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第一章『最も天国に近い地獄編』

第17話「最後の一撃は、せつない」

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 かつての理想郷、その残滓は、たった今完全にこの世界から姿を消した。
 サイケデリックな色合いをした薬草毒草の類も、トカゲもカエルも、廃墟の一欠片も、すでにそこには存在しない。爆風は全てを消し飛ばした。
 残ったのは、まるで中華鍋の底のような焦土のみだ。
 そしてその土台たるテーブルマウンテンもまた、音を立てて崩落しつつある。

 あれほどまでに忌み嫌った場所だ。
 食うものと言えば青臭い薬草のサラダに、トカゲやカエルのみ。
 四六時中深い霧が立ち込めており、地面はぐちょぐちょにぬかるんでいる。
 更に定期的におそろしいほどの強風が吹き抜けるものだからパゼロに籠って風が止むまで震えていなくてはいけない、そんな場所。

 何度日本へ帰りたいと思ったか分からない。
 こんな地獄一刻も早く抜け出したいと毎夜近すぎる星に願った。
 ゴーレムがいなければ俺はとっくに雲海へ身を投げて、自ら進んでスカイフィッシュのおやつになったことであろう。

 しかし、そんな場所でも涙は出た。
 なんだかんだ言っても、あそこは俺の故郷だったのだ。

 むろん辛い思い出の方が多い。
 というか辛い思い出ベースに隠し味として誤魔化しをひとつまみ、といった具合だ。
 しかし、それがなんだというのか。
 たかがそれしきのことで否定できるわけもない。あの地での思い出を、そして間違いなくそこで生きていた俺を。

 ツナギの袖で涙を拭った。
 朝陽に目が眩んだゆえの涙として誤魔化すことにした。

 俺は、スカイフィッシュの背中に立つ。
 表面がぬらぬらと光を返しているのでさぞや滑るのかと思えば、鱗が引っかかって存外安定感があった。

「はは、見てみろよ琢磨、太陽がスゲー近い」

 彼もまたゆっくりと立ち上がって、スカイフィッシュの背に立つ。
 その目は相変わらず俺への殺意に満ちていて、こちらの言葉が届いている様子はない。

「銀の龍の背に乗って、雲の上から昇る朝日を眺めてるんだぜ、俺たち」

 近藤琢磨が駆けだす。
 スカイフィッシュの鱗を一枚ずつ踏み砕いて、凄まじいスピードで肉薄してくる。

「こんないいもん見れたってだけで、案外前世の嫌なこと、全部チャラになったりしないもんかね」

 彼の拳はさながら流星であった。
 構えた拳がきらりと光を放ったかと思えば一閃、次の瞬間には頬をかすめている。

 こちらもすかさず拳骨を大砲のごとく撃ち出す。
 ヤツはこれを躱して、カウンターに鳩尾へ一撃食らわせてくる。

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  クワガワキョウスケに 21440 のダメージ!
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 ぐっ、と呻き声がもれる。
 肺が極限まで引き絞られるかのような、耐えがたい感覚が俺を襲う。意識すらも刈り取る一撃だ。
 しかし、悠長に気絶している場合ではない。

 俺は奥歯が欠けるほどに歯を食いしばって、今にも手元を離れようとする意識を、強引に引き戻した。
 ――弩拳骨1000t。

 拳が煌めいて、ヤツの顔面に突き刺さる。

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  コンドウタクマに 724447 のダメージ!
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 今までで最高のインパクトであった。
 引き絞った拳が彼の顔面に命中したその瞬間、俺たちが足場としているスカイフィッシュの鱗が衝撃波からばりばりと剥がれて、彼は悲痛な叫びをあげた。
 近藤琢磨はスカイフィッシュの曲がりくねった蛇体の上をさながら絶叫マシンのように滑って、何枚もの鱗を犠牲に、ようやく勢いを殺した。

『……何故、何故ダ。何故貴様はそウまでシテ生きようトすル……なにゆえにモがく、苦シム……』

 今のマイベスト拳骨がショック療法的な効果を発揮したのかもしれない。
 異形の怪物と化した近藤が、ほんの僅かながら理性を取り戻したかのようにこちらへ問いかけてきた。

「なにゆえ、って、俺は学がないから目の前のことしか考えてねーし、考えらんねーよ。まぁしいて言うなら今はお前に同情している。この拳骨で目を覚ましてやろうと思ってる」
『同情? たワけタコとを、貴様ガ先ほど言ッたばカリではないカ、理解などできヌと』
「理解できないからって同情しちゃいけない決まりはない」
『なんタル傲慢、愚カナ、それはギ善ダ、所詮は独リ善ガりダ……』
「――だぁっ! うるせえうるせえ!」

 俺は声を張り上げて、ヤツの言葉を遮った。

「お前らみたいな中途半端にネガティブな人間と話してると話が二歩進んで三歩下がるばっかりでイライラすんだよ! ただ下がるよりタチが悪い!
 おいデジタル脳味噌! テメェ物事を0か1かでしか考えられねえのか!? 言っとくがなぁ、白黒きっちり割り切れるのなんてネットの世界だけだ! 世の中はもっと矛盾とか曖昧とかそういう灰色のモノが回してんだよ!」

 気圧のせいだろうか、大声で叫ぶと頭の中が真っ白になって訳が分からなくなってしまう。
 しかしこの口は、もはや俺の意思とは無関係に叫び続けてしまうのだ。

「ああそうだよ! お前の言う通りこんなの偽善だよ! お前の気持ちを理解しようともせず、勝手に憐れんでお節介にも助けようとしてるよ! でも、じゃあ本当の善ってなんだよ!?
 お前の悩みをあますとこなく理解して、共感して、そのナイーブな心を傷つけないよう細心の注意を払ってケアしてやるやつのことか!? いねーよそんなの! 唯一それができるお前自身が諦めてんのに、そんなやつこの世には存在しねーよ!」

 ひとしきり叫び終えると肩で息した。ぜえはあと息を吐き出す。
 当の近藤琢磨はというと、固まっている。
 なにやら信じられないものでも見るかのように、こちらを見据えて硬直している。
 俺は途端に気恥ずかしくなってしまって、彼から目を逸らすとつぶやくように続けるのだ。

「……そりゃ、まあ、暑苦しーかもしんねーよ、こんなの今時流行らねーのも分かるよ。でも、みんながみんな、お前を腫物みたいに扱ったら、誰がお前の事分かったつもりになってやれんだよ」

 そして静寂が訪れた。
 俺たちの足元でスカイフィッシュの鱗が朝の光を返して煌めいている。幻想的な光景であった。

『モウ、ナニモカモ遅イ』

 近藤琢磨が構えをとる。
 そしてその姿が一瞬にして掻き消えて、間もなくして眼前にヤツが現れる。
 回避は間に合わない。

『終ワリダ』

 振りかぶった拳が、俺の脳天に直撃した。

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  クリティカル! クワガワキョウスケに 99999 のダメージ!
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 致命の一撃。
 あまりの衝撃に視界が明滅し、ぐらりと傾く。
 このままいけば、スカイフィッシュの身体より投げ出されて地上まで真っ逆さまだ。

 俺は、この致命の一撃を受け――しかしそれでもなお踏みとどまった。

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  クワガワ・キョウスケ Lv1

  農民

  HP 1/999999
  MP 4/4

  こうげき  6
  ぼうぎょ  8
  すばやさ  9
  めいちゅう 11
  かしこさ  15
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  パッシブスキル ド根性 が発動しました
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  パッシブスキル ド根性
  一に根性、二に根性、というか一から百まで全部根性、愛すべき根性馬鹿に送られる称号。
  一度の戦闘に一度限り、どれだけのダメージを受けてもHP1で持ちこたえる。
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 一度は勝利を確信し、踵を返した近藤琢磨が俺の発散するただならぬ気配に気付いてかすかさず振り返った。
 しかしもう遅い、拳はすでに温めてある。

 ――弩拳骨1000t。

 光速を超えた拳骨が、近藤琢磨の顔面に突き刺さった。

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  コンドウタクマに 999999 のダメージ!
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『ぶぐっ!?』

 超弩級の拳骨は、放たれただけで目に映る雲海の全てを消し飛ばした。
 そしてもろに直撃をもらった近藤琢磨はスカイフィッシュの背中を滑る。
 ずがががががっ、と耳障りな音を立てながら、数え切れないほどの鱗が剥がれ、巻き上がる。
 雲海という大事な住処を失い、全貌を露わにした哀れなスカイフィッシュ君が、痛みからかぎゃあぎゃあと悲鳴をあげている。
 そしてひととおりの鱗落としが終わり、彼がなんとか勢いを殺して踏み止まると、聞き覚えのある電子音声が鳴り響いた。

『深刻なエラー発生、“デウス・エクス・マキナ”強制排出します』

 その直後、近藤琢磨の身体より“ボックス”の一つが勢いよく排出される。
 近藤琢磨は慌ててこれをつかみ取ろうとするが、もとより不安定なスカイフィッシュの背の上でのことだ。
 ボックスは彼の見苦しい追跡を逃れ、かつん、と一度鱗の上を跳ねると、そのまま地上へと落ちていってしまった。

 怪物と化した近藤琢磨が、この世の終わりのような表情で遥か遠い地上を見下ろしている。
 俺はそんなヤツにつかつかと歩み寄る。むろん右の拳を固めたまま。

 近藤琢磨がこちらに気付く。
 容赦なく二撃目を叩き込んだ。

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  コンドウタクマに 999999 のダメージ!
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『ぶげあっ!?』

『深刻なエラー発生、“スキル・イーター”強制排出します』

『深刻なエラー発生、“ワーキング・オブ・ザ・デッド”強制排出します』

 例えるならポップコーンのように、ぽぽーんと、一度に二つのボックスが彼の身体より飛び出した。
 この二つはやはり鱗の上を何度か跳ねて真っ逆さま、地上めがけて一直線に落ちていく。

 再び鱗落としに精を出した近藤琢磨が、遥か前方で停止する。
 俺はずんずんと、無言で距離を詰めていく。

『ちょ、ま、おまwww』

 顔の右半分を覆う鱗と、もう一方の美青年顔は相変わらずだが、異形と化した腕は見事にしぼんで贅肉をたっぷりと蓄えたハムのような腕に元通りだ。
 首より下は完全に俺の記憶していた近藤琢磨本来のものである。心なしか口調も元に戻っているようだ。

 まぁ、そんなのは関係なく、三撃目。

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  コンドウタクマに 999999 のダメージ!
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『あばっ!?』

『深刻なエラー発生、“SEKAI NO HANNBUNN”強制排出します』

 すぽーん、と飛び出たボックスは案の定下界へ。
 とうとう顔の半分を覆う鱗のようなものが消え去り、元の下膨れ顔が半分の状態でお披露目となる。
 しかしなんだ、もう半分が金髪の美青年なので、限りなくアンバランスだ。

「ま、ままま、まって、拙者のチート、拙者のチートがッ!!」

 チートに支配されていたとはいえ、今までの毅然とした態度はどこへやら、彼は可愛そうなくらいに慌てふためいている。
 俺はヤツの胸倉をひっ掴んで、無理やりに引き起こした。
 彼は「ひいっ」と情けのない悲鳴をあげて、手のひらをぱたぱたとやる。

「お前さぁ」
「は、はははっ、はい」
「さっき、何もかも遅いって言っただろ」
「えっ、あ、はい、言ったかもしれ、ないです。はい、言い、言いました」
「――遅くねえよ、なんてったって異世界転生だぜ、全部こっから始まるんだよ。でも覚えとけ、新しく始まるのは世界じゃねえ、お前自身だ」

 俺の一言で、近藤琢磨は言葉を失った。
 閉口して、まっすぐとこちらを見据えている。しばらく待つと、彼はゆっくりと口を開いた。

「……拙者を、拙者を受け容れてくれるのでござるか」

 ああ、俺は確かに頷く。

「受け容れるとも。なんなら友達になってやってもいい。自己紹介が遅れたな、桑川恭介だ」
「く、桑川恭介氏、こんな、こんな拙者と、友人に……?」
「むろん、友達になったからにはお前のプライベートにずけずけと踏み込んでいくし、言いたいことは全部言うぞ」

 そこで、近藤琢磨は堰を切ったように泣き出した。
 右半分の美青年顔をくしゃくしゃにして涙で濡らし、ブサイクな左半分も同様に涙やら鼻水やらでぐしょぐしょになっている。
 正直に言って見るに堪えない。しかし微笑ましくはあった。
 全く、徹頭徹尾泥臭すぎる異世界転生であったが、一度くらい、こういった青臭い青春の一ページがあったとしても、誰も咎めやしないだろう。

 さて、俺は拳骨を構える。

「えっ」

 近藤琢磨が垂れ流しの涙やら鼻水やらを一息に引っ込めて、驚愕の表情でこちらを見る。

「え、恭介殿、今の流れでなにゆえ」

 振りかぶった拳が星のように煌めく。
 俺はにっこりと微笑んで、その疑問に答えた。

「お前もまだ分かってないな、友達っていうのは無条件に相手の全てを受け容れることじゃない、それはそれ、これはこれ」
「え、嘘でしょ、恭介殿」
「お前とは友達だ。でもそれはそれとしても、お前は俺たちの故郷を消し炭にして、ゴーレムと俺をボコボコにした。――さあ歯を食いしばれ、仲直りの拳骨だ」
「ちょ、ま――!!」

 弩拳骨1000t。

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  コンドウタクマに 999999 のダメージ!
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「げうっ!?」

 それはもう、見事なまでに吹っ飛んだ。
 一思いにスカイフィッシュの背中から投げ出されて、ヤツの身体が宙を舞う。

『深刻なエラー発生、“天上天下唯一無双俺俺俺”強制排出します』

 すぽーん、と排出された彼のボックスが、期せずして俺の手の内に収まった。

「恭介殿ぉぉ……」

 近藤琢磨は最後に俺の名を叫びながら、まもなくして眼下で一つの点となる。
 俺は一足先に母なる大地へ帰還する彼の雄姿を見下ろしながら、手の内のボックスを握りしめた。

 最後の一撃は、せつない。
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