こましゃくれり!!

屁負比丘尼

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安眠戦争・後

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 暴走集団を懲らしめに馳せ参じたはずの俺達。しかし、話が二転三転してしまい、結局、暴走行為にて事態を白黒つける羽目になってしまった。

 自動車部員たちは意外な事に俺たちのレース勝負をあっさりと受け入れた。素人に負けるようでは大会に出てもいい成績などとても残せない、という事らしい。

 石灰のスタートラインに並ぶ2台の大型バイク。それを取り囲む自動車部の面々。安瀬と西代の姿はそこにはない。にどこかに消えていた。

 俺達のバイクの整備は、いつの間にか気絶し、そしていつ間にか覚醒した黄山が請け負ってくれた。正直、今回のアイツの扱いは散々なものであったため怒っていると思っていたが細かくバイクを点検してくれた上になんとプロテクターまで貸してれる好待遇。

 やはり信号機達は女癖が極端に悪いだけで、基本的には良い奴らだ。今度、良い酒を持って彼らと一緒に遊びに行こう。まぁ、酒飲みモンスターズは嫌がるだろうから俺1人で……。

「じんなーい、本気で飛ばすからお酒はもう控えといてねー?」

 そして、俺は現在、バイクの後部座席に座らされている。

「いや、あのな……? 何で俺までバイクに乗る必要があるんだ??」

 レース勝負で余計な荷物を背負い込む意味が分からない。俺はこの勝負をさかなに黄山にお酌でもしようと考えていたのに……。

「…………陣内はこっちの味方じゃなきゃだめだから」
「……え?」
「な、何でもなーい! ほら、もう始まるよー! 相手さんも準備万端って感じだしー……!」

 隣に視線をやると、バイクに跨ったむっこがアクセルを回して轟音を吹かしている。その様はまるでコチラを威嚇しているようだ。

「…………」

 むっこには悪いがこの勝負、勝った方が俺の利益は大きい。騒音被害は無くなるしわざわざ自動車部に入らなくて済む。もちろん、勝敗に関わらず淳司との逢引きの仲介役はするつもりだ。なので、猫屋が乗れと言うならそれに応じてサポートするつもりではあるのだが……1つだけ気がかりな事がある。

「なぁ、安瀬たちの姿が見えないんだけど、もしかして……」
「そりゃーもちろん、しかるべき場所でスタンバってるってー」
「いや、バイクレースで妨害って……」

 防具をしっかり付けているとはいえ、もし転倒などが起きれば大変な事になる。それにバイクの修理代も洒落にならない。

 俺の恐怖面を見て、猫屋は笑う。

「アハハー!! 流石の安瀬ちゃんたちも、そんなに危ない事はしな──」
「絶対にか? あの気狂いとスリル中毒者ジャンキーの最凶ペアだぞ? 妨害による大災害が発生しないと、お酒様に誓えるか?」
「……い、いやー、さ、さ、流石に怪我人が出るような真似……真似はー……」

 ダラダラと汗を流して動揺を見せる猫屋。やはり、彼女は誓いを宣言しきる事ができなかった。

 俺も同じ気持ちだ。あの2人なら道路上に高度数アルコールをばら撒いて火を放つくらいはやりかねん。勝負ごとの際、彼女達の中に倫理観というものは存在しない。

 どこまでも不安だ。

「何をくっちゃべっているんですか! もうカウントが始まりますよ!!」

 敵であるはずのむっこが俺達に向かって律儀に警告を言い放つ。
 むっこの言う通り、スタートラインの横に置かれた電光掲示板の数値が減少し始めた。

「おっととー。陣内、しっかりつかまってなよー? けっこう本気で飛ばすからねー……!!」
「お、おう」

 カウントダウンは残り3秒。最凶コンビの事は心配ではあるが、もう時間がない。

 俺は猫屋の言う通り、彼女の細い腰をギュッと抱きしめた。高速道路を2人乗りをした時は座席下の取っ手を握っていれば良かったが、今回はそれでは弾き飛ばされてしまいそうだ。

 猫屋の体温と柔らかい感触が伝わってくる。しかし、ほっそいなコイツ。……酒を飲んでおいて良かった。

「っ!!」

 突如としてマフラーから鳴り響く排気音。獣の咆哮のような大音量の空ぶかし。

 頼もしい事に、猫屋のやる気は満ち溢れているようだ。それを受けて俺のテンションも上がってくる。安瀬たちの事は確かに心配だが、どうせやるなら楽しもう。

「ぶっ飛ばしてやろうぜ、猫屋。お前のドラテクをギャラリーに見せつけてやれ……!!」
「…………ふひひっ、いいねー、陣内! 私、実は負けるのって大嫌いなんだよねーー!!」

 それは普段の言動から察している。

 カウントダウンが0になった瞬間、猛烈なGが俺を襲い、深夜の大学レースはスタートした。

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 コースは大学をクルリと囲んだ四角形の一般道路。直線4つとカーブが4つ。大学内の道路にはもっと複雑な道もあるが猫屋は素人の為、それに合わせシンプルなコースが選ばれた。

 風を切り裂いて普段なら警察のお世話になるようなスピードで道路をかっ飛ばす俺達。だが、しかし……

「くっそー……!! ムッコちゃん、あり得ないほど早いんだけどーー!?」

 俺たちは意気揚々とスタートしたものの、むっこにグングンと差を付けられてしまっていた。

 既にレースは後半戦。その間、むっこは一度たりとも俺達を寄せ付けずにトップを独走していた。このままでは俺たちの敗北は確定したと言ってもいい。

「俺が後ろに乗ってるとはいえ、ここまで差が開くか……!!」

 加えて、こっちは中古の純正品バイク。向こうはカスタムチェーンした本物のスポーツバイクだ。おまけに先ほど自動車部員たちが話しているのを聞いたが、むっこは一般参加のバイクレースで優勝経験があるらしい。いくら猫屋の運動神経が凄かろうと技量差は歴然だった。

「こうなったらマジで安瀬ちゃん達に期待するしかないねー!!」

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 六車七菜、通称むっこは素人相手であっても一切容赦なく実力を発揮していた。身を大きく伏せて空気抵抗を減らし、直線道路を疾走する。

 陣内は勝敗に関わらず彼女の恋路をサポートするつもりであるが、彼女はそれを知らないため、いつも以上に本気で勝負に望んでいる様子だった。

(……?)

 しかし、その順風満帆なレース模様に陰りが射す。道路上で微かに動く何かを彼女は視界にとらえた。

(見張りから何も報告は来てないけど……)

 むっこのヘルメットのインカムはトランシーバーと繋がっており、人が接近している場合は通信が入る手筈となっていた。

 一般人が見張りに偶然見つからずにコース上に入ってきた可能性を考慮して、むっこはスピードを少しだけ緩める。猫屋達との距離のマージンは既に30秒以上広がっており、その程度の減速は勝負に支障ないと判断したのだ。

 むっこは不審な物体の正体を確認しようとライトをハイビームに切り替えた。


 そして、光は道路脇に倒れるを照らし出す。


「はぁッッッ!!??」

 彼女は咄嗟に急制動を掛けた。ガガガガガッ!! っと両輪のタイヤがロックするギリギリまでブレーキを強め、持ち前の操縦技術をフル活用しバイクを路肩に寄せながら緊急停止する。

 むっこは急いでバイクから飛び降り、女性の元まで駆け寄った。

(やばい、やばい、やばいッ!! 練習中に誰かが車で轢いたの!? ひき逃げ!? そんな事したら休部どころじゃなくて廃部……い、いや、今はそんな事より生存確認を……!!)

 突如、血まみれで倒れた女性が上体を起こした。

「き、きゃぁああ!!??」

 唐突な重症者の躍動。それを見てむっこは腰を抜かして尻もちをつく。

「あ、拙者でござるよ? すまんな、驚かして。やはりこの血糊ちのりの量は多すぎであったか……」
「……………………え?」

 あっけらかんとした口調で血糊にまみれた安瀬は正体を明かす。

 事態の理解が追い付かずに放心するむっこ。その隙をついて道路の真ん中を一台のバイクが颯爽と駆け抜けた。

「アハハハハーー!! 安瀬ちゃん、ナーーイス!!」
「ははははは!! お前、やっぱり天才だよ!!」

 嘲笑と賞賛の言葉が深夜の道路に高らかと鳴り響く。

「…………や、やられた!?」

 むっこはようやくこれが安瀬の仕掛けた罠だったことに気づく。彼女は顔をむすっと歪めて安瀬に向き直り口を開いた。

「こ、こんなの卑怯じゃないですか!!」
「え、どこがでござる? 貴様きさんが勝手にバイクから降りてきたのであろう? 我はたまたま血糊を浴びて倒れてただけである」
「へ、へ、屁理屈を……!!」
「おやおや…………拙者なんかに構っている暇はあるのかえ?」

 安瀬の言う通り、陣内達との差は開くばかりだった。

「む、むむむ……!!」

 むっこは急いでバイクに飛び乗り、再び猛加速してレースに戻る。

「こ、こんなので負けてたまるかぁああ!!」

 すぐさま、バイクは安瀬の前から消えさった。

「はっはっは!! ……この程度に引っかかるようなやからに陣内は渡せんでありんす」

 安瀬は自身の悪だくみが上手くいった事に満足して、楽しそうに笑うのだった。

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 むっこは非合法的なまでの加速を続け、陣内達を追いかける。だがその途中、再び彼女の前にありえない物が表れた。

(霧……? この季節に??)

 直線の道路上に突然現れた薄い霧。季節は冬の終わり。山岳ならいざ知らず、平坦な場所に存在する大学で発生するはずのない異常気象。

「…………」

 むっこはそれを見て冷静にヘルメットのシールドを持ち上げた。前が見えないほどではないが、シールドに水滴が付着する事を嫌ったのだ。

 何事もなく猛スピードでむっこは霧を突き抜ける。

(…………?)

 その霧の先には大きなプラカードを掲げる西姿があった。むっこの注意を引きたいのか、彼女はニコニコと笑いながら手に持ったそれを揺らしている。


 大きなプラカードには『先ほどの霧はスピリタスで作りました』と書かれていた。思い出すのは、駐車場でスピリタスを手に持った小柄で黒髪な女の姿。


 シールドを開けていたため、当然むっこは霧をガッツリと吸い込んでいた。

「ば、ば、ばっ!!??」

 むっこは咄嗟に急制動を掛ける。ガガガガガッ!! っと両輪のタイヤがロックするギリギリまでブレーキを強め、持ち前の操縦技術をフル活用してバイクを路肩に寄せながら緊急停止する。

 むっこは急いでバイクから飛び降り、怒りの形相で西代の元まで駆け寄った。

「あ、あ、あ、あなた!! 何、考えて──」
「あ、もちろん嘘だよ?」
「……………………は??」
「お酒様を無駄使いする事は僕の信条に反するからね。あの霧は酒を冷やすためのドライアイスで作った、ただの二酸化炭素さ」

 西代はあっけらかんとした口調で季節外れの霧の正体を告げた。

「…………」
「私有地だから飲酒運転しても犯罪にはならなかっただろうけど、流石の僕でもそこまではしないさ」
「ひ、ひ、ひっ」

 むっこは、あまりの下らない作戦に喉が引きつってしまい、意味の無い単語を繰り返してしまう。

「ふふふっ、あれ? 何で君はこんな所で立ち止まっているんだい??」

 邪悪な微笑を浮かべて、西代は愉悦を感じながらむっこを盛大に煽る。それを受けて、ピキパキとむっこの額に青筋が浮かんだ。

「あぁ、なるほど。既に、勝負を諦めて───」
「卑怯者ーーー!! お、覚えてなさいよ、こんちくしょーーー!!」

 むっこは情けない捨て台詞を残してバイクに飛び乗った。怒る彼女の内情を表現するかのように、けたたましい轟音を上げながら西代の前から颯爽と消え去るのだった。

「ははは! 素直そうないい子だけど、それじゃあ僕達を相手取るには力不足さ」

 西代は妨害が上手くいって嬉しいのか、心底楽しそうに笑う。

「……ん?」

 しかし、安瀬の時は違い、その表情が少しだけ曇る。悪だくみに夢中になりすぎて、西代は大切な存在を忘れていた。

「そう言えば、持っていたスピリタス……どこに置いたっけ?」

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「さっきのもや……一体何だったんだろうな?」
「さぁー?? でも、西代ちゃんの姿が見えたから絶対に碌な物じゃなかったと思うー……」

 むっこを追い抜いた後でも一切スピードを緩めることなく爆走する俺たち。

(むっこの姿は見えないし、これはもう勝った──)

 俺が勝利を確信しようとした瞬間、ゾクゾク! っと背後から途轍もない怒気を感じ取った。

「絶対に逃がしてたまるかーーーッ!!」

 距離的に届くはずのない、むっこの怨嗟の声が聞こえた気がする。振り返ってみると一筋の流星を思わせる速度でバイクが俺達に迫っていた。

「う、嘘だろ!? 追いついて来やがった!?」
「えーー!? 西代ちゃんの妨害が失敗したってことー!?」
「い、いや、それはどうだろ……」

 賭博の闇モード、西代さんが只人ただびとの妨害を失敗するとは思えない。なので、むっこは妨害されたうえで追いついてきた可能性の方が高い、と俺は思う。後方から迫るバイクの速度はその推論を裏付ける根拠としては十分すぎるほどだ。300キロ近くはでているのではないだろうか。

 もうすでにゴールまで1キロメートル。残りは鋭いカーブと直線のみ。逃げ切ってしまえば俺たちの勝ちだ。

「ぐ、ぐおりゃーー!!」

 最終コーナーに俺たちは突入する。猫屋でなければ出すことができない狂気的な進入スピード。車体をバンクさせ、俺たちはとにかく急いでゴールへとひた走る。

「絶対に負けないッ!!」

 今度は確実に耳まで届いたむっこの怒声。

 振り向くと、後方に迫るむっこはさらにバカげた速度でコーナーに侵入していた。膝に付けたプロテクターが地面にこすりつけられ火花を散らしている。

「す、すごいなアイツ!!」

 ちょっと常識的な運転技術ではない。只人と内心で形容した事は訂正しよう。

「わ、私だって1人乗りならあれくらいできるしーー!!」
「張り合ってる場合か! このままだと追いつかれるぞ!!」

 残りの道は技術的要素が一切絡まない、直線道路。バイクの性能差は前半のレースで既に嫌というほど味わっている。このままだと、ゴールの直前で追い抜かれてしまうだろう。

「ねぇー、陣内!! なんか秘策とかないのー!?」
「そんなもんねぇよ!!」

 こ、このまま大人しく負けを受け入れるしかないのか!?

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 時間と場所は変わり、ゴール地点の部室棟駐車場。

「え、黄山さん、それ、マジで仕込んだんですか?」

 そこで自動車部員Aは感嘆の声を上げた。会話の相手は今回、碌な目に遭っていなかった黄山徹である。

「あぁ……陣内のバイクを整備するふりをして、。そこら辺に瓶が転がってたしな……」

 黄山は悪魔の形相でせせら笑う。

「まぁ、出力が落ちるだけで大事にはならなそうですけど……」

 アルコールをタンクに入れようが、ガソリンの爆発に耐えうるエンジンが破裂する事は決して無い。

「だろう? 何故か……何故か、本当に散々な目に遭わされたからな、俺……。いや、まじで……これくらいの茶目っ気は許されるはずだ、うん……。それにガソリンの量を調整しといたからに差し掛かったくらいだ。それなら減速しても危なくないだろ?」
「……でも、大丈夫ですかね??」
「? さっきの話聞いてたか? 最悪でもエンジン内が焦げ付いて終わるだけだぞ??」

 アルコールとガソリンでは気化熱が大きく違う。そのため、適当に混ぜただけではエンジン内で上手く燃焼せず不調を起こして馬力が下がるだけだ。

「あぁ、いや……たまに聞くじゃないですか。燃料系を弄って出力が爆上がりしたって話」

 ただし、正確にガソリンとアルコールの比率を整えられた場合はむしろ気化熱の影響で吸気効率を大幅に向上させる効果がある。

「お前、それ、企業が全力で取り組んでやっとできるような代物だろ? ……ただのレギュラーガソリンにアルコールをぶち込んでパワーアップって、配合比率が完璧にならない限りは到底無理だろ……」
「ははは、ですよねー。そんなの、にでも愛されていない限り、起きる訳が──」

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「「う、う、うわああああああああああ!!??」」

 最終コーナーを抜け長い直線に入ってしばらくした後、唐突に異変は訪れた。なんとマフラーから火が噴き出たのを境に、バイクが信じられない速度で加速し始めたのだ。

「ね、猫屋!? お、お、お前!! 俺のバイクに一体何を──」
「わ、私じゃないからーー!!」

 車体が浮き上がってそのまま飛行機の様に飛んで行ってしまうのではないかと思うほどの暴力的な向かい風。俺たち以外の全ての物が止まって見えるほどの急加速。急増したGに脳の血流が奪われ気絶してしまいそうだ。

そのまま、訳も分からず、俺たちはゴールラインを突っ切ってしまった。

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「い、生きてるか……?」
「か、かろうじてー……」

 俺達はなんとか車体の制御を持ち直して、転倒を免れた。今まで飲んだ酒の銘柄が走馬灯のように駆け巡った時は本気で死を覚悟した……。

「あ、あははー……見てー、陣内。アスファルトが焦げ付いてるー……」
「…………」

 猫屋の天才的な運動神経にただただ感謝しよう。それにしても、最後の殺人ブーストは一体何が原因で起こったのだろうか?

「だ、大丈夫ですか……?」

 命があることに感謝している俺達に、後からゴールしたむっこが話しかけてきた。

「あぁ、なんとかな……。お前も随分と張り切ってたようだけど怪我はないか? もし傷でもできたら淳司に怒られちまう」
「い、いえ、そんな……それに、まだ、淳司先輩とは何も……」
「ん? それ……何の話ー??」

 ガソリンタンクに突っ伏して、猫屋は気怠そうに会話に混じってこようとする。だが、これは人の恋路の話。なので、俺は猫屋を無視してむっこと会話を続ける。
 
「勝負には勝ったけど、淳司との橋渡し役はやらせてくれ」
「……え、本当ですか!?」
「あぁ、もちろん。可愛い後輩の頼みだ。明日にでも淳司に連絡を入れておけばいいだろ?」
「あ、ありがとうございます!!」

 安瀬たちに何か屈辱的な行いをされたかも知れないが、今回はこれで勘弁して欲しい。

「では、私は……があるのでここで……」
「ん、そうか。じゃあ、またな」
「はい! 淳司先輩の件、よろしくお願いします!!」

 そう言って、むっこはダッシュで黄山を探しに向かった。

 むっこは猫屋と同じように昔から負けず嫌いなところがあるので、俺たちの妨害工作に文句をつけてくると思っていたが随分と素直に撤退したな……黄山は後輩にかなり慕われているようだし、今回のレースの助言でも請いに行ったのだろうか?

「あー……、はいはい、なるほどー……そういう事ねー……」
「え、なんだ?」

 俺が脳内でむっこの行動を分析していると、ジトーっとした目をして猫屋がこちらをめる。

「はぁー……」

 猫屋は肺の中の空気をすべて吐き出すような大きなため息をついた。

「なんだか、今日は無駄に頑張っちゃったなー」

 そう言って猫屋は大きく体を伸ばした後、後部座席に腰掛ける俺を背もたれにするように体を後ろに倒してくる。猫屋は軽い。俺は得に文句を言わずに、彼女を支える。

(今回の騒動もそれなりに楽しかったと思うけど……?)

 ……まぁ、感じ方は人それぞれか。なんにせよ、今日のMVPは間違いなく猫屋だ。疲れるのも仕方ない。

「お疲れ様。……今日は──」

 猫屋の事を労おうとして、一瞬、言葉が詰まった。

『昔、空手やってた事があってー……』

 ……彼女は今日、レースなんかより遥かに頑張った事があったはずだ。

「その、なんだ……」

 だが、ここで"頑張ったな"っと言ってしまうのは何か違う気がした。

 何というか、上から目線で凄く気色が悪い。そんな言葉をこの才女に掛ける事などありえない。それに、俺と猫屋は対等な親友であって……いや、この辛党ヤニカスが俺と同等の訳は無いか。先ほどの思慮を全否定するようだが、俺より品が無いのは間違いない。間違いない……間違いないのだが……。
 
「凄かった、な……」

 そうだ、彼女は凄かった。尊敬の念を抱くほどに猫屋は凄かったのだ。

「……でしょー?」 

 こちらに顔を向けず、猫屋はニヒルな声音で答えた。

「たっくさん、褒めてくれていいよー?」
「あー、はいはい、凄い凄い」
「あ、良くないなー、そんな適当な誉め言葉はー」
「ははっ、調子に乗るな」

 俺は彼女と違って捻くれている。猫屋の素直さが偶に羨ましくなるくらいだ。容姿などではなく、精神的な高潔さを直線的に褒めることはどうにも恥ずかしい。

「…………ねぇ、陣内?」

 猫屋が俺の事を呼ぶ。その声音は男の物とは違って高く、女性らしい。

「煙草ちょーだい? 私、今、甘いのが吸いたい気分なんだー」
「ん、あぁ、いいぞ」

 俺は懐から煙草を取り出し、背後から彼女に差し出した。

 しかし、それを猫屋は何故かつまらなそうな視線で見つめる。

「……じ、ジッポ忘れちゃったー……陣内が火、点けてっ」
「俺がか? ……分かった」

 それくらいの労いは喜んで引き受けるとしよう。

 煙草を咥えた猫屋を背後から抱きしめるようにして両手を回す。片手で火を点け、もう片方は手で風よけを作ってやる。けっこう密着しているが、これは彼女から言い出したことだ。怒られはしないだろう。

 猫屋の髪から漂う、甘い匂いが俺の鼻腔をくすぐった。

 ドクン──

 ……酒が足りていない。

「すぅー、はぁー…………うん! 甘くておいしー……!!」

 そう言って、猫屋は背を預けたまま見上げるように俺の方に顔を向けた。

「え、えへへー、ありがとね、陣内……!」

 煙草を咥え、照れたように笑う、俺の……俺の親友。

 ドクン……!!

「…………」

 酒が足りていない。

 俺はスマホを取り出して、急いで現在時刻を確認した。

「もう3時か……安瀬たちが帰ってきたらそのままオールで飲まないか? 今日は必修の講義もないし、このままサボろうぜ」
「お、いいねー!! サボりのお誘いは何時でも大歓迎だよーー!! このまま朝まで飲み明かそーー!!」
「……だな!! お前の勝利祝いだ、今日は特別に白州を開けてやろう!!」
「ま、マジでーー!?」

 猫屋の言う通り、今日は疲れた。こんな日は今回の騒動を酒の肴にして、いつも通り馬鹿騒ぎするに限る。
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