前世の私は幸せでした

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9 私の前世と貴方の前世

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 陽射しを避けるために木陰へ移動すると、ライラはグレースの隣、芝生の上に腰を下ろした。

「お母様、折角のワンピースが汚れてしまいます。あっちのベンチに移動した方が……」
「いいのよ。それより前世の貴方の事を教えて欲しいわ」

 車椅子の高さの所為でライラに少し見上げられるような形になりながら、グレースは促されるままに前世の記憶について話し始めた。
 この世界の文化とは異なる世界で生きていた事、九十八歳で亡くなった事。
 いくら前世での記憶を他者より思い出したと言っても、話せる事などその程度だ。
 簡単に話し終えてしまったグレースに、ライラは「それだけ?」と不思議そうな視線を投げかけた。

「お医者様が、前世の事をほぼ記憶しているようだと仰っていたけれど」
「思い出したとは言っても、偉人でもなければ有名人でもない、しがない老婆の人生です。お母様のようにテラーズに載るような立派な前世だったら、語れる事も多かったかもしれないけれど」

「テラーズ」とは、転移症者の前世を取り上げる人気の読み物だ。
 前世での経験を活かして現世で成功した人物の話や、波乱万丈な前世を送ってきた人物の話など、様々な分野で注目を集める記憶転移症者が取り上げられている。

「人に話して聞かせるような、大層な人生じゃないんです」

 きっと、善子の人生では金を払ってでもテラーズに載せて貰う事は出来ないだろう。それくらい特筆する事のない人生だ。
 悲しい過去があるだとか、偉業を成し遂げただとか、世間に名の知れた人物だったとか、そんな事は一切無い。言うならば、平凡な人生。
 それに比べて母ライラの前世は勇ましく、輝かしいものだった。
 幼い頃、バートが大切に保管しているライラのテラーズを読んで聞かせてくれた事がある。

 〝女性でありながら銀幕に名を馳せたアクションスター・リーの生涯"

 その見出しを聞いただけでも、母の前世は凄いものだったのだと興奮し、アーティと二人、尊敬で目を輝かせた。
 前世での経験を活かし、踊りと芝居で生計を立てていたライラは、現世でもちょっとした有名人だ。ライラが結婚で舞台から離れる事になった際、彼女への敬意を形として残す為に、バートはライラの前世の名前である「リー」をミドルネームにしたほどだ。
 そんな、前世でも現世でも輝かしい人生を送ってきたライラに話すには、善子の人生はあまりにも平凡で小さな人生に思えた。

「グレース」
「?」

 ライラの手招きするような仕草に上体を近づけると、ライラの細い腕がグレースに向かって伸ばされる。

「えいっ」
「だっっっ!?」

 軽い掛け声が聞こえた瞬間、額に痛みと衝撃が走る。
 デコピンをされたのだと気付くまで数秒。指一本分から放たれたとは思えない威力に、思わず体を仰け反らせた。

「っ……!」

 いきなりの出来事に狼狽え、痛みで額を押さえるグレースにライラは口を開いた。

「私と貴方の前世を、比べる必要があるかしら?」

 その一言で、グレースの背筋を一気に冷たいものが駆け上がる。

「立派だの、大層だの、人生なんて人それぞれ。比べるべきものではないわ」

(怒ってる……)

 語気を荒げたり、怒りの表情を浮かべているわけではない。だが、感じる冷ややかな空気は、小さな頃から叱られる度に感じてきたそれだ。

「グレースの前世での名前は?」
「ぜ、善子、です……」
「ゼンコ、かわいい響きね。ねぇ、グレース。前世の事を話したくないのなら、無理に話さなくて良いの」

 涼やかで静かな声音に、グレースは息を呑む。

「でも、貴方がゼンコの人生を卑下する事だけは、してはいけないのよ。それは、自身を否定するのと同義だわ」
「あっ……」

 前世の自分を無意識の内に軽んじて、善子の歩んできた人生を勝手に比べて下に見た。
 自分で自分を蔑む事が、どれだけ誇り無い事か。

(怒ってるんじゃなく、叱ってくれてるんだ……)

 母として、転移症者として、ライラがグレースの間違いを叱ってくれている事に気付き、グレースはライラに向かって頭を下げた。

「ごめんなさい、お母さま。私、考えが足りませんでした」

 深く頭を下げるグレースに、ライラは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべてグレースの頭を優しく撫でた。

「どんな人生でも、九十八年生き抜いた前世の自分を誇りなさい」

 その言葉からは先程までの冷ややかな空気は感じられない。
 顔をあげると、頭を撫でていたライラの手が、そのままグレースの額をなぞる。

「赤くなっちゃったわね。ごめんなさい、加減したつもりだったのだけど」
「大丈夫です。元を正せば、私の考えが足りなかったせいですし……。それに、久しぶりに味わいました。お母様のデコピン」

 あれで加減をしたのかと思う言葉は飲み込んで、グレースは笑顔を返す。
 小さい頃から、悪い事をしたらお仕置きと言う名のデコピンが飛んできた。年頃になって怒られる事も減り、今の今まですっかり忘れていたのだ。

「昔はよくやったものね。何も言わないアーティを良いことに、アーティの分までお菓子を食べたり、踊りの稽古を嘘をついて休もうとしたり」
「……忘れてください」
「ふふっ。私も小さい頃はよくやられてたわ。デコピン」
「お母様がですか!?」
「えぇ、正確には前世の私。と言っても、小さい頃の事は断片的にしか覚えていないのだけど」
「!」

 ライラが自らの前世について話す事は、とても珍しい。しかも、子供の頃の話など今まで一度も聞いた事がなかった。

「武闘の稽古から逃げては、よく師匠にデコピンされた。アクションスターも小さい頃は、どこにでもいる子供だったのよ」

 いつも上品な振る舞いをみせる母からは想像できない悪戯っぽい笑顔に、グレースは面食らう。
 この笑顔は、きっと「リー」のものだ。と、グレースは確信した。
 グレースが知るライラの前世は、テラーズで読んだアクションスターのリーについてだ。誌面に綴られた軽い生い立ちと活躍と功績。輝かしい前世に尊敬を抱いていたが、よく考えればそれしか知らない。
 アクションスターではない一人の人間としてのリーを、グレースは何一つとして知らないのだ。

「あら、思ったより早く戻って来たわね」

 グレースの後方を見るライラの視線に振り返ると、バートとアーティがこちらに向かってきていた。

「話はここまでにしましょうか」
「あの、お母様」

 立ち上がるライラを引き止めるように、グレースは意を決して口を開いた。

「今度、善子についてお話します。だから」
「?」
「私にもお母様の前世を、スターとしての彼女ではなく、一人の人間としてのリーについて教えて欲しいのです。勿論、お母様が良ければの話ですが……」

 バートがライラの前世を教えてくれた時、ライラが前世について語る事をしないのは、何故なのかと、バートに聞いた事がある。「こんなに凄いのに、どうして?」と。
「凄いと言われるのが、嬉しい人ばかりではないんだよ」とバートは言った。幼いグレースには理解出来なかったが、ライラに前世の事を聞くのはいけない事なのだと、バートの困ったような笑顔で察したのを覚えている。

「いいわ」
「いいんですか!?」

 断られるのは覚悟の上だったが、あっさりと返された了承の返事にグレースは驚きを隠せなかった。

「そんなに驚かなくても。私だけ聞くのはフェアじゃないし、今度ゆっくり時間をとりましょう。さ、今は帰るまでの間、バートの話相手になってあげて頂戴」

 ワンピースの汚れを軽く叩き落として、ライラはグレースの車椅子を押すべく、後ろに回り込んだ。

 バートと知り合ったばかりの事、アクションスターではなく、ただの人間としてのリーが知りたいと、先程のグレースと同じような台詞をバートに言われた事がある。
 輝かしい人生を送ったリーに羨望と興味を持つ人間が多く、近づいてくる人間すべてに辟易していた当時、その一言がどれだけライラとリーの救いになった事か。

「……やっぱりバートの子供ね」

 どこか拍子抜けした表情を浮かべた我が子を愛らしく思いながら、ライラはグレースには聞こえないような小さな声で呟いた。

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