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絵本の秘密
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生活能力が皆無である月彦を心配して、京弥は料理や簡単な掃除などをしに部屋を訪れるようになった。
仕事終わりに食料を買い込み、月彦のマンションを訪ねる。
いらっしゃい、と扉を開けてくれた月彦は、左手に絵筆を握ったまま、よれたシャツはあちこち絵具だらけ、床でうたた寝でもしたのか髪の毛にも絵具を付けて、目の下にはくっきりとクマが張り付いていた。
「また寝てないんっすか」
京弥の小言にも応える気力すらないようで、無言でふらふらとリビング兼アトリエへと戻っていく。
「最近、いろんなところから依頼が増えてきて……」
木製の面積の広いダイニングテーブルはその上を絵具と試作品だらけにして、フローリングの床一面には乾かしている最中の絵に混じって色見本帳や画集、写真集、そして、ゴミ箱から溢れたゴミに、エナジードリンクの空き缶が何本も転がり、脱ぎ散らかした洋服と共に回せていない洗濯物が隅に山を作っている。
月彦は京弥とろくに会話も交わさず、すぐにテーブルに戻り続きを描き始めた。
集中しているとき特有の瞳孔が開いている瞳はきらきらとしていて、見ている京弥も一緒に息をつめて完璧な造作の横顔を眺めてしまう。
筆を上げるタイミングで、静かに息を吐く。
「すまん、これだけ仕上げさせて」
「いいっすよ、いつも通り勝手に片付けときます」
「ん、悪い」
月彦は京弥の方を見ることもなく会話も上の空だ。月彦が絵に集中しているときはいつもだいたいこんな感じだ。ここ二週間ほどで、慣れてしまった。
月彦はあまりアトリエに他人を入れたくないと言っていたことがある。それなのに、京弥は神聖であるはずのテリトリーに入ることを許されている。月彦の部屋で、集中している月彦を見ていられるのは京弥にとって特権でしかない。
寝食を忘れて絵に集中してしまう月彦を少しでも支えたくて京弥は進んで部屋を片付け、料理を作り置いている。
床に散らばる服を拾い集め洗濯機を回し、ゴミを集めてまわる。ある程度部屋を片付けたら、仕事用のワイシャツを汚さないように袖を捲り上げ、対面キッチンに立つ。そこからは、絵を描いている月彦のきれいな横顔が見える。月彦の描く絵は好きだし、絵を描いている月彦の姿を見ているのはもっと好きだ。
料理を作り始めて良い香りがしだす頃には空腹を思い出すのか、月彦が顔を上げる。その時になって初めて月彦と目が合う。
「っ、ごめん!
俺、また岡野くんに料理させといて自分ばっかり絵描いてて」
「大丈夫っすよ、絵を描いてる先輩見てたんで。
ご飯もうすぐできますよ、食べれます?」
ちょうどきりが良いところだったのか、月彦はすぐに絵筆を置いてやってきた。
「美味そう」
月彦の腹からぐううと音が鳴る。いつからまともに食べてなかったのだろうと心配になる。
「冷凍しておいたカレー、食べました?」
「うん、食べた。美味かったよ、ありがとう」
白米はきっと炊かないだろうと思ったのでパックのご飯を買ってある。カレーは小分けしてあり、ご飯を一緒にレンジで温めればいいだけにしてあった。
「いつ食べたんですか? 今日はなにか食べました?」
月彦は小首を傾げて、絵を描いているときと同じくらい真剣な表情で記憶を探っている。
「カレーを食べたのは……昨日の昼、だな。
それから……、おかしいな、食べた記憶がない」
なにもおかしくはない。この場合、記憶がなくなっているのでも飛んでいるのでもない。単に月彦が丸一日以上なにも食べていないというだけの話しである。
「先輩……。俺が来なくても、せめて一日一食はきちんと食べてください。
その為にレンジにかけるだけで食べられるようなものを作ってるんっすよ」
「わかってる……」
しょんぼりとする月彦に、味見と称して小皿を渡してやる。おそらくまた食事を抜いていると思っていたから、胃に優しいものをと茶碗蒸しを作っていた。中まで火が通っているかを確かめた際に、小皿に少し取り分けておいたのだ。
「美味い……! 空きっ腹に沁みるな」
頬に絵具を付けて顔を輝かせる月彦は可愛かったが、夕食にする前にシャワーを浴びて来たらどうだと促した。
椅子とトランクを並べて食事をしていると、月彦がためらいがちにチケットを取り出した。
「招待券?」
「デジタルアート展なんだけど、チケットもらったから……一緒にどうかと思って……あ、もちろん、興味なければ別に断ってくれていい」
「もちろん行きますよ。
これってデートっすよね? 先輩から誘ってもらって断るわけないでしょ」
いつものように耳を赤くしながら茶碗蒸しのスプーンを口に運ぶ月彦は黙っているけれど否定はしない。
「招待ってことはお知り合いですか?」
「作家は知らないんだけど、個展のスポンサーが……今、俺にも声かけてくれてて……」
絵画の世界のシステムには詳しくない京弥でも、スポンサーから声がかかるということがどれだけ作家にとって助かることか、想像に難くない。それなのに、月彦の表情はあまり嬉しそうには見えなかった。
「あくまで絵本が描きたいんだ。
高い絵を売るんじゃなくて、誰でも手に取れる身近なものを描きたい」
「個展も子供たちに大人気でしたもんね」
「うん」
個展の様子を思い出しているのか、あたたかな表情で月彦は頷く。
こういうとき、照れずに謙遜せずに、ちゃんと受け止めて笑う月彦の健全さがとても好きだと思う。
ふと、自分も買った絵本を思い出す。
「そういえば、先輩、カッコウの話の絵本があったじゃないですか」
「うん?」
「あれは、どういう意味があるんですか?」
「意味?」
“カッコウ”という言葉が引っかかっていた。月彦が、“カッコウ”にどういう意味を持たせているのか。なにを表しているのか。
「……。
これ、誰にも言わないで欲しいんだけど。
岡野くんだから、言う」
「? はい、先輩がそう言うなら」
月彦の箸がいつの間にか止まっている。よほど言い難いことなのか、何度も口を開いては閉じる。
心臓が妙にどきどきし始める。橋の欄干の上で、ふと目の前から居なくなりそうな気がした、あのどうしようもない不安。
自分はこれを聞いてもいいのだろうか。知ってもいいのだろうか。知れば失くしてしまうのではないか。なにを? ……誰を?
「絵本の内容は、物語や文章は、俺が書いてるんじゃないんだ」
「え」
「いつも、メールで送られてきたり、手紙、というよりメモみたいな走り書きなんだけど、それが送られてくるんだ、郵便で」
「それって、相手は」
「わからない」
ぽかんと京弥の口が開いたままになる。そんなことが現実にあるのだろうか。まるでミステリー小説かなにかのようだ。
「でも、絵本の作者は月彦さんの名前だけですよね」
「だから、あのペンネームは、共同の名前なんだ。公表してないだけで」
「ああ……、なるほど。そういうことか」
とはいえ、見ず知らずの人間と共同著書なんて、普通は考えない。
作品さえ良ければ出版社は出してくれるのだろう。表に出る役割は月彦が担っていた、というだけのことだ。
「相手を探そうとか、誰か確かめようと思ったことはないんすか?」
「何度もある。
でも、……怖いんだ。知っていいのか、知ってしまうとなにかが壊れてしまいそうで、……怖い」
京弥と同じような不安を月彦も漏らす。自分の両手をぎゅっと握り、それでも震えているのを見ると、それはもう不安というより月彦が言うように恐怖なのだろう。
しかし、普通はどこの誰かもわからない人間からメールや手紙が来る方が不気味なはずだ。
「よく知ってる人だと思った。
不思議と、気持ち悪いとかそういう意味での怖さはなかった。
俺の、よく知ってる人。知ってるのに、なんで俺は思い出さないんだろう。そんな感じ」
京弥は、もしかするとその相手を知っているのかもしれない。しかし、月彦が『忘れている』ことになにか意味があるのなら、無理やり自分の知っている情報だけを伝えてしまうのは、ただの自分の自己満足のような気がする。自分が知っていたい、自分が暴きたい、そういうエゴだという気がする。
失いたくないという月彦の恐怖もわかる。秘密を秘密のまま、まるで月の裏側のように見ないでおけば、なにも失くさないのだろうか。
仕事終わりに食料を買い込み、月彦のマンションを訪ねる。
いらっしゃい、と扉を開けてくれた月彦は、左手に絵筆を握ったまま、よれたシャツはあちこち絵具だらけ、床でうたた寝でもしたのか髪の毛にも絵具を付けて、目の下にはくっきりとクマが張り付いていた。
「また寝てないんっすか」
京弥の小言にも応える気力すらないようで、無言でふらふらとリビング兼アトリエへと戻っていく。
「最近、いろんなところから依頼が増えてきて……」
木製の面積の広いダイニングテーブルはその上を絵具と試作品だらけにして、フローリングの床一面には乾かしている最中の絵に混じって色見本帳や画集、写真集、そして、ゴミ箱から溢れたゴミに、エナジードリンクの空き缶が何本も転がり、脱ぎ散らかした洋服と共に回せていない洗濯物が隅に山を作っている。
月彦は京弥とろくに会話も交わさず、すぐにテーブルに戻り続きを描き始めた。
集中しているとき特有の瞳孔が開いている瞳はきらきらとしていて、見ている京弥も一緒に息をつめて完璧な造作の横顔を眺めてしまう。
筆を上げるタイミングで、静かに息を吐く。
「すまん、これだけ仕上げさせて」
「いいっすよ、いつも通り勝手に片付けときます」
「ん、悪い」
月彦は京弥の方を見ることもなく会話も上の空だ。月彦が絵に集中しているときはいつもだいたいこんな感じだ。ここ二週間ほどで、慣れてしまった。
月彦はあまりアトリエに他人を入れたくないと言っていたことがある。それなのに、京弥は神聖であるはずのテリトリーに入ることを許されている。月彦の部屋で、集中している月彦を見ていられるのは京弥にとって特権でしかない。
寝食を忘れて絵に集中してしまう月彦を少しでも支えたくて京弥は進んで部屋を片付け、料理を作り置いている。
床に散らばる服を拾い集め洗濯機を回し、ゴミを集めてまわる。ある程度部屋を片付けたら、仕事用のワイシャツを汚さないように袖を捲り上げ、対面キッチンに立つ。そこからは、絵を描いている月彦のきれいな横顔が見える。月彦の描く絵は好きだし、絵を描いている月彦の姿を見ているのはもっと好きだ。
料理を作り始めて良い香りがしだす頃には空腹を思い出すのか、月彦が顔を上げる。その時になって初めて月彦と目が合う。
「っ、ごめん!
俺、また岡野くんに料理させといて自分ばっかり絵描いてて」
「大丈夫っすよ、絵を描いてる先輩見てたんで。
ご飯もうすぐできますよ、食べれます?」
ちょうどきりが良いところだったのか、月彦はすぐに絵筆を置いてやってきた。
「美味そう」
月彦の腹からぐううと音が鳴る。いつからまともに食べてなかったのだろうと心配になる。
「冷凍しておいたカレー、食べました?」
「うん、食べた。美味かったよ、ありがとう」
白米はきっと炊かないだろうと思ったのでパックのご飯を買ってある。カレーは小分けしてあり、ご飯を一緒にレンジで温めればいいだけにしてあった。
「いつ食べたんですか? 今日はなにか食べました?」
月彦は小首を傾げて、絵を描いているときと同じくらい真剣な表情で記憶を探っている。
「カレーを食べたのは……昨日の昼、だな。
それから……、おかしいな、食べた記憶がない」
なにもおかしくはない。この場合、記憶がなくなっているのでも飛んでいるのでもない。単に月彦が丸一日以上なにも食べていないというだけの話しである。
「先輩……。俺が来なくても、せめて一日一食はきちんと食べてください。
その為にレンジにかけるだけで食べられるようなものを作ってるんっすよ」
「わかってる……」
しょんぼりとする月彦に、味見と称して小皿を渡してやる。おそらくまた食事を抜いていると思っていたから、胃に優しいものをと茶碗蒸しを作っていた。中まで火が通っているかを確かめた際に、小皿に少し取り分けておいたのだ。
「美味い……! 空きっ腹に沁みるな」
頬に絵具を付けて顔を輝かせる月彦は可愛かったが、夕食にする前にシャワーを浴びて来たらどうだと促した。
椅子とトランクを並べて食事をしていると、月彦がためらいがちにチケットを取り出した。
「招待券?」
「デジタルアート展なんだけど、チケットもらったから……一緒にどうかと思って……あ、もちろん、興味なければ別に断ってくれていい」
「もちろん行きますよ。
これってデートっすよね? 先輩から誘ってもらって断るわけないでしょ」
いつものように耳を赤くしながら茶碗蒸しのスプーンを口に運ぶ月彦は黙っているけれど否定はしない。
「招待ってことはお知り合いですか?」
「作家は知らないんだけど、個展のスポンサーが……今、俺にも声かけてくれてて……」
絵画の世界のシステムには詳しくない京弥でも、スポンサーから声がかかるということがどれだけ作家にとって助かることか、想像に難くない。それなのに、月彦の表情はあまり嬉しそうには見えなかった。
「あくまで絵本が描きたいんだ。
高い絵を売るんじゃなくて、誰でも手に取れる身近なものを描きたい」
「個展も子供たちに大人気でしたもんね」
「うん」
個展の様子を思い出しているのか、あたたかな表情で月彦は頷く。
こういうとき、照れずに謙遜せずに、ちゃんと受け止めて笑う月彦の健全さがとても好きだと思う。
ふと、自分も買った絵本を思い出す。
「そういえば、先輩、カッコウの話の絵本があったじゃないですか」
「うん?」
「あれは、どういう意味があるんですか?」
「意味?」
“カッコウ”という言葉が引っかかっていた。月彦が、“カッコウ”にどういう意味を持たせているのか。なにを表しているのか。
「……。
これ、誰にも言わないで欲しいんだけど。
岡野くんだから、言う」
「? はい、先輩がそう言うなら」
月彦の箸がいつの間にか止まっている。よほど言い難いことなのか、何度も口を開いては閉じる。
心臓が妙にどきどきし始める。橋の欄干の上で、ふと目の前から居なくなりそうな気がした、あのどうしようもない不安。
自分はこれを聞いてもいいのだろうか。知ってもいいのだろうか。知れば失くしてしまうのではないか。なにを? ……誰を?
「絵本の内容は、物語や文章は、俺が書いてるんじゃないんだ」
「え」
「いつも、メールで送られてきたり、手紙、というよりメモみたいな走り書きなんだけど、それが送られてくるんだ、郵便で」
「それって、相手は」
「わからない」
ぽかんと京弥の口が開いたままになる。そんなことが現実にあるのだろうか。まるでミステリー小説かなにかのようだ。
「でも、絵本の作者は月彦さんの名前だけですよね」
「だから、あのペンネームは、共同の名前なんだ。公表してないだけで」
「ああ……、なるほど。そういうことか」
とはいえ、見ず知らずの人間と共同著書なんて、普通は考えない。
作品さえ良ければ出版社は出してくれるのだろう。表に出る役割は月彦が担っていた、というだけのことだ。
「相手を探そうとか、誰か確かめようと思ったことはないんすか?」
「何度もある。
でも、……怖いんだ。知っていいのか、知ってしまうとなにかが壊れてしまいそうで、……怖い」
京弥と同じような不安を月彦も漏らす。自分の両手をぎゅっと握り、それでも震えているのを見ると、それはもう不安というより月彦が言うように恐怖なのだろう。
しかし、普通はどこの誰かもわからない人間からメールや手紙が来る方が不気味なはずだ。
「よく知ってる人だと思った。
不思議と、気持ち悪いとかそういう意味での怖さはなかった。
俺の、よく知ってる人。知ってるのに、なんで俺は思い出さないんだろう。そんな感じ」
京弥は、もしかするとその相手を知っているのかもしれない。しかし、月彦が『忘れている』ことになにか意味があるのなら、無理やり自分の知っている情報だけを伝えてしまうのは、ただの自分の自己満足のような気がする。自分が知っていたい、自分が暴きたい、そういうエゴだという気がする。
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