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第二章『地上に舞い降りた天使たち編』
第35話「A hair of the dog」
しおりを挟む「……っ」
自然、ぶるりと身体が震える。
まどろみの中から目を覚ますと、俺は自分自身がシートの上でダンゴムシのように体を丸めていることに気が付いた。
隣のシートでは、変わらず飯酒盃が気持ちよさそうに寝息を立てている。
見ると空は白んでおり、まばらに小鳥のさえずりが聞こえてきた。
どうやら早朝の冷え込みに当てられて、無意識に身体を丸めてしまっていたらしい。
そして無理な体勢で眠っていたためであろう、節々に軋むような痛みがあった。
こういう時は思い切り伸びをしてやりたいところだが、狭い車内でそれは叶わない。
俺は寝ぼけ眼をこすりながらドアを開き、清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、伸びをした。
全身からパキパキと音が鳴って、それが一層心地よい。
ああ、朝の空気にあてられて、すっかり中途半端な時間に目が覚めてしまった。
こういう時は朝日が昇るのを眺めながらタバコを吸うのが一番なのだが、生憎持ち合わせはない。
たまには健康的にジョギングでもしてみるか?
なんてことを考えてみる。
ちらと見やると、ゴーレムがパゼロのすぐ傍で項垂れていた。
まるで糸が切れてしまった操り人形のように微動だにしない。
これがスリープモード、というやつだろうか?
好奇心から、ゴーレムの身体へ手を伸ばす。
「……キョースケ、起きたか」
「うおおおおっ!?!」
思わず雄叫びにも似た悲鳴をあげて後ずさってしまった。
起きてんのかよ!! あんまりにもびっくりして一気に目が覚めたぞ!!
「な、なんだよゴーレム! 起きてんなら言ってくれよ!」
ああ、心臓が破裂するかと思ったぞ、と胸を押さえながら言う。
いつもならここでゴーレムが慌てて「すまんかった!」などと許しを乞うてくる場面だが、何故か今回に限ってそれがない。
彼は地面の一点を見据えたまま、固まっている。
「どうした、でかめのミミズでもいたか?」
「……妙じゃ」
ゴーレムはぼそりと呟いた。
いつもより低い声音からは、なにやらただならぬ雰囲気が感じ取れる。
「……ワシもたったさっきスリープモードから目覚めたばかりなのじゃが、先刻より集落の方から妙な足音が聞こえる」
「足音? 俺にはなにも聞こえないが」
「足音、というよりは大地の震動を聞いておる。普通の人間には感じ取れん」
「ふうん……」
しかし、妙な足音とはなにか。
ゴーレムがこれほど真剣だということは……まさか!
「あの巨大ヤモリがまた集落にやってきたのか!?」
「いや、この感じは間違いなくアルヴィーの女たちの足音じゃ」
「なんだそりゃ、あいつらにも早起きなヤツの一人や二人ぐらいいるだろ」
「――足音は集落に住むアルヴィー族のほとんど全員分、聞こえておる」
俺はぴくと眉尻を寄せた。
「いや、あいつらにもなんかこう、アルヴィー族特有の風習か何かがあるんだろ? 朝早くに起きて皆で体操、みたいなさぁ」
「……その割にはあまりにも静かすぎるのじゃが」
「こんな朝っぱらから大きな声を出すヤツなんていねえって、昨日の飲み会の疲れもあるだろうしな」
「じゃったら良いが……」
いまいち腑に落ちないようだ、ゴーレムは言葉尻を濁した。
確かにゴーレムがこれを奇妙に思う気持ちも分かるが、俺としてはやはり、さほど重要なこととは思えない。
たかが足音、しかもアルヴィー族の誰かと分かっているものが、彼女らの居住区から聞こえてくるだけだろう?
「なんでそんなデリケートになってるのか知らんけど、あんま心配すんなって、そんなに気になるんだったら様子でも見に行くか? 俺もちょうど軽く体を動かしてみたかったし」
「ふむ……そうじゃな、よし、わかった」
ゴーレムは深く頷いて、立ち上がる。
どうせ飲み会の後に訪れるあのアンニュイな気持ちと不安を混同してしまっているだけだ。
誰か話せばそんな実体のないモヤモヤ、たちどころに晴れてしまうだろう。
そんな風に考えて、もう一度伸びをしていると――
ふいに、集落の方からこちらへ向かってくる人の影が見えた。
「お、誰かこっちに来るぞ、レトラか、ターニャか? マリンダ……はないだろうな」
「レトラじゃな」
「ゴーレムお前目もいいのかよ、8.0ぐらいあるんじゃねえの?」
冗談めかして言うのだが、ゴーレムからの返事がない。
ただ遥か遠くのレトラの影を見つめている。
なんだ? 今日のゴーレムはやけにノリが悪いな。調子が狂うぞ。
そして俺たちとレトラの距離が、ようやくレトラの輪郭が俺にもはっきりと視認できるまでに狭まると、ゴーレムは再び声音を低くして言った。
「……おい、キョースケ、やはり様子がおかしい」
「まだ言ってるのか? 今度はなんだよ?」
「レトラをよく見てみるのじゃ」
ゴーレムが強い口調で言うので、俺は渋々と目を細め、こちらへ向かってくるレトラを観察した。
ふむ、言われてみれば確かに様子がおかしい。
レトラは身体を左右に揺らしながら、おぼつかない足取りでこちらへ向かってきている。
「あいつも昨日飲みまくってたからなー、まだ酒が残ってんじゃねえのか?」
「いや、キョースケ、違う、あれは……」
「おーい! レトラ大丈夫かー! 水飲んだかー!」
ぶんぶんと大きく手を振って、彼女の名を呼ぶ。
するとその直後、レトラはその場から駆けだして、こちらへ向かってくる。
なんだ、具合が悪いなら別に走ってこなくとも……
「――伏せろキョースケ!」
唐突にゴーレムが叫んだ。
伏せろ、何故?
俺はゴーレムの警告を受けてほんの少しの間、逡巡してしまった。
その間、レトラは一気に距離を詰めてくる。
そして彼女は――どういうわけか、俺めがけて飛び掛かってきた。
「えっ?」
「――くっ!」
背中に冷たく固い金属質な感触、これはゴーレムの手だ。
それに気付いたその直後、俺はゴーレムによって強制的にその場に体を“伏せ”させられる。
というか、力任せに叩きつけられた。ぬかるんだ地面に、頭から、ばしゃあんと。
「うぶっ!?」
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クワガワキョウスケに 84 のダメージ!
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あまりの勢いにダメージまで受けてしまった。
なにするんだゴーレム!
そう抗議しようとして、泥だらけの顔をぬかるみの中から持ち上げる。
そこで、俺は驚くべきものを目撃した。
「どういうつもりじゃレトラ……!」
――レトラがゴーレムの腕に噛みついていた。
比喩でも何でもない、大きく開いたその口、その歯牙を、ゴーレムの金属質な腕に突き立てていたのだ。
むろんゴーレムの身体には、文字通り歯は立たないので大したダメージを与えるには至っていない。
しかしゴーレムが俺の身体を地面に叩きつけてくれていなければ、噛まれていたのは俺だった。
ゴーレムがレトラを振り払う。
レトラは後方へ後ずさって体勢を立て直すと、再びこちらをにらみつけた。
そこで初めて気が付く。
レトラの翡翠色の瞳が今やルビーのごとく真っ赤に変色している。
いや、それだけでない。
瞳孔は開ききって歯は剥き出し、体勢を低くして唸りをあげるさまは、まるで飢えた野犬のようである。
――レトラのやつ、正気じゃない。
「ど、どうしたんだレトラ!?」
「無駄じゃキョースケ! 理由は分からんが話の通じるような状況じゃないぞ!」
レトラが、があっ、と唸って飛び掛かってくるのを、俺は慌てて回避する。
さすがはアルヴィー族の娘だ、下手な野生動物なんかよりずっと機敏な動きをする!
前世で隣の家の婆さんが飼っていたクロ(ボケた雑種犬)よりずっと素早い!
「おいおいおいおい!! どうすんだよこれ!?」
「こうなっては戦うしかあるまい!」
ゴーレムが臨戦態勢に入る。
俺は必死でそれを制した。
「は!? ダメに決まってんだろ!? お前の力で殴ったらレトラ正気に戻るどころか一発でお陀仏じゃねえか!」
「じゃあどうするというのじゃ!? キョースケが食われてしまうぞ!」
「だから今考えてんだよ!」
ゴーレムと口論をしていると、レトラが再び飛び掛かってきた。
俺はすんでのところでこれを躱す。勢い余ったレトラは、顔からパゼロに激突した。
これによって未だ助手席のシートでぐーすかいびきをかいていた飯酒盃が跳ね起きる。
「はぇ? なんですかぁ、朝ですかぁ?」
彼女は間抜けな顔を晒して、きょろきょろと辺りを見回していた。完全に寝ぼけている。
全然頼りにならねえなお前!
体勢を立て直したレトラが、攻撃を再開する。
こちらの言葉が通じているような様子は全くない。
歯牙をむき出しにして、理性を失った獣のようにただ力任せに飛び掛かってくるのだ。
「クソ! どうするどうするどうする!?」
「倒さずどうにかしろとはキョースケもムチャを言う! 仕方ない! 土の神秘で捕縛してやるのじゃ!」
「やっぱお前だけは頼りになるなぁ!」
ゴーレムが地面に手のひらを押し当てて、いざ土の精霊と契約を交わそうとした、その刹那。
「――えいっ」
ばしゃあ、とレトラの頭上より透明な液体が降りかかった。
身を乗り出した飯酒盃が、開いたウインドウの隙間から、ヒョウタンの中身をレトラめがけてぶっかけたのだ。
あっ、俺とゴーレムの間抜けな声が重なる。
レトラは髪の毛からぽたぽたと滴を垂らしながら、その場にぴたりと静止した。
「あれぇ? レトラさん随分酔っ払っていたようですから気つけにソーマをかけたつもりだったんですけど……」
「い、飯酒盃、お前レトラに何かけた……?」
ええと、飯酒盃はヒョウタンの口についた滴を、指ですくって舐めとる。
「ああ、すみません、寝ぼけてて間違えちゃいましたぁ。――これ、八塩折之酒ですねぇ」
その直後、レトラがぶっ倒れた。
目をぐるぐると回しながら、顔全体を真っ赤に紅潮させて。
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