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第3章 案外自分のことなんてわからないもの
12.休日の終わりに
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「それでは、ヴァネッサ様のご無事は確認できたのですね?」
「はい、でもすぐにまた捕まってしまって… すみません」
メラニーさんと一緒に私室に戻ると、扉の前でハンナさんが待っていた。
大方はメラニーさんが説明してくれたんだって。でも逸れている間のことはまだ国王様と宰相さんにしか言っていないから、部屋に入って改めて二人に話した。
王女様に助けてもらったって件で、ハンナさんが思わずっていった感じで押し殺した息をついて目元を拭っていた。
ハンナさん、本当に王女様が大切なんだなぁ。
いいなぁ。お互いを大事に思い合ってるって、素敵だな。
「あなたが謝ることではありません。相手は危険な魔法使い。魔法の使えない者が関われば怪我ではすみません。あなたが無事に戻れた事が何よりです。すべてが最善の形になるよう、きっと陛下が力を尽くしてくださります。それまでは気を抜いてはいけませんよ。特に今回のことは大勢の目に触れています。城の中という限られた空間だけだった今までとは予想のつかない事態もあり得ることでしょう。あなたの身にふりかかる危険も含めて、私たちも一層気を引き締めねばなりません」
ハンナさんは切り替えも早い。
私は大きく頷いた。
国王様にも約束したもん。
最後まで頑張る!
「そうだ、ショウコ。これを渡しておくわ」
そう言ってメラニーさんが渡してくれたのは二つの紙袋だ。
フォビス通りの紅茶屋さんと宝石屋さんで買ったやつだ。
街を歩いている間はイアンさんがずっと持っていてくれたんだ。
「ありがとうございます!」
宝石屋さんの袋を開けると、一番上にメッセージカードが乗っていた。
普通の紙じゃなくて、なんだかいい匂いがする。
宝石屋さんのおじいさん、お洒落だなぁ。
『貴女の大切な方々に幸あらんことを。貴女にショーリアの導きがあらんことを』
そう書いてあった。
文言はもちろん手書きで、おじいさんの柔らかい微笑みが浮かぶような温かみを感じた。
お客さんへの定型分って言っちゃえばそれでおしまいかもしれない。でも、たとえどのお客さんに対しても同じ文だとしても、おじいさんが心からそう言ってくれているってわかる。だって、おじいさんは私の思いを汲み取って宝石を選んでくれたんだもん。
たまたま出会っただけの見ず知らぬ人にこんな風に思えるって、凄いな。
私もこんな風に言えるようになりたいな。
またもや目頭が熱くなるのを堪えて、中身を出していく。
小分けに包まれた小さな箱には、それぞれ宝石の名前が書かれた紙が挟まれていた。開けなくてもわかるように、そしてすぐに外せるようにっていうおじいさんの気遣いだ。
アラゴナイトと書かれた紙を外して小箱を取り出し、私はハンナさんの所へ行った。
「ハンナさん、これお土産です」
「お土産はいいと言ったじゃありませんか」
なんて言うけど、ハンナさんの顔はちょっと嬉しそうだ。
私もつい笑っちゃった。
「根性が曲がってた私にチャンスを与えてくださってありがとうございます。ハンナさんのおかげでいっぱい学べたし、必死に頑張るって楽しいんだって気づくことができました。ひねくれた性格ですけど、ちょっとは真っ直ぐになったと思います。でも私、何かあると絶対に落ち込んだり浮かれたりうっかりすると思うので、これからも厳しく指導してください」
「…開けても?」
「はい」
ハンナさんは言葉少なく、丁寧な手つきで小箱を開けた。
橙色のアナゴライトが嵌め込まれたブローチが現れる。アナゴライトを包むように蔦が囲っていて、たくさんの小さな花を咲かせている。花の中にも小さなアナゴライトが入っていて、光に当てるとキラキラする。
「私、宝石のこと詳しく知らなかったんですけど、これはアナゴライトっていう宝石です。店主のおじいさんが母性の石だって教えてくれました」
「母性…」
ハンナさんは小さく呟いてじっとブローチを見ている。
「橙色がハンナさんにぴったりだなって。それにハンナさんは王女様とか侍女さんとかたくさんの人を育てて、その人たちはみんな輝いているじゃないですか。それが蔦が咲かせるお花みたいだなって。だからこれを見た時、絶対にハンナさんにはこれ以外…」
話している最中、突然ハンナさんが私を抱きしめてきた。
えっ、えっ?!
「…ありがとう。大切にします…」
耳朶に響く声が震えている。
ハンナさんの肩越しにメラニーさんが微笑んでくれている。
私は戸惑いながら、ハンナさんの背中に手を回してそっとさすった。
やがて、ハンナさんが身を離した。
「取り乱しました。職務に戻ります。今日は疲れたでしょう。ゆっくり休みなさい」
早口に言って足早に部屋を出て行ってしまった。
「ショウコ、やったわね」
足音が聞こえなくなるのを待って、メラニーさんがにこやかに言った。
「あのハンナ様の心を抑えられないくらい揺さぶるなんてすごいわ」
「そ、そんなことないですよ! …メラニーさんにはこれです!」
なんだか気恥ずかしくて、私はそそくさとルビーの小箱をメラニーさんに渡した。
「あら、私にも?」
「はい! メラニーさんがいなければ私、絶対にハンナさんに認めてもらうことできませんでした。私、一人っ子で兄弟はいないんですけど、なんだかお姉さんができたみたいで、毎日楽しいです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
早速メラニーさんが開ける。
猫のブローチを見て「ルビーね。素敵」と呟き、すぐに胸に付けてくれた。
嬉しいけど、職務規定みたいな服装の決まりとか大丈夫なのかな。
「いいんですか?」
「もちろんよ。咎める人は誰もいないわ。ハンナ様だって付けたくて仕方がないはずだもの。注意なんてできるはずがないわ」
メラニーさんは自信満々で言うけど、本当に大丈夫かなあ?
そこまで考えて、私はあることに思い至った。
「あ! でも他の侍女さんたちもいますよね。その人たちにやっかまれたら…」
王女様と入れ替わってから、極秘事項ということで私に関わる人は最小限に抑えられていた。だから身の回りのお世話をしてくれる侍女さんはメラニーさんしか知らないんだけど、本来ならもっといるはずだよね。会ったことはないけど、その人たちに何もなくてメラニーさんだけ付けてたら、何か言われるかもしれない。
そう思ったんだけど、メラニーさんは自信満々の笑みを崩さない。
「心配いらないわ。むしろ羨ましがって自分たちも付け出すだろうから」
「そういうものなんですか?」
「そういうものよ」
メラニーさんは軽く言うけど、中学三年間いじめられ続けてきた私にはとてもそうは思えない。メラニーさんが妬まれたり仲間外れにされないか心配になっちゃう。
話は少し逸れるけど、私が元の世界に戻った後、侍女の間でブローチをつけることが流行することとなる。
さらには年齢を問わず貴族の女性たちにまでそれは広まり、身嗜みの一つとしてサフィニアに定着して一大文化にまで発展することになるんだけど、それはまた別の話だ。
ブローチを満足そうに見下ろしたメラニーさんは、ポケットから何かを取り出した。
「それじゃあ、私からはこれね」
そう言って私の手の平に置かれたは、小ぶりの宝石がついたブレスレットだ。
青みがかった半乳白色の石と、明るい橙色の中にラメみたいに輝く不思議な石が組み合わされている。
「すごい綺麗ですね…」
「これはブルームーンストーンとサンストーンという石よ。その名の通り、月と太陽の力を持つ石と言われているわ。あなたに幸運と女性らしさ、自信と行動力を与えてくれるわ。それから…」
言いかけたメラニーさんはわざわざ私の耳元まで来て囁いた。
「恋の成就にも、ね」
「メ、メラニーさん?!」
いきなり打ち込まれた言葉に、私は慌てふためいた。たぶん一気に顔が赤くなったと思う。自分でも頰が熱くなったのを感じたもん。
本当にこの人は…
不意打ちが得意で困る!
クスクスと笑いながらメラニーさんは離れた。
「手のかかる妹へ。もっと自信を持ちなさい。あなたの知識に。あなたが身につけた作法に。過去に何があったかは聞かないけれど、人間いい時も悪い時もあるわ。前向きな気持ちになる時も暗い気持ちにしかなれない時もね。けれど暗い顔は幸運を遠ざけるわ。どんな気持ちの時も、自信を持って顔を上げなさい。自分自身が信じられないのなら、あなたを信じてくれる人を信じなさい」
「メラニーさん…」
気づいたら涙が溢れていた。
「ありがとうございます。大切にします」
「どういたしまして。…さて、私も仕事に戻るわ。色々あって疲れたでしょう。ハンナ様もああ言っていたことだし、のんびりしなさい。今日は息抜きのための一日なんだからね」
メラニーさんも部屋を出ていくと、急に部屋が物静かに感じちゃった。
時刻はそろそろ夕方ってところ。
あと二時間もすればメラニーさんが夕食を運んできてくれる。
二時間か…
こんな何もない時間ってすごい久しぶりな気がする。
前だったら喜んでいたはずの時間が、今はなんだかすごくもどかしい。心が落ち着かないや。
ハンナさんに怒られるなと思いながら、私はベッドに倒れ込んだ。
急にポッカリと空いた時間は、そのままわたしの心にもポッカリと大きな隙間を作った。
そこにドロリと流れ込んできた声。
「醜聞…」
魔法師団長さんの声が脳裏に反響する。
「恋の成就…」
メラニーさんの言葉が木霊する。
うん、もう無自覚ではいられない。
私、イアンさんが好きなんだ。
初めは柔らかい物腰でなんでも話せるお兄ちゃんみたいな印象だった。
いつから変わったんだろう。
ううん、もしかしたら勘違いしていただけで最初からそうだったのかな。
イアンさんのことを思った時、どうしようもなく弾む心がある。胸が熱くなる。
早くイアンさんに会いたい。
もっと喋りたい。
あの夜みたいにダンスしたい。
底のない我がままばっかりが胸を締め付ける。
でもダメだ。
私は今、王女様の身代わりをしている。
そしてこの体は私自身じゃなくて王女様自身の体だ。
魔法師団長さんが言った通りだ。
この暴走する感情が、王女様のフリを完璧じゃなくさせる。
婚約前の王女様にあらぬ醜聞が噂されたら?
もしそれが来訪するサイネリアのユージン王子の耳に入ったら?
王女様の結婚生活がめちゃくちゃになっちゃう。
私のせいで、王女様の人生が狂っちゃう。
ううん、それどころか婚約自体破談になる可能性だってある。もしそうなったら王女様だけじゃなくてサフィニアの未来も狂ってしまう。
私のせいで。
私の身勝手な行動のせいで。
そんなの絶対にダメ。
人を狂わせるのも、そのせいで自分が狂うのも、もう嫌だ。
私は手で顔を覆ってまぶたをきつく閉じた。
まぶたの裏にイアンさんの笑顔が浮かぶ。
私が真実を知って逃げ出したあの日。
「あなたならできます」って言ってくれたイアンさんの声が蘇る。
この感情を閉じ込めたくない。
絶対に嫌だ。
だってもうじきイアンさんと永久に会えなくなっちゃう。
王女様を救出できたら、私は国王様の秘儀によって元の世界に返される。
ずっとこの世界にはいられない。いる場所もない。
その日は明日かもしれない。明後日かもしれない。
もう数えるほどしか会えないのに、素知らぬ態度を取らなきゃいけないなんて。
イアンさんと親密だと誰かに思われるような態度をしちゃいけないなんて。
でも、それがみんなにとってもいいことなのかもしれない。
永久に会えないとわかっていてイアンさんに告白なんてあり得ない。そんなの迷惑なだけだ。
だって醜聞がつくのは王女様だけじゃなくてイアンさんもだもん。
もし王女様とただならぬ仲みたいな噂が広まったら、イアンさんがここにいられなくなる。イアンさんの人生がめちゃくちゃになる。
私は震えるように息を吐き出してベッドから立ち上がった。
化粧台の前に立って、鏡を見る。
凛とした顔立ち。
華やかな赤い髪、サフィニアの海みたいに青い瞳。
この体は王女様の体。
本当の私じゃない。
私はイアンさんが好き。
王女様を助けたいっていう気持ちも本当。
でも、どっちを優先しなきゃいけないかってことは、考えなくたってわかる。
「私はサフィニア王国の王女、ヴァネッサ・フィア・サフィニア。今は、藤崎翔子じゃない」
言い聞かせるように呟く一言一言が、どうしようもなく鋭く私の胸を抉った。
どのくらい経った頃かな。
メラニーさんが部屋に戻ってきた。
「ヴァネッサ様、お休みのところ申し訳ございません」
その口調で、私もスイッチが入る。
すっと背筋を伸ばして表情を引き締めた。
「魔法師団長様が面会を望まれております。如何致しますか?」
「構いません。入室を許可します」
メラニーさんが扉を開けると、紺色のローブを着た魔法師団長さんが足早に入ってきた。
「街であったことを。特に王女とアランに関わることを詳しく話して」
魔法師団長さんは挨拶もなしにいきなりそんなことを言ってきた。
ついさっき国王様の執務室で会った時に見せた人を小馬鹿にしたような態度がどこにもない。むしろ怒っているような表情で、私は内心訳もなく動揺した。
え、何?
私何かしたっけ?
「ちょっとアル! 挨拶もなしにいきなりそんなことを! あなたは人を労るということを知らないの? ショウコは病み上がりなのよ?」
珍しいことに、メラニーさんが砕けた口調で怒ってる。
そういえば、メラニーさんのお兄さんの元婚約者なんだったっけ。子供の頃からの付き合いなら、こんなに親しい口調なのも納得だ。
でも魔法師団長さんの返事はにべもなかった。
「そんなもの海に撒いたってレナイアも食わないさ。労って何になる? ただの時間の無駄。答えて」
改めて見ると、魔法師団長さんの目はいつになく真面目に感じる。
そうか、怒ってるんじゃなくて真剣なんだ。
魔法師団長さんにとって重要な何かがあの事件の中にあるってことかな。
それなら、私もちゃんと応えなきゃ。
「メラニーさん、大丈夫です。お話しするだけですから。魔法師団長さん。あったことをお話しします。でもその前に教えてください。あなたが魔法学院で一緒に学んだアラン・コリウスさんはどんな人ですか?」
途端に魔法師団長さんの顔が不機嫌になった。
「質問してるのはこっち。無駄なことは…」
「無駄じゃありません。大事なことです。街でアランさんに会いました。少しだけ会話もしました。でもアランさんを捕まえればすむ話じゃないって感じたんです。ですから少しでもアランさんのことを知っておきたいんです」
でも私も譲らない。
しばらく睨み合っていたけど、先に魔法師団長さんがため息をついた。
眉間のシワを深めて、メラニーさんに「椅子!」と怒鳴る。
侍女の鏡であるメラニーさんはすでに用意していた椅子を魔法師団長さんの側に置いた。
それにどかっと行儀悪く腰掛けた魔法師団長さんが、腕組みをして私を睨む。
残念でした。
全然怖くない。
またため息をついて、魔法師団長さんはフードを外してガリガリと頭を掻いた。
露わになった魔法師団長さんの表情は、ちょっと膨れっ面だ。
うんこうして見るとやっぱり美人だなー。羨ましい。
「驚いた。あんた同一人物?」
「皆様のおかげで多少マシになったと思っています。特に魔法師団長様のおかげで王女様の真似はかなり上達しました」
チクリと嫌味を言ったら、魔法師団長さんは舌打ちをして「面白くもない」なんて呟いた。
「確認だ。アランに会ったんだな?」
「はい。王女様の魂を誘拐したのは間違いなくアランさん、そして背後にはドラセナがいます。でもアランさんはドラセナの魔術師とは異なる行動を取っていました。市場で私を助けてくれて、でもその後また王女様の魂を攫ったんです」
魔法師団長さんが荒いため息をついた。
「…あいつは昔からそうだ。平民の出だから口は悪いし態度も悪い。でもやけにお節介で首突っ込んでくる割に本心を隠すから周りと軋轢を生む」
「…意外ですね」
「何が」
「魔法師団長さん、ちゃんと人を見れるんですね」
その瞬間、側に控えていたメラニーさんが吹き出した。
うわ、こっちも意外。
侍女の鏡のメラニーさんがこんなことするなんて。
そんな私たちの反応を前にして、魔法師団長さんが眉間に皺を寄せて半眼になった。
「あのねえ。確かに僕は他人に興味ないよ。むしろ自分にも興味ない。興味があるのは魔法だけさ。けどみんな滅んでしまえとは思ってないの。僕がまともに生活できてるのはごく少数のお節介のおかげだってわかってるからね。…メラニー、いい加減笑うのやめたら? 僕に失礼だと思わないの?」
「ご、ごめんなさい…。でも、本当にショウコの言う通りなんだもの…。あなたがそんなに周りの人間関係を認識できているとは思わなくって…」
じっとりと視線を向けられたメラニーさんは、それでもまだ肩を震わせている。
「ああやだやだ! ロイも陛下も、ついでに護衛の坊やも僕のことをなんだと思ってるんだ! こんなに純粋無垢な人間どこを探したっていやしないのに!」
魔法師団長さんは天を仰いで嘆くけど、私もつい吹き出しちゃった。
ごめんなさい魔法師団長さん。
めちゃめちゃ面白いです。
「ちょっと。あんたのせいで話し進まないんだけど?」
「す、すみません。えっとそれでですね、魔法師団長さん…」
「アルでいいよ。まどろっこしいのは嫌いだ」
「えと、アル、さん?」
「何それ気色悪い。アルでいいって言ってんの」
相手を呼び捨てにするのは家族かよほど親しい人っていう環境で育った私には、いきなり呼び捨ては抵抗があるんだけど。しかも魔法師団長さんの方が年上だし。
でも本人が呼べっていうなら、そうしないといけないかな。
「アル…、アルバートさん」
やっぱり無理!
魔法師団長さんのこと全然知らないし、会話もほとんどしたことないんだよ?
いきなり愛称でなんて呼べないよ!
「いいって言ってんのに。変なやつ」
って呆れられたけど、無理なものは無理!
「すみません。年上の方を呼び捨てにするのはどうしても慣れなくて…」
「まあいいけど。…じゃあイリーナって呼んで。アルバートさんなんて気色悪すぎる」
「イリーナって…」
「僕のミドルネーム。男が欲しかった父がアルバートって命名して、それを不憫に思った祖母がミドルネームに入れた名前さ。滅多に使わないけど」
「それじゃ、えっとイリーナさん。お聞きしたいのは、アランさんは王女様のことをどう思っているんですかってことなんですけど」
「そんなの知らないよ」
「じゃあ好きか嫌いかで言ったら?」
「好きかは知らない。でも嫌ってたら魔法学院時代にあれだけ一緒にいないでしょ」
「その当時って、皆さんどんな感じだったんですか?」
「どうって言われてもなあ。普通だよ。アランと一緒に池の水を氷山に変えようとして爆発して王女に怒られたり、魔法の効力を確認したくてアランに向けて魔法撃ってたら芝生が穴だらけになって王女に怒られたり」
それって普通って言うかなあ?
「…ちなみにどうして池の水を凍らせようとしたんですか?」
「暑かったから。どうせなら大きな氷にした方が学院全体が冷えていいんじゃないかと思って。僕って優しいだろう?」
「…攻撃魔法って禁止されてますよね? なんでアランさんに向けて撃ったりしたんですか?」
「禁止されてるけど使えない訳じゃない。人を殺傷する魔法は僕も願い下げだけど、どの程度の威力なら軽い失神を起こせるのか実験してたんだよ。戦いで人を殺す魔法が禁止されて回復魔法だけが許されてるなんて前時代的だよ。でも頭の硬い魔法学院のじじいどもはどれだけ言葉を噛み砕いたって納得しないからね。気絶させるだけだったら理解できるかと思って」
魔法師団長さん改めイリーナさんには彼女なりの筋の通った考えがあって魔法を使ったらしい。
でもその規模がおかしい。
失神させられるために魔法で攻撃され続けたアランさんがちょっとかわいそうになってきた。きっと死に物狂いで逃げまわったんだろうなあ。
「アランはよく王女と後始末してたから、まあ仲はよかったんじゃない?」
すごく他人事のように言うけど、イリーナさんもそこに含まれてるって、本人気づいているのかな?
王女様もアランさんも、イリーナに散々な目に合わされて時にはお仕置きもしたけど、でも今もずっと親交は続いている。
アランさんもイリーナのことを毛嫌いしているような言い方してたけど、卒業までずっと一緒にいたってことはそういうことだよね。
なんだかんだ言って気の合う人たちなんだろうな。
いいなあ。
私も小学生の頃にすごく仲のいい子がいた。家が近かったから登下校も一緒だったし、お互いの家に行って遊んだり、休みの日に出かけたり。好き嫌いのはっきりした子だったから、時には喧嘩もしたけど、卒業までずっと仲良しだった。
その子は子供用の携帯電話を持っていたけど私は持ってなかったから、連絡先も知らないまま引っ越しちゃってずっと連絡をとっていない。
元気かなあ。
引越し前の町の高校に通うようになったら、またいつか会えるかな。
つい懐かしさがこみ上げてきちゃった。
私は気を取り直してイリーナさんに質問した。
「仮定の話ですけど、もしアランさんがドラセナの魔法使いとして…」
「それはない」
言いかけた私の言葉を、イリーナさんは即座に否定した。
「あいつは一匹狼だから。僕も群れるのは嫌いだけど、研究のための環境が整ってるから魔法師団に入団した。でもあいつは組織ってやつが嫌いなんだ。たぶん育ちが影響してるんだと思うけど。…一度だけ何かの話で言ってた。あいつはドラセナに恩も感じてなければ帰る気も貢献する気も欠片もない。ただドラセナにいる家族のことは気にしてたかな。自分を売った奴らなんてなんで心配してやるのか全然わかんないけど」
アランさんが家族のことを心配してた?
あ!
そういえば王女様が言ってたじゃん!
アランさんの家族を、って。
「イリーナさん、王女様がアランさんに囚われる間際に言ってたんです。アランさんの家族をって。途中で聞こえなくなっちゃったんですけど、どういうことだと思いますか?」
「アランの家族? 家族…。…ふぅん、あいつが気にするならそこが原因で間違いなさそうだね」
イリーナさんは何か一人で納得して頷くと「次は僕の番だよ」って話を変えられちゃった。
「アランをどこで見つけた? どんな表情で何を喋ってどう行動した? 詳しく話して」
質問の答えを聞こうとしたけど、イリーナさんの矢継ぎ早の要求に流されて言うタイミングを逃しちゃった。
仕方なく、昼食を食べた食堂で見たところから話した。
ドラセナの魔法使いの魔法の話になると身を乗り出して細かく質問されたけど、魔法がどういう物かわからない私には説明しようがない。ただ見た感じを言うしかなくて、すごいがっかりされた。
アランさんと喧嘩している最中に王女様に怒られた話になると「ぷぷ。いい気味」って笑っていた。
そういえばこんなに長く会話していてここまであの小馬鹿にした態度って見てないなあ。
「なるほどね。大体わかった。アランの馬鹿め。あいつの悪い癖のせいでこっちがいい迷惑だ。卒業してからこんなことになるんなら首輪でもつけときゃよかった」
んん?
なんか聞き捨てならないことを言ってるけど気のせい?
聞き返そうかと思ったけど、それより早くイリーナさんが何か頷きながら立ち上がった。
「イリーナさん! 私まだわからないことが…」
「あんたが気にしてんのはアランが今回の事件でどう絡んでいるかってことだろ。問題ないよ。そこを見誤るほど馬鹿じゃない。邪魔したね」
あっさりとした口調で言って、イリーナさんは足早に部屋の扉まで行った。
扉に手をかけた時、フードを被りながら「まあ、ちょっとは休んだら?」なんて言って、出て行っちゃった。
「不思議な人ですね。前にお話しした時は王女様のこと馬鹿にされた腹立たしかっただけだったんですけど」
「私も今驚いているわ。ミドルネームなんて今まで一度も聞いたことがないし、ましてや人を馬鹿にせずに会話してるところなんて初めて見たわ」
私とメラニーさんはお互いに顔を見合わせて笑った。
イリーナさんが出て行ってすぐに、別の来客があった。
「陛下の使いで参りました」
と慇懃な物腰で言う男性は国王様の侍従の人だ。
「陛下よりお茶会のご招待を預かってまいりました」
え、こんな時間に?
だってお茶会って昼食と夕食のちょうど間に開かれるもので、実際最初に国王様にご招待していただいた時も午後三時だった。
でも今は四時過ぎ。お茶会には遅すぎる。
何かあったのかな。
犯人捜索の進展とか、儀式が整ったとか。
それならお茶会って形式はおかしいよね。
ちょっと無言になっちゃったのをどう取られたのか、侍従さんが続けて言った。
「お疲れのことと存じ上げますし、陛下も無理にはよいとのことです」
「いえ! 全然問題ありません。ぜひ行かせていただきます!」
「それではご案内させていただきます」
え!
もう?!
「ヴァネッサ様。行ってらっしゃいませ」
完璧侍女のメラニーさんが優雅に頭を下げる。
「後を頼みます。…よろしくお願いします」
私はテーブルに置いたままの紅茶屋さんの袋と、宝石屋さんの袋から小箱を一つ取り出して侍従さんの後について部屋を出た。
「ようこそ。このような時間に招いて申し訳ない」
前回と同じお庭の四阿で、国王様は前回と違って立って迎えてくれた。
「とんでもございません。お招きいただいて光栄でございます」
「ハンナのレッスンは順調のようだな。随分言葉遣いも板についてきたようだ」
「ありがとうございます。…ハンナ様には大変よくしていただいております」
「ここには事情を知る者しかおらん。君も気楽にしなさい」
「はい、ありがとうございます」
早速紅茶が運ばれてくる。
ハンナさんがいないから、今回は国王様の侍女さんが運んできてくれる。
鼻を抜けるようなスッとした匂いの紅茶だ。
お茶菓子はクッキーが三種類と小さなカップが可愛いゼリーだ。
「サフィニアの街はどうだったかな」
紅茶を一口とクッキーを食べた国王様がそう聞いてきた。
「街並みがすごく素敵でした。それにお店の人たちもみんな上品で心がこもっていて、私、何度も通いたくなりました」
「それはよかった」
儀式の準備とかで忙しいと思ったけど、大丈夫なのかな?
なんてことを思いながら、私は部屋から持ってきた物をテーブルに置いた。
「あの、もしご迷惑じゃなかったらなんですけど、お土産を買ってきたのでもらっていただけますか?」
我ながらめちゃくちゃな言葉遣いだなあ。
でもどう切り出していいかわからなかったし、勢いで言うしかない! って思ったらこんな言葉になっちゃった。
国王様は目を見開いて驚いている。
「私に、お土産、と?」
「は、はい。…あ! あのでもすごく美味しかったんですけど王室御用達の最高級品じゃないですしもしかしたらお口に合わないかもしれないので、無理にってことではないんですけど!」
出してから気づいた!
相手は国王様だよ?!
食べるものも身につけるものも最高級品に決まってる。お土産って言葉が最も似つかわしくない相手じゃない!
私なんで小学生の修学旅行気分で買ってきちゃったの!
「ふむ、この香りはカモミールか」
残念ながら紅茶の小袋はすでに国王様の手の中。
その間にこっそり小箱を膝の上に戻そうとしたけど、国王様は目敏く「それは?」と指摘してきた。
「これは、その…、アクセサリーです…」
私は観念して小箱をテーブルの上に戻した。
「開けても良いかな?」
「はい、でもその、やっぱり高いものではないと思いますし、陛下が身につけるには相応しくないものかもしれませんし…」
ダメだ。
何か言わなきゃと思えば思うほど、変な言い訳みたいな言葉ばかり出てくる。
小箱を開けた国王様は「ほう…」と声を漏らした。
「美しい色だ。この鮮やかな深い青色は、もしやラズライトかな?」
「そうです。ご存知なんですか?」
「魔法と宝石は切っても切り離せぬもの。魔法使いは必ず杖に宝石をつける。己と相性の良い宝石、あるいは使う魔法と相性の良いものをな。故に、宝石には詳しくなるのだ」
知ってることにもびっくりしたけど、魔法と宝石の関係ってあまり聞いたことなかったから、私はちょっと興味を惹かれた。
あー、魔法使えたらよかったのに。どんな感じなんだろう。
夢の中で王女様と魔法師団長さんのやり合いとか、街で逃げる時にイアンさんが魔法使ってたのとか見たことはあるんだけど、どれもちゃんと見たことはなかった。元の世界の創作にもあるような属性とかあるのかな。
「ラズライトは静寂だったか。なぜこの宝石を選んだのかな?」
国王様と話している最中なのにうっかり思考が飛んでいく所だった。
私は慌てて宝石店のおじいさんの言葉を思い出した。
「強い愛情と父性っていう宝石言葉もあるんです。それを聞いた時に、王妃様や王女様をとても大切になさっている陛下の顔が浮かんだんです」
「それは、嬉しい言葉だ」
国王様はそう言うと小箱からブレスレットを取り出してそのまま左腕につけた。
「ふむ、馴染みも良い。君が選んでくれた物だ。私に合わぬわけがない。大切にしよう」
「あ、ありがとうございます…」
まさかこの場でつけてもらえるとは思ってなかったからまたびっくりした。
それにしてもその仕草といい台詞といい、本当に国王様って女性への気遣いが半端ないなあ。
こんなにさらりとフォローしてくれる人って他にいるのかと思ってしまう。
国王様の侍女が次の紅茶を持ってきて入れてくれた。
またまた驚き。
カモミールだ。
「せっかく君が選んでくれたのだ。いただこう」
いつの間に侍女さんに渡していたんだろう。全然気がつかなかった。
一口紅茶を飲む国王様の表情は穏やかだ。
よかった。気に入ってもらえたかな。
「不思議なものだな。このようなやりとりは初めてだ」
「すみません、根っからの庶民で失礼なことをしてしまって…」
「失礼なことなど。むしろ新鮮に感じているよ。君と話しているとこちらも気持ちが若返りそうだ」
自分の考えの浅さが目についてさっきからつい「すみません」ばっかり言っちゃうけど、国王様のフォロー力半端ない。
国王様って本当に紳士だなー。
「知っての通り、私は国王で娘は王女だ。一般の親子とは関係性も異なる。差し支えなければ、君のご両親について聞いてもいいかな?」
「ごく普通ですよ。父は工場で働いていて、母は学校の先生をしてるんです」
「どちらも立派な仕事だ。工場で働く者がいなければ経済は回らぬ。未来ある子供達を導く教師なくては子供達の夢が閉ざされ文化は発展せぬ」
そっか、そういう見方もあるのか。
国王様に言われるまで、両親の仕事がどんなことに貢献しているのかなんて考えたこともなかった。
「でもしょっちゅう喧嘩してます。少し前は収入のことで口論してましたし、私も頭が悪くてしょっちゅう叱られるんです。昔は仲が良かったんですけど…」
「ならば問題なかろう」
他に言葉が思いつかなくてついついネガティブなことを言っちゃったけど、国王様はさらりと言った。
「そんなことありません。もしかしたら離婚するかもしれませんし…」
「君はご両親に離婚して欲しいのかね?」
「それは…、どう、でしょう…」
両親の口論を聞いて漠然と離婚の二文字を思い浮かべていた。確かに小学校高学年になったくらいから叱られてばかりで、引越しのことが決定的になって両親のこと大嫌いだった。
でも、サフィニアに来てからは不思議と昔の仲が良かった両親のことばかり思い出すんだよね。
あの時は離婚なんて欠片もなかったし、ずっと続くと思っていた。
何がきっかけで喧嘩するようになったんだろう。
「昔は喧嘩なんて見たことありませんでした。両親と一緒に夜に星を見に行ったり、子供の頃のことを思い返すと楽しかったことばかりなんです。でもいつからか夫婦喧嘩が増えて、私も叱られてばっかりになって、息苦しい家庭になりました」
「息苦しい、か…」
国王様は少し遠い目をして呟いた。
もしかして感じたことがあるのかな。
「陛下は息苦しいと感じる時、ありますか?」
そう聞いたら、国王様は苦笑して「いかんな」って言いながら眉間の皺を指で伸ばす仕草をした。
「ないとは言えんな。国王という立場上、常に国のことを考えねばならぬ。己の感情が否と言おうと、国のために是であるならばそれを通さねばならぬ。国を助く貴族を前に、例えその貴族への好悪の情があろうと表に出してはならぬ。私利に動く王に民はついてこぬ。儘ならぬことの多いものだ。…最も、最近は年のせいか昔より感情が出てしまうのが悩みどころだがな。君にも嫌な思いをさせてしまった」
最後に自嘲気味に言ったのは、私が王女様になって初めて国王様に謁見した時のことかな。あの時の国王様、本当に激怒してたもん。
「いいえ! あの時は私がいけなかったんです。何が起こったのか理解しようともしなくて、自分の苛立ちに突き動かされていたんです。失礼なことばかり言って本当に申し訳ありませんでした」
「顔を上げなさい。そのことについての謝罪はもう受けた。そして私もそれを許したのだから」
でも国王様と王女様って本当にそっくりだよね。
自分のことよりも周りや国のことを第一に考えて行動しているところとか、考え方がまったく一緒なんだと思う。
国王様も息苦しいって感じるんだもん。王女様も感じてるんだろうな。それできっとストレス発散が一人でダンスすることなんだ。
「陛下には好きなことってありますか?」
「そうだな。…ここで、紅茶を飲むことだ」
国王様は答えるまでに少しだけ間があった。何か懐かしむような口調だったけど、もしかして王妃様のことを思い出したのかな。本当は王妃様と四阿で紅茶を飲むのが好きなんだろうな。
でも王妃様は亡くなられてしまったから、その願いはもう二度と叶わない。
好きな紅茶は飲めるけど、本当の意味で国王様の心を癒すティータイムは無くなってしまったんだ。
「長く生きていると苦しいことも多い。それが絶えず続けば息も詰まり、心の余裕を失い闇に閉ざされてしまう。周りも見えず聞こえず、己自身も見えなくなってしまうものだ。ちょっとしたことが腹立たしく思うようになる。そんな時は紅茶を一杯飲むといい。紅茶でなくてもいい。一息つく時間を作ることだ。そうすれば、君のご両親も心にゆとりを取り戻せるだろう」
国王様が紅茶を一口すする。
「うむ、いい香りだ」
私も紅茶の匂いを嗅いだ。
柔らかくて清涼感のある香りが鼻腔を撫でていく。
「匂いってこんなに落ち着くものなんですね」
ふと思い出したのは、子供の頃に入ったお風呂の匂いだ。
母や父と一緒に入ったお風呂で、頭を洗ってもらった時のシャンプーの匂いが急に蘇った。匂いにつられてその時の光景がはっきりと浮かび上がる。
子供の頃に幸福を感じた匂い。
こんなにささやかで、でも確かにあったんだ。
幸せだって感じた瞬間が、幾つもあったんだ。
「陛下、お茶会にご招待していただいて本当にありがとうございます。おかげで大切なことを思い出せた気がします」
「心に影がある時、それが君の支えとなるだろう。大切にしなさい」
「はい。…最後に一つだけお聞きしてもいいですか?」
「うむ? 何かな?」
お節介かな。
間違いなくお節介だ。
でも、どうしてもダメなんだ。
紅茶を飲む国王様を見ると、苦しそうな表情をする王女様の姿が脳裏に浮かんで離れない。
一昨日の夢の中で、王女様がダンスを見せてくれた時のことだ。
一人で軽やかに踊る王女様はすごく生き生きとしていて、でも今思えばどこか陰を感じた。
王女様、きっとあの姿は私以外誰にも見せないし、これから先誰かに見せることもないんだと思う。
でもそれって、すごく苦しいんじゃないかな。
だって、結局王女様一人の心に溜め込んでるんだもん。それを吐き出す場所が必要だと思う。
私の話を王女様やイアンさんが聞いてくれたように。
王女様の心を受け止めてくれる人が必要だって思った。
きっと今のままじゃ、王女様は絶対に誰にも言わない。王女様は演じるのがすごい上手だから、きっと誰も王女様の本心に気づかないだろうから。それがハンナさんや国王様、どんなに親しい人であっても。
だから、唯一それを見た人間が、誰か信頼できる人に伝えなきゃいけないと思うんだ。
「陛下は王女様のお好きなものが何かご存知ですか?」
唐突な質問に、国王様は虚を突かれたような顔になった。
「陛下は王女様と二人きりになった時、王として王女様とお話しされますか? それとも父親としてお話しされますか?」
国王様が僅かに目を伏せた。
分かってる。
さっき国王様が言ったように、王様と一般人は違う。
一般人が普通に表現できる家族への情愛を、国王という立場は表すことも儘ならなくさせる。
一般人の中でも社会に出たこともない私には想像もできないような葛藤がいっぱいあるんだろうなって思う。
でも、それとこれは違うって思うんだ。
例え普通とは違っても、親子として大事なことは伝えなきゃわからない。
王女様が苦しんでいることを、王女様自身が誰にも教えないし、身近にいる人ですら王女様の演技にみんな騙されてる。
広いお城の中で一日会わないことだってある国王様も、そんな王女様の心に気づいていない。王妃様にも王女様にもこんなに愛情を持っている人なのに。
後で王女様に怒られるな。
そう思いながら私は話を続けた。
「王女様はダンスが好きなんです。でも誰かと踊るダンスじゃなくて、一人で自由に踊るのが好きなんです。その意味がわかりますか?」
「……身分故の孤独、か」
国王様がポツリと呟いた。
知ってるはずだ。国王様も同じ思いを抱えて生きてきたはずなんだから。
長年蓄積し続けてきたそれは、王妃様と出会うことで癒された。
でも王女様は?
これから王女様の伴侶となるユージン王子がそうなるとは限らない。
むしろもっと仮面を貼り付けて付き合わなければならない相手かもしれない。
どちらかが死ぬまでずっと。
そんなの、本当に窒息死する。
だったらせめて、誰かが王女様の仮面を被らない素のヴァネッサさんを知らなきゃいけないと思う。
王女様も素の自分を少しでも晒せる人を見つけるべきだと思う。
今それができるのは、国王様しかいないんじゃないかな。
国王様が身分にこだわる人だったら、そんなこと言えない。
けど、娘を愛する父親としての気持ちを持つ人だから、孤独を知る人だから、きっと王女様の気持ちに寄り添えると思う。
本当だったら、こんなこと国王様に言っちゃいけないと思う。
余計な口出しだ。
でも、私にとって一番大事なことを考えたら、これは言わなきゃいけないんだ。
だから覚悟を決めて息を吸い込んだ。
「私はこの国の人間でもないしこの世界の人間でもありません。口出ししていいことじゃないってわかってます。でも私は王女様が大好きです。周りが見えなくて真っ暗闇にいた私に最初に手を差し伸べてくれた王女様が大好きです。王女様にはあんな真っ暗闇の息苦しい人生を歩んでほしくありません。だから、失礼を承知で言わせていただきます。王女様のお気持ちを聞いたことはありますか? 王女様はきっと、誰に言われなくても陛下の意思を守って結婚して女王様になって子供を産んで、大切なサフィニアをずっと守っていくと思います。それは確かに王女様の意思だと思います。でも、王女様が自分の本当の気持ちを一生隠したまま生きなきゃいけないなんて、みんなが幸せになっても王女様一人が辛くてかわいそうです。どうか、一度でもいいから王女様の仮面を脱いだヴァネッサさんの言葉を聞いてあげてください」
国王様は目を瞑ったまま黙っている。
やがてティーカップに手を伸ばしては戻し、また伸ばしては戻すという行為を繰り返した後、国王様は深く息をついた。
「儘ならぬことだ。血筋というものは。常に完璧を求められ、しかし理解はされぬ」
「陛下には王妃様がいらっしゃいました。王女様には必要ないとお思いですか? 確かに王女様は才能もあって強い女性です。みんな憧れます。私も王女様みたいに強くなりたいって思いました。でも何の支えもないまま強く立ち続けることってできるんでしょうか? 陛下はできましたか?」
何かに突き動かされるように私は喋り続けていた。
頭がカッと熱くなって、自分でも自分の口を止められない。
「…君は容赦がないな」
国王様の力なく笑う顔を見て、初めて自分がどれだけ責め立てるような言葉を使っていたか気づいた。
「すみません! 私生意気なことを言って…。でも王女様が辛い思いを笑顔で隠してるって思ったら、どうしても何かしたくて…」
「顔を上げなさい。私は怒っているわけではない。むしろそこまで娘のことを思ってくれて、一人の父親として感謝している。…王というものは国として見た時は何よりも重要な役目だが一人の人間として見た時には何よりも難儀なもの。父親という立場よりも国王という立場の方がどうあっても優先せねばならないのだ。何千何万という民を守ることが王の役目なのだ。目の前の者だけを見ていては、遠くの者たちを守ることはできぬ。それはわかってもらえると嬉しい」
「はい。…感情的になってしまって申し訳ありませんでした」
「君はそれでいい。心に感じたことを大切にしなさい」
その後、あまり会話も続かないまま、お茶会は終わった。
国王様は微笑んでいたけど、どこか悲しげな微笑みだった。
そんな表情をさせてしまったのは自分だ。
またやっちゃった。
相手がどう思うかも考えずに激情に任せて自分の感情をぶちまけた。
娘に自由のない結婚を強いていることに、一番負い目を感じているのは国王様かもしれないのに。
王女様の気持ちを蔑ろにしてほしくなくて、余計なお世話だって思いながらも言ったことだけど、やっぱりただでしゃばっただけ。考えなしの行動で国王様を傷つけただけになってしまった。
そろそろお茶会もお開きという頃合いに、国王様の侍従さんが「失礼します」と丁寧だけど素早い動きで四阿に現れた。
「何事か」
国王様の表情が一瞬で引き締まって王の顔になる。
侍従さんは国王様の耳元に何かを耳打ちした。
すると国王様が一瞬目を見開いて「離宮の準備は整っているな。まずはそちらに。謁見は明日と伝えよ」と短く伝えた。それを受けて侍従さんが来た時と同じように音もなく四阿から出て行った。
「本来ならば良い知らせと言っていいだろうな」
国王様が私に向き直って言った。
良い知らせ、と言いながらその顔は険しい。
「隣国サイネリアの第二王子が到着した」
え?
私は耳を疑った。
第二王子ってことはユージン王子のこと?!
でもだって確か王子が到着する予定の日って…
「二日も早く到着するとは驚いたがな」
国王様がため息をついている。
だよね、私の勘違いじゃなかったよね。
私は胃の辺りがキュッと締め付けられるような感覚に陥った。
ユージン王子が早く到着した。
それってつまり準備時間がなくなっちゃったこと。
街に行かずに一日中レッスンしていればって思いがチラッと過ぎったけど、そうじゃないよね。今日一日あればできたっていう問題じゃない。
それに、街に行けたのは国王様のご厚意だ。それを無碍にするようなことは思っちゃいけない。
だから、緩んだ気を引き締めなきゃ。
私が王女様のフリをしているってバレたらおしまいだ。
「あの、陛下。魔法の儀式ってあとどれくらいかかるのでしょうか?」
「準備が整うまで早くともあと二日と見ている。儀式には特別な物が必要でな。それを得るために派遣した者たちが今、山に分け入っているのだが、まだ見つかったという報告が来ておらんのだ。同時に、アラン・コリウスの捜索も少々難航している。お披露目式には間に合わせたいと思っているが…」
アランさん、まだ見つかってないんだ。
いったいどういうつもりで王女様を誘拐して逃げてるんだろう。
直接アランさんと会って、イリーナさんにも話を聞いて思った。
アランさんは悪い人には思えないってこと。
何か事情があるのかな。
イリーナさんは何かわかったような感じだったけど。
それなら逃げたりせず、協力を求めた方が断然いいのに。
王宮や、王女様と並んで親しいはずのイリーナさんにすら助けを求められない何かがあるのかな。
事態は思ったよりも複雑で、そう簡単に解決しそうにはない。
お披露目式まであと二日。
ううん、もしかしたらそれ以上の長い間、私は王女様のフリを続けなきゃいけない。
王女様の願いもあるし、やり遂げてみせるっていう決意もある。
でも、不安要素だらけの状況に、言い表しようのない漠然とした不安を感じていた。
「何にせよ、今しばらく君には不自由を強いる。お披露目式の前に出席せねばならぬパーティーもある。無理をするなと言えぬ立場故、よろしく頼む」
「もちろんです! こうして陛下と一緒にお茶を飲ませていただいて、私のやる気はバッチリです!」
「そうか。遅い時間のお茶会だったが、付き合ってくれてありがとう。夕食に響かねばいいが」
「美味しい物の前では女の子の胃は無尽蔵なんですよ。こちらこそ、陛下とまたお茶会ができて光栄でした。ありがとうございました」
こうして、国王様と二度目のお茶会は幕を閉じた。
王女様の私室に戻った私は、ずっと外ばかり見ていた。
大きなガラス張りの窓の向こう。
バルコニーの入り口に立つプレートアーマーの護衛騎士の姿。
見慣れた姿よりも背が高い。
夕方になって火が灯されても夕食を終えても、その姿は変わらない。
思い切ってバルコニーに出たら、見張り役の護衛騎士のおじさんが驚いた顔をしていた。
「あの…」
不意に昼間のイリーナさんの笑い声が響いた。
『王女が護衛騎士に懸想しただなんて醜聞物だよ。お披露目式の直前だってのに』
本当はこんなこと聞いちゃいけない。
王女様が一人の若い騎士のことを気にかけたら、例え本人たちにそのつもりがなくても、周りはそれを必ず結びつける。
聞いちゃいけない。
当たり障りのない会話をして何も考えずに寝るべきだ。
けど体が動かない。
胸がギュッと絞られるように苦しくて、私室に戻ることを拒否する。
「イアンのこと、…かな?」
私が葛藤に苛まれて動けずにいたら、騎士のおじさんの方から話しかけてくれた。
すごいバリトンボイスだ。声優とかやったら人気出そうなくらいの美声でびっくり。
語尾に間があったのは、私を王女様と扱うか中身の私自身に呼びかけるかで迷ったのかな。
でも気さくに話しかけてくれたから、ちょっとほっとした。
「はい。あの、戻っていないんでしょうか?」
「一度戻ったんだが、どうしてもやらねばならん急用ができたからと、すぐに出て行ったんだよ。俺は代わりで見張り役だ」
「そうだったんですか。あの、いつ戻るとかは言ってましたか?」
「いやぁ、いつになるかはわからんそうだ」
「そうですか…。教えていただいてありがとうございます」
「いやいや。…今日は大変な目に遭ったんだ。何も考えずぐっすりと寝るといい」
そういえば、私と一緒に歩いたのはイアンさんとメラニーさんだったけど、他の護衛騎士の人たちも一緒だったんだ。馬車の御者をしてくれた人。私服で街に紛れた人。
私が市場であんなことになったから、この人たちにもずいぶん迷惑かけちゃったんだろうな。
改めて思うと、私今までイアンさん以外の護衛騎士の人たちと話したことないし全然知らない。
「あの、いつも守ってくださってありがとうございます」
私が深く頭を下げると、おじさんが目をまん丸にした。
「いやいや、これが仕事だからお礼なんていらんよ」
「でも今日なんて特に大騒動になっちゃって、護衛騎士のみなさんがそばにいるって分からずに動いちゃったから、みなさんにすごくご迷惑をかけたと思います。すみませんでした」
もう一度頭を下げようとしたけど、なぜかおじさんに「頭を下げないでくれ!」って言われた。
「君は…、イアンが言った通りのお嬢さんだな」
え?
イアンさん、私のこと他の護衛騎士の人たちに言ってたの?
なんか急に恥ずかしくなってきた!
「あの、なんて言ってました?!」
「負けず嫌いなところはあるが根は素直でいい子だってね。正直俺たちは立場上ということもあって距離を置いていたんだが、イアンはよく君のことを気にかけていた。昨日の舞踏会にも陰ながら護衛につかせてもらったが、君は随分頑張ったね」
「あ、ありがとうございます」
なんか、普通に嬉しい。
や、普通にって変な言い方だけど!
国王様やハンナさん、宰相さんに認められた時も確かに嬉しかったけど、こうして第三者の立ち位置の人から、努力の成果を認められるのって、また別の嬉しさなんだって初めて知った。主観的なものじゃなくて、客観的に見てもレッスンの成果が確かに現れてるんだってわかるから。なんかじわじわと充足感が湧き上がってくる。
「あの、もしよかったらお名前をお聞きしてもいいですか?」
「もちろん。ロドス・ダイアンサス、四十五歳。愛する妻と愛しい娘二人を持つおじさんだよ。最近の悩みは下っ腹が出てきたことかな」
ロドスさんが茶目っ気たっぷりにウインクした。
私もつい笑っちゃった。
「藤崎翔子と言います。名前は空を翔ぶ子という意味になります。本とこの国が大好きな十六歳です。王女様を助ける日まで、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ。護衛騎士として恥じぬ働きをお見せしよう」
不思議だな。
こんな風に自己紹介できるなんて。
自分の名前が嫌いだったこともあって自己紹介って苦手だった。
でも今はそんなに嫌いじゃない。だってイアンさんがショーリアみたいな名前だって言ってくれたから。
その後、ロドスさんと少しお話しして私は私室に戻った。
でもすぐには眠れなかった。
いつ戻ってくるかわからないってロドスさんには言われたけど、夜が更けるまでずっとベッドに腰掛けてバルコニーを見ていた。
いい加減に寝ないと明日に影響するってわかってる。
でも諦められない気持ちも変わらずに心にある。
きっとイアンさんだってわかってる。
あの時イリーナさんの言葉を聞いて青ざめていたもん。
私から距離をとって、もしかしたら護衛騎士も辞めちゃうかもしれない。急用ってそれかも。
もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
それがいいよね。
私の気持ちを伝えたりしたら、イアンさんも王女様もきっと困る。それくらいならうっかり言わなくて済むように離れてた方がいい。
剣を構えるイアンさんの姿が浮かぶ。
イアンさんが臆病だなんて信じられない。
今日だってすごくかっこよかった。
私はベッドに寝転んだ。
「また明日踊ろうって言ったのに。嘘つき」
これくらいなら、独り言したって許されるよね?
「はい、でもすぐにまた捕まってしまって… すみません」
メラニーさんと一緒に私室に戻ると、扉の前でハンナさんが待っていた。
大方はメラニーさんが説明してくれたんだって。でも逸れている間のことはまだ国王様と宰相さんにしか言っていないから、部屋に入って改めて二人に話した。
王女様に助けてもらったって件で、ハンナさんが思わずっていった感じで押し殺した息をついて目元を拭っていた。
ハンナさん、本当に王女様が大切なんだなぁ。
いいなぁ。お互いを大事に思い合ってるって、素敵だな。
「あなたが謝ることではありません。相手は危険な魔法使い。魔法の使えない者が関われば怪我ではすみません。あなたが無事に戻れた事が何よりです。すべてが最善の形になるよう、きっと陛下が力を尽くしてくださります。それまでは気を抜いてはいけませんよ。特に今回のことは大勢の目に触れています。城の中という限られた空間だけだった今までとは予想のつかない事態もあり得ることでしょう。あなたの身にふりかかる危険も含めて、私たちも一層気を引き締めねばなりません」
ハンナさんは切り替えも早い。
私は大きく頷いた。
国王様にも約束したもん。
最後まで頑張る!
「そうだ、ショウコ。これを渡しておくわ」
そう言ってメラニーさんが渡してくれたのは二つの紙袋だ。
フォビス通りの紅茶屋さんと宝石屋さんで買ったやつだ。
街を歩いている間はイアンさんがずっと持っていてくれたんだ。
「ありがとうございます!」
宝石屋さんの袋を開けると、一番上にメッセージカードが乗っていた。
普通の紙じゃなくて、なんだかいい匂いがする。
宝石屋さんのおじいさん、お洒落だなぁ。
『貴女の大切な方々に幸あらんことを。貴女にショーリアの導きがあらんことを』
そう書いてあった。
文言はもちろん手書きで、おじいさんの柔らかい微笑みが浮かぶような温かみを感じた。
お客さんへの定型分って言っちゃえばそれでおしまいかもしれない。でも、たとえどのお客さんに対しても同じ文だとしても、おじいさんが心からそう言ってくれているってわかる。だって、おじいさんは私の思いを汲み取って宝石を選んでくれたんだもん。
たまたま出会っただけの見ず知らぬ人にこんな風に思えるって、凄いな。
私もこんな風に言えるようになりたいな。
またもや目頭が熱くなるのを堪えて、中身を出していく。
小分けに包まれた小さな箱には、それぞれ宝石の名前が書かれた紙が挟まれていた。開けなくてもわかるように、そしてすぐに外せるようにっていうおじいさんの気遣いだ。
アラゴナイトと書かれた紙を外して小箱を取り出し、私はハンナさんの所へ行った。
「ハンナさん、これお土産です」
「お土産はいいと言ったじゃありませんか」
なんて言うけど、ハンナさんの顔はちょっと嬉しそうだ。
私もつい笑っちゃった。
「根性が曲がってた私にチャンスを与えてくださってありがとうございます。ハンナさんのおかげでいっぱい学べたし、必死に頑張るって楽しいんだって気づくことができました。ひねくれた性格ですけど、ちょっとは真っ直ぐになったと思います。でも私、何かあると絶対に落ち込んだり浮かれたりうっかりすると思うので、これからも厳しく指導してください」
「…開けても?」
「はい」
ハンナさんは言葉少なく、丁寧な手つきで小箱を開けた。
橙色のアナゴライトが嵌め込まれたブローチが現れる。アナゴライトを包むように蔦が囲っていて、たくさんの小さな花を咲かせている。花の中にも小さなアナゴライトが入っていて、光に当てるとキラキラする。
「私、宝石のこと詳しく知らなかったんですけど、これはアナゴライトっていう宝石です。店主のおじいさんが母性の石だって教えてくれました」
「母性…」
ハンナさんは小さく呟いてじっとブローチを見ている。
「橙色がハンナさんにぴったりだなって。それにハンナさんは王女様とか侍女さんとかたくさんの人を育てて、その人たちはみんな輝いているじゃないですか。それが蔦が咲かせるお花みたいだなって。だからこれを見た時、絶対にハンナさんにはこれ以外…」
話している最中、突然ハンナさんが私を抱きしめてきた。
えっ、えっ?!
「…ありがとう。大切にします…」
耳朶に響く声が震えている。
ハンナさんの肩越しにメラニーさんが微笑んでくれている。
私は戸惑いながら、ハンナさんの背中に手を回してそっとさすった。
やがて、ハンナさんが身を離した。
「取り乱しました。職務に戻ります。今日は疲れたでしょう。ゆっくり休みなさい」
早口に言って足早に部屋を出て行ってしまった。
「ショウコ、やったわね」
足音が聞こえなくなるのを待って、メラニーさんがにこやかに言った。
「あのハンナ様の心を抑えられないくらい揺さぶるなんてすごいわ」
「そ、そんなことないですよ! …メラニーさんにはこれです!」
なんだか気恥ずかしくて、私はそそくさとルビーの小箱をメラニーさんに渡した。
「あら、私にも?」
「はい! メラニーさんがいなければ私、絶対にハンナさんに認めてもらうことできませんでした。私、一人っ子で兄弟はいないんですけど、なんだかお姉さんができたみたいで、毎日楽しいです」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
早速メラニーさんが開ける。
猫のブローチを見て「ルビーね。素敵」と呟き、すぐに胸に付けてくれた。
嬉しいけど、職務規定みたいな服装の決まりとか大丈夫なのかな。
「いいんですか?」
「もちろんよ。咎める人は誰もいないわ。ハンナ様だって付けたくて仕方がないはずだもの。注意なんてできるはずがないわ」
メラニーさんは自信満々で言うけど、本当に大丈夫かなあ?
そこまで考えて、私はあることに思い至った。
「あ! でも他の侍女さんたちもいますよね。その人たちにやっかまれたら…」
王女様と入れ替わってから、極秘事項ということで私に関わる人は最小限に抑えられていた。だから身の回りのお世話をしてくれる侍女さんはメラニーさんしか知らないんだけど、本来ならもっといるはずだよね。会ったことはないけど、その人たちに何もなくてメラニーさんだけ付けてたら、何か言われるかもしれない。
そう思ったんだけど、メラニーさんは自信満々の笑みを崩さない。
「心配いらないわ。むしろ羨ましがって自分たちも付け出すだろうから」
「そういうものなんですか?」
「そういうものよ」
メラニーさんは軽く言うけど、中学三年間いじめられ続けてきた私にはとてもそうは思えない。メラニーさんが妬まれたり仲間外れにされないか心配になっちゃう。
話は少し逸れるけど、私が元の世界に戻った後、侍女の間でブローチをつけることが流行することとなる。
さらには年齢を問わず貴族の女性たちにまでそれは広まり、身嗜みの一つとしてサフィニアに定着して一大文化にまで発展することになるんだけど、それはまた別の話だ。
ブローチを満足そうに見下ろしたメラニーさんは、ポケットから何かを取り出した。
「それじゃあ、私からはこれね」
そう言って私の手の平に置かれたは、小ぶりの宝石がついたブレスレットだ。
青みがかった半乳白色の石と、明るい橙色の中にラメみたいに輝く不思議な石が組み合わされている。
「すごい綺麗ですね…」
「これはブルームーンストーンとサンストーンという石よ。その名の通り、月と太陽の力を持つ石と言われているわ。あなたに幸運と女性らしさ、自信と行動力を与えてくれるわ。それから…」
言いかけたメラニーさんはわざわざ私の耳元まで来て囁いた。
「恋の成就にも、ね」
「メ、メラニーさん?!」
いきなり打ち込まれた言葉に、私は慌てふためいた。たぶん一気に顔が赤くなったと思う。自分でも頰が熱くなったのを感じたもん。
本当にこの人は…
不意打ちが得意で困る!
クスクスと笑いながらメラニーさんは離れた。
「手のかかる妹へ。もっと自信を持ちなさい。あなたの知識に。あなたが身につけた作法に。過去に何があったかは聞かないけれど、人間いい時も悪い時もあるわ。前向きな気持ちになる時も暗い気持ちにしかなれない時もね。けれど暗い顔は幸運を遠ざけるわ。どんな気持ちの時も、自信を持って顔を上げなさい。自分自身が信じられないのなら、あなたを信じてくれる人を信じなさい」
「メラニーさん…」
気づいたら涙が溢れていた。
「ありがとうございます。大切にします」
「どういたしまして。…さて、私も仕事に戻るわ。色々あって疲れたでしょう。ハンナ様もああ言っていたことだし、のんびりしなさい。今日は息抜きのための一日なんだからね」
メラニーさんも部屋を出ていくと、急に部屋が物静かに感じちゃった。
時刻はそろそろ夕方ってところ。
あと二時間もすればメラニーさんが夕食を運んできてくれる。
二時間か…
こんな何もない時間ってすごい久しぶりな気がする。
前だったら喜んでいたはずの時間が、今はなんだかすごくもどかしい。心が落ち着かないや。
ハンナさんに怒られるなと思いながら、私はベッドに倒れ込んだ。
急にポッカリと空いた時間は、そのままわたしの心にもポッカリと大きな隙間を作った。
そこにドロリと流れ込んできた声。
「醜聞…」
魔法師団長さんの声が脳裏に反響する。
「恋の成就…」
メラニーさんの言葉が木霊する。
うん、もう無自覚ではいられない。
私、イアンさんが好きなんだ。
初めは柔らかい物腰でなんでも話せるお兄ちゃんみたいな印象だった。
いつから変わったんだろう。
ううん、もしかしたら勘違いしていただけで最初からそうだったのかな。
イアンさんのことを思った時、どうしようもなく弾む心がある。胸が熱くなる。
早くイアンさんに会いたい。
もっと喋りたい。
あの夜みたいにダンスしたい。
底のない我がままばっかりが胸を締め付ける。
でもダメだ。
私は今、王女様の身代わりをしている。
そしてこの体は私自身じゃなくて王女様自身の体だ。
魔法師団長さんが言った通りだ。
この暴走する感情が、王女様のフリを完璧じゃなくさせる。
婚約前の王女様にあらぬ醜聞が噂されたら?
もしそれが来訪するサイネリアのユージン王子の耳に入ったら?
王女様の結婚生活がめちゃくちゃになっちゃう。
私のせいで、王女様の人生が狂っちゃう。
ううん、それどころか婚約自体破談になる可能性だってある。もしそうなったら王女様だけじゃなくてサフィニアの未来も狂ってしまう。
私のせいで。
私の身勝手な行動のせいで。
そんなの絶対にダメ。
人を狂わせるのも、そのせいで自分が狂うのも、もう嫌だ。
私は手で顔を覆ってまぶたをきつく閉じた。
まぶたの裏にイアンさんの笑顔が浮かぶ。
私が真実を知って逃げ出したあの日。
「あなたならできます」って言ってくれたイアンさんの声が蘇る。
この感情を閉じ込めたくない。
絶対に嫌だ。
だってもうじきイアンさんと永久に会えなくなっちゃう。
王女様を救出できたら、私は国王様の秘儀によって元の世界に返される。
ずっとこの世界にはいられない。いる場所もない。
その日は明日かもしれない。明後日かもしれない。
もう数えるほどしか会えないのに、素知らぬ態度を取らなきゃいけないなんて。
イアンさんと親密だと誰かに思われるような態度をしちゃいけないなんて。
でも、それがみんなにとってもいいことなのかもしれない。
永久に会えないとわかっていてイアンさんに告白なんてあり得ない。そんなの迷惑なだけだ。
だって醜聞がつくのは王女様だけじゃなくてイアンさんもだもん。
もし王女様とただならぬ仲みたいな噂が広まったら、イアンさんがここにいられなくなる。イアンさんの人生がめちゃくちゃになる。
私は震えるように息を吐き出してベッドから立ち上がった。
化粧台の前に立って、鏡を見る。
凛とした顔立ち。
華やかな赤い髪、サフィニアの海みたいに青い瞳。
この体は王女様の体。
本当の私じゃない。
私はイアンさんが好き。
王女様を助けたいっていう気持ちも本当。
でも、どっちを優先しなきゃいけないかってことは、考えなくたってわかる。
「私はサフィニア王国の王女、ヴァネッサ・フィア・サフィニア。今は、藤崎翔子じゃない」
言い聞かせるように呟く一言一言が、どうしようもなく鋭く私の胸を抉った。
どのくらい経った頃かな。
メラニーさんが部屋に戻ってきた。
「ヴァネッサ様、お休みのところ申し訳ございません」
その口調で、私もスイッチが入る。
すっと背筋を伸ばして表情を引き締めた。
「魔法師団長様が面会を望まれております。如何致しますか?」
「構いません。入室を許可します」
メラニーさんが扉を開けると、紺色のローブを着た魔法師団長さんが足早に入ってきた。
「街であったことを。特に王女とアランに関わることを詳しく話して」
魔法師団長さんは挨拶もなしにいきなりそんなことを言ってきた。
ついさっき国王様の執務室で会った時に見せた人を小馬鹿にしたような態度がどこにもない。むしろ怒っているような表情で、私は内心訳もなく動揺した。
え、何?
私何かしたっけ?
「ちょっとアル! 挨拶もなしにいきなりそんなことを! あなたは人を労るということを知らないの? ショウコは病み上がりなのよ?」
珍しいことに、メラニーさんが砕けた口調で怒ってる。
そういえば、メラニーさんのお兄さんの元婚約者なんだったっけ。子供の頃からの付き合いなら、こんなに親しい口調なのも納得だ。
でも魔法師団長さんの返事はにべもなかった。
「そんなもの海に撒いたってレナイアも食わないさ。労って何になる? ただの時間の無駄。答えて」
改めて見ると、魔法師団長さんの目はいつになく真面目に感じる。
そうか、怒ってるんじゃなくて真剣なんだ。
魔法師団長さんにとって重要な何かがあの事件の中にあるってことかな。
それなら、私もちゃんと応えなきゃ。
「メラニーさん、大丈夫です。お話しするだけですから。魔法師団長さん。あったことをお話しします。でもその前に教えてください。あなたが魔法学院で一緒に学んだアラン・コリウスさんはどんな人ですか?」
途端に魔法師団長さんの顔が不機嫌になった。
「質問してるのはこっち。無駄なことは…」
「無駄じゃありません。大事なことです。街でアランさんに会いました。少しだけ会話もしました。でもアランさんを捕まえればすむ話じゃないって感じたんです。ですから少しでもアランさんのことを知っておきたいんです」
でも私も譲らない。
しばらく睨み合っていたけど、先に魔法師団長さんがため息をついた。
眉間のシワを深めて、メラニーさんに「椅子!」と怒鳴る。
侍女の鏡であるメラニーさんはすでに用意していた椅子を魔法師団長さんの側に置いた。
それにどかっと行儀悪く腰掛けた魔法師団長さんが、腕組みをして私を睨む。
残念でした。
全然怖くない。
またため息をついて、魔法師団長さんはフードを外してガリガリと頭を掻いた。
露わになった魔法師団長さんの表情は、ちょっと膨れっ面だ。
うんこうして見るとやっぱり美人だなー。羨ましい。
「驚いた。あんた同一人物?」
「皆様のおかげで多少マシになったと思っています。特に魔法師団長様のおかげで王女様の真似はかなり上達しました」
チクリと嫌味を言ったら、魔法師団長さんは舌打ちをして「面白くもない」なんて呟いた。
「確認だ。アランに会ったんだな?」
「はい。王女様の魂を誘拐したのは間違いなくアランさん、そして背後にはドラセナがいます。でもアランさんはドラセナの魔術師とは異なる行動を取っていました。市場で私を助けてくれて、でもその後また王女様の魂を攫ったんです」
魔法師団長さんが荒いため息をついた。
「…あいつは昔からそうだ。平民の出だから口は悪いし態度も悪い。でもやけにお節介で首突っ込んでくる割に本心を隠すから周りと軋轢を生む」
「…意外ですね」
「何が」
「魔法師団長さん、ちゃんと人を見れるんですね」
その瞬間、側に控えていたメラニーさんが吹き出した。
うわ、こっちも意外。
侍女の鏡のメラニーさんがこんなことするなんて。
そんな私たちの反応を前にして、魔法師団長さんが眉間に皺を寄せて半眼になった。
「あのねえ。確かに僕は他人に興味ないよ。むしろ自分にも興味ない。興味があるのは魔法だけさ。けどみんな滅んでしまえとは思ってないの。僕がまともに生活できてるのはごく少数のお節介のおかげだってわかってるからね。…メラニー、いい加減笑うのやめたら? 僕に失礼だと思わないの?」
「ご、ごめんなさい…。でも、本当にショウコの言う通りなんだもの…。あなたがそんなに周りの人間関係を認識できているとは思わなくって…」
じっとりと視線を向けられたメラニーさんは、それでもまだ肩を震わせている。
「ああやだやだ! ロイも陛下も、ついでに護衛の坊やも僕のことをなんだと思ってるんだ! こんなに純粋無垢な人間どこを探したっていやしないのに!」
魔法師団長さんは天を仰いで嘆くけど、私もつい吹き出しちゃった。
ごめんなさい魔法師団長さん。
めちゃめちゃ面白いです。
「ちょっと。あんたのせいで話し進まないんだけど?」
「す、すみません。えっとそれでですね、魔法師団長さん…」
「アルでいいよ。まどろっこしいのは嫌いだ」
「えと、アル、さん?」
「何それ気色悪い。アルでいいって言ってんの」
相手を呼び捨てにするのは家族かよほど親しい人っていう環境で育った私には、いきなり呼び捨ては抵抗があるんだけど。しかも魔法師団長さんの方が年上だし。
でも本人が呼べっていうなら、そうしないといけないかな。
「アル…、アルバートさん」
やっぱり無理!
魔法師団長さんのこと全然知らないし、会話もほとんどしたことないんだよ?
いきなり愛称でなんて呼べないよ!
「いいって言ってんのに。変なやつ」
って呆れられたけど、無理なものは無理!
「すみません。年上の方を呼び捨てにするのはどうしても慣れなくて…」
「まあいいけど。…じゃあイリーナって呼んで。アルバートさんなんて気色悪すぎる」
「イリーナって…」
「僕のミドルネーム。男が欲しかった父がアルバートって命名して、それを不憫に思った祖母がミドルネームに入れた名前さ。滅多に使わないけど」
「それじゃ、えっとイリーナさん。お聞きしたいのは、アランさんは王女様のことをどう思っているんですかってことなんですけど」
「そんなの知らないよ」
「じゃあ好きか嫌いかで言ったら?」
「好きかは知らない。でも嫌ってたら魔法学院時代にあれだけ一緒にいないでしょ」
「その当時って、皆さんどんな感じだったんですか?」
「どうって言われてもなあ。普通だよ。アランと一緒に池の水を氷山に変えようとして爆発して王女に怒られたり、魔法の効力を確認したくてアランに向けて魔法撃ってたら芝生が穴だらけになって王女に怒られたり」
それって普通って言うかなあ?
「…ちなみにどうして池の水を凍らせようとしたんですか?」
「暑かったから。どうせなら大きな氷にした方が学院全体が冷えていいんじゃないかと思って。僕って優しいだろう?」
「…攻撃魔法って禁止されてますよね? なんでアランさんに向けて撃ったりしたんですか?」
「禁止されてるけど使えない訳じゃない。人を殺傷する魔法は僕も願い下げだけど、どの程度の威力なら軽い失神を起こせるのか実験してたんだよ。戦いで人を殺す魔法が禁止されて回復魔法だけが許されてるなんて前時代的だよ。でも頭の硬い魔法学院のじじいどもはどれだけ言葉を噛み砕いたって納得しないからね。気絶させるだけだったら理解できるかと思って」
魔法師団長さん改めイリーナさんには彼女なりの筋の通った考えがあって魔法を使ったらしい。
でもその規模がおかしい。
失神させられるために魔法で攻撃され続けたアランさんがちょっとかわいそうになってきた。きっと死に物狂いで逃げまわったんだろうなあ。
「アランはよく王女と後始末してたから、まあ仲はよかったんじゃない?」
すごく他人事のように言うけど、イリーナさんもそこに含まれてるって、本人気づいているのかな?
王女様もアランさんも、イリーナに散々な目に合わされて時にはお仕置きもしたけど、でも今もずっと親交は続いている。
アランさんもイリーナのことを毛嫌いしているような言い方してたけど、卒業までずっと一緒にいたってことはそういうことだよね。
なんだかんだ言って気の合う人たちなんだろうな。
いいなあ。
私も小学生の頃にすごく仲のいい子がいた。家が近かったから登下校も一緒だったし、お互いの家に行って遊んだり、休みの日に出かけたり。好き嫌いのはっきりした子だったから、時には喧嘩もしたけど、卒業までずっと仲良しだった。
その子は子供用の携帯電話を持っていたけど私は持ってなかったから、連絡先も知らないまま引っ越しちゃってずっと連絡をとっていない。
元気かなあ。
引越し前の町の高校に通うようになったら、またいつか会えるかな。
つい懐かしさがこみ上げてきちゃった。
私は気を取り直してイリーナさんに質問した。
「仮定の話ですけど、もしアランさんがドラセナの魔法使いとして…」
「それはない」
言いかけた私の言葉を、イリーナさんは即座に否定した。
「あいつは一匹狼だから。僕も群れるのは嫌いだけど、研究のための環境が整ってるから魔法師団に入団した。でもあいつは組織ってやつが嫌いなんだ。たぶん育ちが影響してるんだと思うけど。…一度だけ何かの話で言ってた。あいつはドラセナに恩も感じてなければ帰る気も貢献する気も欠片もない。ただドラセナにいる家族のことは気にしてたかな。自分を売った奴らなんてなんで心配してやるのか全然わかんないけど」
アランさんが家族のことを心配してた?
あ!
そういえば王女様が言ってたじゃん!
アランさんの家族を、って。
「イリーナさん、王女様がアランさんに囚われる間際に言ってたんです。アランさんの家族をって。途中で聞こえなくなっちゃったんですけど、どういうことだと思いますか?」
「アランの家族? 家族…。…ふぅん、あいつが気にするならそこが原因で間違いなさそうだね」
イリーナさんは何か一人で納得して頷くと「次は僕の番だよ」って話を変えられちゃった。
「アランをどこで見つけた? どんな表情で何を喋ってどう行動した? 詳しく話して」
質問の答えを聞こうとしたけど、イリーナさんの矢継ぎ早の要求に流されて言うタイミングを逃しちゃった。
仕方なく、昼食を食べた食堂で見たところから話した。
ドラセナの魔法使いの魔法の話になると身を乗り出して細かく質問されたけど、魔法がどういう物かわからない私には説明しようがない。ただ見た感じを言うしかなくて、すごいがっかりされた。
アランさんと喧嘩している最中に王女様に怒られた話になると「ぷぷ。いい気味」って笑っていた。
そういえばこんなに長く会話していてここまであの小馬鹿にした態度って見てないなあ。
「なるほどね。大体わかった。アランの馬鹿め。あいつの悪い癖のせいでこっちがいい迷惑だ。卒業してからこんなことになるんなら首輪でもつけときゃよかった」
んん?
なんか聞き捨てならないことを言ってるけど気のせい?
聞き返そうかと思ったけど、それより早くイリーナさんが何か頷きながら立ち上がった。
「イリーナさん! 私まだわからないことが…」
「あんたが気にしてんのはアランが今回の事件でどう絡んでいるかってことだろ。問題ないよ。そこを見誤るほど馬鹿じゃない。邪魔したね」
あっさりとした口調で言って、イリーナさんは足早に部屋の扉まで行った。
扉に手をかけた時、フードを被りながら「まあ、ちょっとは休んだら?」なんて言って、出て行っちゃった。
「不思議な人ですね。前にお話しした時は王女様のこと馬鹿にされた腹立たしかっただけだったんですけど」
「私も今驚いているわ。ミドルネームなんて今まで一度も聞いたことがないし、ましてや人を馬鹿にせずに会話してるところなんて初めて見たわ」
私とメラニーさんはお互いに顔を見合わせて笑った。
イリーナさんが出て行ってすぐに、別の来客があった。
「陛下の使いで参りました」
と慇懃な物腰で言う男性は国王様の侍従の人だ。
「陛下よりお茶会のご招待を預かってまいりました」
え、こんな時間に?
だってお茶会って昼食と夕食のちょうど間に開かれるもので、実際最初に国王様にご招待していただいた時も午後三時だった。
でも今は四時過ぎ。お茶会には遅すぎる。
何かあったのかな。
犯人捜索の進展とか、儀式が整ったとか。
それならお茶会って形式はおかしいよね。
ちょっと無言になっちゃったのをどう取られたのか、侍従さんが続けて言った。
「お疲れのことと存じ上げますし、陛下も無理にはよいとのことです」
「いえ! 全然問題ありません。ぜひ行かせていただきます!」
「それではご案内させていただきます」
え!
もう?!
「ヴァネッサ様。行ってらっしゃいませ」
完璧侍女のメラニーさんが優雅に頭を下げる。
「後を頼みます。…よろしくお願いします」
私はテーブルに置いたままの紅茶屋さんの袋と、宝石屋さんの袋から小箱を一つ取り出して侍従さんの後について部屋を出た。
「ようこそ。このような時間に招いて申し訳ない」
前回と同じお庭の四阿で、国王様は前回と違って立って迎えてくれた。
「とんでもございません。お招きいただいて光栄でございます」
「ハンナのレッスンは順調のようだな。随分言葉遣いも板についてきたようだ」
「ありがとうございます。…ハンナ様には大変よくしていただいております」
「ここには事情を知る者しかおらん。君も気楽にしなさい」
「はい、ありがとうございます」
早速紅茶が運ばれてくる。
ハンナさんがいないから、今回は国王様の侍女さんが運んできてくれる。
鼻を抜けるようなスッとした匂いの紅茶だ。
お茶菓子はクッキーが三種類と小さなカップが可愛いゼリーだ。
「サフィニアの街はどうだったかな」
紅茶を一口とクッキーを食べた国王様がそう聞いてきた。
「街並みがすごく素敵でした。それにお店の人たちもみんな上品で心がこもっていて、私、何度も通いたくなりました」
「それはよかった」
儀式の準備とかで忙しいと思ったけど、大丈夫なのかな?
なんてことを思いながら、私は部屋から持ってきた物をテーブルに置いた。
「あの、もしご迷惑じゃなかったらなんですけど、お土産を買ってきたのでもらっていただけますか?」
我ながらめちゃくちゃな言葉遣いだなあ。
でもどう切り出していいかわからなかったし、勢いで言うしかない! って思ったらこんな言葉になっちゃった。
国王様は目を見開いて驚いている。
「私に、お土産、と?」
「は、はい。…あ! あのでもすごく美味しかったんですけど王室御用達の最高級品じゃないですしもしかしたらお口に合わないかもしれないので、無理にってことではないんですけど!」
出してから気づいた!
相手は国王様だよ?!
食べるものも身につけるものも最高級品に決まってる。お土産って言葉が最も似つかわしくない相手じゃない!
私なんで小学生の修学旅行気分で買ってきちゃったの!
「ふむ、この香りはカモミールか」
残念ながら紅茶の小袋はすでに国王様の手の中。
その間にこっそり小箱を膝の上に戻そうとしたけど、国王様は目敏く「それは?」と指摘してきた。
「これは、その…、アクセサリーです…」
私は観念して小箱をテーブルの上に戻した。
「開けても良いかな?」
「はい、でもその、やっぱり高いものではないと思いますし、陛下が身につけるには相応しくないものかもしれませんし…」
ダメだ。
何か言わなきゃと思えば思うほど、変な言い訳みたいな言葉ばかり出てくる。
小箱を開けた国王様は「ほう…」と声を漏らした。
「美しい色だ。この鮮やかな深い青色は、もしやラズライトかな?」
「そうです。ご存知なんですか?」
「魔法と宝石は切っても切り離せぬもの。魔法使いは必ず杖に宝石をつける。己と相性の良い宝石、あるいは使う魔法と相性の良いものをな。故に、宝石には詳しくなるのだ」
知ってることにもびっくりしたけど、魔法と宝石の関係ってあまり聞いたことなかったから、私はちょっと興味を惹かれた。
あー、魔法使えたらよかったのに。どんな感じなんだろう。
夢の中で王女様と魔法師団長さんのやり合いとか、街で逃げる時にイアンさんが魔法使ってたのとか見たことはあるんだけど、どれもちゃんと見たことはなかった。元の世界の創作にもあるような属性とかあるのかな。
「ラズライトは静寂だったか。なぜこの宝石を選んだのかな?」
国王様と話している最中なのにうっかり思考が飛んでいく所だった。
私は慌てて宝石店のおじいさんの言葉を思い出した。
「強い愛情と父性っていう宝石言葉もあるんです。それを聞いた時に、王妃様や王女様をとても大切になさっている陛下の顔が浮かんだんです」
「それは、嬉しい言葉だ」
国王様はそう言うと小箱からブレスレットを取り出してそのまま左腕につけた。
「ふむ、馴染みも良い。君が選んでくれた物だ。私に合わぬわけがない。大切にしよう」
「あ、ありがとうございます…」
まさかこの場でつけてもらえるとは思ってなかったからまたびっくりした。
それにしてもその仕草といい台詞といい、本当に国王様って女性への気遣いが半端ないなあ。
こんなにさらりとフォローしてくれる人って他にいるのかと思ってしまう。
国王様の侍女が次の紅茶を持ってきて入れてくれた。
またまた驚き。
カモミールだ。
「せっかく君が選んでくれたのだ。いただこう」
いつの間に侍女さんに渡していたんだろう。全然気がつかなかった。
一口紅茶を飲む国王様の表情は穏やかだ。
よかった。気に入ってもらえたかな。
「不思議なものだな。このようなやりとりは初めてだ」
「すみません、根っからの庶民で失礼なことをしてしまって…」
「失礼なことなど。むしろ新鮮に感じているよ。君と話しているとこちらも気持ちが若返りそうだ」
自分の考えの浅さが目についてさっきからつい「すみません」ばっかり言っちゃうけど、国王様のフォロー力半端ない。
国王様って本当に紳士だなー。
「知っての通り、私は国王で娘は王女だ。一般の親子とは関係性も異なる。差し支えなければ、君のご両親について聞いてもいいかな?」
「ごく普通ですよ。父は工場で働いていて、母は学校の先生をしてるんです」
「どちらも立派な仕事だ。工場で働く者がいなければ経済は回らぬ。未来ある子供達を導く教師なくては子供達の夢が閉ざされ文化は発展せぬ」
そっか、そういう見方もあるのか。
国王様に言われるまで、両親の仕事がどんなことに貢献しているのかなんて考えたこともなかった。
「でもしょっちゅう喧嘩してます。少し前は収入のことで口論してましたし、私も頭が悪くてしょっちゅう叱られるんです。昔は仲が良かったんですけど…」
「ならば問題なかろう」
他に言葉が思いつかなくてついついネガティブなことを言っちゃったけど、国王様はさらりと言った。
「そんなことありません。もしかしたら離婚するかもしれませんし…」
「君はご両親に離婚して欲しいのかね?」
「それは…、どう、でしょう…」
両親の口論を聞いて漠然と離婚の二文字を思い浮かべていた。確かに小学校高学年になったくらいから叱られてばかりで、引越しのことが決定的になって両親のこと大嫌いだった。
でも、サフィニアに来てからは不思議と昔の仲が良かった両親のことばかり思い出すんだよね。
あの時は離婚なんて欠片もなかったし、ずっと続くと思っていた。
何がきっかけで喧嘩するようになったんだろう。
「昔は喧嘩なんて見たことありませんでした。両親と一緒に夜に星を見に行ったり、子供の頃のことを思い返すと楽しかったことばかりなんです。でもいつからか夫婦喧嘩が増えて、私も叱られてばっかりになって、息苦しい家庭になりました」
「息苦しい、か…」
国王様は少し遠い目をして呟いた。
もしかして感じたことがあるのかな。
「陛下は息苦しいと感じる時、ありますか?」
そう聞いたら、国王様は苦笑して「いかんな」って言いながら眉間の皺を指で伸ばす仕草をした。
「ないとは言えんな。国王という立場上、常に国のことを考えねばならぬ。己の感情が否と言おうと、国のために是であるならばそれを通さねばならぬ。国を助く貴族を前に、例えその貴族への好悪の情があろうと表に出してはならぬ。私利に動く王に民はついてこぬ。儘ならぬことの多いものだ。…最も、最近は年のせいか昔より感情が出てしまうのが悩みどころだがな。君にも嫌な思いをさせてしまった」
最後に自嘲気味に言ったのは、私が王女様になって初めて国王様に謁見した時のことかな。あの時の国王様、本当に激怒してたもん。
「いいえ! あの時は私がいけなかったんです。何が起こったのか理解しようともしなくて、自分の苛立ちに突き動かされていたんです。失礼なことばかり言って本当に申し訳ありませんでした」
「顔を上げなさい。そのことについての謝罪はもう受けた。そして私もそれを許したのだから」
でも国王様と王女様って本当にそっくりだよね。
自分のことよりも周りや国のことを第一に考えて行動しているところとか、考え方がまったく一緒なんだと思う。
国王様も息苦しいって感じるんだもん。王女様も感じてるんだろうな。それできっとストレス発散が一人でダンスすることなんだ。
「陛下には好きなことってありますか?」
「そうだな。…ここで、紅茶を飲むことだ」
国王様は答えるまでに少しだけ間があった。何か懐かしむような口調だったけど、もしかして王妃様のことを思い出したのかな。本当は王妃様と四阿で紅茶を飲むのが好きなんだろうな。
でも王妃様は亡くなられてしまったから、その願いはもう二度と叶わない。
好きな紅茶は飲めるけど、本当の意味で国王様の心を癒すティータイムは無くなってしまったんだ。
「長く生きていると苦しいことも多い。それが絶えず続けば息も詰まり、心の余裕を失い闇に閉ざされてしまう。周りも見えず聞こえず、己自身も見えなくなってしまうものだ。ちょっとしたことが腹立たしく思うようになる。そんな時は紅茶を一杯飲むといい。紅茶でなくてもいい。一息つく時間を作ることだ。そうすれば、君のご両親も心にゆとりを取り戻せるだろう」
国王様が紅茶を一口すする。
「うむ、いい香りだ」
私も紅茶の匂いを嗅いだ。
柔らかくて清涼感のある香りが鼻腔を撫でていく。
「匂いってこんなに落ち着くものなんですね」
ふと思い出したのは、子供の頃に入ったお風呂の匂いだ。
母や父と一緒に入ったお風呂で、頭を洗ってもらった時のシャンプーの匂いが急に蘇った。匂いにつられてその時の光景がはっきりと浮かび上がる。
子供の頃に幸福を感じた匂い。
こんなにささやかで、でも確かにあったんだ。
幸せだって感じた瞬間が、幾つもあったんだ。
「陛下、お茶会にご招待していただいて本当にありがとうございます。おかげで大切なことを思い出せた気がします」
「心に影がある時、それが君の支えとなるだろう。大切にしなさい」
「はい。…最後に一つだけお聞きしてもいいですか?」
「うむ? 何かな?」
お節介かな。
間違いなくお節介だ。
でも、どうしてもダメなんだ。
紅茶を飲む国王様を見ると、苦しそうな表情をする王女様の姿が脳裏に浮かんで離れない。
一昨日の夢の中で、王女様がダンスを見せてくれた時のことだ。
一人で軽やかに踊る王女様はすごく生き生きとしていて、でも今思えばどこか陰を感じた。
王女様、きっとあの姿は私以外誰にも見せないし、これから先誰かに見せることもないんだと思う。
でもそれって、すごく苦しいんじゃないかな。
だって、結局王女様一人の心に溜め込んでるんだもん。それを吐き出す場所が必要だと思う。
私の話を王女様やイアンさんが聞いてくれたように。
王女様の心を受け止めてくれる人が必要だって思った。
きっと今のままじゃ、王女様は絶対に誰にも言わない。王女様は演じるのがすごい上手だから、きっと誰も王女様の本心に気づかないだろうから。それがハンナさんや国王様、どんなに親しい人であっても。
だから、唯一それを見た人間が、誰か信頼できる人に伝えなきゃいけないと思うんだ。
「陛下は王女様のお好きなものが何かご存知ですか?」
唐突な質問に、国王様は虚を突かれたような顔になった。
「陛下は王女様と二人きりになった時、王として王女様とお話しされますか? それとも父親としてお話しされますか?」
国王様が僅かに目を伏せた。
分かってる。
さっき国王様が言ったように、王様と一般人は違う。
一般人が普通に表現できる家族への情愛を、国王という立場は表すことも儘ならなくさせる。
一般人の中でも社会に出たこともない私には想像もできないような葛藤がいっぱいあるんだろうなって思う。
でも、それとこれは違うって思うんだ。
例え普通とは違っても、親子として大事なことは伝えなきゃわからない。
王女様が苦しんでいることを、王女様自身が誰にも教えないし、身近にいる人ですら王女様の演技にみんな騙されてる。
広いお城の中で一日会わないことだってある国王様も、そんな王女様の心に気づいていない。王妃様にも王女様にもこんなに愛情を持っている人なのに。
後で王女様に怒られるな。
そう思いながら私は話を続けた。
「王女様はダンスが好きなんです。でも誰かと踊るダンスじゃなくて、一人で自由に踊るのが好きなんです。その意味がわかりますか?」
「……身分故の孤独、か」
国王様がポツリと呟いた。
知ってるはずだ。国王様も同じ思いを抱えて生きてきたはずなんだから。
長年蓄積し続けてきたそれは、王妃様と出会うことで癒された。
でも王女様は?
これから王女様の伴侶となるユージン王子がそうなるとは限らない。
むしろもっと仮面を貼り付けて付き合わなければならない相手かもしれない。
どちらかが死ぬまでずっと。
そんなの、本当に窒息死する。
だったらせめて、誰かが王女様の仮面を被らない素のヴァネッサさんを知らなきゃいけないと思う。
王女様も素の自分を少しでも晒せる人を見つけるべきだと思う。
今それができるのは、国王様しかいないんじゃないかな。
国王様が身分にこだわる人だったら、そんなこと言えない。
けど、娘を愛する父親としての気持ちを持つ人だから、孤独を知る人だから、きっと王女様の気持ちに寄り添えると思う。
本当だったら、こんなこと国王様に言っちゃいけないと思う。
余計な口出しだ。
でも、私にとって一番大事なことを考えたら、これは言わなきゃいけないんだ。
だから覚悟を決めて息を吸い込んだ。
「私はこの国の人間でもないしこの世界の人間でもありません。口出ししていいことじゃないってわかってます。でも私は王女様が大好きです。周りが見えなくて真っ暗闇にいた私に最初に手を差し伸べてくれた王女様が大好きです。王女様にはあんな真っ暗闇の息苦しい人生を歩んでほしくありません。だから、失礼を承知で言わせていただきます。王女様のお気持ちを聞いたことはありますか? 王女様はきっと、誰に言われなくても陛下の意思を守って結婚して女王様になって子供を産んで、大切なサフィニアをずっと守っていくと思います。それは確かに王女様の意思だと思います。でも、王女様が自分の本当の気持ちを一生隠したまま生きなきゃいけないなんて、みんなが幸せになっても王女様一人が辛くてかわいそうです。どうか、一度でもいいから王女様の仮面を脱いだヴァネッサさんの言葉を聞いてあげてください」
国王様は目を瞑ったまま黙っている。
やがてティーカップに手を伸ばしては戻し、また伸ばしては戻すという行為を繰り返した後、国王様は深く息をついた。
「儘ならぬことだ。血筋というものは。常に完璧を求められ、しかし理解はされぬ」
「陛下には王妃様がいらっしゃいました。王女様には必要ないとお思いですか? 確かに王女様は才能もあって強い女性です。みんな憧れます。私も王女様みたいに強くなりたいって思いました。でも何の支えもないまま強く立ち続けることってできるんでしょうか? 陛下はできましたか?」
何かに突き動かされるように私は喋り続けていた。
頭がカッと熱くなって、自分でも自分の口を止められない。
「…君は容赦がないな」
国王様の力なく笑う顔を見て、初めて自分がどれだけ責め立てるような言葉を使っていたか気づいた。
「すみません! 私生意気なことを言って…。でも王女様が辛い思いを笑顔で隠してるって思ったら、どうしても何かしたくて…」
「顔を上げなさい。私は怒っているわけではない。むしろそこまで娘のことを思ってくれて、一人の父親として感謝している。…王というものは国として見た時は何よりも重要な役目だが一人の人間として見た時には何よりも難儀なもの。父親という立場よりも国王という立場の方がどうあっても優先せねばならないのだ。何千何万という民を守ることが王の役目なのだ。目の前の者だけを見ていては、遠くの者たちを守ることはできぬ。それはわかってもらえると嬉しい」
「はい。…感情的になってしまって申し訳ありませんでした」
「君はそれでいい。心に感じたことを大切にしなさい」
その後、あまり会話も続かないまま、お茶会は終わった。
国王様は微笑んでいたけど、どこか悲しげな微笑みだった。
そんな表情をさせてしまったのは自分だ。
またやっちゃった。
相手がどう思うかも考えずに激情に任せて自分の感情をぶちまけた。
娘に自由のない結婚を強いていることに、一番負い目を感じているのは国王様かもしれないのに。
王女様の気持ちを蔑ろにしてほしくなくて、余計なお世話だって思いながらも言ったことだけど、やっぱりただでしゃばっただけ。考えなしの行動で国王様を傷つけただけになってしまった。
そろそろお茶会もお開きという頃合いに、国王様の侍従さんが「失礼します」と丁寧だけど素早い動きで四阿に現れた。
「何事か」
国王様の表情が一瞬で引き締まって王の顔になる。
侍従さんは国王様の耳元に何かを耳打ちした。
すると国王様が一瞬目を見開いて「離宮の準備は整っているな。まずはそちらに。謁見は明日と伝えよ」と短く伝えた。それを受けて侍従さんが来た時と同じように音もなく四阿から出て行った。
「本来ならば良い知らせと言っていいだろうな」
国王様が私に向き直って言った。
良い知らせ、と言いながらその顔は険しい。
「隣国サイネリアの第二王子が到着した」
え?
私は耳を疑った。
第二王子ってことはユージン王子のこと?!
でもだって確か王子が到着する予定の日って…
「二日も早く到着するとは驚いたがな」
国王様がため息をついている。
だよね、私の勘違いじゃなかったよね。
私は胃の辺りがキュッと締め付けられるような感覚に陥った。
ユージン王子が早く到着した。
それってつまり準備時間がなくなっちゃったこと。
街に行かずに一日中レッスンしていればって思いがチラッと過ぎったけど、そうじゃないよね。今日一日あればできたっていう問題じゃない。
それに、街に行けたのは国王様のご厚意だ。それを無碍にするようなことは思っちゃいけない。
だから、緩んだ気を引き締めなきゃ。
私が王女様のフリをしているってバレたらおしまいだ。
「あの、陛下。魔法の儀式ってあとどれくらいかかるのでしょうか?」
「準備が整うまで早くともあと二日と見ている。儀式には特別な物が必要でな。それを得るために派遣した者たちが今、山に分け入っているのだが、まだ見つかったという報告が来ておらんのだ。同時に、アラン・コリウスの捜索も少々難航している。お披露目式には間に合わせたいと思っているが…」
アランさん、まだ見つかってないんだ。
いったいどういうつもりで王女様を誘拐して逃げてるんだろう。
直接アランさんと会って、イリーナさんにも話を聞いて思った。
アランさんは悪い人には思えないってこと。
何か事情があるのかな。
イリーナさんは何かわかったような感じだったけど。
それなら逃げたりせず、協力を求めた方が断然いいのに。
王宮や、王女様と並んで親しいはずのイリーナさんにすら助けを求められない何かがあるのかな。
事態は思ったよりも複雑で、そう簡単に解決しそうにはない。
お披露目式まであと二日。
ううん、もしかしたらそれ以上の長い間、私は王女様のフリを続けなきゃいけない。
王女様の願いもあるし、やり遂げてみせるっていう決意もある。
でも、不安要素だらけの状況に、言い表しようのない漠然とした不安を感じていた。
「何にせよ、今しばらく君には不自由を強いる。お披露目式の前に出席せねばならぬパーティーもある。無理をするなと言えぬ立場故、よろしく頼む」
「もちろんです! こうして陛下と一緒にお茶を飲ませていただいて、私のやる気はバッチリです!」
「そうか。遅い時間のお茶会だったが、付き合ってくれてありがとう。夕食に響かねばいいが」
「美味しい物の前では女の子の胃は無尽蔵なんですよ。こちらこそ、陛下とまたお茶会ができて光栄でした。ありがとうございました」
こうして、国王様と二度目のお茶会は幕を閉じた。
王女様の私室に戻った私は、ずっと外ばかり見ていた。
大きなガラス張りの窓の向こう。
バルコニーの入り口に立つプレートアーマーの護衛騎士の姿。
見慣れた姿よりも背が高い。
夕方になって火が灯されても夕食を終えても、その姿は変わらない。
思い切ってバルコニーに出たら、見張り役の護衛騎士のおじさんが驚いた顔をしていた。
「あの…」
不意に昼間のイリーナさんの笑い声が響いた。
『王女が護衛騎士に懸想しただなんて醜聞物だよ。お披露目式の直前だってのに』
本当はこんなこと聞いちゃいけない。
王女様が一人の若い騎士のことを気にかけたら、例え本人たちにそのつもりがなくても、周りはそれを必ず結びつける。
聞いちゃいけない。
当たり障りのない会話をして何も考えずに寝るべきだ。
けど体が動かない。
胸がギュッと絞られるように苦しくて、私室に戻ることを拒否する。
「イアンのこと、…かな?」
私が葛藤に苛まれて動けずにいたら、騎士のおじさんの方から話しかけてくれた。
すごいバリトンボイスだ。声優とかやったら人気出そうなくらいの美声でびっくり。
語尾に間があったのは、私を王女様と扱うか中身の私自身に呼びかけるかで迷ったのかな。
でも気さくに話しかけてくれたから、ちょっとほっとした。
「はい。あの、戻っていないんでしょうか?」
「一度戻ったんだが、どうしてもやらねばならん急用ができたからと、すぐに出て行ったんだよ。俺は代わりで見張り役だ」
「そうだったんですか。あの、いつ戻るとかは言ってましたか?」
「いやぁ、いつになるかはわからんそうだ」
「そうですか…。教えていただいてありがとうございます」
「いやいや。…今日は大変な目に遭ったんだ。何も考えずぐっすりと寝るといい」
そういえば、私と一緒に歩いたのはイアンさんとメラニーさんだったけど、他の護衛騎士の人たちも一緒だったんだ。馬車の御者をしてくれた人。私服で街に紛れた人。
私が市場であんなことになったから、この人たちにもずいぶん迷惑かけちゃったんだろうな。
改めて思うと、私今までイアンさん以外の護衛騎士の人たちと話したことないし全然知らない。
「あの、いつも守ってくださってありがとうございます」
私が深く頭を下げると、おじさんが目をまん丸にした。
「いやいや、これが仕事だからお礼なんていらんよ」
「でも今日なんて特に大騒動になっちゃって、護衛騎士のみなさんがそばにいるって分からずに動いちゃったから、みなさんにすごくご迷惑をかけたと思います。すみませんでした」
もう一度頭を下げようとしたけど、なぜかおじさんに「頭を下げないでくれ!」って言われた。
「君は…、イアンが言った通りのお嬢さんだな」
え?
イアンさん、私のこと他の護衛騎士の人たちに言ってたの?
なんか急に恥ずかしくなってきた!
「あの、なんて言ってました?!」
「負けず嫌いなところはあるが根は素直でいい子だってね。正直俺たちは立場上ということもあって距離を置いていたんだが、イアンはよく君のことを気にかけていた。昨日の舞踏会にも陰ながら護衛につかせてもらったが、君は随分頑張ったね」
「あ、ありがとうございます」
なんか、普通に嬉しい。
や、普通にって変な言い方だけど!
国王様やハンナさん、宰相さんに認められた時も確かに嬉しかったけど、こうして第三者の立ち位置の人から、努力の成果を認められるのって、また別の嬉しさなんだって初めて知った。主観的なものじゃなくて、客観的に見てもレッスンの成果が確かに現れてるんだってわかるから。なんかじわじわと充足感が湧き上がってくる。
「あの、もしよかったらお名前をお聞きしてもいいですか?」
「もちろん。ロドス・ダイアンサス、四十五歳。愛する妻と愛しい娘二人を持つおじさんだよ。最近の悩みは下っ腹が出てきたことかな」
ロドスさんが茶目っ気たっぷりにウインクした。
私もつい笑っちゃった。
「藤崎翔子と言います。名前は空を翔ぶ子という意味になります。本とこの国が大好きな十六歳です。王女様を助ける日まで、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ。護衛騎士として恥じぬ働きをお見せしよう」
不思議だな。
こんな風に自己紹介できるなんて。
自分の名前が嫌いだったこともあって自己紹介って苦手だった。
でも今はそんなに嫌いじゃない。だってイアンさんがショーリアみたいな名前だって言ってくれたから。
その後、ロドスさんと少しお話しして私は私室に戻った。
でもすぐには眠れなかった。
いつ戻ってくるかわからないってロドスさんには言われたけど、夜が更けるまでずっとベッドに腰掛けてバルコニーを見ていた。
いい加減に寝ないと明日に影響するってわかってる。
でも諦められない気持ちも変わらずに心にある。
きっとイアンさんだってわかってる。
あの時イリーナさんの言葉を聞いて青ざめていたもん。
私から距離をとって、もしかしたら護衛騎士も辞めちゃうかもしれない。急用ってそれかも。
もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
それがいいよね。
私の気持ちを伝えたりしたら、イアンさんも王女様もきっと困る。それくらいならうっかり言わなくて済むように離れてた方がいい。
剣を構えるイアンさんの姿が浮かぶ。
イアンさんが臆病だなんて信じられない。
今日だってすごくかっこよかった。
私はベッドに寝転んだ。
「また明日踊ろうって言ったのに。嘘つき」
これくらいなら、独り言したって許されるよね?
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