だがレコーダーは常に握っているつもりだ。僕が一人じゃないことを証明してくれ。僕はあの三人とは違う。英治とも違う。落ち着いて話を聞いてくれた富山君は姿を消してしまった。あの狂人たちに食事を運んで行ったことと関係があるのか。ああ、ああそんなばかなことがあるものか。どこかで彼の好きなウミホタルを探していることだろう。
――なあ艦長、あなたがやらないなら俺がやるぞ。この船を潜らせる。――
ふざけるのも大概にしてくれ。お前にそんな権限はない。
――あの三人は言っているぜ、最初に機関室で頭をふっ飛ばした奴が、コンパスで語りかけてくるんだ。潜水艇が動かなくなったのも、あいつらが別々の時間に窓の外で見たものも、ぜんぶそいつの念がやっていることなんだと。――
彼らは何も見ていない。密閉状態と酸素欠乏に対する恐怖が、ノイローゼの症状を引き起こしているだけだ。
――ならばあなたも狂っていることになる。見ただろう、海の文明の片鱗を。――
あんなものは地上からもたらされた作り物だ。ここは岩手県沖だ、間違いない。船室へ戻れよ、英治。この船をどうするかは、艦長が決める。
鬱陶(うっとう)しい狂信者め。僕はこれ以上、海面から離れたくない。空が見たい。そうだ、換気さえできれば。この忌々しい空気を排出することができれば。
そもそも、おかしなことが起こり始めたのは、研究員の一人が死んでしまってからだ。死臭が漂う密閉空間で、いったいどうして正気を保ち続けられるだろう。研究員たちは潮流が死者の怨念によるものだったと喚き、彼の怒りが怪物を引き連れて船を蹂躙(じゅうりん)するとささやいている。そういう発狂が英治を高ぶらせ、富山君を恐れさせて身を隠させてしまったのだ。すべてこの空気のせいだ。呼吸しない者が吐き出す腐肉の臭気が錯覚させる。富山君も狂っているのかもしれない。彼の音声を再生して、僕は驚いたよ。この深度にマンタなどいないのだから。
(パチッという音に続き、数秒の間)たった今、照明の電源が切れた。もうどうとでもなるがいい。おわり。

 なにかおかしなことが起きている。それらすべてを目撃することが、僕に与えられた宿命なのか。これ以上僕の魂を傷つけるのはよしてくれ。安らげる場所がほしい。安息が。秩序が神ならば、ニーチェがツァラトゥストラに教えたとおりだ。人間科学の集大成の中で、人間の神は死んだ。すがるものなど何もない。安息はない。
(かさかさと紙の擦れる音)懐中電灯の明かりが強すぎて、読むのに苦労した。富山君が握っていたメモだ。彼が好んで使う鉛筆で書かれている。艦内照明が点いている時点で書かれたはずだ。文字がよく整っている。箇条書きだがそのまま読み上げる。
 残っている理性。三人おなじ主張。潜行。窓の外に見えたもの、この文から矢印が伸びている。カニバリズムの理由を語る、カッコ、ひとつになる、カッコ閉じ。魂を取り込む気でいるのか。同じものを見る、先ほどの矢印がこの文に向かっている。
 メモは以上だ。彼ら研究員にまだ理性が残っていて、富山君が会話を交わしたものと分かる。確かに機関室から喚き声が絶えて久しく、何やらぶつぶつと呟く英治と僕の声以外は、いたって静かなものだ。機関室からはときどき物音がしているので、生きてはいるようだ。同じ主張、潜水とは、例のコンパスに従って下方へ行こうということを指しているのだろう。これも妙なことだ。この船はなぜ沈まないのか。一切の制御を放棄した鋼の物体が、こうも長時間にわたって重力と浮力の均衡を保っていられるものだろうか。窓の外に見えたものについては、言及したくはない。不可解なのは、人肉食の理由だ。ひとつになるとは、どういうことだ。人間の肉を食すことで、その人間の精神を取りこむという発想が現代にもあることは知っている。その比喩なのか。
 そうだ、重要なことを忘れていた。富山君は白痴寸前の阿呆になってしまっていた。どういえばいいのか……脳がオーバーヒートしている感じだ。目と口を開きっ放しでよだれを垂らし、うつ伏せで倒れていた。呼吸は遅く深く、眼球がぐりぐりとうごめいていていた。短期間であらわれる変化としては異常きわまりない。彼……富山君であった人物は船室の一つに寝かせてある。こちらの問いかけは聞いておらず、どちらかというと視線に過剰な反応を示し、怯えているような目で視線のもとを探そうとする。
 死人と狂人、そして阿呆。正常なのは僕と英治だけか。いや、最も初めに歪んだのは英治だ。奴が源泉で、ほかの乗員は犠牲者なのだ。ああ、この船は三途河の渡し船よりもひどい。これでは正気を保っている僕がもっとも悲惨だ。いっそのこと狂ってしまいたい。おわり。

(物と物同士がぶつかる音)英治、今レコーダーのスイッチを入れた。会話を記録するぞ。
――だがそれが再生されることはありえない、わかっているはずだろう。――
どうせ死ぬ我々には、科学者としての名誉しか残されないが、これさえ陸へ届けばお前には何も残らない。暗闇に乗じて、僕を殺そうとするとはな。気ちがい。白衣を着た畜生。富山君をあんな状態にしたのもお前なんだろう、ちがうか。
――俺は教えてやっただけだぜ、あなたと同じことをな。ただ、富山はあの三人に飯を届けたあと、あなたよりも直接的なものを見ちまったようだがな。富山は連中よりも、当然あなたよりも近くへ行ったのさ――
どこへ行ったって。彼は船室にいる。お前まさか殺したのではないだろうな。
――殺したりするものかよ、このひどい匂いにさらに香りづけをするのはうんざりだ。早いところ潜行しよう。大丈夫だとも、まだ門は開いているはずだ。――
それ以上ものを言うな。お前もあの三人と同じところに閉じ込めておくべきだった。
――偽物の太陽があるうちにな。そうとも、深海の闇では、目のやり場に気をつけろよ。あなたの脳には、地上ではないところにある本当の世界が耐えられるとは思えないからな。太陽光が照らすことによって隠されているものが、この下では自由に現れている。そういうところに降りてゆくべきなんだよ、この船は。――
もういい、もうしゃべるな。お前が熱心な信仰をもっているのは分かったから、静かに死を待っていてくれ。
――いいとも、待とう。ここで死を待つということの意味を知っているからな。――
(足音とドアの開閉の音)先ほどの録音からそれほど経たないうちに、英治の奴がはっきりした殺意をもって僕を襲ってきた。懐中電灯で目を眩ませ、調理用の包丁で僕の首を切ろうと振りかぶってきたんだ。僕はとっさに自分の懐中電灯をあの畜生の目に向けて応戦し、すんでのところで助かった。
 いよいよ終わりが近づいているのだろう。あいつの言動は人間のそれじゃない。あいつが人間をやめたなら、僕は最後まで人間であることにしよう。
(しばらくの無言、布の擦れる音と足音。宮里艦長が懐にレコーダーを入れて歩いている)今、気の毒な富山君がいる船室前にいる。例えこの遥かな深みで人知れず全滅しようとも、僕は艦長として乗員を見殺しにすることはしない。彼に対してもなるべく気にかけてやり、処置を施すことはできないにしろ、最期を安らかに見届けてやれたらと思っている。
(ノック。ドアの開く音)富山君。富山君、返事をしてくれると助かる。真っ暗で何も見えないんだ。富山君。懐中電灯を点けるから、驚かないでくれよ。
(カチッという音、すぐに絶叫。宮里艦長のものか、富山潜水士のものかは判別不能)今のはなんだ。もういない。窓の外に、外に。富山君、窓際にいるのは富山君か。見たのか、見たな、なぁ、見たんだろう。照らすまで見えなかった。だが見えた。富山君、見たか。なんということだ。
 毛のある生き物だったぞ。巨大だ。泳いでいたのか、歩いていたのかわからない。船は浮いているのに、あんな見え方をするなんて。クラゲではない、巨人でも、マンタでもない。見たことのない生き物だった。なにを持っていた。富山君、ヤツが持っていたものを見たのか。なぜ黙っているんだ、この阿呆。触腕か、いやもっと異質だった。ゾウの鼻のような、しかし一本ではなかった。把握力のある、常識はずれな器官があった。なにを持っていたんだ。あれは何だった。
 ああいや、分かりたくない、分かりたくはない。英治。英治、どこにいる。来てくれ、頼む、来てくれ。あれはなんなんだよ。
(鈴木博士のものと思しき笑い声が遠くで鳴っている。宮里艦長の身振りのはずみでレコーダーのスイッチが切れる)

 レコーダーを点けたか、説明を続けるぞ。おいおい何も喋るな艦長。あなたは頷くか首を振るだけでいい。あなたの精神に刺激を与えるようなことはしたくない。
 俺は真実しか口にしないし、狂っているわけでもない。逆上して富山の息の根を止めたのはあなただし、カニバリズムのトリオは勝手に衰弱している。俺が人間の当然いだくべき良識と道徳に照らされたところで、俺だけが悪いという事実はないだろう。そこで、俺はあなたに対して何の弁解もせず対等な立場で話せているわけだ。な。
 重要なのは、この海の底で、ある位置に近づいている、ということだ。潜水艇が再び浮上して生還できる可能性とか、海洋研究に多大な余韻を残す事件であるとか、そういう実情にこだわるのはこの際なしにしていただきたい。崇高な精神の話だよ。文明や、創造や、因果関係や、知識に関することだ。そこに海は文字通り深い関りをもっている。まさに海の深みの底さ。
 単刀直入に言うとだな、艦長。地球の核に最も近いところ……永劫(えいごう)の昔を覚えている場所に、精神の文明があるんだよ。タンパク質で囲われた始祖の有機体に、最初の精神が宿った瞬間が、地球上のどこに訪れたかは想像がつくだろう。どうしてそこなのかを誰も考えなかった。どうして海の伝説が似たような性格をもつかを考えたことがあるか。他愛もない伝説だと思われるだろうが、ムー大陸やルルイエから、シュメールのオアネス伝説や我が国の竜宮城伝説とか、どうしてそういう性格をもつ海洋伝説が残っているのか、考えたか。精神というものが脳神経によって作られる仕組みを発明し、ミトコンドリアやゴルジ体のように細胞内へ埋め込む最初の操作を行った単一の文明が、海底のさらに下で今も存続しているんだよ。
 なぜ人は他人によって狂うのか、考えたことがあるか。それはな、脳漿(のうしょう)によって完璧な防備をされている器官的な脳と、人格や知識の媒体としての心理が直接的に結びついているからにほかならない。あなたは頷くが、俺の言っていることは普通の人間が分かる類の話じゃない。サイコキネシスやテレパスが化学に属すると理解するんだよ。そこにいくと、この潜水艇はまるで魂の煮込みスープだ。マグマオーシャンが冷えて数万年の後に、生命が物体として誕生するのに必要だった環境があるだろう。それと同じことが生命の精神においてもいえるんだ。そしてその環境がこの艦内にできている。
 まだ分からないのか、艦長。一つになるのさ。精神を構成する組織を原子レベルまで分解して、この潜水艇に満たすんだ。例の三人には俺が教えてやった。世紀の大実験だとな。彼らは正しく消費者としての務めを果たして、死者の精神物質を解き放った。彼らの精神物質は、俺が然るべき方法で処理するさ。とにかく、この船の中で、我々の魂を混ぜ合わせるんだ。物質的な意味でも、精神的な意味でもな。一つになるとは、そういうことだ。
 そうして近づくんだ。精神の原初へ。そういうものにだけ、海底の文明は門を開くんだよ。言うまでもないが、今さら逃げることはできないぞ。船が動かないからじゃない。もう見られているからだ。我々とは違う進化をたどった精神をもつ、深淵の文明を担う生物にな。ようやく分かりかけてきたか。そうか。
それなら判断がつくだろう。こういう内容を録音したものが、陸へ戻るべきかそうでないか。無知と忘却(ぼうきゃく)は、人間が得た最上の能力だ。人類だけが地球を支配していると信じこむ人々に、この容赦ない事実をもたらすことが、どういう結果をもたらすか考えてくれ。
レコーダーは破壊してしまった方がいい。酸素が尽きる前にな。

船が自走不能になってから、どれだけ経ったか分からない。しかしとにかく我が船は先ほど、艦長である僕を除いて全滅するにいたった。これが最後の録音となるはずだ。
鈴木英治は最初から狂いに狂っていた。最初に一人の命を奪った機関室の事故も、あの悪魔が仕組んだものだったのだろう。今さら気づいたところで、すべては手遅れだ。
今の僕は酸素が少なくなって、脳に障害が出始めた段階だ。五人分、いや六人分の死臭を吸い込むたび、意識は朦朧(もうろう)とするどころか覚醒の度合いを高めてゆくようで、暗闇に慣れた目にはあらぬものが映り込んでいる。パイプ管やメーター類の輪郭が揺らめいて見え、陰にあたる部分には奔放な輪郭がくきやかに浮かび上がっている。窓の外は明るい緑の光に照らされていて、肉厚でグロテスクなヒレをはためかせる軟骨魚類が横切り、巨大な節足動物が群れで闊歩している。艦内の空気は明らかに出港時と同じものではなく、僕には不快なほど懐かしい雰囲気がある。英治のいうところの精神物質の作用によるのだろうか。
あれはチムニーか。ブラックスモーカーの漆黒の影が見える。石灰質のチムニーの足元にユノハナガニの大規模なコロニー(群体)が見える。いや、見えるはずがない。なぜ見えるのだろう、光源もないのに。あの緑の光はなんだ。燃えているようだ。太陽ではない。
幻覚に違いないのに、残酷なほど現実的な海底の風景が目に映っている。通常とは見え方が違う。知らないはずのことが分かる。腐肉の匂いとともに何を吸いこんでいるのか、考えたくもない。意識、感情、記憶、印象が確たる線引きを失って融解する。溶けだしてしまう。ああ、ああ精神が。混ざるのを感じる。色、角度、悔やみ、衝撃が。僕が意味を失う。感覚器官のみが残って……この自我は誰だ。英治の言っていたことが起ころうとしている。ひとつになる。近づく。途方もない最初のことが、閉じ込められた魂によって行われようとしている。光が増してきた。潜水艇が地割れへ向かっている。さらなる深みへ。なぜ僕は怖くないんだ。
あの神殿を知っているぞ。見たこともない神殿が、燐光を湛えて煌めいている。僕の愛するウミホタルが嵐のように窓の前を過ぎた。あの神殿へ行きたい。行くべきだ。円柱の組織を持って行って、文明に受け入れてもらおう。どうせ船には酸素が残されていない。艦長として、僕はここではなくあそこへ行くのにふさわしいはずだ。
(レコーダーが懐に入れられる音、小走りの足音が続く)僕はディスクジョッキーが夢だった。風景を実況しながら行くとしよう。ひさしぶりの外出だ。
(バルブを回す音に続いて、ハッチが開かれ海水が艦内に入り込む音がする)



〈了〉
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