風見鳥

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| 僕は川沿いを歩いていた。鬱蒼とのさばる地衣類と胡蝶花しゃがの茎を避けて水際まで行くと、とろになっている水面下で山女魚やまめがじっとしているのが見えた。洗われた岩の匂い。木漏れ日に張られた蜘蛛の巣。幅三メートルの渓流を覆うブナの青い葉。
 やがて渓流が角度を緩めてほぼ平坦な水の道になり、僕は開けた場所に出る。そこには川が流れ込む小さな池があるけれど、もし誰かにこの場所を案内するとしたら、僕は"淵"と説明するだろう。ちょうど滝壺が滝だけをごくりと呑み込み、大人が潜り込める深さの山水を静かに溜めているような場所だった。手頃な大きさの石に腰かけ、僕はバッグから知恵の輪を取り出して弄んだ。ドクダミとツツジが水際で頭を垂れ、軟泥の舞う暗い水底みなそこを覗き込んでいる。
 知恵の輪はいつも僕を落ち着かせた。鍵を模したパーツと鉄枠が組み合わさったそれは、何百と繰り返しほどかれては繋がれ、手順は絶対に変わることはなかった。無機質で冷ややかな金属の響きを指先に絡めながら、僕は大自然の吐息に耳を澄ませた。
 一枚の葉が舞って"淵"の水面に乗る。そこで僕は幼い頃"淵"に落ちた記憶を思い出した。
 落水は突然で、中学生の兄と父は少し遠くで虫取りをしていたはずだ。熱中していた立体パズルに気を取られた僕は、苔に足下をすくわれて肩から水中へ転げ落ちた。今日と違って秋の頃、"淵"は石榴ざくろの香りがした。
 そのとき持っていたのは、土星の形の立体パズルだ。ルービックキューブのように軸回転する八ピースの球体と、細い骨組みで繋がる円でできていて、円を組み込む前に球を完成させてしまうと、二つは離れたままだった。そしてそれは何度も完成させては崩してを繰り返して、もう無心で一連の循環をマスターしていたのに、最後のその瞬間には、完成させることなく水底に消えていったのだ。父に助け出されてから十五年が経つものの、僕はまだ悔しさの混ざる郷愁の暗がりに、離ればなれになって沈んでゆく欠けた惑星と主のない円環の影を見ていた。

 私が邑瀞むらとろの地から離れて四年になる。つまり結局どこにも論術を残さずに手放したあの一連の研究活動から、もう四年が経つのだ。
 精力的な地質学者である頃の私は、標高七八〇メートルの緑豊かな邑瀞山むらとろやまを拠点としていた。名のある山と並べると、天狗の住まう高尾山よりは広大だが南アルプスの誇る八高山よりも低い、中規模の山である。国内の様々な山林と同じく個性的な植生こそあれ、似たような山はそれこそ日本中にあった。それでも私をこの地へ呼び込み、決して明かされない深い闇の淵へ誘ったものは、言い得ない不気味さを醸す謎めいた伝承だった。
 県の民話・伝説集に収められた伝承の概要はこうだ。
『明応二年、邑瀞の山林に湧き出でる毒気あり。芬々たる悪臭は畜生の類に似ず、浜へ至り潮に吹かれるまで民の患い広し。眩惑、疼痛、咳が主なれど、民の間には在らざる悪鬼の恐れも湧き、平安乱れる。文月、笠屋平永の屋裏に異形の死骸あり。獅子の如き蛞蝓の如しと口々に登れど、妖の類とて此を毒霧の権化と為して畏み奉れば、一年のうちにて邑瀞に毒の跡形なし。後にこれを邑瀞茫瘴気と伝えたる』
 "邑瀞茫瘴気むらとろぼうしょうき"は端的に言えば原因不明の公害事件の言い伝えとされている。その呼称はたった数点の文献に散見され、未だ口伝する一族さえ声を潜めるという。恐らく一度きり現れたこの特殊な瘴気は、どのように発現してどのように解消されたのだろう。私は邑瀞の岩質組成や地理、地質の究明に時間を割きながら、この疑問の答えを求め、以下に記す出来事によって"邑瀞茫瘴気"に非常に近いところまで潜り込み、そして……慄然たる思いで身を引いたのだった。
 始まりはとあるコミュニティサイトへの書き込みだった。私はそれを、行き詰まる研究の合間に見ていたインターネットで、引用サイトから発見した。
『不思議な体験談~九木ヶ棚、邑瀞山、紅梳峠』
 それは匿名のネットユーザーが奇譚やオカルト体験を書き込んでゆく、凡庸なWebサイトへのリンクだった。サイトの階層は地域ごとに分かれており、その区分けの細かさによって私の注意を引いたのである。よもやと思いリンクを開いて、古き良きUIのWebページを降りていった。
 九木ヶ棚くぎがたな紅梳峠べにすきとうげは、邑瀞山と同じ県の山林地帯である。それぞれ温泉や古びた遊園地、バーベキュー場などそれなりに見所があり、サイトには来訪者による書き込みや交流のログが70件ほど累積されていて、私は特に邑瀞山の記述を探してみた。しかしこの界隈では、私が心を砕く邑瀞エリアはほか二つよりも不人気なようだった。
 "邑瀞茫瘴気"に関する一般意見でも見られるかという淡い期待が外れかけたそのとき、私はサイトの最下部にあるコメントボックスに気がついた。ネット掲示板のしきたりといえる、投稿とは別にコメントを残しておける機能だ。
『山の怪談じゃないけれど、十五年前に邑瀞山で池のようなところ(印象としては淵に近い)に落としたものが、最近になって五キロ西の真戸岬に流れ着いてるのを見つけた体験ならある。どう見てもその池が川の終点だったんだけど、地下で海と繋がってたりするのかね』
 私の目はそのコメントに釘付けになった。邑瀞が地下で海と繋がっているという推測は当時の私を大いに興奮させた。私は古代の邑瀞地帯は深海だったと睨み"邑瀞茫瘴気"が海底由来のガス漏洩であるとする見解を持っていたためだ。複数箇所のボーリングサンプルが邑瀞の深層に相当量の硫黄が含まれていることを示したほか、山自体の組成試算はかんらん岩67%、玄武岩げんぶがん18%、安山岩あんざんがんほか15%と、かんらん岩を豊富に含んでいると告げていたのである。硫黄とかんらん岩は深海環境でも見られ、更に硫黄は硫化水素などの気体として漏出しやすく有害なため、この見方は個人の見解としては有力と思えた。かく背景をもってこの書き込みは信憑性の如何いかんに関わらず、私の意識を強烈に引き込んだ。これが本当であれば、邑瀞の水路と海との境目に何かしらの手掛かりが必ずある。
 当時の私の邑瀞熱は凄まじく、私を魅了した体験談の主に、無謀にも事の詳細を教示願ったのである。私が預かり知らぬ水路とその入り口と思しき"淵"とやらを、とにかく見逃すわけにはいかなかったのだ。
 とはいえ相手が二度とサイトへ訪れない可能性は高く、実際に半月ほど返信コメントはなかった。ラボでの研究の合間を見て『不思議な体験談』をチェックしていた私は、懐かしの同僚である金子かねこ健介けんすけに事情を訊かれ、素直に説明した。
「邑瀞から海へ続く水道、ということになるか。怪談まとめなんぞでよく見つけたな」
 金子も私同様に学者だが、専門は海洋生物だった。研究機関を転々としながら、企業の環境保全事業の外部顧問としても活動していた。有り体に言えば、失われるべきでない人材だったのだ。
 ともかく彼は私が邑瀞の民俗伝承と科学を結びつけようとしていることに関心を抱いてくれ、数日後に名も知らぬ邑瀞の住民がコメントを返したときも、熱心に話に乗ってくれた。
「なんと返してきたんだ?」
『信じるかはさておき、十五年前にその"淵"で溺れかけたとき、ちょっとした玩具みたいなものを落としたんです。僕自身は親に助けられましたがその底が深く、探すのは諦めました。そしてちょうど先月の今ごろにその品が、毎週のように散歩している浜に打ち上がっているのを見つけました。それで奇妙に思いコメントしたというわけです』
「なるほど、奇談だな。で、信じるのか?」
 疑わないだけで信じているわけではない、と私は笑った。私はサイトに身分とラボの所在地を書き込んで、地質学者として半ば正式に案内を頼み、この約束をうまく取り付けた。事はよろしく進み、ある夏の日に大貫おおぬき慎司しんじと名乗る青年と"淵"を訪れることとなった。
 当日、大貫君が真戸岬まどみさきの浜で再会したという品を見せてくれた。所謂パズルめいたオブジェクトで、八つ連なった部品を正しい順序で噛み合わせると、円と球の組み合わさった土星状に成る、という品だ。彼がそれをあっという間にばらしては完成させる手際は繊細で迷いなく、見事なものだった。私はその洒落た手癖を呑気に賞賛したが、今にして思えば大貫君のその手腕あればこそ、浜で再会したそれに唯一無二の識別子である彼特有の磨耗痕が刻まれていたわけだ。
 さて、邑瀞山の南を流れる川に沿って進むと、幼少期の大貫君をおびやかした"淵"に辿り着いたが、やはり私がまだ知らないスポットだった。上流から運ばれた栄養が周辺の土壌に滞留しているのか、豊富な植生が目に付いた。ツツジやササユリ、胡蝶花に桔梗ききょう竜胆りんどうなど鮮やかな花々が叢生していて、空中ではイトトンボとカラスアゲハが戯れていた。大貫君が落水の憂き目に遭ってなお通い詰めるのも無理からぬと納得できる、美しい場所だ。
 その中で"淵"は、硬い鏡面じみて厳かに張り詰めていた。
 彼の説明通り、川の下流がそのまま低地の窪みに入り込む特異な地形だ。直径四メートル程度の"淵"はすり鉢状に落ち込んでおり、川と接している辺りの水底はより滑らかな傾斜となっていた。私の目の前で飲まれゆく清澄せいちょうな流れと対照的に"淵"は黒々しい静寂を湛えており、落ち葉や枝が水中で揺れ動く朧な影が見えた。
 私は可能な限りの観察を手早く済ませ、本格的に水路を発見するための段取りを考えながら帰路についた。道中、大貫君は心配そうに私へ訊ねた。
「もし本当に海に繋がっていたら、あそこは何かに利用できるのでしょうか?」
 私は正直に、大した価値は見出せないだろうと答え、あくまでも自身の主目的である"邑瀞茫瘴気"の説明のために関連のありそうなものを集めているだけと伝えた。なにか人目を引く発表があり、原生的で控えめな秘境としての"淵"が失われることはなかろう、とも――私のこの言葉は、忌まわしい文脈で真実となった。
 大貫君と別れてから、私は金子へ連絡した。彼の知り合いに、海中の構造物を把握するための音波ソナーを貸してくれる人間がいないか訊いたのだ。金子の素晴らしき人脈の甲斐あってその魔法の目を借りた私は、複数回に渡って"淵"の水中の様子を音波計測することができた。
 初めこそ溜まった水が周囲の土壌に染み渡っている想定も捨てきれなかったが、すぐに魅力的な結果が手に入った。まず深度七メートルの"淵"の中は四方を堆積岩たいせきがんといくつかの巨大な閃緑岩せんりょくがんに囲われている。果たしてそのうち一面に、更に奥へ続く穴が裂けたように開いているのが認められたのだ。北北東の底部に直径一.六メートルの横穴があり、終着点は不明ながらも、間違いなく新発見と呼べた。私は予算をとり、大貫君の品が辿ったかもしれない旅路を何としても知るために動きを速めていったのだ。
 するうちのある日、ラボへ入館すると金子が声をかけてきた。
「前に話していた洞窟ダイバーだがな、まだ引退していなかった。F県に住んでいるから、三日前までに日取りを伝えてくれとさ」
 今でこそ洞窟探索ケイビング愛好家は普及していて、ケイバーという固有名詞を戴いている。しかし当時、洞窟を潜るダイバーは洞窟ダイバーだし、ジョギングが趣味の人はジョガーではなく"ジョギングが趣味の人"だった。ラジコンヘリと呼ばれていたドローンさえもあったろう。当然、水中用ドローンなどその胚すらなかったはずの時代だ。
 つまり、玄奥げんおうなる深部を目の当たりにするには、その深みまで自らが降りてゆくしかなかったわけである。私は懲りずに金子の快い人脈を頼って、閉所潜行に適したガイド役ダイバーを探してもらっていた。
 "淵"の探索準備は順調に整っていった。私と金子、熟年の茂木もてぎりょうダイバーは、学校のプールを貸りて二日間に渡る簡単な訓練を実施することとなり、スキューバダイビングの基本を体に叩き込んだ。
 そして探索の日、"淵"北北東の洞窟への潜行は慎重に実行された。肩へ取り付けた五〇〇ルーメンのトーチライト、三五〇~六〇〇ルーメンの集束ハンドライト、動きを阻害しない薄手のウェットスーツと細身の酸素ボンベが、私の用意できる精一杯、三人前のドレスコードだった。
 まず茂木氏が横穴へ潜り込み、十メートル先の少し広い空間へ向かい、そこで水中を響き渡るブザーを鳴らす。次に私、最後に金子が続き、その順のまま更に奥へ向かった。中は意外にも入り口より広く、幅は五~十メートル確保され、完全に水で満ちていた。川エビや淡水夜光虫の群れが見られたり、かなり前に沈んだらしき朽ち木が漂っている様は、陰鬱ながらも神秘的な光景だった。国内の地盤では珍しい、異常に頑強な洞窟であることを私は確信した。私たちは、邑瀞の堅牢な岩盤全域に根を張る、特異な地底水脈の片鱗を見ていたのかもしれない。
 しばらく進むと洞窟は緩やかに下へ傾き、そのまま三十メートルほど潜った先で私たちは驚くべき事態に出くわした。異様に滑らかな岩のブロックが見つかったのだ。明らかに幾何学の心得を表す大きな六つのブロックが緻密に組み合わさっており、洞窟の左半分を塞ぐようにはまっていた。茂木氏がハンドジェスチャーで驚きと戸惑いを示し、金子も気づいて私の左脇を小突いた。私はといえば、気絶しかねない驚愕と困惑のただ中にあった。
 そのブロックのうち一片とて、あの亀裂を通り抜けられるような大きさではなかったのだ。
 私たちは顔を見合わせた。当然、通話設備など用意する予算はなかったため、予め決めておいた退却の合図である赤いレーザーライトを誰かが灯すまでは、潜行し続ける。私は散らかった集中力を手繰り寄せ、ブロックに塞がれていない洞窟の右側を指さして大きく二度頷いて見せた。前進だ。
 洞窟はトーチで照らされてなお仄暗ほのぐらく、耐水コンパスを見るのさえやっとだったが、行進それ自体は順調だった。重苦しい水圧に苦労しながら泳ぎ続けてじきに一時間は経とうかというとき、あのブロックが何だったのかを示唆する光景が目に飛び込んだ。
 私たちが見たもの、私たちの身に降りかかったことは単純に説明できる。結果でさえ明瞭な惨劇であって、綿密に練った計画の果てで私は容易く打ちのめされ、一連の出来事のどれかは虚しい夢だったのではないかとさえ疑った。
 しかしそれを囁き合う相手とていない。金子は水底に姿を消し、茂木氏は真戸岬の沖合三キロで――即ち海面で――救助されたときには既に、深刻な減圧症と重度のノイローゼで廃人と化していた。探索が凄惨な終わりを迎えた後、私は一度だけ大貫君とコンタクトをとり、後ろめたくも事の顛末をすべて伝え、結果はどうあれ地球の神秘に近づく機会を与えてくれたことに感謝した。
 さて、あの深淵で何が私たちを迎えたのか?
 それは神殿だった……L字やヘキサゴンを彷彿とさせる様相の、滑らかに研磨された岩のブロックを数多に組み合わせた神殿が、泥と枯れ草に濁る視界の下方に見えたのだ。いつの間にか広大な地下空間の天井付近を漂っていた私たちのハンドライトは、空間の底部はおろか壁さえも照らさなかった。
 意味が分からなかった。私は呼吸も忘れて大神殿に見入っており、瞬く間に岩影から飛び出してきた何かが金子に襲いかかる瞬間を捉えられなかった。急激な水の流れを感じて振り返ると、闇に身をひるがえしながら繰り返し金子へ突進するものがあり、その長いたてがみがトーチの灯りを遮る影が空間に乱舞していた。茂木氏を見ればその双眸はゴーグルの奥で恐怖に見開かれ、次の瞬間にあらぬ方向へ一目散に泳ぎだしていった。
 私は我に返るとすぐ金子に近づいてゆき、子供ほどの大きさの脅威を捕らえようと腕を振り回した。そいつは前にいたかと思うとぬらりと下へ、そしてすぐ上昇して天井にへばりつくように身をくねらせて、縦横無尽に私たちの周りで跳梁ちょうりょうした。そいつの腕か脚かも分からぬ蛞蝓なめくじめいた触手が、尋常でない力で私を弾き飛ばし、そのまま金子の体を引っ張り始めた。下方へ、その先の神殿へ。
 私は半狂乱で暴れる金子へ追いすがって……伸ばした手の向こうに見てしまった。
 夜空を裂く稲光めいて空間を明滅させるライトに照らされて、それらは神殿から滲むように現れた。びくりびくりと痙攣するように水を蹴り、波打つ柔らかな体と不快な長毛の影を踊らせる異形の群れ。凹凸のない肌の艶やかな肉感の印象が、私の網膜に粘液のごとく染みついて、こみ上げる吐き気に耐えることしか考えられなくなった。
 そして私は冷酷にも身の安全を守った。友人を見捨てたのだ。恩知らずの裏切り者のそしりは免れない。攪拌かくはんされる水中に舞う泥が、置き去りにされる者の目線を隠し、私はもと来た方へ命懸けで泳いだ。
 空間から隘路あいろへ入り込む寸前になってやっと振り返った私の目には、五〇〇ルーメンの激しい光源へ向かってのたうちながら蝟集いしゅうするおぞましい無数の影――そして引き剥がされて沈みゆく酸素ボンベ――が映り、それきり私は脇目も振らずに"淵"の入り口まで情けなく逃げ帰ったのだった。
 ここが限界だ……あとのことは回想したくもない。
 "邑瀞茫瘴気"の源も、茂木氏が沖にいた理由も、明応の世に平永ひらながとやらの家の裏手で死んでいたもののことも……"淵"の奥は入り組んだ狭い水路があてどなく続いているのみで、発表に値するものは何もなかったと報告した、私自身のことも。

 僕は川沿いを歩いていた。水気で固くなった地面は落ちた紅葉に覆われ、木陰に佇む竜胆の花が物憂げに僕を眺めやった。山に降りかかる秋空の匂い。枝の間を駆け抜けるカゲロウ。足下を埋め尽くす夏の紅い抜け殻。
 暮れゆく季節の寂寞じゃくばくの印象は、虚ろに透ける僕の心を静かに満たした。"淵"に落ち、星と輪が欠けたまま失われたとき、確かに僕のどこかの一面は凍結したのだ。その執拗な後悔に囚われる僕自身を哀れに思うのも、高い天球に置き忘れたような有明の月や乾いた大気に混ざる石榴の香りのせいにできた。
 土星型のパズルにまつわる物語は、僕の中では幕引きだ。学者さんが結末を教えてくれたときは、薄ら寒い戦慄がぞわりと背中を這い下りた。けれどそれは人の命が喪われた悼みによる感情だけではなかった。どこか予感があったことでもあり、まさかそんなわけがないと念じていたことでもある。
 物思いに耽るうちに到着した"淵"は、ただ滾々こんこんと水流を飲んでいる。邑瀞の影、冷たさで満ちた水底の暗渠あんきょよ。
 偶然……そう、たまたま僕より先に真戸岬であれを見つけた人がいて、たまたま近くにぴたりとはまるパーツ同士があり、たまたま直感的にそうしただけなのかもしれない。振り返ってみれば、僕がそのことを学者さんへ伝えなかったのは、余計な脚色を加えていると判断されるのを防ぐためだ。この奇怪な核心をもしも伝えていたなら、調査隊の心構えも少しは変えられただろうか。どう説明すればよかっただろう、ただでさえ拙い僕の言葉で?
 バラバラに"淵"へ飲み込まれた球体と輪は、なぜか完全に組み上がった状態で砂浜に抱かれていた。僕があれだけ後悔をくすぶらせ、事あるごとに心へどす黒い影を落とし続けた――最後に欠けたまま失われた記憶の星は、僕ではない何者かの手によって正しく完成された上で打ち捨てられていたのだ。外装は剥げ、輪の輪郭も削れていたものの、分解してみればパーツの内面は綺麗なままだった。それは最近になって海岸に流れ着いてから誰かが組み合わせたと納得するには、あまりにも不自然な無垢を保っていたのである。
 僕は"淵"を見つめる。地下まで続いているとされるその奥底でうごめく、未知の存在を思い浮かべる。それらが築いたかもしれない建築の姿を想像する。ぶよぶよとした指がパズルを弄ぶ様子を思い浮かべ、その指が学者さんの体を掴んで深淵へ引きずり込む光景を想像する。
 一枚の葉が落ちて"淵"の水面に乗り、とぷんと音を立てて沈んでいった。
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