ストロベリームーン

えん

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月のひみつ

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 ごろごろと部屋の床の上を転がりながらベランダに続く掃きだし窓から灰色の空を見上げる。今日も今日とて朝からバケツの中身をひっくり返したような大雨だ。
 京弥は家事は嫌いな方ではない。
しかし、こんなにも雨が続くと洗濯物は乾かないし、掃除だってしてもしても湿気ているような気がして、やる気は出ない。
 月彦は、どうしているだろう。ちゃんと食べているだろうか。眠れているだろうか。
 あの夜が週半ばの平日だったことを良いことに、仕事がひと段落したことを言い出せずにいた。
 つまり、土曜の今日まで月彦の部屋を訪れていない。
 メッセージは頻繁にやり取りしているけれど、あの夜以前と内容に変化はない。
京弥の「生きてます?」「ごはん食べました?」「ちゃんと寝てます?」などの生存確認に淡々と答えているだけだ。
 月彦の中では本当になかったことにするつもりなのだろうか。そう言いつつ、今まで通りの内容のメッセージしか送っていないのは京弥も同じだ。
 なんとなく、いらいら、もやもやとして、納得がいかない。怒っているのか、悔しいのか、自分だけが舞い上がって勘違いをしていたようで恥ずかしいのか、自分の感情すら判断が付きかねている。
 これでは高校生の頃となにも変わらない。
お互いが自分の気持ちを自分の中だけで終わらせて、相手にはなにも伝わっていないままに関係が疎遠になってしまう。
そして、後から「やっぱりちゃんと伝えれば良かった」と後悔するのだ。
 せっかく再会できたのに、また同じことを繰り返すのか。それでは子供の頃と同じじゃないか。
 月彦は忘れたいのかもしれないが、京弥は忘れたくない。好きな人を初めて抱いたのだから、忘れられるわけがない。
 最初こそ月彦の言葉や態度にショックを受けた京弥だったけれど、よく考えれば、月彦にもきっとなにか理由があるはずだ。
 月彦の気持ちが知りたい。それよりも、とにかく、顔が見たい。会いたい。
 京弥はがばりと勢いをつけて体を起こして、スマホを探した。そうして初めて、月彦からのメッセージのポップアップに気が付いた。
「前に俺が気になってるって話したデジタルアートの個展。
岡野くんも見てみたいって言ってただろ。
一緒に、行きませんか」
 京弥の概念である尻尾は千切れんばかりに回転した。

 個展は、電車を乗り継いで一時間ばかり先の、大型ショッピングビルの中で開かれている展示イベントだった。
 すぐに電話を折り返した京弥の勢いで、二時間後には個展の会場に居た。
 顔を合わせたのはあの夜以来で、なにを話せばいいのか考えあぐねているうちにほとんど言葉を交わさないまま、二人で並んで絵を鑑賞している。
 絵のことは明るくない京弥だが、やはり、月彦の絵を初めて見たときに比べれば心を動かされるほどではない。
上手いとか下手だとかは正直、わからない。AIの技術なのだから、きっと下手だということはないのだろう。
美しい風景や動物の絵などは、写真と見紛うばかりだ。
 ちらりと隣の月彦を盗み見ると、植物に覆われた廃墟の絵を熱心に見ている。
「面白いっすか?」
 そっと隣に立ち、尋ねる。
「うん、水彩じゃこんな風に重ねられないから勉強になる」
 夢中になっている横顔の目の下にはうっすらと隈を作っていて、顔色も悪い。それでも、その目の輝きや真剣さが、月彦の美しさになっているのだと思う。
 やっぱり、ちゃんと寝てないし食べてないのだろうか。
妙な意地を張らず、月彦の部屋に行けば良かった。食事でも掃除でも洗濯でも、なんでも口実にして会いに行けば良かった。
 どんなに気まずくても、こうして隣に居られるだけでこんなにも嬉しい。
顔を見られるだけでこんなにも満足できる。
 自分はやっぱりこの人が好きなのだと何度も再確認してしまう。
 あの夜は確かに幸せだったけれど、そのことだけがきっと愛情や関係性の証明になるわけではない。幸せだったから、その記憶に執着してしまっただけだ。
 大事なのは、こうして隣に居られること。これからも積み重ねていくこと、なんだろう。
「……つまんないか?」
「え?」
「よく、考えたら、俺の趣味に付き合わせた、だけだよな。……ごめん」
 ぼんやりと感慨にふける京弥を見て、つまらなそうにしていると思ったのだろう。
「全然、そんなことないっすよ。楽しいっす。
絵を見て嬉しそうな先輩のことを見られるのが、俺は嬉しいんで」
「えっ」
 月彦の耳やうなじの辺りまでみるみるうちに赤く染まっていく。目は忙しなく泳いでいて、絵よりも自分を意識してくれていることに優越感と満足感を覚える。
「なに、言ってんだ、こんなところで……!」
「絵に関しては正直、俺は先輩の絵の方が好きっすね。
あ、でも、先輩のことが好きだからそういう風に見えるのかな。
じゃあ、俺、もう一生公平な目で絵の善し悪しの判断はできないってことっすね」
 どう思います? と月彦を見る。
 月彦は赤い顔のまま口をぱくぱくさせて何か言いたげだったけれど、諦めたのか周囲に配慮したのか、黙ってしまった。
「これから、先輩の部屋、行っていいっすか」
 少し顔を寄せて耳元で囁くと、月彦が頷いて、二人はまたほとんど無言で月彦の部屋まで帰った。

 まず、はっきりとさせておかなければならないことがある。
 京弥はカウンターのパイプ椅子に座り、いつも月彦が座っているであろう椅子を自分の目の前に置いて、月彦を座らせた。
 月彦はまるで叱られる前の子供か、裁きを待つ被告人のような表情だ。
「先輩」
 びくりと肩を揺らして、月彦がさらに小さくなる。
「まあ、いろいろ聞きたいことも言いたいこともあるんですけど」
 膝頭がくっつく距離まで前に乗り出す。
「これだけは、大事なことなんで伝えておきますね。
俺は、先輩のことが好きです」
「…………え」
 京弥の言葉が予想外だったのか、ぽかんと口を開けて月彦が固まってしまった。
「だから、あの夜のことは嬉しかったっす。
でも、先輩がなかったことにしろって言うなら、いったん記憶の隅に追いやりますね。忘れられはしないっすけど。
でも、ここからまた、頑張るんで!」
「……え?」
「ここからまた先輩に信頼してもらって、先輩が言いたくても言えなかったこと、言いたくないことも全部、こいつなら受け止めてくれるだろうって思ってもらえるように。
頑張りますね!」
 真顔で勢い込む京弥が身を乗り出した分、月彦が体を後ろに引いている。
 月彦を好きという気持ちは、熱で温められた空気のように大きく膨らんでいて、京弥の中でそれ以外のことなど些末なことだと思えた。
「……俺が、身勝手に誘ってヤッたくせに、なかったことにしてって言ったり……。
高校の頃からなにも成長してないよな。
君の反応が怖くて、自分のことを言うのも怖くて……」
「でも、今日は先輩から誘ってくれたじゃないっすか。
俺自身から逃げたかったわけじゃないんですよね」
「に、逃げたいわけないだろ……! 
また、後悔したくなかったから」
 俯く月彦の頬を両手で挟んで上を向かせる。
「先輩、顔見せて。キスしたい」
 びくりと肩を振るわせて、恐る恐るゆっくりと上げられた顔は、潤んだ目元と鼻が赤く、今にも溢れてしまいそうだ。
 顔を近付けただけで、月彦はまるで初めてするように緊張していてたどたどしく、僅かに開いた隙間からそっと舌を差し込んだ。
 キスをしながら目を開けて月彦の様子を盗み見る。舌を軽く合わせて舐め合う程度のキスでも、閉じた瞼や、京弥に掴まれている月彦の手は必死だ。
 京弥が舌を絡めようとしても逃げてしまうからつい深くまで追いかけたくなって舌を深く差し入れた。
「! ……っん!」
 肩をばんばんと叩かれて我に返り、ようやく、しかし名残惜しく唇を離した。
 恥ずかしいからだけではなく、酸素不足で顔を再び真っ赤にした月彦が震える手で口を拭っていた。
「嫌だったっすか」
「! 違っ、……悪い、なんか、緊張して……」
「緊張」
 あの夜も何度もしたのに、今日は控えめというよりも、どうしていいかわからないといった様子だった。
 しかし、その仔猫が舐めくすぐるような舌の動きが可愛らしく、その後も何度もキスをして月彦に呆れられた。
「あ、そうだ。先輩、一つだけお願いがあるんっすけど」
 キスの合間、全身の力が抜けた月彦の体を支えて、手のひらで耳から頬までを包んで、とろとろの表情の額に自分の額をくっつけるようにして切り出した。
「もう、俺以外の人間に先輩のこと触らせたくないし、こんな顔も見せて欲しくないです」
 月彦は一瞬はっとした顔を見せたけれど、黙って頷いてくれた。

 『彼』が起きているときは、月彦はだいたい眠っている。
 逆に、月彦の意識がはっきりとしているときは、きっと『彼』は眠っているのだと思う。
 気が付けば月彦の中には『月彦』と『彼』が居て、一つの体を共有していた。
 体は共有しているけれど心は別で、考え方も性格も違ったけれど、良く似ている部分もあった。
 月彦にとってはこの状態が常で、なんの不自由も不便も不都合も感じてはいなかった。
 どちらの意識が出ているときが誰だとか、そんなことも曖昧だった。
全く意識が途切れるわけでもないし、片方の言動はだいたいもう一方にも伝わっているから記憶も共有できていて、外側で起こる物事を『二人』で共有している、そんな感じだった。
 まだ幼い頃にはお互いに話をしたりしていたけれど、少し成長すれば、自分たちが普通ではないこともわかるようになってきた。
一つの体を使って二人で喋るのは、周囲から見ると異様に見えるのだということに、どちらかが早々に気付いた。
それからは、実際に体を使って喋るのは止めた。
 お互いの思考癖も感情の動きも趣味嗜好まで正確に把握できるものだから、わざわざ言葉にしてコミュニケーションをとる必要性もない。
 思春期に入る頃には、なにも相談し合わなくてもどちらかが表層に出てきているときはもう一方は奥深くに引っ込んでいる、ということを交代でするようになった。
 勘の良い者は、「月彦」が時々別人であるように感じたことがあったかもしれない。
しかし、それも些細な違和感で済んでしまっただろう。
なにより本人の月彦がその状態を把握して受け入れていたので、大仰に狼狽えたり嘘をつくことがなかった。本人が自然に受け入れていることは、周囲にも不自然にはうつらない。
仲の良い者から見ても、「月彦ってああいう場面で人が変わるよな」とか「あいつ珍しく普段食べないようなもの食べてたな」など、翌日には忘れる程度のことだった。
「あー、……聞いてた?」
 京弥が帰ってしまった部屋で、月彦は何年かぶりに明確な言葉で語りかけた。
『最初から最後までしっかり聞いてたけど、どの部分の話だ?』
 独りの部屋で、月彦は恥ずかしさに顔を覆った。
「岡野くんが帰る直前に言ってた話」
『ああ、あのくっそしつこくキスしてる間に“お願い”とか言ってた話?』
「っっっ、……そうだよ!」
 恥ずかしさから思わず自棄になって言葉尻がけんか腰になる。そんな様子をおかしそうに笑っている気配がする。
「この体は俺のものでもあるんだし、もうセフレとかその場限りの遊びみたいなのは今後一切禁止だから」
『あいつ、無邪気そうに見えて意外と自分の顔面の使い方よくわかってるよな』
「……」
『じゃあ、お前がしっかりあいつで発散しないとな』
 余裕ぶった言い回しは、『彼』の特徴だ。
しかし、表面的な言葉の奥の微妙な感情の揺れにも気付く。
自分たちは、趣味も嗜好も、興味の対象も、昔から良く似てる。
だって、どちらも「月彦」なのだから。

***

 大きな仕事やトラブルさえ入らなければ、定時退社は難しくない。今日も六時半には会社を出ると、ビルを一歩出た瞬間にスマホを取り出す。
 むっとした蒸し暑さが肌にまとわりつき、一瞬で汗が吹き出る。
 こんな時期に月彦は水分もちゃんと摂っているのだろうか。呼び出し音が長引くと心配し過ぎてしまうから心臓に悪い。
「……岡野?」
「あ、先輩? 生きてました?」
「ああ。……ふっ、心配性だよな、お前」
 機嫌が良いのだろうか、いつもより少しくだけた話し方だ。
「放っとくと先輩が寝食忘れるからっすよ。
ご飯食べました? ちゃんと水分摂ってます?」
「ちゃんと飲んでるって。熱中症、怖いからな」
「そうっすよ」
 そのとき、月彦の言葉の後ろで喧騒が聞こえたような気がした。
「先輩、今外っすか?」
「そう。どこだと思う?」
 そういう聞き方をするということは。
期待を込めて、きょろきょろと辺りを見回す。
 すると、京弥の会社から数メートルも離れていないビルの一階にあるコーヒーショップから、片手に透明なカップと買い物でもしたのかビニール袋、もう片手にスマホを耳に当てた月彦が出て来た。
 目が合うと軽くカップを持ち上げて見せる。
通話を切り走り寄る京弥を見て、ふ、と口の端を上げて薄く笑った。
「飼い主を見つけて喜んで走って来る犬みてぇ」
「遠からずってところっすね」
「認めるなよ、怒るところだぞ」
「自覚あるんで」
 そうかよ、とまた少し困ったように笑って、月彦はストローに口をつけながら歩き出した。
「なに飲んでるんっすか」
「新作のフラペチーノ」
「甘くないすか」
「甘いよ」
「先輩、甘いの好きなんっすね」
「書いてるときはなぜか甘いの欲しくなるんだよな」
 ん、と京弥の目の前にカップを差し出してくる。
 何度か月彦とストローを見比べて、断る理由もないので、カップを受け取ってストローに口をつけた。
「甘っ、マンゴー?」
「そう。美味いだろ?」
「もしかして、これ飲むために家から出たんっすか」
「人を引きこもりみたいに言うな。
そこは俺のこと待っててくれたんですか? だろ」
「待っててくれたんっすか」
「残念だったな、画材を調達しにきた帰りだ」
 そんなことを言いつつ、用事も終わったのにわざわざ京弥の会社の近くで待っていてくれたらしい。
 スマホを確認してみたけれど、連絡を見逃してはいない。メッセージも着歴も入っていないし、もちろん約束もしていなかったので、もし京弥が残業だったり休んでいればどうするつもりだったのだろうと驚いた。
「別に連絡来なきゃ帰ってたし、前を通れば見えるかな、って……。
なんだよ、そんな顔で見るな。喜ぶな。尻尾を振るな」
 夕暮れと言えど全く日の落ちる気配のない時期なのに、耳を赤く染めた月彦がそれをごまかすように怒った顔で必死にフラペチーノを飲んでいる。
「飯でも食べて帰ります?」
「ああ、いや……。帰って仕事する」
「じゃあ部屋行っていいすか? 飯作ります」
「今日はだめだ」
 いやにきっぱりと断られてしまった。
別に無理やり上がり込んだりはしないし、仕事の邪魔になるというのなら我慢はする。
 しかしそれでは、本当にいったい何のために月彦は待っていてくれたのだろうという疑問が強くなる。
「今度会うときは、もっといろいろやらしてやるから」
 月彦が悪戯っぽい笑みで、京弥の耳に口を寄せる。
「口ではどれだけ恥ずかしがっててもさ、本当はお前にされること、全部嬉しいんだよ」
 街中でそんなことを囁かれて、慌てて耳を押さえる。
 は? 
このままホテルに連れ込んでやろうかとも思ったけれど、本人は素知らぬ顔でフラペチーノを吸っている。
「だからさ、まあ、これからもよろしくな、ってこと」
 これからもよろしくと言っている割に、なんだか寂しそうな表情をする。それが妙に儚げに見えるのは、詐欺だと思う。
「……もしかして、今日、俺に会いたくて来たんっすか」
 これは、月彦なりの甘え、なのではないだろうか。
 ぐっ、と喉にフラペチーノを詰まらせ、月彦がむせる。
「お前のその自信はどっから来るの?」
 フラペチーノを零してたらお前にもう一杯奢らせてた、と月彦がぶつぶつと文句を言っている。
「じゃあ、家まで送ります」
「は?」
「もう少し一緒に居たいなって」
 月彦の住んでいる駅は、京弥のアパートから全くの正反対というわけでもないけれど路線が違うのでややこしい。
 しかし、せっかくの定時上がりだし、このまま駅で別れるのももったいない気がするし、なにより月彦が可愛い。
 これは、もう少し一緒に居たいという自分のわがままで、好きな人と帰る道のりを少しだけ遠回りするようなものだ。
そう言うと、月彦は好きにすれば、とまた怒ったようにそっぽを向いてしまった。
 駅のホームは帰宅する人々で溢れかえっていた。
「この路線も凄い人すね」
「……そうだな。……普段、こんな時間に乗ることねぇから」
 心なしか月彦の顔色が悪い。
 普段、電車のラッシュに無縁な在宅ワーカーで人混みに慣れていないからだろう。
 この時期の満員電車は毎日乗っている京弥ですら乗り物酔いしそうな日もあるほど不快要素が多い。
気温と湿度の上がった満員電車など、慣れていない人間には地獄でしかない。
「やっぱり、どっかで時間潰してずらします?」
「……いや、そんな長時間一緒に居られない」
 青い顔をしているくせに、そんなに仕事の締切に追われているのだろうか。
 電車が目の前で停まり、降りる人を待つこともなく人々が流れ込んでいく。
その波に押し流されるように、仕方なく京弥も月彦とはぐれないようになんとか乗り込んだ。
 反対側のドアまで奥に押し込まれ、京弥の前に居た月彦はドアと京弥の間に挟まれるような位置に収まってしまった。
 月彦を押し潰してしまわないように、ドアに腕をつき必死で人の圧に耐える。
ドアが閉まると人々がパーソナルスペースを確保しようと身じろぐので、ようやく少し隙間ができた。
ほっと息をついて自分の肩口にある月彦の顔を確認すると、頬が赤い。
「大丈夫すか。苦しい?」
「……いや」
 京弥が腕の力だけで耐えているお陰で、月彦のフラペチーノもなんとか守られている。
 乗車率がとっくに百パーセントを超えているだろう車内は、一瞬でも腕の力を抜くと月彦を押し潰して、あろうことか京弥の体で圧死させてしまいそうだ。
 月彦自身はドアを背に京弥と向かい合っていて、足元などは京弥の足に挟まれるほど密着している。
 下りなので徐々に人は減っていくだろうから、大きな駅までこの体勢のまま我慢してもらうしかない。
「フラペチーノ、大丈夫だったすか。押し潰されてたら大惨事すよ」
「フラペチーノの心配かよ」
「いやあ、さすがに俺、先輩を守るのに精一杯でフラペチーノまで手が回らないんで」
 電車が揺れる度に京弥の背中には人の体重が乗っかって来て、その圧から月彦を守る為に常に腕立てをしている状態だ。
つくづく月彦を独りで帰さなくて良かったと思った。
 そんな状態も三駅先の大きな駅までだったが、ようやく適切な距離を保つことができたかと思うとあっという間に月彦の住む駅に着いた。
 ホームに降りると、本格的に月彦の顔色が良くない。
 少しでいいから休んでくれという京弥のお願いで、固いベンチに二人で並んで座った。
 フラペチーノのカップは無事に二人の間に居座っている。
 いつの間にかすっかり日が落ちてしまうと、まだまだ夜風がひんやりと涼しい。
 改札を流れ出て行った人々の姿がなくなると、電車の合間のホームは一時、京弥と月彦の二人きりになった。
 ちらりと隣の月彦を確認すると、ベンチの背もたれに全体重を預け、頭は重力に逆らえず後ろに傾いでいる。顔には京弥の濡らしたハンカチを乗せている。
「大丈夫すか」
「……電車、苦手だったの忘れてた」
「普段引きこもりですもんね」
 反論する気力もないらしく、無言の静寂が返って来る。
もしかすると、電車や人酔いだけではなく寝不足でもあるのかもしれない。
「仕事、煮詰まってるんすか」
「ん」
「絵で煮詰まることってあまりなさそうっすよね」
「絵でもあるけど、今はお話の内容の方」
「ああ、なるほど」
 絵本は絵が描かれて終わりではない。
内容の文章だとか、構成なんかも考えなければならない。
子供向けに簡単な文章で書いてあるけれど、だからと言って簡単に書けるわけではない。
子供にわかりやすく、平易な言葉で伝わるように書くことには相応の技術や努力も必要なのだろう。
「俺、あれ好きですよ。カッコウの話」
「あれ、デビュー作」
 カッコウが托卵した先の、元々そこで生まれた小さな小鳥の雛と、托卵のカッコウの雛の話だ。
 本来、カッコウはほかの雛や卵を巣から落として自分だけが育とうとするのだという。
しかし、月彦の絵本の中ではカッコウと小さな小鳥の雛は一つの巣の中で育って家族になるのだ。
「家族になれて良かったなって思います」
「んー……そうだよな。家族は、大事だよな」
 よし、と顔の上からハンカチを取り、月彦が立ち上がる。
「もう大丈夫そうすか」
「ん、ありがとな。帰るわ。
お前も改札出ないでこのまま反対のホーム行けよ」
 そう言ってさっさと歩き出す月彦の後ろ姿を慌てて追いかけた。その腕を掴んで、階段の陰に引っ張っていく。
「は、え、なに」
 小さな駅のホームの端っこは、電車の車両数によれば乗降口もないし、中央付近にエスカレーターもエレベーターもあるから、この辺りにはほとんど人気がない。
 無味乾燥な蛍光灯が浮かび上がらせるトイレが視界に入る程度だ。
「どうした?」
 コンクリートの壁の窪みに身体を半分押し込まれたまま、月彦は怪訝な顔で京弥を見上げている。
無理やり連れて来られたのに、その表情の中に嫌悪や軽蔑はない。それどころか、どこか心配げに手を伸ばされて、月彦の冷たい指先が軽く京弥の額に触れる。
「お前も気分悪かったか?」
 思わず、月彦の手を掴んで唇を寄せる。
京弥がなにをしようとしているのかを悟ると、月彦の手は京弥の体を遠ざけようと押し、顔は怒ったように反らせる。
「なにしようとしてんだよ、こんな所で」
 だってさっきからずっと我慢していたのだ。
 初めて月彦の方から会いに来てくれて、美味しそうに甘いフラペチーノを飲んで照れくさそうにする月彦が可愛かった。
 電車で密着したのもだめだった。
月彦の匂いや、肌の熱さや、うっすらとかいた汗の滲むこめかみを見ながら、耐えた自分を褒めて欲しいくらいだ。
 月彦を守らねば、という気持ちになったのだ。
決して華奢な女性というわけでもない男の月彦だけれど、圧し潰されないように、腕の中に閉じ込めて守れたというのは、京弥にとっても嬉しいことだった。
 守らねば、という男の単純な使命感と、勝手に反応する男の本能の間で、京弥こそ悶々と板挟みになっていたのだ。
 しかし。
 今夜の月彦は仕事で煮詰まって疲れているというだけではなく、なぜか、なんとなく、京弥と距離を取りたがっているように見えた。
口では調子よく京弥をからかって遊んだりしているのに、京弥には湿っぽくならないように、明るく振る舞っているように見えるのだ。
 京弥の方はどんどん月彦に触れたくて仕方なくなっているのに、月彦は離れようとしている気がする。
 京弥の触りたい欲を感じ取られて引かれているのかもしれない。
「さすがにこんなボロいトイレの個室なんかじゃヤんねぇぞ」
 口の端を僅かに上げて、挑戦的に笑う。
その余裕のある笑みに、京弥の方がどんどん余裕がなくなる。
 あんなに月彦のペースで、と決心したのに、もう触れたくなっている京弥の我慢のなさに気付かれているのかもしれない。
そう思うと、居たたまれないような、開き直って求めてしまいたいような気になる。
「別れる前にちょっとだけ」
「ちょっとだけじゃねぇんだよ。外だろ」
「誰も居ないっすよ」
「だめだって」
「お願い、キスだけ」
 至近距離で、少しだけ俯き加減で申し訳なさそうに月彦の目を見る。
「……っ、とにかく、今日はだめだっつの。また今度な……!」
 そう言う月彦の頬も、蛍光灯の下では赤く見える。耳も、うなじも、かぶり付きたくなるほどに熟れて可愛い。
 月彦は体を離そうと胸元を押しやっているけれど、力はあまり入っていない。
「すいません、後でちゃんといっぱい怒ってくれていいんで」
 勢いに任せてそれだけ言い切ってしまうと、月彦の唇を塞いだ。
「んっ、ぅ……!」
 半ば無理やり舌を差し入れ、強引に腔内の月彦の舌を追う。
 絡めて吸い、歯列の裏側、上顎をゆっくりとなぞっていく。
片手を後頭部に滑らせて、もう片方の手で腰を引き寄せる。
 バシャッと氷だけになっていたプラカップが地面に落ちて二人の足元に氷が飛び散った。
「っん、ん、……ふぁ」
 拒んでいた手が京弥の首に回り、京弥が引き寄せる力に合わせてぴたりと体がくっつく。
 電車の中とはまた違った蒸し暑さがまとわりつくけれど、月彦の匂いが濃く香るから体を離す気になれない。
 月彦の舌も積極的に京弥の舌を求めてきて、すでに知っている快感を追うように正確に性感帯をなぞる。
京弥も月彦の望むまま同じ箇所を探し、丁寧にくすぐる。
 舌を擦り合わせる度に、月彦の体から力が抜け縋りついてきた。
 両腕で月彦の腰を支えるように抱きしめ、一度唇を離した後も名残を惜しむように、軽く啄んだり瞼や首筋にもキスをした。
 京弥の肩口では顔を埋めたままの月彦が大きく息をしている。
「お前……ほんと、しつけのなってねぇ駄犬だな……」
 京弥は無意識にほっと息をついた。
 世の中にはタイミングというものがあると思う。
自分の気持ちや努力ではどうしようもないものは多々あるけれど、今この時、この手を離せば、あるいは、またいつか手に入ると胡坐をかいてしまえば、二度と取り戻せない類のものが、あると思う。
 この夜の月彦が、そうだったのではないかと後になって思う。
 いくらでも怒ってくれていいから、しつけのできてない自分なら月彦がしつけてくれていいから、目の前から居なくならないでほしい。
 離れて行かないでほしい。
 月彦にどんな秘密があってもいいから。
 京弥の胸の内には、月彦に触れたいという欲と同時に、月彦が離れて行ってしまうような、そんな焦燥感が大きく膨らんでいた。
しかし、抱き寄せてキスをしている間に、そんな焦燥感が体温に溶けていくような気がした。
「先輩、好きです」
 びくりと肩が強張り、今度は強い力で引き剥がされた。
「もう、ここでいいから。……またな」
 足元のプラカップを拾い上げると、公園のゴミ箱に投げ捨て、ホームの階段を逃げるように走って行ってしまった。

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